令和8年5月
1日
日蓮大聖人御金言義類別入文集276
(二二)付嘱 10/12
十八円満抄 1518㌻
問うて云はく、今の文は上行菩薩等に授与するの文なり。汝(なんじ)何が故ぞ己心相承の秘法と云ふや。答へて云はく、上行菩薩の弘通し給ふべき秘法を日蓮先立ちて之を弘む。身に当るの意に非ずや。上行菩薩の代官の一分なり。所詮末法に入っては天真独朗の法門無益(むやく)なり。助行には用ふべきなり。正行には唯(ただ)南無妙法蓮華経なり。
① 何を問うているのか
まず相手はこう聞いています。
👉「その法は上行菩薩に授けられたのに、どうしてあなた(日蓮大聖人)が“自分に伝わった秘法”と言うのか?」
⸻
② 日蓮大聖人の答え
ここが核心です。
👉「本来は上行菩薩が弘める法だけれども、末法においては、私(日蓮)が先に弘めている」
つまり
* 本来の役目 → 上行菩薩
* 現実の働き → 日蓮大聖人
👉「上行菩薩の代わり(代官)として働いている」
という意味です。
⸻
③ 一番大事な結論
ここが一番重要です。
👉「末法では“天真独朗の法門”だけでは救われない」
では何が大事か?
👉正行(しょうぎょう)=南無妙法蓮華経
⸻
④ 用語をやさしく整理
■ 天真独朗の法門とは
* 自分の心の中の仏性を観る修行(観念・理論中心)
* いわば「頭で理解する仏法」
👉 末法の私たちには難しく、力が弱い
⸻
■ 正行と助行
* 正行
→ 本当に中心となる修行
👉 南無妙法蓮華経
* 助行
→ 補助として役に立つもの
👉 天真独朗などの観念修行
⸻
⑤ たとえで説明
わかりやすく言うと👇
* 正行(南無妙法蓮華経)=主食(ごはん)
* 助行(天真独朗など)=おかず
👉 おかずだけでは生きられない
👉 ごはんがあってこそ力になる
⸻
⑥ 折伏で使える一言
👉「難しい理屈や心の観察だけでは、末法の人は救われません。だから日蓮大聖人は、誰でもできる南無妙法蓮華経を正しい修行として教えてくださったのです。」
2日
日蓮大聖人御金言義類別入文集277
(二二)付嘱 11/12
日蓮一期弘法付嘱書 1675㌻
日蓮一期(いちご)の弘法(ぐほう)、白蓮(びゃくれん)阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中(なかんずく)我が門弟(もんてい)等(ら)此の状を守るべきなり。
弘安五年壬午九月 日 日 蓮 在御判
血脈の次第 日蓮日興
この御文は、とても大事な「付嘱(ふぞく)」=日蓮大聖人が後の時代に何を残されたかを示すところです。
①「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す」
👉 意味
日蓮大聖人が一生をかけて弘めた仏法(南無妙法蓮華経)を、
日興上人ただ一人に正式に託したということです。
▶ポイント
* 「誰に継がせるか」がはっきり決められている
* それが日興上人(白蓮阿闍梨)
②「本門弘通の大導師たるべきなり」
👉 意味
日興上人は、
末法に本門の仏法を弘める中心の指導者になるべき人であるということ。
▶ポイント
* 「大導師」=一番の指導者
* 本門の教えを正しく伝える役目
③「国主此の法を立てらるれば」
👉 意味
国のトップ(国主)が、
この正しい仏法を認めて立てるならば
▶ポイント
* 仏法が社会全体に広まる条件
④「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」
👉 意味
その時には、
富士山に本門寺(ほんもんじ)という中心のお寺と戒壇を建てるべきである
▶ポイント
* 戒壇=正しい信心を行う中心の場所
* 富士山=特別な聖地
⑤「時を待つべきのみ」
👉 意味
でも、それは今すぐではなく
その時が来るのを待ちなさいということ
▶ポイント
* 無理にやるのではなく「時」が大事
⑥「事の戒法と云うは是なり」
👉 意味
これこそが、
実際に形として現れるべき戒壇(事の戒法)である
▶ポイント
* 理論だけでなく「現実に建てるもの」
⑦「就中我が門弟等此の状を守るべきなり」
👉 意味
特に弟子たちは、
この教え(遺言)をしっかり守りなさい
▶ポイント
* 後の人への強い命令
まとめ
この御文を一言でいうと👇
👉
「自分の仏法は日興上人にすべて託した。
将来、国が認めた時に富士山に戒壇を建てる。その時を待ちなさい。」
折伏で使える一言
👉
「日蓮大聖人は、“誰に法を継がせるか”も、“どう広まるか”も、全部はっきり残されているんです。」
3日
日蓮大聖人御金言義類別入文集278
(二二)付嘱 12/12
身延山付嘱書 1675㌻
釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当(ぺっとう)たるべきなり。背く在家出家共の輩(やから)は非法の衆たるべきなり。
弘安五年壬午十月十三日 武州池上
日 蓮 在御判
これも
日蓮大聖人が誰に法を託したかを明確に示した、とても重要な御文です。
①「釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す」
👉 意味
お釈迦様が一生(約50年)かけて説いた教えのすべてを、
日興上人に受け継がせたということです。
▶ポイント
* ただの一部ではなく「全部」
* 日蓮大聖人の仏法=釈尊の正しい教えの結論
* それを日興上人が正しく受け継いだ
②「身延山久遠寺の別当たるべきなり」
👉 意味
日興上人は、
身延山久遠寺の責任者(別当)になるべき人である
▶ポイント
* 別当=お寺の最高責任者
* 正しい法を守る中心人物
③「背く在家出家どもの輩は非法の衆たるべきなり」
👉 意味
もしこの決め(付嘱)に背く人がいたら、
それは在家でも出家でも関係なく
正しくない(非法の)人たちになる
▶ポイント
* 身分ではなく「法に従うかどうか」が基準
* 正統かどうかの分かれ目がここにある
まとめ
👉
「釈尊の教えのすべては日興上人に継がせる。
日興上人が身延山の中心となる。
これに逆らう者は正しくない。」
ここが大事(信心の核心)
この御文で一番重要なのは👇
👉
「正しい法は、正しく受け継いだ人についていくこと」
折伏で使える一言
👉
「仏法は“誰が正しく受け継いでいるか”が一番大事なんです。日蓮大聖人ご自身が、それをはっきり決められているんです。」
4日
日蓮大聖人御金言義類別入文集279
(二三)地涌・上行菩薩 1/17
生死一大事血脈抄 514㌻
火は焼照(やきてらす)を以て行と為(な)し、水は垢穢(くえ)を浄(きよ)むるを以て行と為し、風は塵埃(じんあい)を払ふを以て行と為し、又人畜草木の為に魂(たましい)となるを以て行と為し、大地は草木を生ずるを以て行と為し、天は潤(うるお)すを以て行と為す。妙法蓮華経の五字も又是くの如し、本化地涌の利益(りやく)是なり。
この御文は
「妙法蓮華経の五字(南無妙法蓮華経)が、どれほど偉大な働きを持っているか」
を、自然の働きにたとえて教えられています。
🔥 火・水・風・大地・天のたとえ
日蓮大聖人はこう言われています。
* 火は → 物を焼き、明るく照らす働き
* 水は → 汚れをきれいにする働き
* 風は → ほこりを吹き払う働き
* 大地は → 草木を育てる働き
* 天(雨など)は → すべてを潤す働き
つまり
自然はそれぞれ「人の役に立つ働き(=行)」をしているということです。
☆ 風は塵埃(じんあい)を払ふを以て行と為し、又人畜草木の為に魂(たましい)となるを以て行と為し。
この御文は二つの働きを挙げています。
①「風は塵埃を払う」
これはわかりやすいですね。
風は
👉 ほこり・汚れ・よどみを吹き払う
という働きがあります。
仏法に当てると、
* 迷い
* 悩み
* 悪い縁
こういう「心のほこり」を取り除く働きにたとえています。
②「又人畜草木の為に魂となる」
ここが大事です。
一見すると不思議ですが、意味はこうです。
👉 風(=空気・息)があるからこそ、すべての命は生きている
ということです。
✔ 人で考えると
人は呼吸が止まれば生きていけません。
つまり
👉 息(風)が命を支えている=魂のようなもの
と表現されているのです。
✔ 人だけでなく
御文では「人畜草木」とあります。
* 人(人間)
* 畜(動物)
* 草木(植物)
すべてに共通して
👉 風(空気)がなければ生きられない
だから
👉 風は命を成り立たせる根本(魂のような働き)
と仰せなんです。
🌿 ここを妙法に当てると
このたとえが一番言いたいところです。
妙法蓮華経の働きは
* 迷いを吹き払う(風のように)
だけでなく
👉 命そのものを生かす根本の力である
ということです。
この一節はこういう意味です👇
👉「風は、汚れを払うだけでなく、すべての命の根本(魂のような働き)となっている。同じように妙法は、悩みを取り除くだけでなく、命そのものを生かす根本の法である」
折伏用に一言で言うなら👇
👉「空気がなければ生きられないように、妙法は私たちの命を根本から支えているんです」
🌱 では、妙法はどうなのか?
ここが一番大事です。
御文では
「妙法蓮華経の五字も、これと同じである」
と仰せです。
つまり、
👉 南無妙法蓮華経を唱えることには
* 心の迷いを焼き尽くす(火のように)
* 罪や苦しみを清める(水のように)
* 悪い縁や悩みを吹き払う(風のように)
* 幸せの種を育てる(大地のように)
* 命を潤し、満たす(天のように)
こういうあらゆる働きが全部そなわっているということです。
🌊 「本化地涌の利益」とは?
ここもポイントです。
* 本化地涌(ほんげじゆ)=末法に出てくる菩薩(上行菩薩の眷属)
* 利益(りやく)=人を救う働き
つまり
👉 末法の人々を救うための、本当の力がこの妙法にある
という意味です。
✨ まとめ
この御文はこう言えます👇
👉「自然が人を助ける力を持っているように、南無妙法蓮華経には、人生のすべての苦しみを解決する力がある」
5日
日蓮大聖人御金言義類別入文集280
(二三)地涌・上行菩薩 2/17
観心本尊抄 661㌻
此の菩薩仏勅(ぶっちょく)を蒙(こうむ)りて近く大地の下に在(あ)り。正像に未だ出現せず、末法にも又出で来たりたまはずば大妄語(だいもうご)の大士なり。三仏の未来記も亦泡沫(ほうまつ)に同じ。此を以て之を惟(おも)ふに、正像に無き大地震・大彗星等出来(しゅったい)す。此等(これら)は金翅鳥(こんじちょう)・修羅(しゅら)・竜神等の動変に非(あら)ず、偏(ひとえ)に四大菩薩を出現せしむべき先兆(せんちょう)なるか。
この御文は、末法における「本当の仏法が現れる時」を示す、とても大事なところです。
① 全体の意味(ざっくり)
👉 「本来出てくるはずの菩薩がまだ出ていない。でも大きな異変が起きている。それは、その菩薩がこれから出てくる前ぶれではないか」
という内容です。
② 文ごとの説明
▶「此の菩薩仏勅を蒙りて…」
→ この菩薩とは
👉 **地涌の菩薩(特に上行菩薩)**のことです。
* 仏さま(釈尊)から
「末法で法華経を弘めなさい」と命令(仏勅)を受けている
* でも今は
👉 まだ地の下にいて、表に出てきていない状態
▶「正像に未だ出現せず…」
* 正法・像法の時代には出ていない
* もし末法になっても出てこなかったら…
👉 仏の言葉がウソになる(大妄語)
つまり
👉 必ず出現しなければならない存在
▶「三仏の未来記も亦泡沫に同じ」
* 三仏(釈迦・多宝など)が
「未来にこの菩薩が出る」と予言している
でも出なければ
👉 その予言は全部ムダ(泡みたいに消える)
▶「正像に無き大地震・大彗星等出来す」
ここが重要です。
* 今までにないような
* 大地震
* 大彗星(大きな異常現象)
が起きている
▶「此等は…動変に非ず」
* それは単なる
* 天変地異
* 鬼神のしわざ
ではない
▶「偏に四大菩薩を出現せしむべき先兆なるか」
👉 ここが結論です
* これらの異変は
👉 四大菩薩(上行菩薩など)が出てくる前ぶれではないか
③ もっとかみくだくと
✔ 仏さまは
「末法には特別な菩薩が出る」と約束した
✔ でもまだ出ていないように見える
✔ その代わりに
👉 今までにない大きな異変が起きている
👉 だからこれは
「いよいよ本当の仏法が現れるサインだ」
④ 日蓮大聖人の御心
この御文の一番大事なポイントはここです👇
👉 その地涌の菩薩として出現されたのが日蓮大聖人である
ということです。
つまり
* 世の中の混乱や災難は
👉 ただの不幸ではない
👉 正しい仏法(南無妙法蓮華経)が出る前触れ
⑤ 折伏で使える言い方
やわらかく伝えるなら👇
👉
「今の世の中って、いろいろ大変なことが多いですよね。
でも仏法では、それはただの悪いことじゃなくて、
“本当の正しい教えが広まる前ぶれ”だと説かれているんです。」
少し強めなら👇
👉
「世の中の混乱は偶然じゃありません。
本当の仏法が現れるサインなんです。
その中心が南無妙法蓮華経なんです。」
6日
日蓮大聖人御金言義類別入文集281
(二三)地涌・上行菩薩 3/17
観心本尊抄 662㌻
一念三千を識(し)らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠(たま)を裹(つつ)み、末代幼稚の頸(くび)に懸(か)けさしめたまふ。四大菩薩の此の人を守護したまはんこと、太公(たいこう)・周公(しゅうこう)の文王を摂扶(しょうぶ)し、四皓(しこう)が恵帝(けいてい)に侍奉(じぶ)せしに異ならざる者なり。
■ 全体の意味
「難しい仏法(一念三千)が分からない人のために、仏さまは大きな慈悲で“南無妙法蓮華経”という五字の中に全部を包んで与えてくださった。だからその題目を信じる人は、四大菩薩が必ず守ってくださる」
■ くわしい解説
①「一念三千を識らざる者には」
→ 一念三千とは、本当はとても深い教えです。
「人の心の中に、すべての世界・仏の境涯がそなわっている」という法理です。
しかし普通の人には、これは難しすぎて理解できません。
②「仏大慈悲を起こし」
→ そこで仏さまは考えました。
「難しいままでは人は救えない」と。
だから、誰でも救われる方法を用意されたのです。
これが“仏の大慈悲”です。
③「五字の内に此の珠を裹み」
→ 「五字」とは
南無妙法蓮華経のこと。
「珠(たま)」とは、一念三千という最高の教え。
つまり
👉 難しい教えを、題目の中に全部つつみこんだ
という意味です。
④「末代幼稚の頸に懸けさしめたまふ」
→ 「末代幼稚」とは、末法の私たちのこと。
(仏法的にまだ未熟という意味)
「首にかける」とは
👉 誰でも身につけられるようにした
というたとえです。
つまり
👉 ただ唱えるだけで、その功徳が受けられるようにしてくださった
ということです。
⑤「四大菩薩の此の人を守護したまはんこと」
四大菩薩とは
* 上行菩薩
* 無辺行菩薩
* 浄行菩薩
* 安立行菩薩
👉 南無妙法蓮華経を信じる人を必ず守る存在です。
⑥「太公・周公の文王を摂扶し…」
これはたとえ話です。
昔の中国で
* 太公望や周公は名君(文王)を支えた
* 四皓は皇帝(恵帝)を守った
👉 それと同じように
四大菩薩が、題目を信じる人をしっかり守る
と言われています。
■ まとめ(折伏にも使える形)
👉 難しい仏法は分からなくても大丈夫
👉 南無妙法蓮華経の中に全部入っている
👉 だから唱えるだけで仏の境涯に通じる
👉 そして必ず守られる
■ 一言でいうと
「題目は、仏さまが私たちのために用意してくださった“最高の宝”」
7日
日蓮大聖人御金言義類別入文集282
(二三)地涌・上行菩薩 4/17
諸法実相抄 666㌻
いかにも今度信心をいたして法華経の行者にてとを(通)り、日蓮が一門となり(成)とをし給ふべし。日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか。地涌の菩薩にさだ(定)まりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや。経に云はく「我久遠より来(このかた)是等(これら)の衆を教化す」とは是なり。末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず。皆地涌の菩薩の出現に非(あら)ずんば唱へがたき題目なり。
①「今度の信心が大事」
いかにも今度信心をいたして…
これは
👉「この一生で、本気で信心をやりきりなさい」
という意味です。
なんとなくではなく、
“今回の人生こそ決める”という覚悟が大切だと教えられています。
②「日蓮が一門となる」とは
日蓮が一門となりとをし給ふべし
👉 日蓮大聖人と同じ心で信心するということです。
形だけではなく、
* 大聖人の教えを正しく信じる
* 同じ願い(広宣流布)で行動する
これが「一門」です。
③「同意ならば地涌の菩薩」
日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか
👉 大聖人と同じ心で信心する人は
地涌の菩薩の仲間であるということです。
地涌の菩薩とは、
* 末法に出てきて
* 妙法を広める使命をもった人たち
つまり
👉 今、信心している私たちこそがその存在だと示されています。
④「久遠の弟子」
地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや
👉 地涌の菩薩ならば
はるか昔(久遠)から仏に教えられてきた弟子である
という意味です。
つまり
👉 今だけの関係ではなく、永遠のつながりの中の弟子ということです。
⑤「男女関係なく使命がある」
男女はきらふべからず
👉 男でも女でも関係ない
すべての人に仏の使命がある
という、とても大事な平等の教えです。
⑥「題目を唱える人の正体」
皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり
👉 南無妙法蓮華経を唱え、弘める人は
普通の人ではなく、地涌の菩薩として現れた人
ということです。
まとめ(折伏でも使える形)
この御文は一言でいうと👇
👉「今、妙法を信じて唱え、弘める人は、
みんな地涌の菩薩としてこの世に現れた尊い存在である」
やさしい一言で伝えるなら
👉「今この時代に南無妙法蓮華経を信じている人は、偶然じゃなくて“使命があって生まれてきた人”なんだよ」
一往の意味です。
再往は、地涌の菩薩は、日蓮大聖人。
地涌の菩薩の本地は、久遠元初の本仏。
8日
日蓮大聖人御金言義類別入文集283
(二三)地涌・上行菩薩 5/17
妙法曼荼羅供養事 691㌻
されば此の良薬(ろうやく)を持(たも)たん女人等(ら)をば、此の四人の大菩薩、前後・左右に立(たち)そひて、此の女人たたせ給へば、此の大菩薩も立たせ給ふ。乃至此の女人道を行く時は、此の菩薩も道を行き給ふ。譬へばかげ(影)と身と、水と魚(いお)と、声とひびきと、月と光との如し。
この御文は、御本尊を信じて南無妙法蓮華経を唱える人を、地涌の四大菩薩が常に守護してくださることを、たいへんわかりやすく説かれたところです。
まず「此の良薬」とは、末法の人々を救う最高の法である南無妙法蓮華経のことです。
そして「四人の大菩薩」とは、法華経に説かれる
* 上行菩薩
* 無辺行菩薩
* 浄行菩薩
* 安立行菩薩
の四大菩薩を指します。
日蓮大聖人は、
「この妙法を持つ女人(女性信徒)には、四大菩薩が前後左右に付き添って守護される」
と仰せです。
つまり、
* 立てば共に立ち、
* 歩けば共に歩き、
* 常に離れず守ってくださる
ということです。
その深い関係を、大聖人はたくさんの譬えで示されています。
「影と身」
身体があれば、必ず影がついてきます。
影は身体から離れません。
それと同じように、妙法を持つ人には菩薩の守護が離れない、ということです。
「水と魚」
魚は水がなければ生きられません。
水と魚は切り離せない関係です。
妙法を持つ人と菩薩の守護も、それほど深い関係だということです。
「声とひびき」
声を出せば、必ず響きがあります。
原因があれば結果が現れます。
信心をすれば、必ず諸天善神・菩薩の守護が現れるという意味です。
「月と光」
月があれば月光があります。
月光は自然に周囲を照らします。
妙法を受持する人にも、仏菩薩の功徳と守りが自然に及ぶことを表しています。
この御文は、
「信心している人は一人ではない」
という大きな励ましでもあります。
たとえ苦しい時でも、御本尊を信じて題目を唱える人には、仏・菩薩・諸天の守護が厳然と働いている――
その確信を教えてくださっている御文です。
折伏で話すなら、例えばこう言えます。
「御本尊を信じて題目を唱える人は、目には見えなくても仏さまの大きな守りの中にいるんだよ。大聖人は“影が身から離れないように”菩薩が守ると仰せなんだよ。」
と伝えると、やさしくわかりやすいと思います。
9日
日蓮大聖人御金言義類別入文集284
(二三)地涌・上行菩薩 6/17
曽谷入道許御書 783㌻
この四大菩薩は釈尊成道の始め、寂滅(じゃくめつ)道場の砌(みぎり)にも来らず、如来入滅の終はり抜提河(ばつだいが)の辺(ほとり)にも至らず。如之(しかのみならず)、霊山(りょうぜん)八年の間に、進んでは迹門の序正の儀式に文殊(もんじゅ)・弥勒(みろく)等の発起(ほっき)影向(ようごう)の諸(もろもろ)の聖衆にも列(つら)ならず。退いては本門流通の座席に観音(かんのん)・妙音(みょうおん)等の発誓(ほっせい)弘経(ぐきょう)の大士にも交はらず。但(ただ)この一大秘法を持して本処(ほんじょ)に隠居(おんご)するの後、仏の滅後、正像二千年の間に於て未だ一度も出現せず。所詮仏専(もっぱ)ら末世の時に限って是等(これら)の大士に付嘱せし故なり。
この御文は、末法に出現する「地涌の菩薩」、特に上行菩薩を中心とした四大菩薩の役目を明かされた、とても大事なところです。
まず日蓮大聖人は、
「四大菩薩は、釈尊の在世では、あえて前面に出てこなかった」
と仰せです。
ここでいう四大菩薩とは、
* 上行菩薩
* 無辺行菩薩
* 浄行菩薩
* 安立行菩薩
のことです。
「寂滅道場にも来らず」とは
釈尊が成道された時、多くの菩薩や弟子が集まりました。
しかし四大菩薩は、その場にも姿を見せなかった。
つまり、
「釈尊在世のための菩薩ではない」
ということを表しています。
「抜提河の辺にも至らず」とは
釈尊が入滅される最後の時にも、四大菩薩は現れませんでした。
普通なら、最後に一番大切な弟子が来てもよさそうです。
しかし現れなかった。
それは、
「活動する時が、まだ来ていなかった」
からです。
「霊山八年の間にも列ならず」とは
法華経を説かれた八年間にも、
* 文殊菩薩
* 弥勒菩薩
* 観音菩薩
などは活躍しますが、四大菩薩は表に出ません。
なぜか。
それは、彼らの使命が、
「正法・像法の時代」ではなく、
「末法の時代」
にあるからです。
「但この一大秘法を持して本処に隠居する」
ここが大切です。
四大菩薩は何もしていなかったのではなく、
「一大秘法」
つまり、
南無妙法蓮華経の大法を持って、
地の底(本処)に待機していた、
という意味です。
法華経涌出品では、
無数の地涌の菩薩が大地から涌き出ます。
これは、
「久遠元初以来、妙法を受け継いできた菩薩」
であることを示しています。
「正像二千年の間に未だ一度も出現せず」
ここが末法観です。
正法・像法の二千年間は、
まだ人々に善根があり、
比較的、仏法を受け入れる力がありました。
だから、
釈尊在世からの教えでも導けた。
しかし末法になると、
人々の迷いが深くなり、
権教では救えなくなる。
そこで初めて、
地涌の菩薩が、
末法の衆生を救うために出現する、
と説かれています。
「仏専ら末世の時に限って…付嘱せし」
つまり釈尊は、
「末法の弘通だけは、地涌の菩薩に任せる」
と定められた、ということです。
だから法華経でも、
迹化・他方の菩薩ではなく、
地涌の菩薩に法を付嘱されました。
日蓮正宗の信心では、
末法において
南無妙法蓮華経を弘める日蓮大聖人こそ、
上行菩薩の再誕として御出現になられた、
と拝します。
そして大聖人に連なる私たちもまた、
地涌の菩薩の眷属として、
折伏・弘教(ぐきょう)に励む存在である、
と教えられています。
ですからこの御文は、
「なぜ今、末法に妙法を弘めるのか」
「なぜ折伏が大事なのか」
その根本を明かされた御文ともいえます。
一往 上行再誕日蓮
再往 久遠元初の本仏再誕日蓮
10日
日蓮大聖人御金言義類別入文集285
(二三)地涌・上行菩薩 7/17
高橋入道殿御返事 887㌻
末法に入りなば迦葉(かしょう)・阿難等、文殊・弥勒菩薩等、薬王・観音等のゆづられしところの小乗経・大乗経並びに法華経は、文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず。所謂(いわゆる)病は重し薬はあさし。其の時上行菩薩出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提(いちえんぶだい)の一切衆生にさづくべし。其の時一切衆生此の菩薩をかた(敵)きとせん。
これは、末法の時代における「本当に人々を救う教え」が何かを、日蓮大聖人が明かされた大切な御文です。
全体の意味
「末法になると、人々の苦しみや迷いは非常に深く重くなる。
その時代には、これまでの教えだけでは人々を救いきれない。
そこで上行菩薩が現れ、南無妙法蓮華経を弘めて、一切衆生を救う。しかし、多くの人はその偉大さがわからず、かえって迫害するであろう。」
という意味です。
「迦葉・阿難等…薬王・観音等」とは?
これは、お釈迦様から教えを託された代表的な弟子たちです。
* 迦葉 … 小乗教を中心に伝えた
* 阿難 … お経を記憶して伝えた
* 文殊菩薩
* 弥勒菩薩
* 薬王菩薩
* 観音菩薩
つまり、
「これまで弘められてきた様々な経典や修行」
を表しています。
「文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず」
ここが大事です。
「経典そのものが間違い」という意味ではありません。
そうではなく、
末法の人々は、
* 欲望が強い
* 争いが多い
* 疑い深い
* 善悪の判断が乱れる
* 仏法を素直に信じにくい
という“重い病”の状態なので、
昔の時代には合っていた教えでも、
末法の人々を根本から救う力にはならない、
ということです。
「病は重し薬はあさし」
これは有名なたとえです。
たとえば、
* 軽い風邪に弱い薬なら効く
* しかし重病には強い薬が必要
ということです。
末法の衆生は「重病」の状態なので、
浅い教えでは救えない。
だから、
根本の仏の生命そのものをあらわす
南無妙法蓮華経
が必要になる、ということです。
「上行菩薩出現して」
ここで出てくるのが 上行菩薩 です。
法華経では、
末法に妙法を弘める大任を、
お釈迦様が上行菩薩に託されています。
日蓮正宗では、
日蓮大聖人こそ末法の上行菩薩の御出現であり、
南無妙法蓮華経を全世界に弘められた、
と拝します。
「妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし」
「一閻浮提」とは、
この世界全体、人類全体という意味です。
つまり、
南無妙法蓮華経は、
* 一部の人だけ
* 出家だけ
* 特別な修行者だけ
ではなく、
すべての人を救う教えである、
ということです。
「此の菩薩をかたきとせん」
ここが末法の悲しい姿です。
本当に人を救う正しい教えほど、
人々は最初、
* 疑う
* 悪口を言う
* 反対する
* 迫害する
ということです。
実際に 日蓮 大聖人は、
* 松葉ヶ谷の法難
* 竜の口の法難
* 佐渡流罪
など、数々の大難に遭われました。
しかしそれは、
法華経に予言された
「末法で妙法を弘める人の姿」
そのものであった、
と拝するのです。
折伏で話すなら
昔の薬が悪いのではなく、今の人の苦しみが深くなっているんです。
だから末法の今は、生命を根本から立て直す南無妙法蓮華経が必要なんです。
そして、その妙法を弘める人は、最初は必ず反対されると法華経に説かれているんです。
この御文は、
「末法の今、なぜ南無妙法蓮華経なのか」
を教えてくださる、大変重要な御金言です。
一往 上行再誕日蓮
再往 久遠元初の本仏再誕日蓮
11日
日蓮大聖人御金言義類別入文集286
(二三)地涌・上行菩薩 8/17
下山御消息 1140㌻
今の時は世すでに末法のはじめなり。釈尊の記文、多宝・十方の諸仏の証明(しょうみょう)に依って、五百塵点(じんでん)劫(ごう)より一向に本門寿量の肝心を修行し習ひ給へる上行菩薩等の御出現の時刻に相(あい)当たれり。
この御文は、**「今こそ、末法において上行菩薩が出現して、本門寿量品の肝心である南無妙法蓮華経を弘める時である」**と示された大事なところです。
御文の意味
「今の時は世すでに末法のはじめなり」
今は、釈尊が予言された「末法」という時代に入っている。
末法とは、
* 人々の心が乱れ、
* 正しい仏法がわからなくなり、
* 苦しみが多くなる時代
のことです。
「釈尊の記文、多宝・十方の諸仏の証明に依って」
これは、
「末法にはこうなる」と、
* 釈迦仏が法華経で予言し、
* 多宝如来が『その通りである』と証明し、
* 十方の諸仏も皆それを認めた、
という意味です。
つまり、
末法に妙法が弘まることは、仏様方が約束されたことである
ということです。
「五百塵点劫より一向に本門寿量の肝心を修行し習ひ給へる上行菩薩等」
ここが大切です。
「上行菩薩」とは、
末法に出現して妙法を弘める中心の菩薩です。
しかも、
「五百塵点劫」という、とてつもなく遠い昔から、
ずっと
* 本門寿量品の肝心
* つまり南無妙法蓮華経
を修行し続けてきた菩薩である、
と仰せです。
つまり上行菩薩は、
一時的な存在ではなく、
久遠元初以来、妙法を受持してきた大菩薩
ということです。
「上行菩薩等の御出現の時刻に相当たれり」
今こそ、
その上行菩薩が出現する時に当たっている、
という意味です。
つまり、
* 正法でもない
* 像法でもない
* 今の末法こそ
上行菩薩が妙法を弘通する時である、
と示されています。
日蓮正宗の立場では
日蓮大聖人こそ、
この上行菩薩のお立場で、
末法の衆生救済のために
南無妙法蓮華経を弘められた、
と拝します。
だから大聖人は、
末法のための本尊・題目・戒壇という
三大秘法を顕されたのです。
折伏で話すなら
「法華経には、末法になったら上行菩薩という方が現れて、人々を救うために南無妙法蓮華経を弘める、と予言されています。日蓮大聖人は、そのお立場で実際に妙法を弘められました。だから今の私たちも、その流れの中で題目を唱えているんです。」
12日
日蓮大聖人御金言義類別入文集287
(二三)地涌・上行菩薩 9/17
法華初心成仏抄 1312㌻
末法当時は、久遠実成(じつじょう)の釈迦仏・上行菩薩・無辺行菩薩等の弘めさせ給ふべき法華経二十八品の肝心たる南無妙法蓮華経の七字計り此の国に弘まりて、利生得益(りしょうとくやく)もあり、上行菩薩の御利生盛んなるべき時なり。その故は経文明白なり。
この御文は、末法の今の時代に、だれが・何を・どのように弘め、人々を救うのかを示された大切なところです。
「末法当時は、久遠実成の釈迦仏・上行菩薩・無辺行菩薩等の弘めさせ給ふべき法華経二十八品の肝心たる南無妙法蓮華経の七字計り此の国に弘まりて」
ここでは、
* 末法という乱れた時代には、
* 久遠元初から衆生を救い続ける仏である釈尊と、
* その命を受けた上行菩薩たちが、
* 法華経の一番大事な中心である
「南無妙法蓮華経」を弘める、
と仰せです。
「法華経二十八品の肝心」とは、
法華経全体の心・結論・命が
南無妙法蓮華経にある、という意味です。
つまり、
長い経文全部を修行できない末法の人々のために、
仏様は成仏の根本法を
「南無妙法蓮華経」の七字におさめて下さった、
ということです。
次に、
「利生得益もあり、上行菩薩の御利生盛んなるべき時なり」
とあります。
「利生得益」とは、
人々が利益を受け、
苦しみを離れ、
幸せになっていくことです。
「御利生」とは、
仏・菩薩のお働きによって守られ、
功徳を受けることです。
つまり、
末法では、
上行菩薩が弘める南無妙法蓮華経によって、
多くの人が救われ、
大きな功徳を受ける時代になる、
ということです。
日蓮正宗の信心では、
この上行菩薩のお働きを、
日蓮大聖人の御出現に拝します。
ですから、
大聖人が顕された
南無妙法蓮華経を唱え、
弘教していくことが、
末法の人々を救う道である、
と教えられるのです。
最後の
「その故は経文明白なり」
とは、
「これは日蓮が勝手に言っているのではなく、
法華経にはっきり説かれている」
という意味です。
折伏でやさしく話すなら、例えば、
「末法の今の時代は、難しい修行ではなく、法華経の一番大事な『南無妙法蓮華経』を信じ唱えることで、だれでも仏になれる時代なんだよ」
13日
日蓮大聖人御金言義類別入文集288
(二三)地涌・上行菩薩 10/17
法華初心成仏抄 1314㌻
末法今の世の番衆は上行・無辺行等にてをは(坐)しますなり。是等(これら)
を能(よ)く能く明らめ信じてこそ、法の験(しるし)も仏菩薩の利生も有るべしとは見えたれ。譬へばよき火打ちとよき石のかど(角)とよきほくち(火口)とこの三つ寄り合ひて火を用ふるなり。祈りも又是くの如し。よき師とよき檀那とよき法と、此の三つ寄り合ひて祈りを成就し、国土の大難をも払ふべき者なり。
この御文は、
「祈りが叶うためには、正しい条件がそろうことが大事である」
ということを、とてもわかりやすく教えられています。
最初の、
「末法今の世の番衆は上行・無辺行等にておわしますなり」
とは、
末法の今、
妙法を信じ弘める人々は、
上行菩薩・無辺行菩薩のお働きを持つ尊い存在である、
という意味です。
「番衆」とは、
仏法を守り弘める役目を持つ人々、
ということです。
つまり、
末法に妙法を受持し弘教する人は、
ただの普通の人ではなく、
地涌の菩薩の眷属としての使命を持っている、
と大聖人は仰せなのです。
次の、
「これらを能く能く明らめ信じてこそ、法の験も仏菩薩の利生も有るべし」
とは、
この大事な意味をよく理解して信じてこそ、
実際に功徳や守護が現れる、
ということです。
「法の験」とは、
信心の結果として現れる実証です。
「利生」とは、
仏・菩薩のお守りや功徳です。
そして後半では、
火を起こす譬えを使って説明されています。
「よき火打ちと、よき石のかどと、よきほくちと、この三つ寄り合って火を用いる」
昔は火を起こす時、
* 火打ち金
* 火打石
* 火が付きやすいほくち
この三つがそろって初めて火が出ました。
一つ欠けても火は起きません。
それと同じように、
「よき師と、よき檀那と、よき法」
この三つがそろって、
祈りは成就すると仰せです。
それぞれ、
* 「よき師」
正しい仏法を教える師匠
* 「よき檀那」
素直に信じ実践する弟子・信徒
* 「よき法」
正しい仏法、つまり南無妙法蓮華経
です。
つまり、
どんなに祈っても、
法が違えば叶わないし、
師が違っても難しいし、
信じる側の真剣さがなければ功徳は出にくい。
しかし、
正しい法・正しい師・正しい信心がそろえば、
大きな願いも叶い、
国の大難さえも払い得る、
という大変深い御教えです。
折伏でやさしく話すなら、
「火を起こすのに道具がそろうように、祈りも“正しい教え・正しい導き・信じる心”がそろってこそ力が出るんだよ」
14日
日蓮大聖人御金言義類別入文集289
(二三)地涌・上行菩薩 11/17
上野殿御返事 1361㌻
又涌出品は日蓮がためにはすこ(少)しよしみある品なり。其(そ)の故は上行菩薩等の末法に出現して、南無妙法蓮華経の五字を弘むべしと見へたり。しかるに先(ま)づ日蓮一人出来(しゅったい)す。六万恒沙(ごうじゃ)の菩薩よりさだめて忠賞をかほ(蒙)るべしと思へばたのもしき事なり。とにかくに法華経に身をまかせ信ぜさせ給へ。
この御文は、日蓮大聖人が「末法に妙法を弘める使命」について、非常に力強く示されたところです。
大きく分けると、三つの内容があります。
①「涌出品」は末法のための大事な品
「涌出品」とは、法華経の中で、地涌の菩薩が大地から現れる場面です。
法華経 の中で、釈尊は
「末法になったら、上行菩薩たちが出て、南無妙法蓮華経を弘める」
と説かれました。
その中心が、
上行菩薩 です。
だから大聖人は、
「涌出品は、自分にとって特別に縁の深い品だ」
と仰せなのです。
②「先ず日蓮一人出来す」
ここが特に重要です。
大聖人は、
「末法に妙法を弘める者が現れると法華経に説かれているが、まず日蓮一人が立ち上がった」
と仰せです。
当時、日本中が念仏や真言などに流れる中で、
ただお一人、命をかけて
「南無妙法蓮華経こそ成仏の法」
と弘められました。
つまり、
* 法華経の予言
* 末法の弘通
* 上行菩薩の働き
これを、大聖人御自身の実践で示されたのです。
③「法華経に身をまかせ信ぜさせ給へ」
最後は、私たちへの励ましです。
世の中がどう見えても、
人が何を言っても、
* 御本尊を信じる
* 南無妙法蓮華経を唱える
* 法華経を根本に生きる
その信心を貫きなさい、ということです。
「身をまかせる」とは、
“何があっても妙法を根本に生きる”
という意味です。
折伏でわかりやすく話すなら
たとえば、こんなふうにも話せます。
法華経には、
「末法になったら、南無妙法蓮華経を弘める人が出る」
と説かれていました。
その通りに、誰もやらない中で、ただ一人立ち上がられたのが日蓮大聖人です。
だから私たちも、
周りに流されるのではなく、
妙法を信じて生きていくことが大事なんです。
この御文は、
* 大聖人が末法の御本仏であること
* 地涌の菩薩の働き
* 一人立つ信心の大切さ
を教えられた、大変重要な御文です。
15日
日蓮大聖人御金言義類別入文集290
(二三)地涌・上行菩薩 12/17
四菩薩造立抄 1369㌻
今末法に入りぬれば尤(もっと)も仏の金言の如きんば、造るべき時なれば本仏本脇士(きょうじ)造り奉るべき時なり。当時は其の時に相当れば、地涌の菩薩やがて出でさせ給はんずらん。先づ其の程に四菩薩を建立し奉るべし。尤(もっと)も今は然るべき時なりと云云。
この御文は、末法において建立されるべき本尊と、地涌の菩薩の出現について示された大切な御文です。
「今末法に入りぬれば」
――今は末法の時代に入ったので、
「尤も仏の金言の如きんば」
――仏様のお言葉どおりであるならば、
「造るべき時なれば本仏本脇士造り奉るべき時なり」
――本仏と、その脇士を建立すべき時である。
ここでいう「本仏」とは、末法の御本仏である御本尊をあらわし、
「本脇士」とは、その御本仏をお守りし、お支えする脇士、特に上行菩薩を中心とした四菩薩を指しています。
つまり、
「末法になった今こそ、法華経で予言された本門の本尊を建立する時である」
と仰せなのです。
そして次が大事です。
「地涌の菩薩やがて出でさせ給はんずらん」
――地涌の菩薩が、まさにこれから出現されるであろう。
法華経では、末法に妙法を弘めるのは、迹化の菩薩ではなく、地涌の菩薩であると説かれています。
特に上行菩薩は、末法の衆生を救う中心の菩薩です。
日蓮大聖人は、
「末法になった以上、法華経の予言どおり地涌の菩薩が出現し、妙法を弘める時が来た」
と示されているのです。
さらに、
「先づ其の程に四菩薩を建立し奉るべし」
――まず、その時に備えて四菩薩を建立しなさい。
これは、上行・無辺行・浄行・安立行の四大菩薩をおまつりすることです。
なぜ四菩薩なのか。
それは、この四菩薩が末法弘通の中心だからです。
法華経の涌出品では、大地から無数の地涌の菩薩が出現し、その上首として四菩薩が現れます。
その中心が上行菩薩です。
日蓮正宗では、この上行菩薩の御振る舞いを、日蓮大聖人御自身に拝します。
ですからこの御文は、
「末法に入り、法華経の予言どおり、地涌の菩薩が妙法弘通のために出現する。その時代だからこそ、本仏・本脇士を建立するのである」
という大事な意味になります。
折伏でわかりやすく言うなら、
「釈尊は法華経で、“末法になったら地涌の菩薩が出てきて南無妙法蓮華経を弘める”と予言されていました。日蓮大聖人は、その法華経の予言どおりに出現され、御本尊を建立されたのです」
16日
日蓮大聖人御金言義類別入文集291
(二三)地涌・上行菩薩 13/17
寂日房御書 1393㌻
一切の物にわたりて名の大切なるなり。さてこそ天台大師、五重玄義の初めに名(みょう)玄義と釈し給へり。日蓮となのる事自解仏乗(じげふつじょう)とも云ひつべし。かやうに申せば利口げに聞えたれども、道理のさすところさもやあらん。経に云はく「日月の光明の能(よ)く諸(もろもろ)の幽冥(ゆうみょう)を除くが如く、斯(こ)の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」と此の文の心よくよく案じさせ給へ。「斯人行世間(しにんぎょうせけん)」の五つの文字は、上行菩薩末法の始めの五百年に出現して、南無妙法蓮華経の五字の光明をさ(指)しい(出)だして、無明(むみょう)煩悩の闇をてらすべしと云ふ事なり。
この御文は、「名前」と「使命」、そして末法における南無妙法蓮華経の働きを教えられている大切な御文です。
大意
「日蓮」というお名前には深い意味があり、末法の闇を照らす使命が込められている。
上行菩薩が末法に出現し、南無妙法蓮華経を弘め、人々の無明の闇を照らしていくのである。
ということです。
「一切の物にわたりて名の大切なるなり」
大聖人は最初に、
どんなものでも“名前”は大切である
と仰せです。
たとえば、
* 「医者」という名には人を治す働きがあり、
* 「教師」という名には人を教える使命があります。
同じように、仏法でも「名」は単なる呼び名ではなく、
そのものの本質や働きを表します。
そこで天台大師も、法華経を説く時にまず
「名玄義(みょうげんぎ)」という“名前の意味”から説明されたのです。
「日蓮となのる事」
ここが大事です。
「日蓮」という御名前を、
* 「日」=太陽
* 「蓮」=法華経・蓮華
として拝すると、
「法華経の智慧の太陽」
という意味になります。
つまり、
暗い世の中を照らし、人々を救う使命
が「日蓮」という御名に込められているのです。
「自解仏乗とも云ひつべし」
これは少し難しい言葉ですが、
「仏の悟りを自ら深く理解されている」
という意味です。
つまり大聖人は、
ご自身が末法の衆生を救う法を悟り、
その使命を自覚されていた
ということです。
「日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く」
これは法華経の言葉です。
太陽や月が暗闇を照らすように、
正しい仏法は、人々の心の闇を照らす
という意味です。
ここでいう闇とは、
夜の暗さではなく、
* 苦しみ
* 不安
* 怒り
* 欲望
* 愚かさ
* 正しい道がわからない心
などの「無明煩悩」です。
「斯人行世間」の意味
大聖人は、
「この人、世間に行じて」
という法華経の文を、
末法に出現する上行菩薩のことだと拝されています。
つまり、
上行菩薩が末法に現れ、
南無妙法蓮華経を弘めて、
人々の心の闇を照らす
ということです。
そして日蓮大聖人は、
そのお立場で南無妙法蓮華経を弘通されたのです。
「南無妙法蓮華経の五字の光明」
ここが御文の中心です。
太陽が暗闇を照らすように、
南無妙法蓮華経そのものが、
人生の闇を破る“光”である
と仰せです。
だから私たちも、
* 題目を唱える
* 御書を学ぶ
* 折伏する
ことによって、
自分自身の無明の闇を破り、
さらに周りの人を照らしていく存在になれるのです。
折伏で話すなら
やさしく言えば、
人は誰でも悩みや迷いで心が暗くなることがあります。
でも太陽が暗闇を照らすように、南無妙法蓮華経には人の心を明るくし、生きる力を出していく働きがあるんです。
日蓮大聖人の「日蓮」というお名前にも、その“世の中を照らす使命”が込められているんです。
17日
日蓮大聖人御金言義類別入文集292
(二三)地涌・上行菩薩
14/17
右衛門大夫殿御返事 1435㌻
当今は末法の始めの五百年に当たりて候。かかる時刻に上行菩薩御出現あって、南無妙法蓮華経の五字を日本国の一切衆生にさづ(授)け給ふべきよし経文分明(ふんみょう)なり。又流罪死罪に行なはるべきよし明らかなり。日蓮は上行菩薩の御使ひにも似たり、此の法門を弘むる故に。神力品に云はく「日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く、斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」等云々。此の経文に斯人行世間(しにんぎょうせけん)の五(いつつ)の文字の中の人の文字をば誰とか思(おぼ)し食(め)す。上行菩薩の再誕の人なるべしと覚へたり。
この御文は、日蓮大聖人が、ご自身の立場と使命について、とても重要なことを示されているところです。
まず大事なのは、
「末法の始めの五百年」
という時代です。
これは、釈尊が法華経で予言された「南無妙法蓮華経が世界に弘まる時代」のことです。
そして、その時に出現して妙法を弘めるのが、
「上行菩薩」
です。
法華経では、末法の衆生を救うために、地涌の菩薩の上首である上行菩薩が出現し、南無妙法蓮華経を弘通すると説かれています。
日蓮大聖人は、
「日蓮は上行菩薩の御使ひにも似たり」
と仰せです。
これは「自分が偉い」と言いたいのではなく、
「法華経に予言された通りに、命がけで妙法を弘めている存在である」
という意味です。
実際に大聖人は、
* 伊豆流罪
* 佐渡流罪
* 竜の口の法難
など、大きな迫害を受けられました。
それが、
「流罪死罪に行なはるべきよし明らかなり」
という法華経の予言そのままだ、ということです。
さらに引用されている神力品の、
「日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く」
とは、
太陽や月が暗闇を照らすように、妙法を弘める人が、人々の無明や苦しみを破っていく
という意味です。
そして、
「斯人行世間(しにんぎょうせけん)」
「この人、世間に行じて」
の「人」とは誰か――
大聖人は、
「上行菩薩の再誕の人なるべし」
と仰せです。
つまり、
「末法に実際に現れて、南無妙法蓮華経を弘め、迫害を受けながら衆生救済を進める人」
こそ、上行菩薩のお働きをされた方である、ということです。
日蓮正宗の信心では、この御文を通して、
* 日蓮大聖人こそ末法の御本仏であられる
* 上行菩薩のお立場・お働きを具えられた御方である
* その大聖人の仏法を受け持つ私たちも、地涌の菩薩の眷属として広宣流布に進む
と拝していきます。
折伏でやさしく話すなら、例えばこう言えます。
「法華経には、“末法になったら、命がけで南無妙法蓮華経を弘める人が現れる”と説かれているんです。日蓮大聖人は、実際に大迫害を受けながら妙法を弘められました。“経文通りの実践者”だったからこそ、自分は上行菩薩のお使いのようだ、と仰せになったんです。」
18日
日蓮大聖人御金言義類別入文集293
(二三)地涌・上行菩薩
15/17
御義口伝上 1764㌻
「第一 唱導之師(しょうどうしし)の事(涌出品一箇の大事)」
涌出の一品は悉(ことごと)く本化(ほんげ)の菩薩の事なり。本化の菩薩の所作としては南無妙法蓮華経なり。此(これ)を唱と云ふなり。導とは日本国の一切衆生を霊山(りょうぜん)浄土へ引導する事なり。末法の導師とは本化に限ると云ふを師と云ふなり。
これは、日蓮大聖人が『法華経』涌出品の「唱導之師(しょうどうのし)」という言葉を、末法の私たちに当てて説かれた大切な御指南です。
「涌出の一品は悉く本化の菩薩の事なり」
「涌出品」とは、地涌の菩薩が大地から現れる場面です。
ここで大聖人は、
「この品は全部、本化の菩薩のために説かれている」
と仰せです。
本化の菩薩とは、末法に妙法を弘める使命を持った地涌の菩薩です。中心は上行菩薩です。
つまり、
末法に南無妙法蓮華経を弘通する人こそ、この経文の当体である、ということです。
「本化の菩薩の所作としては南無妙法蓮華経なり」
「所作」とは、その人の行動・実践です。
本化の菩薩は何をするのか。
それが
「南無妙法蓮華経を唱えること」
である、と仰せです。
難しい修行ではありません。
唱題こそが、本化の菩薩の根本の実践なのです。
「此を唱と云ふなり」
「唱」とは、ただ口で読むだけではありません。
信心をもって、
南無妙法蓮華経と唱えることです。
大聖人仏法では、
「唱える」
こと自体に仏の功徳が具わっています。
だから末法の修行は、
観念観法ではなく、
唱題行なのです。
「導とは日本国の一切衆生を霊山浄土へ引導する事なり」
ここがとても大事です。
「導」とは、
人々を成仏へ導くことです。
「霊山浄土」とは、法華経の会座、すなわち仏の世界です。
つまり、
南無妙法蓮華経を弘め、
人々を幸福へ導くこと
これが「導」の意味です。
ただ自分一人が信心するだけではなく、
「一人でも多くの人に妙法を伝える」
ここに本化の菩薩の使命があります。
「末法の導師とは本化に限る」
末法において、
人々を真実の成仏へ導けるのは、
本化の菩薩だけである、
と仰せです。
なぜなら、
末法の衆生を救う法は、
南無妙法蓮華経だけだからです。
わかりやすく言うと
この御文は、
「末法の今、南無妙法蓮華経を唱え、自ら実践し、人にも教えていく人こそ、地涌の菩薩であり、人々を幸福へ導く尊い存在である」
と教えられているのです。
折伏で話すなら、例えばこう言えます。
法華経では、末法になると、人々を救うために地涌の菩薩が出現すると説かれています。
その働きとは、特別なことではなく、南無妙法蓮華経を唱え、人にも教えていくことなんです。
だから私たちが題目を唱え、弘教していく姿そのものが、法華経の実践なんです。
とも拝することができます。
19日
日蓮大聖人御金言義類別入文集294
(二三)地涌・上行菩薩
16/17
御義口伝上 1764㌻
「第一 唱導之師(しょうどうしし)の事(涌出品一箇の大事)」
今日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は皆地涌の流類なり。又云はく、火は物を焼くを以て行とし、水は物を浄むるを以て行とし、風は塵垢(じんく)を払ふを以て行とし、大地は草木を長ずるを以て行とするなり。四菩薩の利益(りやく)とは是なり。四菩薩の行は不同なりと雖(いえど)も倶(とも)に妙法蓮華経の修行なり。此の四菩薩は下方に住する故に、釈に「法性の淵底(えんでい)・玄宗(げんしゅう)の極地(ごくち)」と云へり。
この御文は、
「南無妙法蓮華経を唱える私たちは、地涌の菩薩の眷属であり、その働きによって人々を救っていく」
ということを、大変わかりやすく教えられています。
「今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は皆地涌の流類なり」
ここが根本です。
「日蓮等の類」とは、
日蓮大聖人と同じ信心に立つ人々のことです。
つまり、
南無妙法蓮華経を信じ、唱え、弘める人は、
皆、地涌の菩薩の一類である
と仰せです。
地涌の菩薩とは、
法華経で釈尊から末法弘通を託された菩薩です。
ですから、
今、唱題し弘教している姿そのものが、
法華経に説かれる地涌の菩薩の姿である、
という大変ありがたい御文です。
火・水・風・大地の譬え
大聖人は、四大菩薩の働きを、
火・水・風・大地に譬えられています。
「火は物を焼くを以て行とし」
火は不要なものを焼き尽くします。
これは、
人々の迷い・謗法・苦しみを焼き払う働きです。
例えば、
折伏によって邪義を破り、
生命を目覚めさせる働きとも拝せます。
「水は物を浄むるを以て行とし」
水は汚れを洗い清めます。
これは、
妙法によって生命の濁りを浄める働きです。
題目を唱えることで、
悩みや苦しみに負けない生命へ変わっていく姿です。
「風は塵垢を払ふを以て行とし」
風は塵やほこりを吹き払います。
これは、
無明や迷いを払い、
正しい仏法へ導く働きです。
折伏で相手の迷いを破る姿とも言えます。
「大地は草木を長ずるを以て行とするなり」
大地は万物を育てます。
これは、
人々の仏性を育て、
成仏へ向かわせる働きです。
温かく励まし、
信心を育てる姿とも拝せます。
「四菩薩の利益とは是なり」
四大菩薩には、
それぞれ違った働きがあります。
しかし目的は一つです。
それは、
人々を妙法によって救うことです。
「四菩薩の行は不同なりと雖も倶に妙法蓮華経の修行なり」
ここはとても大切です。
働き方は人それぞれ違っても、
皆、妙法のための行である、
ということです。
ある人は折伏が得意、
ある人は励ましが得意、
ある人は陰で支える。
それぞれ役割は違います。
しかし、
御本尊を根本に行ずるなら、
皆が尊い地涌の働きなのです。
「法性の淵底・玄宗の極地」
これは、
地涌の菩薩は、
仏法の最も深い生命の境地から現れた存在である、
という意味です。
「下方に住する」とは、
単なる地下ではなく、
生命の最も深いところを表します。
つまり、
地涌の菩薩とは、
久遠元初の妙法と一体の存在なのです。
わかりやすくまとめると
この御文は、
南無妙法蓮華経を唱え、人々のために行動する私たちは、地涌の菩薩の一員であり、それぞれ違う役割を持ちながら、妙法によって人々を救っていく存在である
と教えられています。
火・水・風・大地が、それぞれ違う働きで世の中を支えているように、法華講員一人ひとりにも、それぞれの尊い使命があります。
折伏する人、励ます人、陰で支える人、御供養に励む人――働きは違っても、皆が妙法蓮華経の修行であり、地涌の菩薩の実践なのです。
20日
日蓮大聖人御金言義類別入文集295
(二三)地涌・上行菩薩
17/17
御講聞書(日向記) 1854㌻
「日蓮己証の事(寿量品)
仰せに云はく、寿量品の南無妙法蓮華経是なり。地涌千界の出現、末代当今の別付属の妙法蓮華経の五字を、一閻浮提(えんぶだい)の一切衆生に取り次ぎ給ふべき仏の勅使(ちょくし)上行菩薩なり云云。取り次ぎとは、取るとは釈尊より上行菩薩の手へ取り玉ふ。さて上行菩薩又末法当今の衆生に取り次ぎ給へり。是(これ)を取り次ぐとは云ふなり。広くは末法万年の取り次ぎ取り次ぎなり。
この御文は、日蓮大聖人が悟りを開き、御自身の生命に証得された根本の法が「寿量品の南無妙法蓮華経」であると明かされた重要な一節で、末法における「南無妙法蓮華経」の伝わり方を、とてもわかりやすく示されています。
まず大聖人は、
「寿量品の南無妙法蓮華経是なり」
と仰せです。
これは、
法華経寿量品の肝心・中心こそ
「南無妙法蓮華経」である、
という意味です。
そして、その大切な妙法を、
だれが末法の人々へ伝えるのかを示されています。
「地涌千界の出現」とは
法華経の涌出品では、
無数の地涌の菩薩が大地から現れます。
その中心が
上行菩薩です。
この上行菩薩こそ、
末法に妙法を弘めるために
釈尊から使命を受けた菩薩である、
ということです。
「取り次ぎ」とは何か
ここがこの御文の大切なところです。
大聖人は、
取るとは釈尊より上行菩薩の手へ取り玉ふ。
さて上行菩薩又末法当今の衆生に取り次ぎ給へり。
と仰せです。
つまり、
1. 釈尊が
南無妙法蓮華経を
上行菩薩へ託された。
2. 上行菩薩が
今度は末法の衆生へ渡してくださる。
この「受け渡し」が
「取り次ぎ」です。
たとえば、
大切な宝を
親から子へ、
また次の世代へと
手渡していくようなものです。
「仏の勅使」とは
上行菩薩は
自分勝手に弘めるのではなく、
「仏の勅使」
つまり、
仏様から正式に使命を受けたお方です。
だからこそ、
末法に妙法を弘める資格と使命がある、
ということです。
日蓮大聖人との関係
日蓮正宗では、
末法の上行菩薩の御再誕が
御本仏・日蓮大聖人であると拝します。
ですから大聖人は、
釈尊から付嘱された
寿量品の肝心たる
南無妙法蓮華経を、
末法の私たちに
取り次いでくださったお方、
ということになります。
「広くは末法万年の取り次ぎ取り次ぎなり」
これは、
妙法が一代限りではなく、
師から弟子へ、
親から子へ、
法華講員から友人へ、
というように、
末法万年までも
受け継がれていく、
ということです。
まさに折伏・弘教の精神ですね。
私たちが人に
「南無妙法蓮華経」を伝えることも、
仏様から続く
尊い“取り次ぎ”の一分となるのです。
ですから、
ただ自分だけ信心するのではなく、
「この尊い妙法を、一人でも多くの人へ伝えたい」
という心が、
地涌の菩薩の働きであり、
仏意仏勅にかなう実践になるのです。
21日
日蓮大聖人御金言義類別入文集296
(二四)十界互具 1/10
十法界事 173㌻
十界互具とは、法華の淵底(えんでい)、此の宗の沖微(ちゅうび)なり。四十余年の諸経の中には之(これ)を秘して伝へず。
「十界互具とは、法華の淵底、此の宗の沖微なり」とは、
法華経のもっとも深い教えの中心が「十界互具」である、という意味です。
まず「十法界」とは、人の生命の十種類の境涯です。
十法界とは
1. 地獄界 = 苦しみ
2. 餓鬼界 = 欲ばり
3. 畜生界 = 本能・弱肉強食
4. 修羅界 = 争い・怒り
5. 人界 = 平静
6. 天界 = 喜び
7. 声聞界 = 教えを求める
8. 縁覚界 = 道理に気づく
9. 菩薩界 = 人を救いたい心
10. 仏界 = 絶対的幸福の境涯
です。
「互具」とは?
「互いに具(そな)わる」という意味です。
つまり、
* 地獄の人の中にも仏界がある
* 仏の生命にも人を思う菩薩界がある
* 普通の人にも仏になる可能性がある
ということです。
たとえば
今、怒っている人でも、
* 子どもを守ろうとして優しくなることもある
* 苦しみながらも題目を唱えて前向きになることもある
これは、地獄界や修羅界の中にも、仏界や菩薩界が具わっているからです。
逆に、良い人でも油断すると怒ったり嫉妬したりする。
つまり仏界以外の九界も持っている。
これが「十界互具」です。
なぜ大事なのか
もし十界互具がなければ、
* 地獄の人は永遠に地獄
* 凡夫は絶対に仏になれない
ことになります。
しかし法華経は、
「どんな人でも仏になれる」
と説きます。
それは、すべての人に仏界が具わっているからです。
「法華の淵底」とは
「淵底」とは“いちばん深い底”。
つまり、
法華経の根本の秘密は
「凡夫の生命に仏界が具わっている」
ということです。
だから日蓮大聖人は、
南無妙法蓮華経を唱えることで
自分の中の仏界を涌き出す
と教えられました。
折伏でわかりやすく言うなら
「仏さまは特別な人だけじゃない。
苦しみだらけの普通の私たちの命の中に、もともと仏の命がある。
それを呼び起こすのが南無妙法蓮華経なんです」
という教えになります。
22日
日蓮大聖人御金言義類別入文集297
(二四)十界互具 2/10
爾前二乗菩薩不作仏事 182㌻
今此の妙経は十界皆成仏道なること分明(ふんみょう)なり。彼の達多(だった)無間に堕するに天王仏の記を授け、竜女成仏し、十羅刹女(じゅらせつにょ)も仏道を悟り、阿修羅も成仏の総記を受け、人天(にんでん)・二乗・三教の菩薩円妙の仏道に入る。
この御文は、法華経の 偉大な功徳を示された大切なところです。
ポイントは、
「法華経の南無妙法蓮華経によって、すべての生命が成仏できる」
ということです。
「十界皆成仏道なること分明なり」
まず大聖人は、
「この妙経(法華経)は、十界のすべてが成仏できることを明らかにした経である」
と仰せです。
十界とは、
* 地獄
* 餓鬼
* 畜生
* 修羅
* 人
* 天
* 声聞
* 縁覚
* 菩薩
* 仏
この十種類の生命状態です。
普通に考えると、
「地獄のような苦しみの人が仏になれるのか」
「怒りだらけの修羅が成仏できるのか」
と思います。
しかし法華経は、
「どんな生命にも仏界が具わっている」
と説き切ったのです。
これを「十界互具」といいます。
「達多無間に堕するに天王仏の記を授け」
達多とは提婆達多(だいばだった)のことです。
提婆達多は、釈尊を殺そうとした大悪人です。
本来なら無間地獄に堕ちるような人でした。
ところが法華経では、その提婆達多に対して、
「未来には天王仏という仏になる」
と授記(成仏の約束)をされたのです。
これは、
「どんな悪人であっても、妙法によって成仏できる」
ことを示しています。
ですから私たちも、
過去にどんな罪障があっても、
今どんな苦しみの中にいても、
南無妙法蓮華経を信じ抜けば、
必ず仏になれるのです。
「竜女成仏し」
竜女とは八歳の娘です。
当時は、
* 女人は成仏できない
* 子供は悟れない
という考えが強くありました。
しかし法華経では、
その幼い竜女が即身成仏を示しました。
これは、
「年齢・性別・能力に関係なく、妙法によって成仏できる」
ということです。
だからこそ、
末法の私たち凡夫にも希望があるのです。
「十羅刹女も仏道を悟り」
十羅刹女は、もともと恐ろしい鬼神です。
しかし法華経を受持する者を守護する誓いを立て、
仏道へ入っていきました。
つまり、
荒々しい生命、
怒りや嫉妬に満ちた生命であっても、
妙法によって変わっていけるのです。
これは私たちの日常にも当てはまります。
怒りや迷いに負ける自分でも、
唱題を続ける中で生命が浄化され、
仏の境涯へ向かっていけるのです。
「阿修羅も成仏の総記を受け」
阿修羅とは、
争い・怒り・闘争の生命です。
その阿修羅にまで成仏の記別が与えられた。
つまり法華経は、
「立派な人だけの教え」
ではなく、
迷い多き凡夫をこそ救う経なのです。
「人天・二乗・三教の菩薩円妙の仏道に入る」
ここが非常に大事です。
法華経以前の経教では、
* 二乗は成仏できない
* 菩薩もまだ真実ではない
とされていました。
しかし法華経によって、
すべてが「円妙の仏道」へ入った。
つまり、
一切衆生を平等に成仏させるのが法華経
なのです。
法華講員としての大切な受け止め
この御文は結局、
「私たち自身が必ず成仏できる」
という御確信です。
末法の凡夫である私たちは、
* 怒ったり
* 悩んだり
* 嫉妬したり
* 落ち込んだり
します。
しかし、
そういう迷いの生命を持ったまま、
南無妙法蓮華経によって
仏界を涌現していける。
これが日蓮大聖人の仏法です。
だから御本尊を信じ、
唱題し、
折伏に励むことが、
そのまま成仏の大道なのです。
折伏で使いやすい一言
「法華経は、“立派な人しか救われない教え”ではありません。苦しみ、迷い、罪障を持った私たち凡夫こそ、南無妙法蓮華経によって仏になれる――そこに法華経の本当のすごさがあります。」
23日
日蓮大聖人御金言義類別入文集298
(二四)十界互具 3/10
開目抄上 548㌻
具とは十界互具。足と申すは一界に十界あれば当位に余界あり。満足の義なり。此の経一部・八巻・二十八品・六万九千三百八十四字、一々に皆妙の一字を備へて、三十二相八十種好の仏陀なり。十界に皆己界(こかい)の仏界を顕はす。妙楽云はく「尚(なお)仏果を具す、余果も亦(また)然(しか)り」等云云。仏此(これ)を答へて云はく「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」等云云。衆生と申すは舎利弗(しゃりほつ)、衆生と申すは一闡提(いっせんだい)、衆生と申すは九法界。衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)此(ここ)に満足す。
この御文は、開目抄の中でも、「法華経によって、すべての人が成仏できる」という大切な法理を明かされたところです。
特に中心になるのが「十界互具」という教えです。
「十界互具」とは何か
十界とは、
* 地獄
* 餓鬼
* 畜生
* 修羅
* 人
* 天
* 声聞
* 縁覚
* 菩薩
* 仏
という十種類の生命の状態です。
普通に考えると、
* 仏は仏
* 地獄は地獄
で、別々に見えます。
しかし法華経では、
「どんな生命の中にも、仏界が具わっている」
と説きます。
これを「十界互具」といいます。
「具とは十界互具」
大聖人はまず、
具とは十界互具
と仰せです。
「具」とは、“備わっている”という意味です。
つまり、
* 地獄の人にも仏界がある
* 苦しみの人にも仏になる可能性がある
* 逆に、仏にも衆生を救うため九界の働きがある
ということです。
「足とは…満足の義なり」
これは、
一つの生命の中に、全部の生命状態がそろっている
という意味です。
たとえば、
* 怒っている時は修羅界
* 苦しんでいる時は地獄界
* 喜んでいる時は天界
になります。
しかし、その中にも仏界がある。
だから、どんなに苦しい人でも、
南無妙法蓮華経を唱えることで、
仏の生命を顕せるのです。
これが「満足の義」です。
「法華経の文字一つ一つが仏」
六万九千三百八十四字、一々に皆妙の一字を備へて…仏陀なり
これは、
法華経の一字一字に、
仏の生命・功徳が全部込められている、
ということです。
だから題目の
南無妙法蓮華経
には、
仏の智慧・慈悲・功徳が、
全部具わっているのです。
妙楽大師の言葉
「尚仏果を具す、余果も亦然り」
これは、
「仏界に仏界があるだけでなく、
ほかの九界にも仏界がある」
という意味です。
つまり、
「自分なんか成仏できない」
ではないのです。
むしろ、
悩み苦しむ凡夫こそ、
妙法によって仏界を開ける、
という大確信です。
「衆生をして仏知見を開かしめん」
これは法華経の目的です。
仏がこの世に出られた本当の目的は、
「すべての衆生に、仏の生命を開かせること」
にあります。
「衆生」とは誰か
大聖人は、
* 舎利弗のような立派な弟子
* 一闡提のような悪人
* 九法界の凡夫
全部を「衆生」と仰せです。
つまり、
「救われない人は一人もいない」
ということです。
法華経は、
善人だけの教えではありません。
苦しむ人、
罪障に悩む人、
迷う人、
すべてを成仏させる教えなのです。
「衆生無辺誓願度 此に満足す」
これは、
「無数の衆生を救う」
という仏・菩薩の大願が、
法華経によって完全に成就する、
という意味です。
なぜなら、
十界互具によって、
どんな人の中にも仏界がある
からです。
だからこそ、
日蓮大聖人は末法の衆生に、
南無妙法蓮華経を弘められました。
折伏で話すなら
「法華経は、“立派な人だけが救われる教え”ではありません。
苦しみや悩みを持った、そのままの凡夫の中に仏の命がある、と説くのです。
だから今苦しくても、
南無妙法蓮華経を唱えることで、
自分の中の仏界を開いていけるのです。」
24日
日蓮大聖人御金言義類別入文集299
(二四)十界互具 4/10
観心本尊抄 646㌻
問うて曰く、出処(しゅっしょ)既に之を聞く、観心の心如何(いかん)。答へて曰く、観心とは我が己心を観じて十法界を見る、是(これ)を観心と云ふなり。
この御文は、観心本尊抄の中でも、「観心とは何か」を簡潔に示された、とても大事なところです。
御文の意味
「観心とは我が己心を観じて十法界を見る」
現代の言葉でいうと、
「自分の心・生命を見つめ、その中に十界の働きを知ること」
です。
「観心」とは?
「観」は観察する、
「心」は生命・心です。
つまり、
自分自身の生命を見つめること
を「観心」といいます。
十法界は自分の中にある
大聖人は、
「十法界を見る」
と仰せです。
十法界とは、
* 地獄
* 餓鬼
* 畜生
* 修羅
* 人
* 天
* 声聞
* 縁覚
* 菩薩
* 仏
の十種類の生命状態です。
これは遠い世界の話ではなく、
全部、自分の心の中にある
ということです。
たとえば
地獄界
苦しくて苦しくて仕方ない時。
餓鬼界
欲が止まらない時。
修羅界
人と比べて争う心。
天界
嬉しくて舞い上がる時。
菩薩界
人を助けたいと思う心。
仏界
何があっても揺るがない慈悲と智慧の生命。
こういう姿が、
毎日の生活の中に現れています。
「観心」は自分を知ること
仏教というと、
「どこか遠い仏様を拝む」
と思われがちですが、
大聖人は、
「仏界は自分の生命の中にある」
と教えられました。
だから観心とは、
「自分の心を見つめ、
その中に仏界があると知ること」
なのです。
なぜ大事なのか
もし、
* 「自分はダメだ」
* 「自分には価値がない」
* 「仏とは無縁だ」
と思ったら、
成仏は遠く感じます。
しかし法華経では、
凡夫の生命そのものに仏界が具わる
と説きます。
だから、
悩みながらでも、
迷いながらでも、
題目を唱えることで、
仏界を顕していけるのです。
日蓮大聖人の観心
大聖人の観心は、
ただ静かに心を眺める禅のようなものではありません。
末法では、
南無妙法蓮華経を唱え、
御本尊を信じる中で、
己心の仏界を開いていく
これが観心です。
わかりやすく言うなら
「観心とは、“自分の中にどんな命があるか”を見ることです。
怒りもあれば、
欲もある。
やさしさもある。
そしてその奥には、
仏の命まで具わっている。
それを南無妙法蓮華経によって開いていくのが、
日蓮大聖人の観心なのです。」
と説明できます。
25日
日蓮大聖人御金言義類別入文集300
(二四)十界互具 5/10
観心本尊抄 646㌻
設(たと)ひ諸経の中に所々に六道並びに四聖を載すと雖(いえど)も、法華経並びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡(みょうきょう)を見ざれば自具の十界・百界千如・一念三千を知らざるなり。
この御文は、観心本尊抄の中で、
「法華経でなければ、本当の自分の生命はわからない」
ということを示された大切なところです。
「他の経にも六道や四聖は説かれている。
しかし法華経と、
天台大師の『摩訶止観』という“明鏡”によって見なければ、
自分の生命に十界が具わっていることも、
百界千如も、
一念三千も、
本当にはわからない」
という意味です。
「六道並びに四聖」とは
これは十界のことです。
六道(迷いの世界)
* 地獄
* 餓鬼
* 畜生
* 修羅
* 人
* 天
四聖(悟りの世界)
* 声聞
* 縁覚
* 菩薩
* 仏
合わせて十界です。
「諸経にも十界はある」
大聖人は、
「他のお経にも、
こういう世界の話は出ている」
と認められています。
しかし問題は、
「それが自分の生命に具わる」
と説いていないことです。
「明鏡を見ざれば」
ここが重要です。
「明鏡」とは、
はっきり映す鏡です。
つまり、
法華経と天台大師の教えは、
生命の真実を映し出す鏡
なのです。
たとえば鏡がなければ、
自分の顔は見えません。
同じように、
法華経という鏡がなければ、
* 自分の中の仏界
* 十界互具
* 一念三千
は見えないのです。
「自具の十界」とは
「自具」とは、
“自分自身に具わっている”
という意味です。
つまり、
地獄も
菩薩も
仏界も
全部、自分の生命の中にある、
ということです。
百界千如・一念三千とは?
少し難しいですが、簡単に言うと、
「生命は非常に深く広大である」
という教えです。
百界
十界が互いに具わるので、
10 \times 10 = 100
で百界になります。
⸻
千如
さらに十如是をかけて、
100 \times 10 = 1000
となり千如。
一念三千
さらに世間を含めて、
1000 \times 3 = 3000
で一念三千となります。
これは、
「一瞬の生命の中に、宇宙全体の真理が具わる」
という大法理です。
大聖人が伝えたいこと
結局この御文は、
「あなたの生命は小さな存在ではない」
ということを教えています。
苦しみもある、
迷いもある。
しかしその生命の中に、
* 菩薩界も
* 仏界も
* 成仏の可能性も
全部具わっている。
それを明かしたのが、
法華経であり、
日蓮大聖人の仏法なのです。
折伏で話すなら
「法華経は、“仏様だけが尊い”という教えではありません。
私たち凡夫の生命の中に、
仏の命まで具わっていると説くのです。
だから苦しみの中からでも、
南無妙法蓮華経によって、
自分の仏界を開いていけるのです。」
26日
日蓮大聖人御金言義類別入文集301
(二四)十界互具 6/10
観心本尊抄 646㌻
問うて曰く、法華経は何(いず)れの文ぞ、天台の釈は如何。答へて曰く、法華経第一方便品に云はく「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」等云云。是は九界所具の仏界なり。寿量品に云はく」是(か)くの如く我成仏してより已来(このかた)甚(はなは)だ大いに久遠なり、寿命、無量阿僧祇劫、常住にして滅せず、諸の善男子、我本(もと)菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命今猶(なお)未だ尽きず、復上(かみ)の数に倍せり」等云云。此の経文は仏界所具の九界なり。
この御文は、「十界互具(じっかいごぐ)」という、法華経の最も大事な法門を明かされています。
大きく分けると、
* 「九界の中に仏界がある」
* 「仏界の中に九界がある」
この二つを示されています。
まず、
「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」
とは、方便品の文です。
ここでいう「衆生」とは、私たち凡夫です。
悩み、怒り、苦しみ、迷いを持った九界の衆生ですね。
しかし釈尊は、
「その衆生に仏の智慧・仏の生命を開かせたい」
と説かれました。
つまり、
「凡夫の命の中にも、仏の生命が具わっている」
ということです。
これを、
「九界所具(しょぐ)の仏界」
といいます。
たとえば、
* 怒っている人でも仏になれる
* 苦しんでいる人でも成仏できる
* 今は迷っていても、仏の命を持っている
ということです。
だから日蓮大聖人は、
どんな人にも南無妙法蓮華経を勧められたのです。
次に、
寿量品の
「我本(もと)菩薩の道を行じて…」
の文です。
これは、
「仏も、もとは菩薩として修行していた」
という意味です。
つまり仏様の生命の中にも、
* 菩薩
* 人
* 天
* 修羅
など、九界の働きが具わっているのです。
これを、
「仏界所具の九界」
といいます。
ここがとても大事です。
もし仏様に九界がなければ、
* 苦しむ人の気持ちもわからない
* 衆生を救う慈悲も起こらない
ことになります。
だから仏とは、
ただ遠く離れた特別な存在ではなく、
「私たちと同じ命を持ちながら、
完全に妙法を覚知された生命」
なのです。
つまりこの御文は、
「凡夫の中に仏があり、
仏の中にも凡夫の生命がある」
という、
法華経だけが説く「十界互具」を示されています。
そしてこの法門によって、
「今のこの身のままで成仏できる」
という、
即身成仏の道が開かれるのです。
折伏で話すなら、例えばこう言えます。
「法華経のすごいところは、
“悪い人は救われない”ではなく、
どんな人の命の中にも仏様の命がある、
と説いたところなんです。
だから今苦しんでいる人でも、
南無妙法蓮華経によって、
自分の中の仏界を開いていけるんです。」
27日
日蓮大聖人御金言義類別入文集302
(二四)十界互具 7/10
観心本尊抄
観心本尊抄 648㌻
十界互具之を立つるは石中(せきちゅう)の火、木中(もくちゅう)の花、信じ難(がた)けれども縁に値(あ)ひて出生すれば之を信ず。人界所具の仏界は水中の火、火中の水、最も甚だ信じ難し。然(しか)りと雖も竜火(りゅうか)は水より出で竜水は火より生ず。心得られざれども現証有れば之を用ゆ。既に人界の八界之を信ず。仏界何ぞ之を用ひざらん。堯舜(ぎょうしゅん)等の聖人の如きは万民に於て偏頗(へんぱ)無し、人界の仏界の一分なり。不軽(ふきょう)菩薩は所見の人に於て仏身を見る。悉達太子(しったたいし)は人界より仏身を成ず、此等(これら)の現証を以て之を信ずべきなり。
これは、観心本尊抄 の中でも、「十界互具」と「人間の中にある仏界」を説明された、とても大切な御文です。
簡単に言うと、
「どんな人の中にも、仏になれる生命がある」
ということを教えられています。
「十界互具」とは何か
「十界」とは、
* 地獄
* 餓鬼
* 畜生
* 修羅
* 人
* 天
* 声聞
* 縁覚
* 菩薩
* 仏
という十種類の生命状態です。
「互具」とは、
「互いに具わっている」という意味です。
つまり、
* 怒っている人の中にも仏界がある
* 仏のような人にも油断すれば怒りがある
* 苦しみの中にも希望がある
ということです。
石の中の火、木の中の花
大聖人は、
十界互具之を立つるは石中の火、木中の花
と仰せです。
これは、
* 石を打てば火花が出る
* 木には花が咲く力がある
という意味です。
普段は見えません。
しかし、
条件がそろうと現れます。
同じように、
人の中の仏界も普段は見えにくいのです。
人間に仏界があるのは信じ難い
特に難しいのは、
人界所具の仏界
つまり、
「普通の人間が仏になれる」
ということです。
だから大聖人は、
水中の火、火中の水
と仰せです。
普通に考えると、
* 水に火はない
* 火に水はない
ように見えます。
しかし実際には、
* 「竜火」は水から出る
* 「竜水」は火から出る
という不思議な現象がある。
つまり、
「理解できなくても、現実に現れるなら信じるべきだ」
と教えられています。
仏界の現れとは?
では、人の中の仏界はどう現れるのでしょうか。
ここで大聖人は例を挙げられます。
堯舜(ぎょうしゅん)
古代中国の聖人です。
民衆を差別せず、
公平に慈悲をもって治めました。
これは、
人界の仏界の一分
つまり、
人間の中に現れた仏界の姿だと仰せです。
不軽菩薩の姿
不軽菩薩 は、
どんな人にも向かって、
「あなたは必ず仏になれます」
と礼拝しました。
悪口を言われても、
石を投げられても、
相手の中の仏界を信じ続けました。
これも、
「人の中に仏界がある」という現証です。
悉達太子の成仏
悉達太子 は、
最初から仏だったのではありません。
人間として生まれ、
修行して仏になられました。
つまり、
仏は人間から成る
という現実の証明です。
私たちへの大切な教え
この御文の大事なところは、
「今の自分の姿だけで決まらない」
ということです。
苦しみがあっても、
怒りがあっても、
失敗しても、
その生命の奥には、
必ず仏界がある。
だからこそ、
南無妙法蓮華経を唱えることで、
その仏界が現れてくるのです。
折伏で話すなら
例えば、こう話せます。
石の中にも火があり、木の中にも花が咲く力があります。
同じように、私たちの生命の中にも仏になる力があるんです。
今は苦しくても、題目を唱えることで、その仏界が現れてくる。
だから法華経は、「あなたには価値がある」「必ず変われる」と教えているんです。
この御文は、
「人を信じる仏法」
「自分の可能性を信じる仏法」
を教えられた、大変深い御文です。
28日
日蓮大聖人御金言義類別入文集303
(二四)十界互具 8/10
小乗大乗分別抄 706㌻
二乗作仏なきならば、九界の衆生仏になるべからず。法華経の心は法爾(ほうに)のこと(理)はりとして一切衆生に十界を具足せり。譬へば人(ひと)一人(ひとり)は必ず四大を以てつくれり。一大かけなば人にあらじ。一切衆生のみならず、十界の依正(えしょう)の二法、非情の草木一微塵(みじん)にいたるまで皆十界を具足せり。二乗界仏にならずば余界の中の二乗界も仏になるべからず。
この御文は、「なぜ法華経で“二乗作仏”が大事なのか」を説かれた、とても重要なところです。
まず「二乗」とは、声聞・縁覚という人々のことで、 爾前経(法華経を説かれる前の全てのお経)では
「二乗は成仏できない」
と説かれていました。
しかし、日蓮大聖人はここで、
「もし二乗が成仏できないなら、実は誰も成仏できないことになる」
と教えられているのです。
「十界互具」の教え
法華経の根本には
「十界互具」
という教えがあります。
地獄から仏界までの十界が、互いに皆そなわっている、という意味です。
つまり、
* 凡夫の中にも仏界がある
* 仏の中にも九界がある
* 地獄界の人にも仏界がある
ということです。
ですから、どんな人でも成仏できるのです。
「人は四大でできている」の譬え
御文では、
人一人は必ず四大を以てつくれり
とあります。
昔の仏教では、
地・水・火・風の四つを「四大」といいました。
たとえば、
* 地…骨や肉
* 水…血液や水分
* 火…体温
* 風…呼吸や動き
です。
そして、
一大かけなば人にあらじ
つまり、
一つでも欠ければ、人として成り立たないということです。
同じように、
十界も互いにそなわっていて初めて成り立つのです。
なぜ「二乗作仏」が大事なのか
ここが一番大切です。
十界互具なら、
仏界の中にも二乗界があります。
ところが、
「二乗は絶対に成仏できない」
としてしまうと、
仏界の中の二乗界も成仏できないことになります。
すると、
十界互具が崩れてしまうのです。
だから法華経では、
二乗にも成仏の記別を与えました。
これは単に二乗を救っただけではありません。
「一切衆生すべてが成仏できる」
ことを明らかにした、大事な教えなのです。
草木や微塵にも十界がある
さらに御文では、
草木一微塵にいたるまで皆十界を具足せり
とあります。
これは、
生命だけでなく、
草木や国土など一切の存在にも妙法の働きがある、ということです。
つまり宇宙全体が妙法の当体であり、
すべてが仏法の世界につながっているという、非常に深い法門です。
折伏で話すなら
簡単に言えば、
「法華経は、“あなたには仏になれません”と言わない教えです。どんな人の中にも仏界があるから、必ず成仏できると説くのです。」
と話すと、伝わりやすいです。
また、
「二乗さえ成仏できるなら、私たち凡夫も必ず成仏できる」
という希望の教えとして語ることができます。
29日
日蓮大聖人御金言義類別入文集304
(二四)十界互具 9/10
太田左衛門尉御返事 1223㌻
この方便品と申すは、迹門の肝心なり。この品には仏、十如実相の法門を説きて十界の衆生の成仏を明かし給へば、舎利弗等は此を聞きて無明(むみょう)の惑を断じ真因の位に叶ふのみならず、未来華光(けこう)如来と成りて、成仏の覚月(かくげつ)を離垢(りく)世界の暁(あかつき)の空に詠(えい)ぜり。十界の衆生の成仏の始めは是なり。
この御文は、法華経の「方便品」が、なぜ大切なのかを示されたところです。
まず大事なのは、
「すべての人が成仏できる道が、ここで初めて明らかになった」
ということです。
「方便品」とは何か
方便品とは、法華経の第二章です。
ここで釈尊は、
「すべての衆生に仏の生命が具わっている」
という大事な法門を説かれました。
その中心が、
「十如実相」
「十界皆成」
の教えです。
十界の衆生とは
十界とは、
* 地獄
* 餓鬼
* 畜生
* 修羅
* 人
* 天
* 声聞
* 縁覚
* 菩薩
* 仏
という、生命の十種類の境涯です。
つまり、
「苦しんでいる人」
「怒っている人」
「迷っている人」
であっても、仏になれる命を持っている、ということです。
舎利弗も驚いた
舎利弗は、釈尊の弟子の中でも智慧第一といわれた人です。
舎利弗
しかし、それまでの教えでは、
「二乗は成仏できない」
と思っていました。
ところが方便品で、
「あなたも未来には華光如来という仏になる」
と授記(成仏の約束)を受けたのです。
これは大変な出来事でした。
「未来華光如来」とは
舎利弗は未来に、
「華光如来」
という仏になると説かれました。
御文の
「成仏の覚月を離垢世界の暁の空に詠ぜり」
とは、
成仏という月が、清らかな世界の空に美しく現れた、
という譬えです。
つまり、
「舎利弗の成仏がはっきり決定した」
という喜びを表されています。
「十界の衆生の成仏の始めは是なり」
ここが最も大切です。
それまでの経教では、
* 一部の人しか成仏できない
* 二乗は成仏できない
* 悪人は難しい
と考えられていました。
しかし方便品で、
「十界のすべての衆生が成仏できる」
ことが明かされた。
だから大聖人は、
「十界の衆生の成仏の始めは是なり」
と仰せなのです。
わかりやすく言えば
たとえば学校で、
「特別に優秀な人しか合格できません」
と言われていたのが、
ある日、
「実は全員に可能性があります」
と先生が明かしたようなものです。
方便品は、
「仏になる道は、一部の人だけのものではない」
と開かれた、大転換の教えなのです。
日蓮大聖人の御教示
そして大聖人はこの方便品の教えを受けて、
末法の私たちが確実に成仏する道として、
南無妙法蓮華経を御本尊に向かって唱える信心を示してくださいました。
つまり、
「今苦しみの中にいる私たち自身が、そのまま仏になれる」
という大希望の教えなのです。
30日
日蓮大聖人御金言義類別入文集305
(二四)十界互具 10/10
十字御書 1551㌻
我等が心の内に父をあな(蔑)づり、母ををろ(疎)かにする人は地獄其の人の心の内に候。譬(たと)へば蓮のたねの中に花と菓(このみ)とのみ(見)ゆるがごとし。仏と申す事も我等が心の内にをは(御座)します。譬へば石の中に火あり、珠の中に財(たから)のあるがごとし。我等凡夫はまつげ(睫)のちかきと虚空のとを(遠)きとは見候事なし。我等が心の内に仏はをは(御座)しましけるを知り候はざりけるぞ。
この御文は、私たちの「心」の中に、地獄にも仏にもなる原因があることを教えられています。
まず大聖人は、
「父を軽んじ、母を粗末にする心」
これが地獄の姿であると仰せです。
つまり、地獄はどこか遠い世界だけではなく、
人を憎み、感謝を忘れ、思いやりを失った時、すでにその人の心の中に現れている、ということです。
反対に、
「仏もまた我らの心の内におられる」
と教えられています。
ここがとても大切です。
大聖人は、それをたくさんの譬えで示されています。
* 蓮の種の中には、未来の花と実がそなわっている
* 石の中には火がある
* 宝珠の中には宝がある
普段は見えませんが、条件がそろえば現れてきます。
同じように、私たち凡夫の生命の中にも、もともと仏の生命が具わっているのです。
たとえば、この式が図形の中に最初から成り立っているように、仏界も生命の奥底に本来そなわっている、というイメージです。
しかし私たちは、
「まつげは近すぎて見えず、虚空は遠すぎて見えない」
という譬えのように、自分自身の心の中の仏に気づけません。
つまり、
* 自分には価値がない
* 怒りや迷いばかりだ
* 仏とは特別な人だけのものだ
と思ってしまうのです。
けれども法華経・南無妙法蓮華経を信じ唱えることで、心の中の仏界が現れてきます。
すると、
* 人を大切にする心
* 感謝する心
* 苦しみに負けない心
* 周りを安心させる慈悲
が現れてきます。
この御文は、
「仏は遠くにいるのではない。あなた自身の生命の中におられる」
という、非常に希望あふれる御金言なのです。
31日
日蓮大聖人御金言義類別入文集306
(二五)一念三千 1/15
総在一念抄 112㌻
此の一念即色身(しきしん)となる故に、此の身は全く三千具足の体なり。是(これ)を一念三千の法門と云ふなり。
この御文は、一念三千の法門が私たち自身の生命に具わっていることを教えられた大切なところです。
御文の意味
「此の一念即色身となる故に、此の身は全く三千具足の体なり。是を一念三千の法門と云ふなり」
現代語にすると、
「一念(生命の働き)がそのまま身体となって現れているので、この身そのものに三千の法(あらゆる生命の可能性)が具わっている。これを一念三千というのである。」
という意味です。
「一念」とは
一念とは、単なる一瞬の考えではなく、
生命そのものの働き
を指します。
喜ぶ心、悲しむ心、怒る心、仏を信じる心など、すべて生命の働きです。
「三千」とは
三千とは、十界互具・十如是・三世間を合わせたもので、
宇宙と生命のあらゆる姿や働き
を表します。
つまり、
* 仏の境界
* 菩薩の境界
* 人間の境界
* 地獄の境界
など、すべての生命の可能性が含まれています。
「この身は全く三千具足の体なり」とは
大聖人は、
「三千の法は遠い世界にあるのではない」
と仰せです。
私たちの生命、この身体そのものに、
* 仏界も
* 菩薩界も
* 地獄界も
* 餓鬼界も
すべて具わっているのです。
例えば、同じ人でも、
* 怒れば地獄界
* 欲にとらわれれば餓鬼界
* 人を思いやれば菩薩界
* 御本尊を信じて題目を唱えれば仏界
が現れます。
これは十界が自分の生命に具わっている証拠です。
信心の上では
この御文の最も大切な点は、
仏はどこか遠くにいるのではなく、自分自身の生命の中に具わっている
ということです。
だからこそ御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱える時、自身に具わる仏界が涌き現れます。
『観心本尊抄』に
「一念三千を識らざる者には、仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み」
とあるように、一念三千という深い法理を、末法の私たちが実際に現せるように御本尊として顕してくださったのです。
まとめ
この御文は、
「自分の生命・身体そのものが一念三千の当体であり、仏になる力をもともと具えている」
ということを教えています。
したがって、信心とは外に仏を求めるのではなく、御本尊を信じて唱題し、自身に具わる仏界を開き現していく実践なのです。
