1日

 

日蓮大聖人御金言義類別入文集189

 

()下種三宝 12/13

③僧宝 1/2

 

百六箇抄 1702

 

就中(なかんずく)六人の遺弟(ゆいてい)を定むる表事(ひょうじ)は、先先に沙汰(さた)するが如し云云。但し直授結要(じきじゅけっちょう)付属は唯(ただ)一人なり。白蓮(びゃくれん)阿闍梨日興を以て惣貫首(そうかんず)と為し、日蓮が正義悉(ことごと)く以て毛頭程も之(これ)を残さず、悉く付嘱せしめ畢(おわ)んぬ。上首已下(いげ)並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日(ぞんにち)の如く、日興が嫡嫡(ちゃくちゃく)付法の上人を以て惣貫首(そうかんず)と仰ぐべき者なり。

 

 

👉 「日蓮大聖人の正しい法の後継者は誰か」

👉 形式上の弟子と、真実の法の継承者の違い

 

を明確に示した御文です。

 

 

① 冒頭の意味

 

就中六人の遺弟を定むる表事は…

 

わかりやすく言うと

      大聖人には**六老僧(六人の高弟)**がいる

      しかしこれはあくまで

👉 「表向き(形式上)」の弟子の定め

 

ということです。

 

 

② いちばん重要なポイント

 

但し直授結要付属は唯一人なり。

 

ここが核心です🔥

      直授結要付属とは

👉 大聖人の教えの核心(結要)を直接すべて授けること

      それを受けたのは

👉 ただ一人だけ

 

 

③ その一人とは誰か

 

白蓮阿闍梨日興を以て惣貫首と為し…

 

意味

      白蓮阿闍梨 日興上人こそが

         大聖人の教え全体を貫く

         惣貫首(そうかんず)=総責任者・正統後継者

 

である、と明言しています。

 

 

④ 付嘱の内容の重さ

 

日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず…

 

かみ砕くと

      日蓮大聖人の

         正しい教え(正義)を

         一つも残さず

         すべて日興上人に託した

 

ということ。

 

👉「一部」ではなく

👉「全部・完全に」です。

 

 

⑤ 他の弟子たちの立場

 

上首已下並びに末弟等異論無く…

 

意味

      他の高弟・末弟たちも

         異論はなく

         生前は皆

👉 日興上人を正統の中心と仰いでいた

 

と述べています。

 

 

⑥ 未来永劫の基準

 

尽未来際に至るまで…

 

大事な結論

      大聖人の存命中と同じように

      未来永劫にわたって

      日興上人 その嫡嫡付法の上人

👉 惣貫首として仰ぐべきである

 

と定めています。

 

 

まとめ

      六老僧=形式上の弟子

      直授結要付属=真実の法の継承

      それを受けたのは

👉 日興上人ただ一人

      正しい流れは

👉 日蓮大聖人 日興上人 嫡嫡相承(日如上人に至る)

 

この御文は、

「人数」や「立場」ではなく、

誰が大聖人の正義を完全に受けたのか

をはっきり示している、非常に重い御文です。

 

日蓮正宗の三宝

仏宝 日蓮大聖人

法宝 本門戒壇の大御本尊

僧宝 日興上人

 

 

2

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集190

 

()下種三宝 13/13

③僧宝 2/2

 

本因妙抄 1684

 

 此の血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主(ざす)伝法の書、塔中(たっちゅう)相承の稟承(ぼんじょう)唯授一人の血脈なり。相構へて相構へ、秘すべし伝ふべし。

法華本門宗血脈相承事

 

弘安五年太歳壬午十月十一日 

 

ここは「血脈相承とは何か」をはっきり示した、とても重い一段です。

 

まず全体の結論

 

👉 本尊と血脈は、ただ一人にのみ、正式に伝えられる

👉 それが「日蓮正宗の命脈」である、という御文です。

 

 

① 冒頭文の意味

 

此の血脈並びに本尊の大事は…

 

血脈・本尊とは?

      血脈

→ 仏法の「命そのもの」

→ 教えの内容だけでなく、正しく伝える資格

      本尊の大事

→ 下種本門の本尊(法体)を正しく相承すること

 

👉 この二つは切り離せない、という前提です。

 

 

② 「日蓮嫡々座主伝法の書」とは

 

日蓮嫡々座主伝法の書…

 

わかりやすく言うと

      日蓮大聖人から

      嫡々(正統)に座主として立つ人

      その一人にだけ

👉 正式な伝法の書が授けられる

 

という意味です。

 

※「嫡々」=正統一直線

※ 誰でも、何人にも、ではありません。

 

 

③ 塔中相承・稟承とは

 

塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり

 

ここが超重要ポイントです🔥

      塔中相承

         大聖人滅後

         正法を護り伝える中心(塔中)で

         正式に受け継がれる相承

      稟承(ぼんじょう)

         勝手に学ぶのではなく

         師から正式に授かること

      唯授一人

         これが決定的

👉 同時に複数人には絶対に渡らない

 

つまり、

 

血脈とは

「正しい師から、正しい一人へ」

連続して伝わるもの

 

という定義です。

 

 

④ 「相構へて相構へ、秘すべし伝ふべし」

 

相構へて相構へ、秘すべし伝ふべし。

 

意味

      「よくよく心得よ、心得よ」

      軽々しく扱ってはいけない

      公に誇ったり、勝手に広めるものではない

      資格ある者に、正しく伝えるべきもの

 

👉 血脈は「知識」ではなく

👉 法の命を守る責任だからです。

 

⑤ 表題の意味

 

法華本門宗血脈相承事

 

これは

👉 「法華経・本門・下種の宗旨」

👉 その血脈相承について述べた書

 

という正式な宣言です。

 

⑥ 日付の重み

 

弘安五年十月十一日

 

      大聖人御入滅(弘安五年十月十三日)の

👉 わずか二日前

      つまり

         最期に

         最重要事項として

         血脈と本尊の相承を明示した御文

 

になります。

 

 

まとめ

      血脈と本尊は

👉 一体であり、命そのもの

      これは

👉 日蓮大聖人 嫡々座主 次の嫡々座主

      唯授一人で相承される

      軽々しく論じたり、自己流に扱ってはいけない

      末法の仏法は

👉 血脈によってのみ正しく生きる。

 

 

3

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集191

 

()在世本門(文上) 1/9

 

開目抄下 554

 妙楽云く「一代教の中未(いま)だ曾(かつ)て父母の寿の遠きことを顕はさず。若()し父の寿の遠きを知らずんば、復(また)父統(ふとう)の邦(くに)に迷ふ。徒(いたずら)に才能と謂ふも全く人の子に非(あら)ず」等云云。妙楽大師は唐の末、天宝年中の者なり。三論・華厳・法相・真言等の諸宗、並ひに依()経を深くみ()、広く勘(かんが)へて、寿量品の仏をしらざる者は父統の邦に迷へる才能ある畜生とかけるなり。

 

① この御文は、

日蓮大聖人が法華経・寿量品の仏を知らないことの重大さを、

中国・天台宗の妙楽大師**の言葉を引いて強く示しているところです。

 

 

② 妙楽大師の言葉の意味(現代語)

 

妙楽大師は、こう言っています。

 

「お釈迦様一代の教えの中で、

まだ“父(=仏)の寿命が無限であること”を明らかにしない教えがある。

もし父の寿命が遠い(久遠)ことを知らなければ、

その人は父の国(本来帰るべき世界)に迷ってしまう。

たとえ才能があると言われても、

それでは本当の意味で“仏の子”とは言えない」

 

という意味です。

 

 

③ 「父」とは誰か?

 

ここでいう父とは、

      実の父母ではなく

      寿量品に説かれる久遠実成の仏(本当の仏)

 

のことです。

 

つまり、

      寿量品の仏を知らない

→ 仏の本当の姿を知らない

→ 自分の本当の立場も分からない

 

ということになります。

 

 

④ 「父統の邦に迷う」とは?

 

**父統の邦(ふとうのくに)**とは、

      久遠の仏と衆生が本来一体である世界

      本来いるべき「仏の国・仏の生命の世界」

 

です。

 

寿量品を知らない人は、

      方便の仏(迹仏)だけを見て

      本仏・久遠の仏を知らず

 

そのため、本来帰るべきところを見失っている、と厳しく言っているのです。

 

 

⑤ なぜ「才能ある畜生」とまで言うのか?

 

これは人格を侮辱しているのではありません。

 

意味はこうです👇

      学問があっても

      経典をたくさん読んでいても

      他宗の教えを深く研究していても

 

👉 寿量品の仏を知らなければ、仏道の根本を外している

 

だから、

      「才能はあるが、仏の子としての自覚がない」

      「本質を見失っている」

 

という、教義上の厳しい譬えなのです。

 

⑥ 日蓮大聖人がここで言いたいこと

 

日蓮大聖人は、この妙楽大師の言葉を引いて、

      寿量品こそ仏法の核心であること

      末法においては、その寿量品の仏を南無妙法蓮華経として顕したのが自分であることを、はっきり示しています。

 

 

 

⑦ まとめ

 

👉 寿量品の久遠の仏を知らなければ、仏法の中心を見失う

👉 学問や才能よりも、本仏を知る信心が決定的に大事

👉 南無妙法蓮華経こそ、その久遠の仏に直結する道

 

という教えです。

 

5

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集193

 

()在世本門(文上) 3/9

 

観心本尊抄 656

 

     本門を以て之を論ずれば、一向に末法の初めを以て正機と為す。所謂(いわゆる)一往之を見る時は久種(くしゅ)を以て下種と為し、大通・前四味・迹門を熟と為して、本門に至つて等妙(とうみょう)に登らしむ。

 

下種・熟・脱の見方がギュッと詰まった大事な一段です。

 

 

 

① まず全体のポイント

 

この文は、

 

👉 「本門の立場から見ると、だれを正しく救う教えなのか」

👉 仏法がどういう順番で衆生を導くのか

 

を説明しています。

 

キーワードは

正機・久種・熟・等妙 です。

 

 

② 「末法の初めを正機と為す」とは?

 

本門を以て之を論ずれば、

一向に末法の初めを以て正機と為す

 

意味

      本門の教えは

👉 釈尊在世の人のためではない

      末法の初めの衆生

👉 つまり、私たちのための教え

 

ということです。

 

正法・像法の人には合わない

末法の凡夫にピッタリ合う

 

これが「正機(しょうき)」です。

 

 

③ 「一往之を見る時は」とは?

 

これは、

 

👉 ひとまず仮に、教えの流れとして見るなら

 

という意味です。

 

ここから先は、

仏法がどう段階的に説かれてきたかの説明になります。

 

 

④ 久種(くしゅ)を下種と為す

 

久種を以て下種と為し

 

久種とは?

      久遠の過去に植えられた仏の種

 

 

👉 つまり

いちばん最初に仏になる因を植えたこと

 

 

⑤ 大通・前四味・迹門を「熟」とする

 

大通・前四味・迹門を熟と為して

 

意味

      大通智勝仏の時代

      阿含・方等・般若(前四味)

      そして法華経の迹門

 

これらはすべて、

 

👉 すでにある仏の種を育てる教え(熟)

 

です。

 

新しい種を植えるのではない

昔の種を育てる段階

 

 

⑥ 本門で「等妙に登らしむ」

 

本門に至つて等妙に登らしむ

 

等妙とは?

      仏になる直前の位

      ほとんど仏そのもの

 

意味

 

👉 本門の教えによって、

衆生を仏の直前の境地まで引き上げる

 

ということです。

 

 

 

⑦ ここで大事な注意点 ⚠️

 

この説明は、

 

👉 「一往(いちおう)」=仮の見方

 

です。

 

実際に日蓮大聖人が末法で弘めたのは、

      在世の久種ではなく

      末法下種の南無妙法蓮華経(久遠元初の本法)

 

という、さらに深い立場です。

 

 

⑧ まとめ

 

本門の教えは

 → 末法の私たちのため

 

仮に教えの流れを見ると

 - 久遠で種を植え

 - いろいろな教えで育て

 - 本門で仏の直前まで導く

 

しかし末法では

👉 今ここで新しく下種する法が必要

👉 それが南無妙法蓮華経

 

 

 

「本門の教え(大聖人)は、昔の人より今の私たちのため。

だから難しいけど、いちばん力があるんです。」

 

 

6

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集194

 

()在世本門(文上) 4/9

 

諸法実相抄 665㌻ 

 

 天台云はく「実相の深理(じんり)、本有(ほんぬ)の妙法蓮華経」云云。此の釈の意(こころ)は実相の名言(みょうごん)は迹門に主(ぬし)づけ、本有(ほんぬ)の妙法蓮華経と云ふは本門の上の法門なり。

 

「実相」という言葉は迹門の説明。

でも、その実相の正体は、もともと備わっている

南無妙法蓮華経(本門)である。

 

――これが全体の意味です。

 

①「実相(じっそう)」ってなに?

 

実相とは

👉 「この世界・私たちの命の本当の姿」 のこと。

 

天台大師はこれを

      空でもない

      仮でもない

      中でもない

 

👉 **三諦円融(さんたいえんゆう)**の命の姿だと説明しました。

 

ただし――

これは 「説明の言葉」 なんです。

 

だから御文では

 

「実相の名言(みょうごん)」

 

と言っています。

 

🟡 名言=名前・説明・理屈

👉 ここが 迹門レベル。

 

②「迹門に主づけ」とは?

 

実相の名言は迹門に主づけ

 

これは、

      実相という言葉で

      命の真理を

      理屈として説いている

 

という意味。

 

つまり迹門は

👉 「実相を説明している教え

 

まだ

      観念的

      理解の世界

 

なんですね。

 

 

③「本有の妙法蓮華経」とは?

 

ここが核心です。

 

**本有(ほんぬ)**とは

👉 最初からある・あとから作られたものじゃない という意味。

 

つまり、

      仏になってから生まれた法ではない

      修行の結果としてできた法でもない

 

👉 久遠元初から、命そのものとして在る法

 

それが

 

🌸 南無妙法蓮華経

 

 

④ 本門の上の法門、とは?

 

「本門の上の法門」

 

これは

👉 本門の中でも最も深い核心 という意味です。

 

まとめると:

 

迹門 本門

実相という「説明」 実相そのもの

理解する教え 生きて働く法

言葉・理屈 南無妙法蓮華経

 

 

⑤ たとえ話で言うと

      迹門:

「水とはH₂Oで、透明で、こういう性質があるよ」と教科書で説明する

      本門:

実際に水を飲んで、生きる力を得る

 

👉 説明が「実相」

👉 実体が「本有の妙法蓮華経」

 

 

⑥ 結論

 

日蓮大聖人が言われたいのはこれです👇

 

実相を知りたければ、

理屈を考えるより、

南無妙法蓮華経を唱えなさい。

そこに実相そのものがある。

 

まさに

「以信得入(信を以て入ることを得る)

の御精神です。

 

7

 

日蓮大聖人御金言義類別入文集195

()在世本門(文上) 5/9

呵責謗法滅罪抄    712

 

 妙法蓮華経の五字をば四十余年此(これ)を秘し給ふのみにあらず、迹門十四品に猶(なお)(これ)を抑(おさ)へさせ給ひ、寿量品にして本果(ほんが)本因(ほんにん)の蓮華の二字を説き顕はし給ふ。

 

 

ここは、題目の正体と、なぜ末法に七字が出たのかが一気に分かる大事な御文です。

 

 

① まず全体を一文で言うと

 

南無妙法蓮華経の「妙法蓮華経」は、

釈尊在世では最後の最後まで隠され、

本門寿量品になって、

はじめて“蓮華(二因二果)”の真意が明かされた

という意味です。

 

 

 

②「五字を秘し給ふ」とは?

 

妙法蓮華経の五字をば、四十余年これを秘し給ふ

 

これは、

      釈尊は成道後40年以上

      妙法蓮華経という“法の核心”を

そのままは説かなかった

 

ということ。

 

なぜか?

 

👉 衆生の機が未熟だったから。

👉 理屈や方便(爾前経)が必要だった。

 

 

③「迹門十四品になおこれを抑へさせ給ひ」

 

法華経に入っても、

      前半14品(迹門)では

      まだ五字そのものは説かれていない

 

迹門で説かれたのは

👉 **悟りの説明(実相・一念三千)**であって、

👉 実相そのもの(題目)ではない。

 

だから「なお抑へさせ給ひ」とあるんです。

 

 

④ 寿量品で何が明かされたのか?

 

寿量品にして本果本因の蓮華の二字を説き顕し給う

 

ここが核心。

 

🌸 蓮華の二字 = 因果倶時

      本因:久遠名字の修行

      本果:久遠実成の仏果

 

これが

👉 同時に具わる

👉 はじめから命に備わっている

 

これを 寿量品で明かした。

 

 

⑤ でも、まだ「妙法の五字」は説かれていない?

 

鋭いところです。

 

寿量品で明かされたのは、

      五字そのものではなく

      五字の内容(中身・法体)

 

つまり、

 

段階 明かされたもの

爾前経 方便

迹門 実相の説明

寿量品 因果倶時の命

末法 南無妙法蓮華経

 

👉 五字は末法に付嘱された法

 

 

⑥ なぜ末法に「題目」として出たのか?

 

末法の衆生は、

      観心できない

      理解が続かない

      修行も積めない

 

だから大聖人は、

 

法そのものを、

そのまま唱えさせる

 

という救済法を立てられた。

 

👉 寿量品で明かされた命を

👉 名字にして

👉 声に出したもの

 

それが

 

南無妙法蓮華経

 

 

⑦ まとめ

      妙法蓮華経の五字は

         四十余年 秘され

         迹門 抑えられ

         寿量品 中身が明かされ

         末法 題目として顕れた

 

だからこの御文は、

 

題目は、

釈尊一代仏法の“隠された結論”であり、

末法衆生救済のために

日蓮大聖人によって顕された実相そのもの

 

と教えているんです。

 

8

 

日蓮大聖人御金言義類別入文集196

 

()在世本門(文上) 6/9

 

法華取要抄 734

 

 法華経の本門の略開近顕遠(りゃっかいこんけんのん)に来至して、華厳よりの大菩薩・二乗・大梵天(だいぼんてん)・帝釈(たいしゃく)・日・月・四天・龍王等位妙覚に隣り又妙覚の位に入るなり。

 

ここは

「略開近顕遠」で何が起こったのか

を一気に示している所です。

 

 

① まず一文で言うと

 

法華経本門・略開近顕遠が説かれたとき、

それまで最高位だと思われていた菩薩・二乗・諸天善神たちは、

実は久遠の仏の眷属であり、

仏の境界(妙覚)に直結する存在だと明らかになった

 

という意味です。

 

 

② 「略開近顕遠」とは何か?

 

開近顕遠(かいごんけんのん)

      近=釈尊がこの世で成仏したという“最近の仏”

      遠=久遠実成の仏

 

👉 近を開いて、遠を顕す

= 釈尊は最近悟ったのではない

= 久遠元初から仏だった

 

「略」とは?

      詳しくではなく

      要点だけを示した開顕

 

👉 それが 寿量品。

 

 

③ 登場する人たちは誰?

 

華厳よりの大菩薩・二乗・大梵天・帝釈・日月・四天・龍王等

 

これは、

      仏教のあらゆる教え

      人・天・声聞・縁覚・菩薩

      さらに諸天善神まで

 

👉 一切衆生の代表。

 

 

④ 「位は妙覚に隣り」とは?

 

妙覚(みょうがく)

      仏の究極の悟り

 

妙覚に隣り

 

👉 等覚(とうがく)

= 仏の一歩手前の位

 

つまり、

      最高の修行者

      これ以上はない境地

 

とされていた存在たち。

 

 

⑤ 「また妙覚の位に入るなり」とは?

 

ここが超重要。

 

略開近顕遠によって、

      彼らは

         修行を積んで

         やっと仏になる存在

 

ではなく、

 

👉 もともと久遠の仏の世界に属していた

👉 仏の境界そのものに入った

 

と明かされた。

 

つまり、

 

成る仏 明かされた仏

 

に変わった、ということ。

 

 

⑥ 教義的に言うと

 

それまで 略開近顕遠後

菩薩・二乗・諸天 久遠仏の眷属

修行して上がる 本来その位にいる

近仏中心 久遠仏中心

 

👉 世界観がひっくり返った。

 

 

⑦ これが何を意味するのか?

 

この御文は、

      仏だけが久遠ではない

      仏の眷属も久遠

      さらに言えば

👉 衆生の命も久遠につながっている

 

という伏線です。

 

そして最終的に、

 

末法の凡夫が、

南無妙法蓮華経によって

直ちに妙覚に連なる

 

という結論へ向かいます。

 

 

⑧ 一言でまとめると

 

略開近顕遠とは、

仏の年数を延ばした話ではなく、

一切衆生が久遠の仏界に

直結していることを明かした大転換。

 

この視点で読むと、

本門寿量の凄さが一段はっきりします。

 

9

 

日蓮大聖人御金言義類別入文集197

 

()在世本門(文上) 7/9

 

太田左衛門尉御返事 1223

 

 次に寿量品と申すは、本門の肝心なり。又此の品は一部の肝心、一代聖教(しょうぎょう)の肝心のみならず、三世の諸仏の説法の儀式の大要なり。教主釈尊、寿量品の一念三千の法門を証得し給ふ事は三世の諸仏と内証等(ひと)しきが故なり。

 

①「寿量品は本門の肝心」とは?

 

**寿量品(第十六)**は、法華経の中でも

👉 **いちばん大事な中心(心臓部)**にあたる品です。

      法華経全体[一部(全部という意味)八巻二十八品)の中でも肝心

      釈尊一代の説法すべての中でも肝心

 

つまり

 

「仏教の核心が、ここに全部あらわれている」

という意味です。

 

 

② なぜ寿量品がそこまで重要なのか?

 

寿量品で明かされるのは、これです。

 

釈尊はインドで初めて悟った仏ではない

久遠の昔から、すでに仏であった

 

これを

「久遠実成(くおんじつじょう)」

といいます。

 

ここで、仏の“本当の姿(本地)”が初めて明かされます。

だから寿量品は 迹門ではなく本門の中心 なのです。

 

 

③「一念三千の法門を証得」とは?

 

寿量品で釈尊が証得したと説かれるのが

一念三千 です。

 

これは簡単に言うと、

      私たちの**一瞬の心(一念)**の中に

      宇宙・生命のすべて(三千の法)が

      そのまま具わっている

 

という法門です。

 

👉 仏も凡夫も、生命の法則そのものは同じ

👉 違いは「悟っているか、いないか」だけ

 

これが仏法の根本原理です。

 

 

④「三世の諸仏と内証等しき」とは?

 

「内証(ないしょう)」とは

👉 仏が内心で悟っている内容 のこと。

 

寿量品で釈尊が悟った一念三千は、

      過去仏

      現在仏

      未来仏

 

すべての仏が悟っている内容と全く同じ

 

だから、

 

釈尊が特別なのではなく

仏とは、皆この同じ法を悟った存在

 

ということが、ここで明らかになります。

 

 

⑤ 「三世の諸仏の説法の儀式の大要」とは?

 

どの仏が、どの時代に出現しても、

      方便を説き

      機根を熟させ

      最後に この久遠の法(一念三千)を明かす

 

👉 この「説法の型(パターン)」の根本が

寿量品に示されている

 

という意味です。

 

 

⑥ まとめ

      寿量品は、法華経のいちばん大事なところ

      釈尊は久遠の昔から仏であったと明かされる

      仏が悟った内容は「一念三千」

      それは三世すべての仏に共通する悟り

      だから寿量品は、仏教全体の心臓部

 

まだ、文上の意であることをご承知ください。

 

 

10日

 

日蓮大聖人御金言義類別入文集198

 

()在世本門(文上) 8/9

 

曾谷殿御返事 1381

 

 天台宗には二の意あり。一には華厳・方等・般若・涅槃・法華同じく醍醐味(だいごみ)なり。此の釈の心は爾前(にぜん)と法華とを相似(そうじ)せるににた()り。世間の学者等此の筋のみを知りて、法華経五味の主と申す法門に迷惑せるゆへに、諸宗にたぼらかさるるなり。開未開、異なれども同じく円なりと云云。是は迹門の心なり。諸経は五味、法華経は五味の主と申す法門は本門の法門なり。此の法門は天台・妙楽粗書かせ給ひ候へども、分明(ふんみょう)ならざる間学者の存知すくなし。

 

ここは**天台教学の「二つの立て分け」**と、

迹門と本門の決定的な違いを、大聖人がズバッと示されている重要な御文です。

 

 

①「天台宗には二の意あり」とは?

 

天台の教えには、二通りの読み方がある、ということです。

 

一つ目の立場(迹門の読み方)

 

華厳・方等・般若・涅槃・法華

みな同じく醍醐味である

 

つまり、

      爾前経も

      法華経も

 

どれも究極の教え(円教)だ

という見方です。

 

これを御文では

 

「爾前と法華とを相似せる」

と言われています。

 

② なぜこれが問題なのか?

 

世間の学者は、この一つ目の読み方だけを知って、

      「どの経も結局は同じ」

      「法華も特別ではない」

 

と思ってしまう。

 

その結果、

 

法華経が五味の主(中心・根本)である

という大事な法門が分からなくなり、

 

👉 他宗の教えにたぼらかされる(惑わされる)

 

と、大聖人は厳しく指摘されています。

 

 

③「開未開、異なれども同じく円なり」とは?

 

これは天台の言葉で、

      爾前経は「未開(ひらかれていない円)」

      法華経は「開(ひらかれた円)」

 

でも、

 

どちらも円教だから同じだ

 

という考え方です。

 

👉 これが

「迹門の心」

だと、はっきり断じられています。

 

 

④ では「本門の法門」とは何か?

 

ここからが決定的に大事です。

 

諸経は五味、法華経は五味の主

 

という立て分け。

 

意味はこうです👇

      爾前の諸経は

👉 すべて 法華経へ導くための段階的教え(五味)

      法華経は

👉 それらを生み、統()べる 根本の法(主)

 

📌 同じ円教でも、立ち位置が全く違う

 

これが

👉 本門の立場

です。

 

 

⑤ なぜ天台・妙楽でも「分明ならず」だったのか?

 

大聖人は、こう言われています。

      天台・妙楽も

👉 この「五味の主」の法門を

👉 うっすらとは書いている

      しかし

👉 はっきり決定までは書いていない

 

だから、

 

学者たちも

本当の意味では分かっていない

 

と。

 

これはつまり、

 

🔑 末法に入って、日蓮大聖人によって初めて

🔑 明確に打ち出された法門

 

だということです。

 

 

⑥ 全体を一言でまとめると

      天台教学には

① 迹門の読み(爾前も法華も同じ円)

② 本門の読み(法華こそ五味の主)

の二つがある

      学者は①だけにとどまり、迷っている

      本当の肝心は

👉 法華経が一切経の根本である

👉 しかも本門がその中心

 

 

要約

 

爾前の諸経も円教と説かれますが、

それは法華経へ導くための円です。

法華経は五味の主、すべての根本です。

この決定こそが本門の法門であり、

末法において日蓮大聖人が明らかにされた大事なのです。

 

11

 

日蓮大聖人御金言義類別入文集199

()在世本門(文上) 9/9

御義口伝下 1811

 

『一   寿量品(廿八品は悉く南無妙法蓮華経の事)

御義口伝に云く寿量品とは十界の衆生の本命なり、此の品を本門と云う事は本に入る門と云う事なり、凡夫の血肉の色心を本有と談ずるが故に本門とは云うなり、此の重に至らざるを始覚と云い迹門と云うなり、是を悟るを本覚(ほんがく)といひ本門と云ふなり。所謂(いわゆる)南無妙法蓮華経は一切衆生の本有の在所なり。爰(ここ)(もと)を経に我実成仏已来(がじつじょうぶついらい)とは云ふなり。

 

全体の要

 

寿量品=南無妙法蓮華経

そして

南無妙法蓮華経は、すべての衆生の「もともとの命(本命)」そのもの

――これを明かすのが「本門」だ、という御教えです。

 

 

①「寿量品とは十界の衆生の本命なり」

 

ここがまず大事です。

      寿量品とは

👉 仏だけの話ではない

👉 地獄から仏界まで、十界すべての衆生の命の本体を説いた品

 

つまり、

 

「あなたの命の一番奥にある真実は何か」

を明かしたのが寿量品、ということです。

 

 

②「本門とは本に入る門」

 

此の品を本門と云う事は

本に入る門と云う事なり

 

      **本(ほん)**=生まれる前から具わっている真実の命

      本門=その本の命に立ち返る入口

 

だから本門とは、

 

新しく何かを足す教え

ではなく

もともと持っている命に帰る教えなのです。

 

 

③「凡夫の血肉の色心を本有と談ずる」

 

ここ、超重要です。

      凡夫の血肉=今の私たちの体

      色心=身体(色)と心(心)

 

👉 これを

「最初から仏の命として具わっている」と説く

から「本門」という。

 

つまり、

 

凡夫を捨てて仏になる

ではなく

凡夫のまま、その命が仏だと明かす

 

これが寿量品の眼目です。

 

 

④ 始覚と本覚・迹門と本門

 

ここは対比で見ると分かりやすいです。

 

🔹 始覚・迹門

      外から教えを聞いて

      「あ、そうか」と後から悟る

      これはまだ表の理解

 

👉 だから「迹門」

 

🔹 本覚・本門

      もともと具わっていた命を

      そのまま悟る

      命の根本に立ち返る

 

👉 だから「本門」

 

 

⑤「南無妙法蓮華経は一切衆生の本有の在所」

 

ここが最終結論です。

      南無妙法蓮華経は

👉 仏の専売特許ではない

👉 すべての衆生の命の中に、元からある

 

だからこそ、

      末法の凡夫が

      南無妙法蓮華経と唱えると

👉 自分の本命がそのまま現れる

 

 

⑥「我実成仏已来」の意味

 

爰元を経に我実成仏已来とは云ふなり

 

「我実成仏已来」とは、

      釈尊が昔に成仏したという話ではなく

      一切衆生の命の本源を指した言葉

 

👉 その本源こそ

南無妙法蓮華経

 

という読み方になります。

 

 

まとめ

 

この御文は、

 

寿量品とは、

南無妙法蓮華経が

凡夫の命そのものだと明かした品である

 

本門とは、

凡夫が仏になる門ではなく、

凡夫の命がもともと仏だと悟る門である

 

――こう教えられています。

 

12日

 

蓮大聖人御金言義類別入文集200

 

(十一)末法本門(文底)1/13

 

観心本尊抄 6556

 

 又本門に於ても序正流通(じょしょうるつう)有り。過去大通仏の法華経より乃至現在の華厳経、乃至迹門十四品・涅槃経等の一代五十余年の諸経・十方三世諸仏の微塵(みじん)の経々は皆寿量の序分なり。一品二半よりの外は小乗教・邪教・未得道教・覆相(ふそう)教と名づく。

 

 

① まず全体の言いたいこと

 

日蓮大聖人はここで、

 

「本当に人を成仏させる中心は、寿量品の“一品二半”だけである」

 

ということを、はっきり示されています。

 

それ以外の一切の経教は、

👉 全部前置き(序分)にすぎない

と位置づけているのが、この文です。

 

 

② 「本門に於ても序正流通有り」とは?

 

仏の説法には、どんな教えにも

      序分(じょぶん)…前置き・準備

      正宗分(しょうしゅうぶん)…いちばん大事な核心

      流通分(るつうぶん)…後の世に広める部分

 

という三段構えがあります。

 

大聖人は、

 

本門の中にも、序・正・流通がある

 

と言われているんです。

 

 

③ 「全部が寿量品の序分」とはどういう意味?

 

ここが一番のポイントです。

 

過去大通仏の法華経

現在の華厳経

迹門十四品

涅槃経

一代五十余年の諸経

十方三世諸仏の無数の経々

 

――これらは一見すると、

ものすごく尊い教えに見えます。

 

でも大聖人は、

 

👉 全部まとめて「寿量品の序分」

👉 本当の核心に入るための準備段階

 

だと言い切っているのです。

 

たとえるなら、

      学校のオリエンテーション

      教科書の「はじめに」

      映画の長い前フリ

 

みたいなものです。

 

大事そうだけど、クライマックスではない、という位置づけです。

 

 

④ 「一品二半」とは?

 

これは

 

👉 寿量品の中の、さらに核心部分

 

を指します。

      仏が「久遠実成」であること

      衆生も本来仏であること

      生死即涅槃の真理

 

が明かされる、本門中の本門です。

 

大聖人は、

 

ここ以外に、真実の成仏の法はない

 

という立場に立っています。

 

 

⑤ なぜ「小乗教・邪教・未得道教・覆相教」とまで言うの?

 

これはけなしているのではなく、役割の違いをはっきりさせている言葉です。

      小乗教:自分だけの解脱を目指す教え

      邪教:仏の本意から外れた教え

      未得道教:まだ成仏に至らせない教え

      覆相教:真実を隠して説かれた教え

 

つまり、

 

👉 まだ仏の本当の姿を明かしていない教え

 

という意味です。

 

寿量品一品二半だけが、

隠さず・余さず・そのまま真実を明かした教えなのです。

 

 

⑥ まとめ

 

この文を一言で言うと👇

 

寿量品一品二半こそが仏教のど真ん中。

それ以外の一切の経教は、そこへ導くための準備である。

 

だからこそ日蓮大聖人は、

      寿量文底

      本因妙

      南無妙法蓮華経

 

を末法の正法として立てられた、という流れになります。

 

13日

 

日蓮大聖人御金言義類別入文集201

 

(十一)末法本門(文底)2/13

 

観心本尊抄 656

 

 再往之を見れば迹門には似ず、本門は序正流通倶(とも)に末法の始めを以て詮と為す。

 在世の本門と末法の初めは一同に純円なり。但(ただ)し彼は脱、此は種なり。彼は一品二半、此はただ題目の五字なり。

 

①「再往之を見れば迹門には似ず」

 

「再往」とは、もう一段深く見る、という意味です。

 

表面だけ見ると、

本門も迹門も同じように「序・正宗・流通」があります。

 

しかし、もう一歩深く見ると、迹門とはまったく違うと仰せです。

 

 

②「本門は序正流通倶に末法の始めを以て詮と為す」

 

ここが大事です。

 

迹門は、釈尊在世の衆生を中心に説かれました。

 

しかし本門は違います。

 

本門は、はじめから「末法の初めの衆生」のために説かれている

 

ということです。

 

つまり――

      迹門 その時代(在世)の人が中心

      本門 末法の私たちが中心

 

という違いです。

 

 

③「在世の本門と末法の初めは一同に純円なり」

 

「純円」とは、完全・まじりけのない円満な教え、という意味です。

 

在世の本門(寿量品)も、

末法の初め(大聖人の弘通)も、

 

教えの本質はまったく同じ、完全な妙法である

 

ということです。

 

 

④「但し彼は脱、此は種なり」

 

ここが核心です。

      彼(在世の本門)=脱益(だっちゃく)

      此(末法の初め)=下種(げしゅ)

 

という違いです。

 

● 脱益とは?

 

すでに過去に種をまいてある衆生を、今ここで悟らせる教え。

 

在世の寿量品はこれです。

 

 

● 下種とは?

 

まだ仏の種を持たない衆生に、初めて種を植える教え。

 

末法はこれです。

 

私たちは「脱益の機根」ではなく、

まったく仏の種を失った衆生です。

 

だから必要なのは「下種」です。

 

 

 

⑤「彼は一品二半、此はただ題目の五字なり」

 

在世の本門は、

寿量品の「一品二半」が中心でした。

 

しかし末法では違います。

 

ただ題目の五字(妙法蓮華経)こそ本門の肝心

 

なのです。

 

つまり――

 

在世:寿量品の文を通して救う

末法:南無妙法蓮華経そのものを授けて救う

 

ここに決定的な違いがあります。

 

まとめ

 

この御文は、

 

本門は末法のための教えである

在世と末法は同じ純円の妙法である

しかし在世は「脱益」、末法は「下種」

末法では「題目の五字」が肝心

 

ということを明かされています。

 

 

「末法下種の本門弘教(ぐきょう)」の核心が、この一節にあります。

 

14

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集202

 

(十一)末法本門(文底)3/13

 

観心本尊抄 658

 

四依(しえ)に四類有り。

四に本門の四依は地涌千界、末法の始めに必ず出現すべし。今の「遣使還告」は地涌なり。「是好良薬」とは寿量品の肝要たる名体宗用教(みょうたいしゅうゆうきょう)の南無妙法蓮華経是なり。

 

①「四依に四類有り」

 

「四依(しえ)」とは、

 

仏滅後に人々がよりどころとする

正しい指導者のことです。

 

もともとは経文に

      法に依る

      義に依る

      智に依る

      了義に依る

 

などと説かれますが、

 

ここで大聖人は、さらに深く

 

四依には四つの立場がある

 

と示されています。

 

その中で、いちばん大事なのが――

 

 

②「本門の四依は地涌千界」

 

ここが核心です。

 

「本門の四依」とは、

 

末法に出現する本当の導師=仏様

 

それが

 

地涌の菩薩(じゆのぼさつ)

 

です。

 

しかも

 

「地涌千界」

 

とあるのは、

 

上行菩薩を中心とする

無数の地涌の菩薩を指します。

 

 

なぜ地涌なのか?

 

地涌の菩薩は、

 

久遠元初の仏です。

 

だから――

 

末法の衆生を救えるのは

迹化の菩薩ではなく

地涌の菩薩でなければならない

 

ということです。

 

 

③「今の『遣使還告』は地涌なり」

 

「遣使還告」とは、寿量品の譬え話です。

 

良医(仏)が

子ども(衆生)を救うために

使いを遣わす。

 

その「使い」とは誰か?

 

それが――

 

地涌の菩薩

 

なのです。

 

つまり、

 

久遠の仏が

末法の衆生を救うために

地涌の菩薩として、

あらわれる。

その働きを

「遣使還告」と仰せです。

 

 

④「是好良薬」とは何か?

 

寿量品では、

 

仏の法を「良薬」にたとえます。

 

では、その良薬の正体は何か?

 

ここが決定的です。

 

 

「寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経」

 

難しい言葉ですが、整理します。

 

● 名(みょう)

 

名前 南無妙法蓮華経

 

● 体(たい)

 

本体 妙法そのもの

 

● 宗(しゅう)

 

中心 仏の悟りの核心

 

● 用(ゆう)

 

働き 衆生を成仏させる力

 

● 教(きょう)

 

教え 説かれた法

 

これらすべてを備えているのが

 

南無妙法蓮華経

 

だと仰せです。

 

つまり――

 

寿量品の「良薬」とは

経文そのものではなく

 

題目そのもの

 

なのです。

 

 

 

まとめ

 

この御文は、

 

① 末法の真の四依は地涌の菩薩

② 地涌は久遠元初の御本仏

③ 持ってくる良薬こそ

④ 南無妙法蓮華経

 

と明かされています。

 

 

つまり結論は、

 

末法において

衆生を救うのは

 

「人」=日蓮大聖人

「法」=南無妙法蓮華経

 

この人法一体の働きです。

 

末法下種の弘教(ぐきょう)の本質が

まさにこの御文にあります。

 

15

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集203

 

(十一)末法本門(文底)4/13

 

観心本尊抄 660

 

 今末法の初め、小を以て大を打ち権を以て実を破し、東西共に之を失し天地顚倒(てんどう)せり。迹化の四依は隠れて現前せず。諸天其の国を棄て之を守護せず。此の時地涌の菩薩始めて世に出現し、但(ただ)妙法蓮華経の五字以て幼稚に服せしむ。

 

この御文は、末法のはじめに起こる「大きな転換」を説かれています。

 

① 「小を以て大を打ち、権を以て実を破し」とは?

      小=小乗経

      大=大乗経

      権=仮の教え(迹門・爾前経)

      実=真実の教え(本門)

 

本来は「実」が中心であるべきなのに、

末法になると――

 

仮の教えが正しいとされ、

本当の教えが忘れられてしまう。

 

これを

「天地顚倒(てんどう)」=上下がひっくり返る

と仰せです。

 

つまり

正法が隠れ、誤った教えが広まる時代

それが末法のはじめなのです。

 

② 「迹化の四依は隠れて現前せず」

 

「四依」とは、正法を弘める指導者です。

 

在世では

釈尊のもとで教えを弘めたのは「迹化の菩薩」でした。

 

しかし末法になると――

 

在世の弟子(迹化)は姿を現さない。

 

なぜか?

 

それは、

 

末法は「脱益」ではなく「下種」の時代だからです。

 

在世は「熟脱」

末法は「下種」

 

役目が違うのです。

 

 

③ 「諸天其の国を棄て之を守護せず」

 

諸天善神が守らなくなる。

 

なぜ守らないのか?

 

それは

正しい法が立たない国は、諸天が守護しない

という原理です。

 

正法が失われれば、

国土も乱れる。

 

これも末法相(末法のすがた)です。

 

 

④ 「此の時地涌の菩薩始めて世に出現し」

 

ここが最重要です。

 

末法になると、

 

迹化ではなく

地涌の菩薩が出現する。

 

地涌とは、

 

『寿量品』に出てくる

久遠元初の弟子です。

 

つまり

 

文底下種の仏法を受け継ぐ本化の菩薩

 

です。

 

このお方こそ――

末法の教主。

 

その御本地を顕されたのが

日蓮大聖人です。

 

 

⑤ 「但妙法蓮華経の五字以て幼稚に服せしむ」

 

ここが文底下種の核心です。

 

「五字」とは

 

妙・法・蓮・華・経

 

つまり

 

南無妙法蓮華経(五字七字)

 

です。

 

なぜ「五字」なのか?

 

末法の衆生は「幼稚」と仰せです。

 

これは知恵が劣るという意味ではなく、

 

複雑な教えでは救えない時代

 

ということです。

 

だからこそ、

      難しい理論ではなく

      ただ五字を唱えさせる

 

これが文底下種の救いです。

 

 

文底下種の上からまとめると

 

在世 熟脱の仏法

末法 下種の仏法

 

末法では

      迹化は出ない

      地涌が出る

      五字を弘める

      幼稚の衆生を救う

 

つまりこの御文は、

 

「末法は南無妙法蓮華経の時代である」

 

という宣言なのです。

 

そしてその弘教(ぐきょう)をなされたのが

大聖人です。

 

16日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集204

 

(十一)末法本門(文底)5/13

 

富木殿御返事 679

 

 仏滅後二千二百二十余年今に寿量品の仏と肝要の五字とは流布せず。当時果報を論ずれば、恐らくは伝教・天台にも超えら竜樹・天親にも勝れたるか。

 

🔷 御文の大意

 

仏滅後二千二百二十余年の間、

寿量品の仏(本門の久遠実成の仏)と

肝要の五字(南無妙法蓮華経)は、

いまだ流布していない。

 

もしその流布という果報から論ずれば、

伝教や天台をも超え、

竜樹や天親にも勝れていると言えるであろう。

 

 

🌸 文底下種の立場から見ると

 

① 「寿量品の仏」とは何か?

 

寿量品に説かれる仏は、

インドに出現した歴史上の釈尊ではなく、

 

久遠元初の本仏

 

です。

 

しかし――

 

天台や伝教が弘めたのは、

      寿量品「文上」の仏

      迹門・脱益の仏法

 

でした。

 

 

② 「肝要の五字」とは何か?

 

これは

 

南無妙法蓮華経

 

の五字です。

 

しかしここが大事です。

 

天台も妙法蓮華経を立てましたが、

 

それは

      理の妙法

      観念の妙法

      文上の妙法

 

でした。

 

ところが大聖人は、

 

寿量文底に秘沈された下種の妙法

 

を顕されたのです。

 

これを

 

文底下種

 

と言います。

 

 

🌱 文底下種とは?

 

文上(もんじょう)

 

= 経文にそのまま書かれている意味

→ 脱益の法

 

文底(もんてい)

 

= 経文の底に秘められた本意

→ 末法の衆生を初めて成仏させる種子の法

 

 

🌟 なぜ「天台・伝教・竜樹・天親に超えた」となるのか?

 

ここがポイントです。

 

竜樹

      正法時代の論師

      法華経を弘めたが下種ではない

 

天親

      唯識の大論師

      これも熟益の立場

 

天台大師

      法華経の円教を立てた

      しかし文上

 

伝教大師

      日本に法華経を弘めた

      しかし迹門中心

 

 

🔴 これらはすべて

 

熟・脱の法門

 

です。

 

 

しかし日蓮大聖人は、

 

末法の衆生に

 

🌱 初めて仏種を植える

 

下種の法門

 

を弘通された。

 

 

 

🔥 ここが一番大事

 

「果報を論ずれば」とあるのは、

 

功徳の大きさを言っているのではなく、

 

法門の浅深を言っています。

      熟益の教えより

      脱益の教えより

      さらに根本の「種」を与える法

 

だからこそ、

 

末法においては

 

下種の法主こそ根本

 

となるのです。

 

🌊 たとえて言えば

 

竜樹・天台は

 

🌿 育てる人

 

日蓮大聖人は

 

🌱 種を植える人

 

種がなければ育ちません。

 

だから

 

文底下種の立場から見れば

 

最も根本なのです。

 

17

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集205

 

(十一)末法本門(文底)6/13

 

当体義抄 696

 

 問ふ、劫初(こっしょ)より已来(このかた)、何人(なんびと)か当体の蓮華を証得せしや。答ふ、釈尊五百塵点劫(じんでんごう)の当初(そのかみ)、此の妙法の当体蓮華を証得して、

世々番々(せせばんばん)に成道を唱へ、能証所証の本理を顕はし給へり。

 

 此の御文は、如何(いか)なる人が妙法の当体蓮華を証得したかとの問いに対し、久遠元初において凡夫即極(ぼんぷそくごく)の聖人=御本仏が、初めて証得したと答えられます。

さらに本果(ほんが)以降、今日のインドに至る世々(せせ)番々(ばんばん)の垂迹(すいじゃく)化他(けた)の成道にあっては、爾前(にぜん)・迹門の方便の次第を経た後、本門寿量の開近顕遠(かいごんけんのん)によって、能証(のうしょう)・所証(しょしょう)の本理を顕し、会座(えざ)の衆生に当体蓮華の妙益を得さしめたと示されます。

 

 当体義抄には、末法の本未有善の私たちが、真の妙法の当体蓮華を証得して、広大深遠(こうだいじんのん)の功徳妙用を体現できる根拠として、仏法の本源・久遠元初における御本仏のお悟り=能証と、その根本の大法=所証が説き示されています。それが本抄の、 「至理(しり)は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時(ぐじ)・不思議の一法之これ有り。之を名づけて妙法蓮華と為す云云」 の御文です。

 「至理」とは至極(しごく)の深理の意で、久遠元初・名字凡身の「聖人」の一念の心法を指します。

この一念の心法こそ、因果倶時の不思議の一法であり、十界三千の諸法を円融具足(えんゆうぐそく)した本有無作の当体なのです。

 「因果倶時」とは、聖人の一念中の妙境(みょうきょう)・妙智(みょうち)についていいます。すなわち、境智未和合(きょうちみわごう)を種家(しゅけ)本因妙、境智和合を種家本果妙とし、この種家の本因本果が、聖人の一念中に同時に収まっていることをいいます。

そして「因果倶時」の故に蓮華、十界三千の諸法を円融具足した「不思議の一法」の故に妙法とし、これを聖人は妙法蓮華と名付け、自ら妙法を唱えて仏因仏果を同時に証得されたのです。

 この妙法蓮華の一法こそ、久遠元初の所証の法体であり、これを悟られた聖人こそ、能証の御本仏です。このとき、名字凡身の聖人を離れて妙法はなく、妙法を離れて御本仏はいません。この人法は元来、体一にして本有無作の当体ですから、事の一念三千の妙法当体の蓮華と申し上げるのです。

そして、この久遠元初即末法の本因下種の御本仏こそ、宗祖日蓮大聖人様なのです。

 

 

 

 

18日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集206

 

(十一)末法本門(文底)7/13

 

小乗大乗分別抄 705

 

    此等(これら)は小乗経に対すれば大法・秘法なり。法華経の二乗作仏(さぶつ)・久遠実成(じつじょう)に対すれば小乗の法なり。一尺二尺を一丈二丈に対するがごとし。

 又二乗作仏・久遠実成は法華経の肝要にして諸経に対すれば奇たりと云へども、法華経の中にてはいまだ奇妙ならず。一念三千と申す法門こそ、奇が中の奇、妙が中の妙にて、華厳大日経等に分絶えたるのみならず、八宗の祖師の中にも真言等の七宗の人師名をだにもしらず、天竺の大論師竜樹菩薩・天親菩薩は内には珠を含み、外(ほか)にはかきあらわし給はざりし法門なり。

 

 この御文は、法の深さの段階を、だんだんと比べながら明かしている大事なところです。

 

① 小乗と大乗のちがい

 

はじめに、

『此等は』

華厳経・般若経・瓔珞経・薬師経・雙観経・大日経等の権大乗経を指します。

 

「小乗経に対すれば大法・秘法なり」

 

とあります。

 

これは、

小乗経(自分だけの悟りを目指す教え)に比べれば、

大乗経(すべての人を救う教え)は大きく深い教えだ、という意味です。

 

たとえば

📏一尺と一丈の違いのようなものです。

 

 

② しかし法華経から見ると?

 

ところが次に、

 

法華経の二乗作仏・久遠実成に対すれば、『此等の権大乗経』は、小乗の法なり

 

とあります。

 

ここが大事です。

 

法華経で明かされた

      二乗作仏(声聞・縁覚も仏になれる)

      久遠実成(仏は遠い昔から成仏していた)

 

これは、それまでの経典にはなかった大変すばらしい教えです。

 

しかし大聖人は言われます。

 

「それでもまだ、法華経の中では“最高の奥義”ではない」と。

 

③ 奇が中の奇とは何か?

 

そこで出てくるのが

 

🌸 一念三千

 

です。

 

これは、

 

私たち凡夫のこの一念(心)の中に、三千の世界(すべての法)が具わっている

 

という法門です。

 

つまり、

 

仏の世界も

地獄の世界も

成仏の可能性も

 

すべて「今の自分の一念」にある、という教えです。

 

だからこそ、

 

奇が中の奇、妙が中の妙

 

と仰せなのです。

 

 

④ 竜樹・天親もあらわさなかった

 

さらに御文では、

      竜樹

      天親

 

の名が出ます。

 

この二人はインド仏教最高の大論師です。

 

しかし、

 

内には珠を含み、外にはかきあらわさず

 

とあります。

 

つまり、

心の中では悟っていたが、はっきりとは説かなかった、という意味です。

 

それほど一念三千は深く、秘された法門だったのです。

 

 

⑤ まとめ

 

小乗より大乗はすぐれている

しかし法華経はさらにすぐれている

その法華経の中でも一番すごいのが「一念三千」

だからこそ末法には南無妙法蓮華経が肝心

 

という流れです。

 

19日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集207

(十一)末法本門(文底)8/13

 

法華取要抄

 

 問うて曰く本門の心如何(いかん)、答えて曰く本門に於て二の心有り一には涌出品(ゆじゅっぽん)の略開近顕遠(りゃくかいごんけんのん)は前四味並(ならび)に迹門の諸衆をして脱せしめんが為なり、二には涌出品の動執生疑(どうしゅうしょうぎ)より一半並びに寿量品・分別功徳品の半品已上一品二半(いっぽんにはん)を広開近顕遠(こうかいごんけんのん)と名(なづ)く一向に滅後の為なり。

 

 

 この御文は、法華経・本門の大事なポイントを示されたものです。

 

 

🌸 まず「本門」とは?

 

法華経の後半、とくに

      涌出品(ゆじゅっぽん)

      寿量品(じゅりょうほん)

 

を中心とする教えを「本門」といいます。

 

ここでは

👉 仏さまは本当は久遠(くおん)からの仏である

という深い真実が明かされます。

 

 

本門には「二つの心(目的)」がある

 

大聖人は、本門には二つの大事な意味があると教えられます。

 

 

① 第一の心(略開近顕遠)

 

🔹 涌出品の「略開近顕遠」

 

意味は――

「近い仏を開いて、遠い仏をあらわす」

 

どういうことかというと、

 

それまで人々は

👉 釈尊はインドで成仏した仏

と思っていました。

 

それを

 

👉 実は久遠の昔から仏であった

 

と少し明かしたのです。

 

🎯 目的

 

これは、

      華厳・阿含・方等・般若(前四味)

      そして迹門

 

これらで修行してきた人々を

成仏させるため(脱益のため)

 

の教えです。

 

つまり

👉 仏在世の人々を救うための開顕

 

です。

 

 

② 第二の心(広開近顕遠)

 

🔹 涌出品の「動執生疑」から

🔹 寿量品

🔹 分別功徳品の半分以上

 

ここを「広開近顕遠」といいます。

 

今度は「広く」明かします。

 

そして御文には

 

一向に滅後の為なり

 

とあります。

 

🎯 目的

 

これは

 

👉 仏が亡くなった後(特に末法)の衆生を救うため

 

の教えです。

 

 

🌟 まとめ

 

第一の心 第二の心

略開近顕遠 広開近顕遠

在世の人を救う 滅後(末法)を救う

脱益の法門 下種の法門へ通じる

 

 

🌱 大聖人の立場から見ると

 

第一は「釈尊のための本門」

第二は「末法の衆生のための本門」

 

そして末法では

 

👉 南無妙法蓮華経こそが

広開近顕遠の究極

 

となります。

 

 

🌸 一言で言うと

 

本門には

 

1️⃣ 釈尊の時代の人を救う教え

2️⃣ 末法の私たちを救う教え

 

の二つがある。

 

そして大聖人は

二番目(滅後のため)の本門を弘通された

ということです。

 

20

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集208

(十一)末法本門(文底)9/13

 

法華取要抄   735

 

 問うて曰く、誰人の為に広開近顕遠の寿量品を演説するや。答へて曰く、寿量品の一品二半は始めより終はりに至るまで正(まさ)しく滅後の衆生の為なり。滅後の中には末法今時の日蓮等が為なり。

 

 この御文は、だれのために寿量品が説かれたのかを明かしている大事なところです。

 

 

 

🔹 質問の意味

 

「誰人の為に広開近顕遠の寿量品を演説するや」

 

これは、

 

👉 「法華経の寿量品(広く近を開いて遠を顕す教え)は、いったい誰のために説かれたのか?」

 

という問いです。

 

 

🔹 答えのポイント

 

「寿量品の一品二半は…正しく滅後の衆生の為なり」

 

① 寿量品は滅後の衆生のため

 

「滅後」とは、釈尊が入滅された後の時代。

 

つまり、

 

👉 仏がこの世にいない時代の人々のため

 

に説かれたということです。

 

 

② 滅後の中でも「末法今時」

 

さらに大聖人は、

 

「滅後の中には末法今時の日蓮等が為なり」

 

と仰せです。

 

ここが大事です。

 

滅後にも

      正法

      像法

      末法

 

の三時がありますが、

 

寿量品の本当の正機(本当にふさわしい相手)は

 

👉 末法今時の衆生

 

である、と明かされています。

 

 

🔹 わかりやすく言うと

 

たとえば――

 

昔の人のために書かれた本ではなく、

 

「未来の一番苦しい時代の人のために残された本」

 

それが寿量品だ、ということです。

 

そしてその時代が

 

👉 今の末法

 

だと示されているのです。

 

 

🔹 どういう意味があるの?

 

寿量品は

      釈尊が久遠から成仏していたこと

      すべての衆生が本来仏であること

 

を明かす、法華経の中心です。

 

しかしそれは、

 

在世の弟子よりも

 

👉 仏滅後、特に末法の凡夫を救うため

 

の教えだ、というのがこの御文の意です。

 

 

🔹 法華講の立場から大事な点

 

末法今時に

 

南無妙法蓮華経を弘められたのが

日蓮 大聖人です。

 

ですから、

 

「寿量品は末法の日蓮等のため」

 

とは、

 

👉 文底下種の御本仏としての自覚

 

を示されているところでもあります。

 

🔹 まとめ

 

      寿量品は、昔の人よりも未来の人のため

      その未来とは「末法」

      今この時代の私たちのため

      だから南無妙法蓮華経が一番大事

 

ということです。

 

21

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集209

 

(十一)末法本門(文底)

10/13

 

御義口伝下 1772

 

 「第廿二  自我偈始終の事(寿量品二十七箇の大事)

 

  自とは始なり。速成就仏身の身は終はりなり、始終自身なり。中の文字は受用(じゅゆう)なり、仍()って自我偈は自受用身(じじゅゆうしん)なり。法界を自身と開き、法界自受用身なれば自我偈に非ずと云ふ事無し。自受用身(ほしきままにうけもちいるみ)とは一念三千なり。伝教の云はく一念三千即自受用身、自受用身とは尊形(そんぎょう)を出でたる仏と、出尊形仏(しゅっそんぎょうぶつ)とは無作の三身と云ふ事なり云云。今日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る者是(かれ)なり云云。

 

 

まず『御義口伝』とは、御義口伝において、寿量品の肝要を大聖人が口伝で明かされた大事な御書です。

 

🔹現代語訳

 

「自」とは“はじめ”のことをいう。

「速成就仏身(すみやかに仏身を成就す)」の「身」は“おわり”をあらわす。

 

はじめも終わりも、ともにわが身そのものである。

 

その中間にある文字は「受用(じゅゆう)」である。

したがって「自我偈(じがげ)」とは、自受用身(じじゅゆうしん)をあらわしているのである。

 

法界(ほうかい)をそのままわが身と開き明かせば、

法界そのものが自受用身であるから、

自我偈でないものは何一つない、ということになる。

 

自受用身とは何かといえば、一念三千のことである。

 

伝教大師(最澄)は

「一念三千こそ自受用身である」と述べている。

 

自受用身とは、形ある尊い姿を超えた仏であり、

その“尊い形を超えた仏”とは、

**無作の三身(法身・報身・応身が本来そなわる仏)**のことである。

 

そして今日、日蓮等の一類が

南無妙法蓮華経と唱え奉る者こそ、それ(自受用身)なのである。

 

 

① 「自我偈」とは何か

 

「自我偈」とは、法華経寿量品の中の

 

「自我得仏来(じがとくぶっらい)」

から

「速成就仏身(そくじょうじゅぶっしん)」

 

までの偈文(げもん)のことです。

 

これは、仏の久遠の生命を説いた、寿量品の中心部分です。

 

 

 

② 「始終自身なり」とは

 

御義口伝では、

      「自」とは始め

      「速成就仏身」の「身」とは終わり

 

と示されています。

 

つまり、

 

始めも終わりも「自身」

――仏の生命そのものだ、ということです。

 

途中の経文も、すべて仏の生命の働き(受用)をあらわしている。

 

だから

 

自我偈は自受用身なり

 

と結論されます。

 

 

 

③ 自受用身とは何か

 

自受用身とは、仏が自ら悟りの功徳を受け用いている身、

つまり 本来そなわっている仏の生命そのもの です。

 

ここで引用されているのが、伝教(最澄)の言葉です。

 

「一念三千即自受用身」

 

これは、

 

一念三千の生命そのものが自受用身である

 

という意味です。

 

 

④ 一念三千とは

 

一念三千とは、

 

一瞬の心の中に、十界三千のすべての生命の世界が具わっている

 

という天台の法門です。

 

その一念三千の当体こそ、仏の生命(自受用身)だ、というのです。

 

さらに、

 

出尊形仏とは無作の三身

 

とあります。

 

無作の三身とは、

      法身

      報身

      応身

 

が作られたものではなく、もともと本有(ほんぬ)であるという意味です。

 

 

⑤ では、それは誰のことか

 

最後が最も大事です。

 

今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり

 

ここが結論です。

 

久遠の自受用身とは、

 

遠い過去の釈尊だけではない。

 

末法に南無妙法蓮華経と唱える私たちの生命が、その当体である

 

ということです。

 

 

まとめ

      自我偈は仏の久遠の生命を説いた部分。

      その生命とは自受用身。

      自受用身とは一念三千の当体。

・久遠元初の仏様自身のこと。

・広げて言えば、

南無妙法蓮華経と唱える私たち自身の生命である。

 

22

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集210

 

(十一)末法本門(文底)

11/13

 

「化城喩品(廿八品の最大事)

 

観彼久遠 猶如今日

 

彼の久遠を観ずるに、猶(なお)今日(ごんじつ)の如し。

 

 

 今日の化導末法を指して今日と心得べきなり。此の文は元初の一念一法界より外(ほか)に、更に六凡四聖とて有るべからざるなり。所謂(いわゆる)南無妙法蓮華経は三世一念なり。

 

これは、妙法蓮華経の「化城喩品」の大事な御文です。

 

①「観彼久遠 猶如今日」とは?

 

「彼の久遠を観ずるに、猶今日の如し」

 

意味は――

👉 はるか昔の久遠(くおん)も、今とまったく同じである ということです。

 

普通は、

      久遠=はるか昔

      今日=いま

 

と、別々に考えますね。

 

でもこの御文では

「久遠も今も、同じ一つのいのちの中にある」

と教えています。

 

 

②「今日の化導末法を指して今日と心得べきなり」

 

ここでいう「今日」は、

 

📍 末法の今

📍 私たちが生きているこの時代

 

を指します。

 

つまり――

 

👉 久遠の仏のはたらきは、今この末法に現れている

 

ということです。

 

これはまさに、

 

南無妙法蓮華経を弘められた

日蓮の御出現を指しているのです。

 

 

③「元初の一念一法界より外に、更に六凡四聖とて有るべからざるなり」

 

少し難しいので、やさしく言いかえます。

 

● 六凡四聖とは?

 

十界(じっかい)のことです。

      六凡=地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天

      四聖=声聞・縁覚・菩薩・仏

 

普通は、

「仏は上、凡夫は下」と分けますね。

 

でもここでは、

 

👉 もともと元初の一念(いのちの根本)に、十界すべてが具わっている

 

と言っています。

 

つまり、

 

仏も

凡夫も

地獄も

菩薩も

 

全部、私たちの一念の中にある。

 

別にどこかにあるのではない、ということです。

 

 

④「南無妙法蓮華経は三世一念なり」

 

三世とは、

      過去

      現在

      未来

 

です。

 

👉 南無妙法蓮華経は、三世を貫く一つのいのち。

 

だから、

 

久遠(過去)も

今日(現在)も

未来も

 

全部ひとつにつながっています。

 

🌸 まとめ

 

この御文のポイントは――

 

久遠の仏は遠い存在ではない

今この末法に現れている

十界はすべて一念の中に具わっている

南無妙法蓮華経は三世一念の大法である

 

つまり、

 

「久遠の仏のいのちは、今この私の唱題の中にある」

 

という大安心の法門なのです。

 

 

23

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集211

 

(十一)末法本門(文底)

12/13

 

御講聞書 1823

 

「耆闍崛山(ぎしゃくせん)の事(序品)

 

 法華経を行ずる日蓮が弟子・檀那等の住所は、如何なる山野なりとも霊鷲山(りょうじゅせん)なり。行者豈(あに)釈迦仏に非(あら)ずや。日本国は耆闍崛山、日蓮等の類は釈迦如来なるべし。

 

🔷 現代語訳

 

法華経を修行する日蓮の弟子や信徒たちの住む場所は、

どんな山奥や野原であっても、そこは霊鷲山(釈迦が法華経を説いた聖地)である。

 

その行者(日蓮)こそ、まさに釈迦仏ではないか。

日本国そのものが耆闍崛山(霊鷲山)であり、

日蓮とその弟子や信徒たちは釈迦如来であると言えるだろう。

 

---

 

補足のニュアンス

 

• 霊鷲山=釈迦が法華経を説いた場所

日蓮は、法華経を信じ実践する者がいる場所こそ霊鷲山である、と説いています。

• 行者=釈迦仏と同じ存在

法華経を弘める行為そのものが仏の行いであり、行者は釈迦と同じ尊い存在だという強い自負が込められています。

• 日本国=霊鷲山

法華経を弘める日蓮がいる日本全体が、仏が説法した聖地と同じという思想です。

 

① 霊鷲山とは何か

 

霊鷲山とは、法華経が説かれた霊山、

インドの霊鷲山のことです。

 

しかし御講聞書では、場所を問題にしていません。

 

「妙法を行ずるところ」

それが霊鷲山だと示されています。

 

② 文底下種から見ると

 

文上(もんじょう)では、

 

霊鷲山=インド

釈迦如来=歴史上の釈尊

 

です。

 

しかし文底下種の立場では違います。

 

末法に弘通される

南無妙法蓮華経こそ根本。

 

その妙法を持ち、弘教(ぐきょう)する者が

末法の仏の働きをする。

 

だから

      日本国が耆闍崛山

      日蓮等の類が釈迦如来

 

となるのです。

 

③ これは「身が仏」という意味ではない

 

ここは大切です。

 

肉体がそのまま釈迦になるという意味ではありません。

 

妙法を受持し弘通する時、

仏の生命がその人に顕れる。

 

つまり

 

法即人

人即法

 

の現証を示されているのです。

 

 

🔶 まとめ

 

昔、インドで法華経が説かれました。

 

でも末法の今は、

 

南無妙法蓮華経を唱える私たちのいる場所が

そのまま霊鷲山です。

 

そして妙法を弘める人は、

仏の働きをしているのです。

 

これが文底下種の見方です。

 

24日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集212

 

(十一)末法本門(文底)

13/13

 

御講聞書 1837

 

「無上宝聚  不求自得の事(信解品)

 

 日蓮生(しょう)年三十二にして自得し奉る題目なり云云。

 

 

①「無上宝聚」とは?

 

「無上」とは、この上ない最高のもの。

「宝聚」とは、宝の集まり。

 

つまり、

 

👉 この上ない最高の宝の集まり

 

という意味です。

 

この宝とは何か?

 

それが 南無妙法蓮華経の題目 です。

 

題目こそが、十界のすべてを具えた、成仏の根本の宝だからです。

 

 

②「不求自得」とは?

 

「求めずして自ら得る」

 

つまり、

 

👉 外に探し回らなくても、本来そなわっているものを自覚すること

 

という意味です。

 

仏になる力は、もともと私たちの生命に具わっています。

それを題目によって「開き顕す」のです。

 

③「日蓮生年三十二にして自得し奉る」とは?

 

ここが大事なところです。

 

日蓮大聖人が三十二歳の時、

清澄寺で「南無妙法蓮華経」とお立てになりました(立宗宣言)。

 

これは

 

👉 どこかから教えをもらったのではなく

👉 自らの内証から妙法を顕された

 

という意味です。

 

つまり、

      無上の宝(妙法)を

      外に求めて得たのではなく

      自ら悟り顕された

 

ということです。

 

 

④ 私たちにとっての意味

 

この御文は、

 

「大聖人が仏で、所持している法が南無妙法蓮華経』

 

ということです。

 

末法の私たちも、大聖人の教えのとおり、

 

南無妙法蓮華経を唱えるとき、

自分の中の「無上宝聚」を開いているのです。

 

ですから、

 

題目は外から与えられる救いではない

自分の生命に本来具わる仏界を開く行

 

これが「不求自得」の意味です。

 

 

⑤ まとめ

 

南無妙法蓮華経は、

外に探しに行く宝ではない。

 

自分の命の中にある、

最高の宝を呼び出す法なのです。

 

 

25日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集213❶

 

(十二)久遠元初 1/4

総勘文抄 1419

 

 釈迦如来五百塵点劫(じんでんごう)の当初(そのかみ)、凡夫にて御坐(おわ)せし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟りを開きたまひき。

 

『総勘文抄』のこの御文は、**久遠元初(くおんがんじょ)**の御立場から拝すると、とても大切なところです。

 

① 文の意味

 

釈迦如来(久遠元初の仏様)は五百塵点劫というはるか昔の当初、まだ凡夫であられた時、

「自分の身は地・水・火・風・空の五大からできている」と悟られて、

その場で成仏された。

 

という意味です。

 

つまり、

 

🔹 仏も最初は「凡夫」だった

🔹 しかし「我が身そのものが法である」と悟って仏になられた

 

ということです。

 

 

② 「地水火風空」とは?

 

これは宇宙と生命をつくる五つのはたらきです。

       かたち(肉体)

       うるおい(血液など)

       体温・エネルギー

       呼吸・動き

       心・精神のはたらき

 

つまり、

 

👉 私たちの体と心そのものが妙法蓮華経でできている

 

ということです。

 

 

③ 久遠元初の立場とは?

 

ここが一番大事です。

 

『総勘文抄』で明かされるのは、

久遠元初の仏様が悟った法は、

 

久遠元初の南無妙法蓮華経

 

である。ということです。

 

久遠元初とは、

 

はじまりのない根本の仏

南無妙法蓮華経そのものの御当体

下種の本仏

 

という御立場です。

 

④ 久遠元初の上から見ると

 

仏様が

 

「我が身は地水火風空なり」

 

と悟られたということは、

 

実は

 

👉 妙法(南無妙法蓮華経)を悟った

 

ということです。

 

なぜなら、

 

地水火風空の五大も

十界も

三千世間も

 

すべて妙法のはたらきだからです。

 

 

⑤ 私たちへの意味

 

ここが一番大事です。

 

仏様が凡夫から悟った(凡夫即極/ぼんぷそくごく)ように、

 

私たちも凡夫の身のままで

南無妙法蓮華経を唱えることで

即身成仏できる

 

という証明なのです。

 

だからこの御文は、

 

「凡夫の身こそ、そのまま仏の当体である」

 

と教えているのです。

 

⑥ 久遠元初の深意

 

久遠元初の立場から言えば、

      仏はどこか遠くにいるのではない

      仏の悟りは特別な人だけのものではない

      我が身即妙法である

 

ということを示しています。

 

つまり

 

🌸 「我が身は妙法の当体なり」

 

と目覚めることが成仏なのです。

 

26日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集213❷

 

(十二)久遠元初 2/4

 

総勘文抄 1419

 

 正直の妙法蓮華経の五智の如来の種子の理を説き顕はして、其の中に四十二年の方便の諸経を丸(まろ)かし納()れて一仏乗と丸(がん)し、人一(にんいち)の法と名づく。一人の上(かみ)の法なり。

 

 

①「正直の妙法蓮華経」とは何か

 

「正直」とは、『正直捨方便』、

方便を捨てて、真実をそのまま明かすという意味です。

 

これは、釈尊が四十二年の間、衆生の機根に合わせて説いた方便の教えを包み込み、

最後に本当の本意を明かした経が

👉 (法華経)妙法蓮華経 である、ということです。

 

 

②「五智の如来の種子の理」とは?

 

「五智」とは、仏の智慧のはたらき。

その仏の智慧の**根本の種(たね)**が「妙法」である、という意味です。

 

つまり――

      仏の智慧の根本も

      成仏の原因も

      すべての功徳も

 

南無妙法蓮華経という種子から生まれる

 

ということです。

 

 

③「四十二年の方便の諸経を丸かし納れて」

 

ここが大事です。

 

「丸かし納れて」とは、

 

ばらばらに否定するのではなく

すべてを包み込んで

一つに円満に収める

 

という意味です。

 

つまり、

 

華厳も、阿含も、方等も、般若も

全部、妙法の中に収まる。

 

だからこそ

 

「一仏乗と丸じ」

 

すべての教えは、結局 一仏乗(成仏の一つの道) に帰着する、ということです。

 

 

④「人一の法と名づく」

 

ここが「人法一箇」の核心です。

 

「人一の法」とは、

 

法だけでもない

人だけでもない

 

人と法が一体になった法

 

ということです。

 

 

⑤ 久遠元初の人法一箇から見ると

 

久遠元初とは、

 

時間の始まりよりも前、

仏の本地の立場。

 

その立場では――

      法(妙法)と

      人(その法を体現する本仏)

 

は、もともと別ではありません。

 

これを

 

人法一箇

 

と言います。

 

つまり、

 

南無妙法蓮華経という法と

その法を体そのものとして顕された御本仏は

 

本来一体である、ということです。

 

 

⑥ 「一人が上の法なり」とは?

 

これは非常に深い一節です。

 

普通は

 

法があって 人がそれを修行する

 

と考えます。

 

しかし久遠元初の立場では逆です。

 

人が法を持つのではない

その御方こそが法の当体である

 

だから

 

「一人が上の法なり」

 

となるのです。

 

⑦ たとえば――

 

🔹 種(妙法)

🔹 その種そのものの人(御本仏)

 

は、別々ではない。

 

太陽と光が別でないのと同じです。

 

まとめ

 

この御文はこう言っています:

 1. 四十二年の方便もすべて妙法に含まれる

 2. その妙法は仏の智慧の種子である

 3. その妙法と本仏は別ではない

 4. それが久遠元初の人法一箇である

 

だからこそ、

 

末法において

南無妙法蓮華経を受持することは

 

久遠元初の人法一箇の法体に

直結する信心になるのです。

 

 

 

 

27日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集214

 

(十二)久遠元初 2/4

 

百六箇抄 1694

 

「二、久遠元初の直行(じきぎょう)の本迹」

 

 名字(みょうじ)の本因妙(ほんにんみょう)は本種なれば本門なり。本果妙は余行に渡る故に本の上の迹なり。久遠の釈尊の口唱(くしょう)を今日蓮直ちに唱ふるなり。

 

『百六箇抄』の

「久遠元初の直行の本迹」

 

を、久遠元初の人法一箇の立場から、やさしく整理します。

 

① まず「直行(じきぎょう)」とは?

 

直行とは――

(じき)とは、直達。

行とは、事行。

 

まっすぐ

他の行をまじえず

直接に成仏の種を行ずること

 

つまり

余行にわたらない修行のことです。

 

末法の直行とは、

南無妙法蓮華経をそのまま唱えることです。

 

 

② 「名字の本因妙は本種なれば本門なり」

 

ここが核心です。

本因本果の本迹が明らかです。

 

● 名字の本因妙とは?

 

「南無妙法蓮華経」という名前を受け持つこと。

これが成仏の**因(たね)**です。

 

これを「本種(ほんしゅ)」と言います。

 

つまり――

 

🌱 成仏の根本の種そのもの。

 

だから

 

本種なれば本門なり

 

となります。

 

ここでいう「本門」とは、

久遠元初の根本の立場です。

 

 

③ 「本果妙は余行に渡る故に本の上の迹なり」

 

ここが少し難しいところです。

 

● 本果妙とは?

 

すでに成仏した果(さとり)の姿。

 

これは「結果」の立場です。

 

しかし――

 

その仏は、衆生を導くために

さまざまな修行や教え(余行)を説きます。

 

だから

 

本因(種)=根本

本果(仏の現れ)=働き

 

となる。

 

この働きの面を

 

「本の上の迹」

 

と言うのです。

 

 

④ 久遠元初の本迹とは?

 

普通の本迹は

      本=久遠実成の仏

      迹=始成正覚の仏

 

ですが、

 

ここではもっと深い立場です。

 

久遠元初では――

      本=名字の本因妙(種)

      迹=その種からあらわれた仏の働き

 

なのです。

 

 

⑤ 「久遠の釈尊の口唱を今日蓮直ちに唱ふるなり」

 

ここが最重要です。   

久遠即末法・末法即久遠。

 

久遠元初の仏が

自ら唱えた南無妙法蓮華経。

 

その同じ題目を

 

今日そのまま唱えている。

 

間に何もはさまない。

 

これが

 

直行

 

です。

 

 

⑥ 人法一箇から見ると

 

久遠元初では

      法(妙法)

      人(それを体現する本仏)

 

は一体です。

 

その口唱の題目を

そのまま唱えるということは――

 

久遠元初の仏・法体に

直結する信心

 

ということです。

 

 

⑦ 中学生向けにたとえると

 

🌱 種(本因妙)が本

🌳 木や実(本果妙)が迹

 

でも木よりも前に、

まず種がある。

 

だから一番大事なのは種。

 

その種をそのまま受け取るのが

末法の直行です。

 

まとめ

 

この御文はこう教えています:

 1. 成仏の根本の種は南無妙法蓮華経

 2. それが久遠元初の本法てあり、仏様

 3.その仏の口唱の題目をそのまま唱えるのが末法の直行

 

だからこそ、

 

末法弘教(ぐきょう)は

余行を交えない「直行」なのです。 

 

28日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集215

 

(十二)久遠元初 3/4

 

百六箇抄 1694

 

「三、久遠実成(じつじょう)直体(じきたい)の本迹 」

    久遠名字の正法は本種子なり。名字童形(どうぎょう)の位の釈迦は迹なり。我本行菩薩道是(これ)なり。日蓮が修行は久遠を移せり。久遠本果成道は本の迹なり。

 

これは、

「本(ほん)」と「迹(しゃく)」の立て分けを、久遠実成の立場から明かす」

大事なところです。

 

 

① 久遠名字の正法は本種子なり

 

● 久遠名字の正法とは?

 

「久遠」とは、はるか昔のはじまり。

「名字」とは、南無妙法蓮華経という名を聞き、受け持つ位。

 

つまり、

 

👉 久遠元初からある南無妙法蓮華経の正しい法

 

これが「本種子(ほんしゅし)」といわれています。

 

🌱 種子とは「仏になる原因」。

 

ですから、

 

本(ほん)=南無妙法蓮華経そのもの(成仏の根本の種)

 

ということです。

 

 

② 名字童形の位の釈迦は迹なり

 

「名字童形」とは、名字即の位、まだ修行の姿をしている段階。

 

ここでは、

 

👉 修行の姿を示した釈迦仏は「迹(あらわれ)」である

 

と言われています。

 

つまり、

      法(南無妙法蓮華経)が本

      その法を修行する姿は迹

 

という立て分けです。

 

 

③ 我本行菩薩道是なり

 

これは法華経寿量品の文ですね。

 

法華経 の寿量品に出てきます。

 

「我本行菩薩道」とは、

 

👉 仏が久遠から菩薩の道を行じてきた

 

という意味です。

 

しかし大聖人は、

 

「菩薩道の修行の姿」は迹であり、

その根本の妙法こそが本である

 

と示されています。

 

 

④ 日蓮が修行は久遠を移せり

 

これはとても大事です。

 

👉 日蓮大聖人の御修行は、久遠の姿を今に移したもの

 

という意味です。

 

つまり、

 

久遠元初の妙法を、そのまま末法に顕された。

 

ここに

 

人法一箇の深義

 

があるわけです。

 

 

⑤ 久遠本果成道は本の迹なり

 

「久遠本果成道」とは、

 

👉 久遠に仏になったという成道の姿

 

これは一見「本」のようですが、

 

ここでは

 

👉 成道という「現れ」は迹

 

と立て分けています。

 

なぜか?

 

成道というのは「姿・働き」であって、

その根本の妙法そのものではないからです。

 

 

全体のまとめ

 

この御文は、

 

①久遠名字の正法(南無妙法蓮華経)

②本種子

③妙法そのもの

※ 人法一箇(久遠元初の仏様=妙法蓮華経)

 

①釈迦の修行の姿 

②菩薩道の行

③成道の姿(菩薩行を行じて仏になったという結果)

 

という整理になります。

 

一言でいうと

 

本=妙法(法体)・本仏

すなわち久遠元初の仏=日蓮大聖人

迹=修行や成仏したというあらわれかた・迹仏

すなわち久遠実成の釈尊

 

 

 

👉 日蓮大聖人は、その久遠の妙法を末法にそのまま顕された御方ということを明かしているのです。