令和8年6月

 

1日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集307

 

(二五)一念三千 2/15

 

総在一念抄 113

 

 次第を以て云ふ時は一心は本、十界は末なり。是思議(しぎ)の法門なり。不思議を以て云ふ時は、一心の全体十界三千と成る故に、取り別つべき物にもあらず、表裏も之(これ)無し。一心即三千、三千即一心なり。

 

この御文は、一念三千の法門の中でも特に大切なところです。

 

御文の意味

 

「次第を以て云ふ時は一心は本、十界は末なり」

 

順番を追って説明するならば、「一心(私たちの生命)」が根本であり、その心の働きとして十界(地獄から仏界まで)が現れる、ということです。

 

例えば、

 

* 怒れば地獄界

* 欲にとらわれれば餓鬼界

* 喜べば天界

* 仏法を信じ題目を唱えれば仏界

 

というように、すべては一心から現れます。

 

ですから「心が本、十界が末」と説明できるのです。

 

 

しかし大聖人は次に、

 

「是思議の法門なり」

 

と仰せです。

 

これは人間の理解しやすいように順序立てて説明した場合です。

 

 

ところが真実の姿は、

 

「不思議を以て云ふ時は、一心の全体十界三千と成る故に」

 

です。

 

私たちの生命そのものが、最初から十界・百界千如・一念三千を具えています。

 

後から仏界が付け加わるのではありません。

 

もともと生命の中に仏界も地獄界も、あらゆる可能性が具わっているのです。

 

 

わかりやすい譬え

 

海と波の関係に似ています。

 

順番に説明すると、

 

* 海があって

* そこから波が起こる

 

となります。

 

しかし実際には、

 

* 波は海そのもの

* 海は波そのもの

 

です。

 

海と波を完全に切り離すことはできません。

 

同じように、

 

* 一心があって十界がある

 

と説明はできますが、

 

実際には

 

* 一心そのものが十界三千

* 十界三千そのものが一心

 

なのです。

 

 

「一心即三千、三千即一心なり」

 

これが結論です。

 

一心と三千は別々のものではありません。

 

私たちの今の生命の一念の中に、

 

* 地獄から仏界までの十界

* 百界千如

* 一念三千

 

がそのまま具わっています。

 

だからこそ、末法の私たちは難しい修行をしなくても、

 

御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることによって、自身の生命に本来具わる仏界を涌現できるのです。

 

まとめ

 

「仏様は遠いところにいるのではありません。私たちの一念の中に十界も仏界もすべて具わっています。ゆえに題目を唱える時、自身の生命に本来具わる仏界が現れるのです。『一心即三千、三千即一心』とは、この尊い生命の真実の姿を明かされた御文であります。」

 

2

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集308

 

(二五)一念三千 3/15

 

船守弥三郎殿許御書 262

 

 我等衆生無始よりこのかた生死海(しょうじかい)の中にありしが、法華経の行者となりて無始色心本是理性・妙境妙智(みょうきょうみょうち)金剛不滅(こんごうふめつ)の仏身とならん事、あにかの仏にか()はるべきや。過去久遠五百塵点(じんでん)のそのかみ(当初)唯我一人(ゆいがいちにん)の教主釈尊とは我等衆生の事なり。法華経の一念三千の法門、常住此説法(じょうじゅうしせっぽう)のふるまいなり。

 

この御文は、日蓮大聖人が法華経の一念三千の法門によって、私たち自身が本来仏であることを教えられた大切な御文です。

 

現代語訳

 

「私たち衆生は、計り知れない昔から生死を繰り返してきた。しかし法華経の行者となり、南無妙法蓮華経を信じていくならば、もともと生命に具わっている妙法の力によって、永遠に壊れることのない仏の生命を現すことができる。

 

それは、どこか遠くにいる仏になるのではない。法華経寿量品で説かれる『久遠の教主釈尊』とは、本来、私たち衆生の生命そのものなのである。

 

これが法華経の一念三千の法門であり、『常住此説法(常にこの娑婆世界で法を説いている)』という仏の働きの姿なのである。」

 

 

「唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり」とは

 

ここが最も大切なところです。

 

普通は、

 

「教主釈尊とは二千五百年前にインドに現れたお釈迦様」

 

と考えます。

 

しかし寿量品では、釈尊は

 

「私は実は久遠の昔から成仏している」

 

と明かされます。

 

さらに一念三千の法門から見ると、

 

久遠元初の妙法を具えた仏の生命は、特別な一人の仏だけにあるのではなく、すべての衆生の生命に具わっている

 

ということになります。

 

そこで大聖人は、

 

「久遠の教主釈尊とは我等衆生の事なり」

 

と仰せなのです。

 

 

 

「無始色心本是理性・妙境妙智」とは

 

難しい言葉ですが、

 

* 色心=身と心

* 無始=始まりのない昔から

* 妙境=真実の法(妙法)

* 妙智=その法を悟る智慧

 

という意味です。

 

つまり、

 

私たちの身も心も、本来は妙法そのものの生命である

 

ということです。

 

信心によって新しく仏になるのではなく、

 

もともと具わっている仏界を顕す

 

のです。

 

 

「金剛不滅の仏身」とは

 

金剛とはダイヤモンドのように壊れないものです。

 

肉体は老い、病み、やがて亡くなります。

 

しかし、

 

南無妙法蓮華経を持つ生命そのものは永遠であり、仏の生命は滅びない

 

ということを示しています。

 

 

 

「常住此説法のふるまいなり」とは

 

法華経寿量品には

 

「常にこの娑婆世界に住して法を説く」

 

とあります。

 

これは、

 

仏は遠い浄土にいるのではなく、この現実世界の中で衆生を救い続けている

 

ということです。

 

そして法華講員として折伏し、唱題し、御本尊に向かう私たちの姿こそ、

 

仏の働きを現している姿

 

であると拝することができます。

 

 

 

この御文で大聖人は、

 

「仏とは遠い存在ではない。私たち自身の生命の中に久遠の仏界が具わっている」

 

ことを教えられています。

 

毎日の生活では悩みや苦しみに振り回され、自分が凡夫であることばかりを感じます。しかし御本尊を信じて題目を唱える時、その生命の中から久遠元初の仏界が涌現します。

 

だからこそ、

 

「唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり」

 

との御金言を確信し、今日も勇気をもって唱題・折伏に励んでまいりましょう。

 

3

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集309

 

(二五)一念三千 4/15

 

船守弥三郎殿許御書 262

 

 凡夫即仏なり・仏即凡夫なり、一念三千我実成仏これなり。

 

この御文は、一念三千の法門による「凡夫成仏」の大切な教えを示されています。

 

凡夫即仏なり・仏即凡夫なり、一念三千我実成仏これなり。

 

わかりやすい意味

 

「凡夫」とは、迷いや悩みを持つ私たちのことです。

 

「仏」とは、最高の悟りを開いた生命の状態です。

 

普通に考えると、

 

* 凡夫 = 悩み多き人

* 仏 = 完全な悟りの人

 

であり、全く別の存在のように思えます。

 

しかし法華経の一念三千の法門では、

 

凡夫の生命の中にも仏界が具わり、仏の生命の中にも九界が具わっている

 

と説かれます。

 

これを十界互具といいます。

 

そのため、

 

「凡夫のまま仏になれる」

のであり、

 

「仏もまた私たちとかけ離れた特別な存在ではない」

 

ということなのです。

 

「一念三千我実成仏」とは

 

「一念三千」とは、

 

私たちの一念(一瞬の心)の中に三千の諸法が具わっている

 

という法門です。

 

大聖人は、

 

一念三千の法門を信じ、南無妙法蓮華経を唱える時、凡夫の生命に本来具わる仏界が現れ、成仏できる

 

と教えられています。

 

ですから、

 

「我実成仏」

 

とは、

 

「どこか別の世界で仏になるのではなく、この身このままで仏の境涯を開くこと」

 

を意味します。

 

たとえ話

 

炭の中には火の性質がありますが、見ただけでは火は見えません。

 

しかし火打石で打てば火が現れます。

 

同じように、

 

* 私たちの生命には仏界が具わっている

* それが見えないだけである

* 南無妙法蓮華経を唱えることによって仏界が現れるのです。

 

私たちは欠点や悩みを抱え、「自分はまだまだだ」と思うことがあります。しかし大聖人は「凡夫即仏なり」と仰せです。仏は遠い存在ではなく、私たち自身の生命の中に具わっています。だからこそ、どのような状況であっても御本尊を信じて題目を唱え抜くところに、仏の生命が現れます。この御文は、末法の私たちに対する大きな励ましのお言葉と拝することができます。

 

4

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集310

 

(二五)一念三千 5/15

 

十章抄 466

 

 一念三千と申すことは迹門にすらなお()許されず。何(いか)に況(いわ)んや爾前(にぜん)に分た()えたる事なり。一念三千の出処は略開三(りゃくかいさん)の十如実相なれども、義分は本門に限る。爾前は迹門の依義判文(えぎはんもん)、迹門は本門の依義判文なり。

 

この御文は、一念三千の法門がどれほど深く尊い教えであるかを示されたところです。

 

御文の意味

 

「一念三千と申すことは迹門にすらなお許されず。何に況んや爾前に絶えたる事なり。」

 

一念三千という教えは、法華経以前の経典(爾前経)には全く説かれていません。

 

また法華経の迹門(前半十四品)においても、その真実の姿が完全に明かされたわけではありません。

 

つまり、一念三千は仏法の中でも極めて深い法門であるということです。

 

 

「一念三千の出処は略開三の十如実相なれども」

 

一念三千の理論の根拠となる経文は、法華経方便品の「十如実相」です。

 

天台大師は、この十如実相の文をもとに一念三千を立てられました。

 

しかし、それはあくまでも入口であり、

 

「人は仏になれる」

「凡夫の生命に仏界が具わる」

 

ということを理論として示したものです。

 

 

「義分は本門に限る。」

 

けれども、その本当の意味(義)は法華経本門、特に寿量品において初めて明らかになります。

 

なぜなら本門では、

 

釈尊が今世で初めて成仏した仏ではなく、久遠元初から成仏している仏であることが説かれるからです。

 

久遠の仏が明かされてこそ、

 

私たち凡夫の生命にも久遠の仏界が具わるという、一念三千の真実の姿が理解できるのです。

 

 

「爾前は迹門の依義判文、迹門は本門の依義判文なり。」

 

これは、

 

* 爾前経は迹門によってその浅さが判定される。

* 迹門は本門によってその深さ・浅さが判定される。

 

という意味です。

 

たとえば、

 

* 小学校の内容は中学校でより深く理解できる。

* 中学校の内容は高校でさらに深く理解できる。

 

のと同じです。

 

仏の教えも、

 

爾前経 迹門 本門

 

という順に深まっていき、最終的に本門で真実が明かされるのです。

 

 

法華講員としての信心の上から

 

この御文で大聖人は、

 

「一念三千という最高の法門は、本門寿量品の文底に秘沈された南無妙法蓮華経によって成就する」

 

ことを示されています。

 

私たちが御本尊を受持し、南無妙法蓮華経と唱えるとき、

 

難しい理論を知らなくても、一念三千の功徳をそのまま受けることができます。

 

観心本尊抄に、

 

「五字の内に此の珠を裹み」

 

と仰せのように、一念三千という最高の法理が南無妙法蓮華経の五字に収められているからです。

 

したがってこの御文は、

 

「一念三千の究極の姿は本門寿量品の文底下種の南無妙法蓮華経にある」

 

ということを教えられた御文と拝することができます。

 

5

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集311

 

(二五)一念三千 6/15

 

開目抄上 526

 

 一念三千の法門は但(ただ)法華経の本門寿量品の文の底に秘してしづめたまへり。

 

 この御文は、日蓮大聖人が「一念三千」という法華経の根本法義が、どこに説き明かされているのかを示された大切なお言葉です。

 

「一念三千の法門は但(ただ)法華経の本門寿量品の文の底に秘してしづめたまへり」

 

現代語にすると、

 

「一念三千という最も大切な法門は、法華経の本門・寿量品の経文の表面ではなく、その奥底に秘められている」という意味です。

 

一念三千とは、

 

「私たち凡夫の一念(一瞬の生命)の中に、仏界を含む十界・三千のすべての生命の働きが具わっている」

 

という教えです。

 

つまり、

 

* 仏は遠い存在ではない

* 自分の生命の中に仏界がある

* 凡夫のままで成仏できる

 

ということを明かした法門です。

 

なぜ「寿量品の文の底」なのか

 

寿量品では釈尊が、

 

「我は今世で初めて仏になったのではなく、久遠の昔から仏である」

 

と説かれています。

 

ここで明かされるのは、

 

仏の生命は永遠であり、凡夫と別の特別な存在ではない。ということです。

 

しかし、一念三千そのものは寿量品の文字の上に直接書かれているわけではありません。

 

そこで大聖人は、

 

「寿量品の経文の奥底に秘められている」と仰せになったのです。

 

日蓮正宗の立場から

 

天台大師は寿量品から一念三千を読み取られましたが、大聖人はさらに進んで、

 

寿量品の文底に秘沈された南無妙法蓮華経こそ、一念三千の当体である。と明かされました。

 

ですから私たちは難しい理論を学ばなくても、

 

御本尊に向かって南無妙法蓮華経と唱える時、自身の生命に具わる一念三千の仏界が涌現するのであります。

 

 

「一念三千」は難しい言葉ですが、その意味は『仏さまは遠くにいるのではなく、自分の生命の中に具わっている』ということです。その生命を現す鍵が南無妙法蓮華経です。だからこそ毎日の唱題を大切にし、自分の中の仏界を信じて進んでまいりましょう。

 

6日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集312

 

(二五)一念三千 7/15

 

開目抄下 574

 

 又仏になる道は、華厳の唯心法界、三論の八不(はっぷ)、法相の唯識、真言の五輪観等も実には叶うべしともみへず。但、天台の一念三千こそ、仏になるべき道とみゆれ。此の一念三千も我等一分の慧解(えげ)もなし。而(しか)れども一代経々の中には此の経計り一念三千の玉をいだけり。余経の理は玉ににたる黄石なり。沙(いさご)をしぼるに油なし、石女(うまずめ)に子のなきがごとし。諸経は智者猶(なお)仏にならず。此の経は愚人も仏因を種()べし。「不求解脱(ふぐげだつ)・解脱自至(じし)」等と云云。

 

この御文は「仏になるための本当の道は、難しい哲学ではなく、法華経の“一念三千”であり、しかも愚かな者でも成仏できるほど平等で力のある教えだ」という主張です。

 

わかりやすい現代語の説明

 

① 他の仏教の教え(華厳・三論・法相・真言など)はどうか?

大聖人はこう言っています:

* 華厳宗の「唯心法界」

* 三論宗の「八不」

* 法相宗の「唯識」

* 真言宗の「五輪観」

これらはどれも難しすぎて、実際に仏になれる道とは思えない。

つまり、どれも高度な哲学で、普通の人には理解できない。理解できなければ修行にならず、成仏もできない。

 

② では何が仏になる道なのか?

天台の「一念三千」こそが、仏になるための道である。

しかし——

「この一念三千も、私たちには少しも理解できない」

と日蓮は正直に言います。

 

③ それでも法華経だけが特別である理由

一代の仏教経典(釈迦のすべての教え)の中で、

* 一念三千という仏になる宝を持っているのは法華経だけ

* 他の経典は、宝に似ているが本物ではない「黄石(ただの石)」のようなもの

と説明します。

たとえば:

* 砂を絞っても油は出ない

* 石女(うまずめ=子を産めない女性)は子を産めない

同じように、

* どんなに他の経典を学んでも、智者でさえ仏になれない

* しかし法華経なら、愚かな人でも仏になる因(たね)を植えることができる

 

④ なぜ愚人でも成仏できるのか?

法華経には

「解脱を求めなくても、自然に解脱(悟り)が訪れる」

という趣旨の言葉がある。

つまり、

* 理解できなくても

* 賢くなくても

* 難しい修行ができなくても

法華経を信じるだけで、成仏の原因が植わる

という、非常に平等で力強い教えだと日蓮は主張している。

 

🔍 まとめ

* 他宗の教えは難しすぎて、実際には成仏できない

* 法華経の「一念三千」だけが、仏になる本物の道

* しかも、理解できなくても信じるだけで成仏の因ができる

* だから法華経は愚人にも開かれた最高の教えである

 

7

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集313

 

(二五)一念三千 8/15

 

観心本尊抄 645

 

 問うて曰く、百界千如と一念三千と差別如何(いかん)。答へて曰く、百界千如は有情(うじょう)界に限り、一念三千は情非情に亘(わた)る。不審して云はく、非情に十如是亘たらば草木に心有って有情の如く成仏を為()す可きや如何(いかん)。答へて曰く、此の事難信難解(なんしんなんげ)なり。

 

この御文は、一念三千の法門がどれほど深い教えであるかを示されています。

 

わかりやすい現代語訳

 

問うていう。

「百界千如と一念三千とは、どこが違うのですか。」

 

答えていう。

「百界千如は、人や動物など心を持つ『有情』の世界について説いたものである。これに対して一念三千は、有情だけでなく、草木や大地など心を持たない『非情』にまで及ぶのである。」

 

さらに問う。

「それならば、草木にも十如是が備わるということは、草木も人間のように心を持って成仏するのですか。」

 

答えていう。

「このことは非常に信じ難く理解し難い深い法門である。」

 

 

百界千如と一念三千の違い

 

百界千如

 

人間や動物など、**命あるもの(有情)**について説いた教えです。

 

* 十界互具 百界

* 百界に十如是 千如

 

という法門です。

 

一念三千

 

百界千如をさらに広げて、

 

* 人間

* 動物

* 草木

* 山川

* 国土

 

まで含めた宇宙全体を説く法門です。

 

つまり、

 

「人の生命だけでなく、環境や国土までも生命と不二である」

 

ということです。

 

 

草木成仏とは?

 

ここで「草木が人間のように考えたり、信心して成仏する」という意味ではありません。

 

日蓮大聖人は、

 

依正不二(えしょうふに)

 

の法理を明かされています。

 

依正不二とは

 

* 正報=私たちの生命

* 依報=私たちを取り巻く環境

 

この二つは切り離せないということです。

 

例えば、

 

美しい心の人の周りには良い環境が現れ、

濁った生命には濁った環境が現れます。

 

生命と環境は一体なのです。

 

 

私たちの信心との関係

 

この御文が教えている大切な点は、

 

御本尊を信じて唱題すると、自分の生命だけでなく、家庭・職場・地域などの環境までも変わっていく

 

ということです。

 

一念三千とは、

 

「自分の一念の中に自分も環境も、さらには宇宙全体までも含まれている」

 

という法門です。

 

だからこそ、唱題によって自身の仏界が涌現すると、その功徳は周囲の環境にも及んでいくのです。

 

この御文は、後の『観心本尊抄』に説かれる依正不二・草木成仏の法理の入口を示された重要な一節と拝することができます。

 

8日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集314

 

(二五)一念三千 9/15

 

観心本尊抄 652

 

 詮ずる所は一念三千の仏種に非(あら)ざれば、有情の成仏・木画(もくえ)ニ像の本尊は有名(うみょう)無実なり。

 

この御文は、日蓮大聖人が**「成仏の根本は一念三千の法門にある」**ことを明確に示された大事な御文です。

 

現代語訳

 

「結局のところ、一念三千の仏種でなければ、衆生が成仏することもできず、木や絵で作られた仏像や本尊も、名前だけで実質がないのである。」

 

 

「仏種」とは

 

仏種とは、

 

仏になるための種子(原因)

 

のことです。

 

種がなければ花も実もなりません。

 

同じように、仏になるためには仏になる原因が必要です。

 

その原因こそが、

 

一念三千の法門

 

であると大聖人は仰せです。

 

 

なぜ一念三千が仏種なのか

 

一念三千とは、

 

凡夫の生命の中に仏界が具わっている

 

という法門です。

 

つまり、

 

* 自分は凡夫だから成仏できない

* 仏は遠い存在だ

 

というのではなく、

 

今の私たちの生命そのものに仏界が具わっている

 

ことを明かした教えです。

 

だから成仏の可能性が開かれるのです。

 

 

「木画二像の本尊」とは

 

木で彫った仏像や、絵に描いた仏の姿を指します。

 

大聖人は仏像そのものを否定されているのではありません。

 

問題は、

 

一念三千の法理が明らかでない本尊では、人々を真実の成仏へ導く力がない

 

ということです。

 

例えば、

 

薬の絵を見ても病気は治りません。

 

本当に効く薬が必要です。

 

同じように、

 

成仏の根本法である一念三千がなければ、本尊も衆生救済の実体を備えないということです。

 

 

日蓮正宗の立場から

 

観心本尊抄では、

 

釈尊の像を拝むことが本意ではなく、

 

末法の衆生を救うために顕された

南無妙法蓮華経の御本尊

こそが根本であることを明かされています。

 

御本尊には久遠元初の南無妙法蓮華経、一念三千の当体が顕されているため、私たちは唱題によって自身の仏界を涌現させることができます。

 

 

私たちはつい、

「自分には力がない」

「とても仏にはなれない」

と思いがちです。

 

しかし大聖人は、

 

「一念三千の仏種」

 

と仰せになり、私たちの生命の中に成仏の種が具わっていることを教えてくださいました。

 

その仏種を育てる行が唱題です。

 

毎日の南無妙法蓮華経によって仏種が芽を出し、花を咲かせ、成仏の果実を結ぶことができます。

 

この確信をもって、今日も御本尊に向かい題目を唱えてまいりましょう。

 

9

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集315

 

(二五)一念三千 10/15

 

曽谷入道殿御返事 1186

 

 阿含経の題目は、一経の所詮、無常の理をおさめたり。外道の経の題目のあう(阿漚)の二字にすぐれたること百千万倍なり。九十五種の外道、阿含経の題目を聞いて、みな邪執(じゃしゅう)を倒し、無常の正路におもむきぬ。般若経の題目を聞いては体空・但中(たんちゅう)・不但中の法門をさとり、華厳経の題目を聞く人は但中・不但中のさとりあり。大日経・方等・般若経の題目を聞く人は、あるいは析空(しゃっくう)、あるいは体空、あるいは但空、あるいは不但空、あるいは但中・不但中の理をばさと()れども、いまだ十界互具・百界千如・三千世間の妙覚の功徳をばきかず。その詮を説かざれば、法華経より外(ほか)は理即の凡夫なり。

 

 この御文は、「法華経以前のさまざまな経典も尊い教えではあるが、成仏の根本法までは明かしていない」ということを示されています。

 

わかりやすい意味

 

大聖人はまず、

 

* 阿含経の題目には「すべてのものは変化し続ける(無常)」という真理が説かれている。

* そのため、外道(仏教以外の教え)の人々も阿含経によって誤った考えを改めることができた。

 

と仰せです。

 

さらに、

 

* 般若経では「空(くう)」の道理

* 華厳経ではより深い中道の道理

* 大日経などではさらに高度な哲理

 

が説かれているので、それぞれの経典によって人々は深い悟りを得ることができます。

 

しかし、それらの経典には、

 

* 十界互具

* 百界千如

* 一念三千

 

という法華経の根本法義は説かれていません。

 

十界互具がなぜ大切か

 

十界互具とは、

 

「地獄の生命にも仏界が具わり、仏の生命にも九界が具わっている」

 

という法門です。

 

これが明かされて初めて、

 

凡夫のまま仏になれる

 

ことがわかります。

 

もし十界互具がなければ、

 

* 凡夫と仏は全く別の存在

* 凡夫は永遠に凡夫

 

となってしまいます。

 

「理即の凡夫」とは

 

最後の

 

法華経より外は理即の凡夫なり

 

とは、

 

法華経以前の経典では、

 

「理論として仏性はある」

 

ことは説かれていても、

 

実際に凡夫が成仏する道までは明かされていない、という意味です。

 

たとえば、

 

「種の中に大木になる力がある」

 

ことは知っていても、

 

その種を芽吹かせ大木に育てる方法を知らない状態に似ています。

 

法華経は、

 

その仏性を実際に開き、成仏させる法を説いた経典なのです。

 

法華講員として拝すると

 

この御文は、

 

「爾前経にもそれぞれ功徳はあるが、一念三千・十界互具を説き明かし、凡夫即身成仏の道を示したのは法華経だけである」

 

ということを教えられています。

 

そして末法の今日、その法華経の肝心である

 

南無妙法蓮華経こそ、一念三千・十界互具・百界千如の功徳をそのまま具えた成仏の大法である

 

と拝することができます。

 

10日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集316

 

(二五)一念三千 11/15

 

治病大小権実違目 1239

 

 一念三千の観法に二つあり。一には理、二には事なり。天台・伝教等の御時には理なり。今は事なり。観念すでに勝る故に、大難また色まさる。彼は迹門の一念三千、これは本門の一念三千なり。天地はるかに殊(こと)なりことなりと、御臨終の御時は御心えあるべく候。

 

 この御文は、「理の一念三千」と「事の一念三千」の違いを示し、末法の私たちが実践すべき信心を明かされた大切な御金言です。

 

御文の意味

 

「一念三千の観法に二つあり。一には理、二には事なり。」

 

一念三千には、

 

* 理(り)の一念三千

* 事(じ)の一念三千

 

の二つがあると仰せです。

 

理の一念三千とは

 

天台大師や伝教大師の時代は、法華経の教えによって

 

「私たちの生命には仏界が具わっている」

「凡夫も仏になれる」

 

という道理を観察し、理解する修行でした。

 

つまり、

 

「理論として一念三千を悟る」

 

ことが中心です。

 

これを「理の一念三千」といいます。

 

 

事の一念三千とは

 

末法の今は違います。

 

日蓮大聖人は、本門寿量品の文底に秘沈された南無妙法蓮華経を顕されました。

 

私たちは、

 

御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱える

 

ことによって、一念三千の仏界を現実の生活の中に涌現させます。

 

これは単なる理論ではなく、

 

現実の事実として仏の生命を顕す実践

 

です。

 

これを「事の一念三千」といいます。

 

 

「彼は迹門の一念三千、これは本門の一念三千なり」とは

 

天台大師の説かれた一念三千は、

 

法華経迹門方便品の十如実相を依り所とした

 

迹門の一念三千です。

 

これに対して日蓮大聖人の一念三千は、

 

法華経本門寿量品の久遠元初の仏法に基づく

 

本門の一念三千です。

 

したがって、

 

「天地はるかに殊なり」

 

と仰せのように、その功徳と力用は比較にならないほど大きいのです。

 

 

私たちへの教え

 

この御文は、

 

「一念三千を難しい理論として学ぶだけではなく、御本尊を受持し題目を唱えて、現実の人生の中で仏界を開いていくことが大切である」

 

ということを教えられています。

 

日蓮正宗の立場でいえば、

 

御本尊に向かって南無妙法蓮華経と唱えることそのものが、事の一念三千の実践です。

 

信心を貫く中で喜びも苦難もありますが、その一切を成仏の因としていけるところに、事の一念三千の偉大さがあります。

 

大聖人が

 

「御臨終の御時は御心えあるべく候」

 

と結ばれているのは、

 

この事の一念三千を信受し実践した人は、臨終に至ってその功徳をはっきりと知ることができる、との励ましのお言葉と拝することができます。

11

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集317

 

(二五)一念三千 12/15

 

十八円満抄 1519

 

 一心三観・一念三千の極理(ごくり)は妙法蓮華経の一言を出でず。敢()へて忘失(もうしつ)すること勿(なか)敢へて忘失すること勿れ。

 

この御文は、日蓮大聖人が法華経の肝心を簡潔に示された大切なお言葉です。

 

「一心三観・一念三千の極理は妙法蓮華経の一言を出でず。敢へて忘失すること勿れ。」

 

【意味】

 

「一心三観」や「一念三千」という天台大師の深遠な教えの究極の真理は、すべて『妙法蓮華経』の五字の中に収まっている。だから、この妙法を決して忘れてはならない、ということです。

 

一心三観とは

 

私たちの一つの心を通して、

 

* 空観(すべてのものは固定した実体がない)

* 仮観(さまざまな姿や働きを現す)

* 中観(空と仮を円満に具える真実の姿)

 

の三つの真理を同時に観ずる教えです。

 

一念三千とは

 

私たちの一念の心の中に、

 

* 十界

* 十界互具

* 百界千如

* 三世間

 

の三千の生命の働きが具わっているという法門です。

 

大聖人の御意

 

天台大師は一心三観・一念三千という甚深の法理を説かれましたが、その根本は法華経にあります。

 

そして末法の今、その法華経の肝心が

「南無妙法蓮華経」

です。

 

したがって、

 

「難しい理論を学ぶことも大切であるが、その根本は御本尊に向かい南無妙法蓮華経と唱えることにある」

 

と教えられているのです。

 

朝の法話として

 

一念三千というと難しく聞こえます。しかし大聖人は、その究極の法理がすべて「妙法蓮華経」の一言に収まっていると仰せです。

 

私たちは学問として一念三千を理解しきれなくても、御本尊を信じて題目を唱える時、その一念三千の大功徳を受けることができます。

 

だからこそ大聖人は、

 

「敢へて忘失すること勿れ」

 

すなわち、

 

「どんな時も南無妙法蓮華経を忘れてはならない」

 

と強く戒められているのです。

 

日々の勤行・唱題を大切にし、妙法(御本尊)を持ち続けるところに成仏への大道が開かれることを教えられた御文と拝することができます。

 

12

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集318

 

(二五)一念三千 13/15

 

三大秘法抄 1595

 

 問ふ、一念三千の正(まさ)しき証文如何(いかん)

 答ふ、次に申し出だすべし。此に於て二種有り。方便品に云はく「諸法実相所謂(しょい)諸法如是相乃至欲令(よくりょう)衆生仏知見」等云々。底下(ていげ)の凡夫理性(りしょう)所具(しょぐ)の一念三千か。寿量品に云はく「然我実成仏已来無量無辺」等云々。大覚世尊久遠実成(じつじょう)の当初証得の一念三千なり。今日蓮が時に感じ此の法門広宣流布するなり。

 

この御文は、日蓮大聖人が「一念三千」の根拠と、末法における広宣流布の意義を明かされた大変重要な御文です。

 

わかりやすい現代語訳

 

問う。

「一念三千の正しい証拠となる法華経の文はどこにありますか。」

 

答える。

「二つある。

 

一つは方便品の『諸法実相』『欲令衆生開仏知見』等の文である。これは、凡夫の生命に本来具わっている一念三千を明かしたものである。

 

もう一つは寿量品の『我実成仏已来無量無辺』の文である。これは久遠元初に仏が証得された一念三千を明かしたものである。

 

そして今、日蓮が末法の時に生まれ、この法門を広宣流布しているのである。」

 

 

二つの一念三千

 

大聖人はここで、一念三千には二つの立場があることを示されています。

 

① 方便品の一念三千

 

方便品では、

 

「すべての衆生に仏界が具わっている」

 

ことが説かれています。

 

これは、

 

「私たち凡夫の生命の中に仏界がある」

 

という理の上の一念三千です。

 

例えば、

 

* 怒っている人にも仏界がある

* 苦しんでいる人にも仏界がある

* 凡夫にも成仏の可能性がある

 

ということです。

 

これを

理具の一念三千

といいます。

 

 

② 寿量品の一念三千

 

寿量品では、

 

「私は久遠の昔に成仏した」

 

と説かれます。

 

ここでは釈尊が実際に悟った仏の境界が明かされています。

 

つまり、

 

仏が現実に証得した一念三千

 

です。

 

これを

 

事の一念三千

あるいは

久遠実成の一念三千

 

といいます。

 

 

なぜ寿量品が大切なのか

 

方便品では、

 

「凡夫にも仏界がある」

 

と理論は示されています。

 

しかし、

 

「どうすればその仏界を現せるのか」

 

までは明らかではありません。

 

寿量品になると、

 

久遠元初の仏の生命そのものが明かされます。

 

そのため日蓮大聖人は、

 

迹門の理の一念三千よりも、

 

本門寿量品の事の一念三千を重視されました。

 

 

「今日蓮が時に感じ」とは

 

ここがこの御文の肝心です。

 

大聖人は、

 

「今日蓮が時に感じ此の法門広宣流布するなり」

 

と仰せです。

 

つまり、

 

末法という時にあたり、

 

久遠元初の仏の悟りそのものである一念三千を、

 

南無妙法蓮華経として全世界に弘める

 

ことが大聖人の御使命であると示されています。

 

 

法華講員として拝するポイント

 

天台大師は一念三千の法理を明らかにされました。

 

しかし日蓮大聖人は、その一念三千の当体こそ

 

南無妙法蓮華経

 

であることを顕されました。

 

ですから私たちは、

 

難しい理論を理解するだけでなく、

 

御本尊に向かって唱える

 

南無妙法蓮華経の唱題の中に、凡夫即仏・一念三千の功徳がそのまま具わっている

 

と拝するのです。

 

この御文は、

 

「方便品の理具の一念三千」と「寿量品の事の一念三千」を示し、さらに末法において日蓮大聖人がその法を広宣流布される御本仏であることを明かされた御文と拝することができます。

 

13日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集319

 

(二五)一念三千 14/15

 

御義口伝 1752

 

第十五 得見恒沙(ごうじゃ)仏の事

 

 今日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉るは、妙解(みょうげ)・妙行・妙証の不思議の解、不思議の行、不思議の証得なり。真実一念三千の開悟なり云云。此の恒沙と云ふは悪を滅し善を生ずる河なり。

 

 この御文は、南無妙法蓮華経を唱える功徳と、一念三千の深い意義を教えられています。

 

御文の意味

 

「今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉るは、妙解・妙行・妙証の不思議の解、不思議の行、不思議の証得なり」

 

これは、

 

* 妙解(みょうげ) 正しい仏法を信じ理解すること

* 妙行(みょうぎょう) 南無妙法蓮華経を唱え、実践すること

* 妙証(みょうしょう) その結果として仏の境界を得ること

 

を表しています。

 

末法の私たちは、難しい観念観法によってではなく、ただ信心して南無妙法蓮華経を唱える中に、理解も実践も悟りもすべて具わっているのです。

 

「真実一念三千の開悟なり」とは

 

一念三千とは、

 

「私たち凡夫の生命の中に、もともと仏界が具わっている」

 

という法門です。

 

南無妙法蓮華経を唱えることによって、

 

* 自分の生命に仏界が具わっていることを知り、

* その仏界を現し、

* 仏の境涯を開いていく

 

これが「真実の一念三千を悟る」ということです。

 

「恒沙」とは

 

恒沙とは、本来はインドのガンジス川(恒河)の砂のように数えきれないほど多いという意味です。

 

しかし大聖人は、

 

「此の恒沙と云ふは悪を滅し善を生ずる河なり」

 

と仰せです。

 

つまり単なる砂の数ではなく、

 

南無妙法蓮華経の信心によって、生命の中の悪を滅し、善を生み出していく働き

 

を表されています。

 

 

私たちは怒ったり、嫉妬したり、怠けたりすることがあります。これが生命の中の「悪」です。

 

しかし御本尊を信じて題目を唱えると、

 

* 思いやりが出る

* 勇気が出る

* 感謝の心が生まれる

* 困難に負けなくなる

 

という「善」が現れてきます。

 

そのため大聖人は、題目を唱えることは

 

「悪を減らし、善を増やしながら、自分の中の仏界を開いていくこと」

 

であり、それこそが真実の一念三千の開悟であると教えられているのです。

 

まとめ

 

この御文は、

 

「題目を唱えることそのものが、妙解・妙行・妙証であり、一念三千の実践である」

 

と示されています。

 

ですから私たちは、「まだ理解が足りない」「悟れていない」と心配するよりも、まず素直に御本尊を信じて唱題に励むことが大切です。その唱題の中に、仏の智慧も、修行も、成仏の功徳も、すべて具わっているからです。

 

15

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集321

 

(二六)仏身 1/11

 

四条金吾殿御消息 478

 

 今度法華経の行者として流罪・死罪に及ぶ。流罪は伊東、死罪はたつのくち。相州のたつのくちこそ日蓮が命を捨てたる処なれ。仏土におと()るべしや。其()の故はすでに法華経の故なるがゆへなり。

 

 

日蓮大聖人は、

 

「私は法華経を弘めたために、流罪にもあい、死罪にされそうにもなった」

 

と仰せです。

 

「流罪は伊東」とは、伊豆国(現在の静岡県伊東市)への流罪のことです。

 

「死罪はたつのくち」とは、鎌倉の龍ノ口で処刑されそうになった

「龍ノ口の法難」を指します。

 

そして、

 

「相州のたつのくちこそ日蓮が命を捨てたる処なれ」

 

とは、

 

「龍ノ口こそ、私が法華経のために命を捨てた場所である」

 

という意味です。

 

さらに、

 

「仏土におとるべしや」

 

とは、

 

「その場所が、どうして仏の国(土地)に劣ることがあろうか」

 

ということです。

 

なぜなら、

 

「其の故はすでに法華経の故なるがゆへなり」

 

すなわち、

 

「法華経のために命を懸けた場所だからである」

 

と仰せです。

 

まとめ

 

世間では、有名な寺院や聖地を尊い場所と考えます。

 

しかし日蓮大聖人は、法華経を守り弘めるために命を懸けて戦った龍ノ口こそ、仏土にも劣らない尊い場所であると示されました。

 

それは、場所そのものが尊いのではなく、「妙法のために戦った信心」が尊いからです。

 

私たちもまた、日々の生活の中で、広宣流布のために祈り、語り、実践するところが、そのまま仏道修行の道場となります。

 

大聖人の御精神を拝し、「法のために生きる」尊い信心を深めてまいりましょう。

 

16

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集322

 

(二六)仏身 2/11

 

四条金吾殿御消息 4789

 

    日蓮が難にあ()う所ごとに仏土なるべきか。娑婆世界の中には日本国、日本国の中には相模国(さがみのくに)、相模国の中には片瀬、片瀬の中には竜口(たつのくち)に、日蓮が命をとどめをく事は、法華経の御故なれば寂光土ともいうべきか。

 

 この御文は、竜の口の法難をはじめ、大聖人が法華経のために受けられた大難の場所は、そのまま仏国土となるという深い御境界を示されたお言葉です。

 

わかりやすい意味

 

日蓮が難にあう所ごとに仏土なるべきか。

 

「日蓮が法華経のために迫害や苦難を受けた場所は、みな仏の国土となるのであろうか。」

 

と仰せです。

 

 

娑婆世界の中には日本国、日本国の中には相模国、相模国の中には片瀬、片瀬の中には竜口に、

 

広い娑婆世界の中で日本があり、その中の相模国、その中の片瀬、さらにその中の竜の口という一か所を挙げられています。

 

これは、世間から見れば何の変哲もない処刑場であった竜の口が、仏法の上からは極めて尊い場所となったことを示されています。

 

 

日蓮が命をとどめをく事は、法華経の御故なれば

 

「日蓮がこの竜の口で命を失うほどの大難に遭ったのは、すべて法華経のためである。」

 

竜の口法難は、私利私欲のためではなく、末法の衆生を救う法華経弘通のために受けられた難でした。

 

 

寂光土ともいうべきか。

 

「それならば、この竜の口は寂光土(仏の清浄な国土)といってよいではないか。」

 

という意味です。

 

 

この御文の大切な教え

 

普通に考えると、

 

* 処刑場は恐ろしい場所

* 流罪地は不幸な場所

 

です。

 

しかし大聖人は、

 

法華経のために戦い、難を受けた場所は、そのまま仏国土となる

 

と示されています。

 

つまり、

 

場所そのものが尊いのではなく、

 

妙法のために命を懸けて戦う信心によって、その場所が仏土となる

 

ということです。

 

 

この御文は、竜の口だけの話ではありません。

 

私たちも、

 

* 折伏に励む

* 弘教に歩く

* 苦難の中でも唱題を続ける

 

ならば、その職場も家庭も地域も、妙法の功徳によって仏国土へと変わっていきます。

 

まとめ

 

「仏土は遠くにあるのではなく、妙法のために信心を貫くところに現れる。大聖人が竜の口を寂光土とされたように、私たちも信心によって家庭や地域を仏国土へ変えていくのである。」

 

と拝することができます。

 

18

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集324

 

(二六)仏身 4/11

 

開目抄上 526

 

    仏陀(ぶった)は無量曠劫(こうごう)よりの不妄語の人、されば一代五十余年の説教は外典外道に対すれば大乗なり。大人の実語なるべし。初成道の始めより泥洹(ないおん)の夕べにいたるまで、説くところの所説皆真実なり。

 

この御文は、**「仏様の説かれた教えは真実である」**ということを示されています。

 

わかりやすい意味

 

仏陀(釈尊)は、はるか昔の無量曠劫という長い昔から、一度も嘘をついたことのない方である。

 

だから、釈尊が一生の間に説かれた五十余年の教えは、外道や儒教などの教えと比べれば、すべて尊い真実の教えであり、大乗仏教である。

 

そして、成道された最初から入滅される最後まで説かれた教えは、すべて仏の言葉として真実である。

 

という意味です。

 

ここで大聖人が言われたいこと

 

しかし、この後の開目抄では、

 

* 仏の説法はすべて真実ではあるが、

* 衆生の能力に応じて段階的に説かれた教えであり、

* その中でも最終の究極の教えが法華経である

 

ということを明かされています。

 

たとえば学校でいえば、

 

* 小学校で習うことも真実

* 中学校で習うことも真実

* 高校で習うことも真実

 

ですが、より深く完全な説明は上の学年で教えられます。

 

同じように、

 

阿含経も真実、

方等経も真実、

般若経も真実ですが、

 

仏の本意(ほんい)、すべての衆生を成仏させる究極の教えは法華経である

 

というのが開目抄の流れです。

 

まとめ

 

この御文は、

 

「仏様は決して嘘をつかない。その仏様が最後に『法華経こそ第一である』と説かれたのだから、私たちは安心して南無妙法蓮華経を信じ抜くことができる」

 

という確信を教えてくださる御文と拝することができます。

 

19

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集325

 

(二六)仏身 5/11

 

観心本尊抄 653

 

 我等が己心の釈尊は五百塵点(じんでん)乃至所顕の三身にして無始の古仏なり。経に云はく「我本(もと)菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命、今猶(なお)未だ尽きず。復上(かみ)の数に倍せり」等云云。我等が己心の菩薩等なり。

 

 この御文は、**「仏は遠い存在ではなく、私たちの生命の中に本来具わっている」**という、一念三千・久遠元初の法門の大切な教えです。

 

御文の意味

 

我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり

 

「私たちの心の中に具わる釈尊は、五百塵点劫というはるかな昔に成仏した仏であり、法身・報身・応身の三身を具えた久遠の仏である」

 

という意味です。

 

普通に考えると、仏様は遠い昔に存在した特別な人のように思えます。

 

しかし大聖人は、

 

『本当の釈尊とは、私たちの生命に本来具わる仏界である』

 

と教えられています。

 

「我本行菩薩道」の文

 

法華経寿量品には、

 

「我本菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命、今なお未だ尽きず」

 

とあります。

 

これは、

 

「私は久遠の昔に菩薩行を実践して仏となり、その仏の生命は今もなお続いている」

 

という意味です。

 

つまり仏の生命は、過去の一時的なものではなく、永遠に存在しているのです。

 

私たちの生命も同じ

 

大聖人は、この寿量品の仏を単なる歴史上の釈尊として見ておられません。

 

私たちの生命そのものに、

 

* 仏の智慧

* 仏の慈悲

* 仏の生命力

 

が具わっていると説かれています。

 

たとえば曇り空の向こうに太陽があるように、悩みや迷いに覆われていても、生命の奥底には仏界が厳然と存在しています。

 

「我等が己心の菩薩等なり」

 

最後の

 

我等が己心の菩薩等なり

 

とは、

 

地涌の菩薩や文殊・普賢なども、外にいる別の存在ではなく、私たちの生命に具わる働きである

 

ということです。

 

仏も菩薩も、すべて己心に具わっているというのが十界互具・一念三千の法門です。

 

この御文は、

 

「御本尊に向かって南無妙法蓮華経と唱える時、久遠元初の仏界が自身の生命に涌現する」

 

ことを示されています。

 

ですから信心とは、外に仏を求めることではなく、

 

「自分の生命に具わる久遠の仏界を御本尊によって開き顕していくこと」

 

なのです。

 

一言で言えば、

 

「仏様は遠い世界にいるのではありません。御本尊を信じて題目を唱える私たちの生命の中に、久遠の仏界が厳然と具わっていることを教えられた御文です。」

 

20

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集326

 

(二六)仏身 6/11

 

諸法実相抄 665

 

 経に云はく「如来秘密(にょらいひみつ)神通之力(じんずうしりき)」是なり。如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用(ゆう)の三身にして迹仏ぞかし。凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり。

 

この御文は、**「凡夫と仏との関係」**を、体(本体)と用(働き)という立場から明かされた大変深い法門です。

 

御文の意味

 

如来秘密は体の三身にして本仏なり

 

「如来秘密」とは、仏の最も深い真実の生命です。

 

これは仏の本体であり、

 

* 法身(真理そのもの)

* 報身(智慧)

* 応身(慈悲の働き)

 

の三身を具えた本仏を表します。

 

神通之力は用の三身

 

神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし

 

「神通之力」とは、その仏の生命が現実に働きを現した姿です。

 

つまり、

 

仏が衆生を救うために現した種々の働きが「用(ゆう)」です。

 

これは本体そのものではなく、その現れなので「迹仏」といわれます。

 

たとえば、

 

* 太陽そのものが「体」

* 太陽の光や熱が「用」

 

という関係です。

 

凡夫は体の三身にして本仏

 

ここが最も大事なところです。

 

凡夫は体の三身にして本仏ぞかし

 

私たちは一見すると迷いの凡夫です。

 

しかし生命の本質を見れば、

 

凡夫の生命そのものが三身を具えた本仏である

 

と仰せです。

 

つまり、

 

仏は遠くにいるのではなく、自身の生命の奥底に本仏の生命が具わっているのです。

 

これは前に学ばれた『観心本尊抄』の

 

「我等が己心の釈尊」

 

と同じ趣旨です。

 

仏は用の三身にして迹仏

 

仏は用の三身にして迹仏なり

 

釈尊がこの世に出現して説法した姿は、衆生を救うために現れた働きです。

 

したがって、その現れた姿を「迹仏」とされています。

 

つまり、

 

* 凡夫の生命の奥底にある仏界=本仏(体)

* 歴史上に現れて教えを説く仏=迹仏(用)

 

ということです。

 

わかりやすく言うと

 

たとえば電気に例えると、

 

* 発電所にある電気そのもの=体

* 電球が光る働き=用

 

です。

 

私たちの生命には本来、仏の生命(体)が具わっています。

 

そして御本尊を信じて唱題すると、その仏界が智慧や慈悲や勇気という働き(用)になって現れます。

 

 

この御文は、

 

「凡夫だから仏になれない」のではなく、「凡夫の生命こそ本来仏である」

 

ということを教えられています。

 

だからこそ日蓮大聖人は、

 

御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えるとき、自身の生命に具わる本仏の三身が現実の生活の中に働きとして現れる

 

ことを明かされたのです。

 

まとめれば、

 

「仏は遠い存在ではありません。私たち凡夫の生命そのものが本仏であり、唱題によってその仏の生命が智慧・慈悲・勇気となって現れてくることを教えられた御金言です。」

 

深意は、ここでいう仏とは、釈尊。凡夫とは、日蓮大聖人。

大聖人が御本仏、釈尊が迹仏であるということ。

 

22

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集328

 

(二六)仏身 8/11

 

減劫御書 925

 

 本末究竟(くきょう)と申すは、本とは悪のね()善の根、末と申すは悪のをわり善の終はりぞかし。善悪の根本枝葉をさとり極めたるを仏とは申すなり。

 

 この御文は、**「本末究竟(ほんまつくきょう)」**を日蓮大聖人がわかりやすく説明されたものです。

 

「本」とは悪の根・善の根、

「末」とは悪の終わり・善の終わりである。

善悪の根本から枝葉まで、すべてを悟り究めた方を仏というのである。

 

という意味です。

 

わかりやすく言うと

 

木にたとえるなら、

 

* 本(根) = 木の根っこ

* 末(枝葉) = 枝や葉や実

 

です。

 

人間の生命にも、

 

* 善い心が起こる原因(善の根)

* 悪い心が起こる原因(悪の根)

* そこから現れるさまざまな行動や結果(善悪の末)

 

があります。

 

仏様は、

 

「なぜ善い心が起こるのか」

「なぜ悪い心が起こるのか」

「その結果どうなるのか」

 

を生命の奥底からすべて見抜き、完全に悟られています。

 

仏とはどんな存在か

 

私たちは、

 

* なぜ腹が立つのか

* なぜ嫉妬するのか

* なぜ人を思いやれるのか

 

その根本まではなかなかわかりません。

 

しかし仏は、

 

善も悪も含めた生命の実相を完全に知り尽くした存在

 

です。

 

だから仏は、人々を正しく導くことができるのです。

 

法華経・日蓮大聖人の教えから見ると

 

さらに深くいえば、

 

善悪の根本を究めると、生命の本体はすべて南無妙法蓮華経であるとわかります。

 

悪人にも仏界があり、

善人にも迷いがある。

 

これが十界互具の法門です。

 

仏とは、善だけを知るのではなく、

 

善悪を超えて、その根底にある妙法の生命を悟り切った方

 

なのであります。

 

まとめ

 

仏様は善だけをご存じなのではありません。私たちの生命に起こる善も悪も、その原因から結果までをすべて見通されています。そして善悪を超えた生命の本体が南無妙法蓮華経であることを悟られたのです。私たちも唱題によって、自身の生命に具わる仏界を開き、善悪に振り回されない境涯を築いてまいりましょう。

 

23

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集329

 

(二六)仏身 9/11

 

総勘文抄 1413

 

 此の極楽とは十方法界の正報(しょうほう)の有情(うじょう)と、十方法界の依報(えほう)の国土と和合して一体三身即一なり。四土不二にして法身の一仏なり。十界を身と為()すは法身なり。十界を心と為()すは報身なり。十界を形と為すは応身(おうじん)なり。十界の外(ほか)に仏無し。仏の外に十界無く依正不二なり。身土不二なり。一仏の身体なるを以て寂光土と云う是の故に無相の極理とは云ふ。生滅(しょうめつ)無常の相を離るるが故に無相と云ふなり。法性(ほつしょう)の淵底(えんでい)玄宗(げんしゅう)の極地(ごくち)なり。故に極理と云ふ。此の無相の極理なる寂光の極楽は、一切有情の心性の中に有って清浄(しょうじょう)無漏(むろ)なり。

 

 この御文は、御義口伝などに説かれる「寂光土(じゃっこうど)」の法門で、少し難しいですが、要点は

 

「極楽浄土は遠い西の彼方にあるのではなく、妙法を信ずる私たちの生命の中にある」

 

ということです。

 

①「極楽とは何か」

 

此の極楽とは十方法界の正報の有情と十方法界の依報の国土と和合して一体なり

 

「正報」とは生命そのもの、

「依報」とはその生命を取り巻く環境です。

 

つまり、

 

* 人も

* 社会も

* 自然も

* 国土も

 

すべてが妙法によって結ばれ、一体となった世界が真の極楽である、と仰せです。

 

 

②「十界の外に仏はない」

 

十界の外に仏無し、仏の外に十界無し

 

これは十界互具の法門です。

 

仏は特別な世界にだけいるのではありません。

 

地獄界の人にも仏界があり、

餓鬼界の人にも仏界があり、

私たち凡夫の生命にも仏界が具わっています。

 

反対に、仏界にも九界を具えています。

 

だから、

 

仏と衆生は全く別の存在ではない

 

ということです。

 

 

③「依正不二・身土不二」

 

依正不二なり、身土不二なり

 

これは、

 

生命(正報)と環境(依報)は切り離せない

 

という意味です。

 

例えば、

 

明るい生命の人の周りには明るい環境が現れ、

信心に励む人の周囲には功徳の世界が広がります。

 

自分の生命が変われば環境も変わる。

 

これが依正不二です。

 

 

④「寂光土とは」

 

一仏の身体なるを以て寂光土と云う

 

寂光土とは、

 

仏の悟りそのものの世界です。

 

しかし、それは死後に行く場所ではありません。

 

妙法を持った人の生命に現れる、

 

* 絶対の安心

* 絶対の幸福

* 絶対の智慧

 

の境涯を寂光土というのです。

 

 

⑤「無相の極理」

 

生滅無常の相を離れたるが故に無相と云う

 

私たちの姿や財産や地位は変化します。

 

しかし妙法の生命は、

 

* 生まれたからできたものでもなく

* 死んだから消えるものでもない

 

永遠の生命です。

 

この変わらない生命の真理を

 

「無相の極理」

 

といいます。

 

 

⑥ 結論

 

最後の

 

此の無相の極理なる寂光の極楽は一切有情の心性の中に有つて清浄無漏なり

 

が最も大事です。

 

「寂光の極楽は、すべての人の心の中に清らかに具わっている」

 

という意味です。

 

大聖人は、

 

極楽浄土はどこか遠くにあるのではなく、一切衆生の生命の中に本来具わっている。南無妙法蓮華経を信じ唱えることによって、その寂光土の境涯が現れるのである。

 

と教えられているのです。

 

 

 

極楽浄土は死後に行く世界ではなく、私たちの生命の中に本来具わる仏の境涯です。南無妙法蓮華経を唱えるとき、生命に具わる仏界さが現れ、苦悩の中にあっても安心と希望に満ちた寂光土の境涯を築くことができます。大聖人は「十界の外に仏無し」と仰せです。私たち自身の生命の中にこそ極楽があることを確信し、今日も歓喜の唱題に励んでまいりましょう。

 

24日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集330

 

(二六)仏身 10/11

 

御義口伝上 1726

 

「第二   諸仏智慧   甚深無量其智慧門(ごちえもん)の事(方便品八箇の大事)

 

 甚深無量(じんじんむりょう)とは即ち称歎(しょうたん)の辞なり。仏の実智の竪(たて)に如理の底に徹(てっ)することを明かす。故に甚深と言ふ。横に法界の辺を窮(きわ)む、故に無量と言ふ。無量甚深にして竪に高く横に広し、譬へば根深ければ則(すなわ)ち条(えだ)(しげ)く、源遠ければ則ち流れ長きが如し。

 

 この御文は、仏の智慧(ちえ)がどれほど深く広大であるかをたとえを用いて説明されたところです。

 

御文の意味

 

「甚深無量(じんじんむりょう)」

とは、「非常に深く、限りなく広い」という意味で、仏の智慧をほめたたえる言葉です。

 

日蓮大聖人は、

 

* 縦(たて)に深いことを「甚深」

* 横(よこ)に広いことを「無量」

 

と説明されています。

 

「甚深」とは

 

仏の智慧は、物事の真理の根本まで見抜いています。

 

例えば、私たちは目の前の出来事しか見えませんが、仏はその原因や未来の結果、生命の本質まですべて見通されています。

 

その深さを「甚深」といいます。

 

「無量」とは

 

仏の智慧は、あらゆる生命や世界に及びます。

 

人間だけでなく、十界のすべての生命、過去・現在・未来の一切を照らす広大な智慧です。

 

その広さを「無量」といいます。

 

 

たとえ話

 

大聖人は、

 

「根深ければ則ち条茂く、源遠ければ則ち流れ長きが如し」

 

と仰せです。

 

これは、

 

* 木の根が深ければ枝葉は豊かに茂る

* 川の源が遠く大きければ流れも長く豊かになる

 

ということです。

 

同じように、

 

仏の智慧は根本の真理に徹しているので無限の働きを現し、

その智慧は法界全体に広がっているのです。

 

 

法華講員としての拝し方

 

末法の私たちは、自分の力で仏の智慧を知ることはできません。

 

しかし、

 

南無妙法蓮華経を信じて唱える時、御本尊に具わる仏の甚深無量の智慧に触れ、その智慧が自身の生命に涌現する。

 

これが信心の功徳です。

 

つまり、

 

「甚深無量の仏の智慧」とは遠い世界の話ではなく、御本尊を信受し唱題する私たちの生命に現れる仏界の智慧そのものである

 

と拝することができます。

 

まとめれば、

 

仏様の智慧は、根が深い大樹のように真理の奥底まで届き、また大河のように宇宙法界へ広がっています。その仏の智慧を、私たちは南無妙法蓮華経と唱えることで生命に湧き出させることができるのです。だからこそ、日々の唱題を大切にしていきましょう。

 

ということになります。

 

 

25

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集331

 

(二六)仏身 11/11

 

御義口伝上 1729

 

「第四 五濁(ごじょく)の事(方便品八箇の大事)

 

 御義口伝に云はく、日蓮等の類(たぐい)は此の五濁を離るるなり。我此土安穏(がしどあんのん)なれば劫濁に非ず、実相無作(むさ)の仏身なれば衆生濁に非ず、煩悩即菩提・生死即涅槃の妙旨(みょうし)なれば煩悩濁に非ず、五百塵点劫(ごひゃくじんでんごう)より無始本有(むしほんぬ)の身なれば命(みょう)濁に非ざるなり。正直捨方便但説無上道(しょうじきしゃほうべんたんせつむじょうどう)の行者なれば見濁に非(あらざ)るなり。

 

この御文は、「五濁悪世(ごじょくあくせ)」といわれる濁った末法の世の中であっても、妙法を信じ実践する人は、その五濁に支配されない生命境界になることを教えられています。

 

五濁とは

 

仏法では、世の中の濁りを五つに分けます。

 

1. 劫濁(こうじょく) 災害や争いが多い時代の濁り

2. 衆生濁(しゅじょうじょく) 人々の生命が濁っていること

3. 煩悩濁(ぼんのうじょく) 欲や怒りなどの煩悩に苦しむこと

4. 命濁(みょうじょく) 生死に翻弄されること

5. 見濁(けんじょく) 誤った考えに執着すること

 

 

大聖人の御教示

 

大聖人は、

 

「日蓮等の類は此の五濁を離るるなり」

 

と仰せです。

 

これは、

 

南無妙法蓮華経を信じ行ずる人は、五濁悪世の中に住みながらも、その濁りに負けない生命になる

 

という意味です。

 

 

一つずつ見てみると

 

① 劫濁に非ず

 

我此土安穏なれば劫濁に非ず

 

法華経寿量品には

 

「我が此の土は安穏なり」

 

とあります。

 

世の中には災害や問題があっても、信心によって住む世界を寂光土と開いていけるので、劫濁に支配されません。

 

 

② 衆生濁に非ず

 

実相無作の仏身なれば衆生濁に非ず

 

私たちの生命の本質は仏界を具えています。

 

御本尊を信じる人は、自身の仏性を開いていくので、衆生濁に染まりきった存在ではありません。

 

 

③ 煩悩濁に非ず

 

煩悩即菩提・生死即涅槃の妙旨なれば

 

普通は煩悩が苦しみの原因ですが、

 

妙法では

 

煩悩を消すのではなく、そのまま悟りの智慧へ転じる

 

ことができます。

 

怒りや悩みさえも成仏の力に変えられるので、煩悩濁ではないのです。

 

 

④ 命濁に非ず

 

五百塵点劫より無始本有の身なれば命濁に非ざるなり

 

私たちの生命は、この一生だけのものではなく、久遠元初以来の妙法の生命です。

 

そのため、生死に振り回されるだけの存在ではありません。

 

 

⑤ 見濁に非ず

 

正直捨方便但説無上道の行者なれば見濁に非るなり

 

「正直に方便を捨てて、ただ無上道を説く」

 

とは、法華経の教えです。

 

末法において南無妙法蓮華経を信受する人は、正しい法を信じるので、誤った思想や邪見に迷わされないのです。

 

 

朝の法話風に

 

私たちは五濁悪世に生きています。しかし大聖人は、妙法を信じる人は五濁に負けないと教えられました。世の中に問題があっても、心は安穏となり、煩悩を菩提に変え、生死を超える仏の生命を開くことができます。だからこそ、毎日の唱題と折伏に励み、五濁悪世を寂光土へと変えていく信心が大切なのです。

 

26日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集332

 

(二七)無作三身 1/7

 

義浄房御書 669

 

 一とは妙なり、心とは法なり、欲とは蓮なり、見とは華なり、仏とは経なり。此の五字を弘通せんには不自惜身命是(これ)なり。一心に仏を見る、心を一にして仏を見る、一心を見れば仏なり。無作(むさ)の三身の仏果を成就せん事は、恐らくは天台・伝教にも越へ竜樹・迦葉(かしょう)にも勝れたり。

 

 この御文は、日蓮大聖人が「南無妙法蓮華経の信心によって成仏する道」を教えられた大切な御金言です。

 

御文の意味

 

まず、

 

一とは妙なり、心とは法なり、欲とは蓮なり、見とは華なり、仏とは経なり。

 

とあります。

 

これは「一心欲見仏(いっしんよっけんぶつ)」という法華経・如来寿量品の文を、大聖人が妙法蓮華経の五字に配当されたものです。

 

* 一 = 妙

* 心 = 法

* 欲 = 蓮

* 見 = 華

* 仏 = 経

 

つまり、

 

「一心欲見仏」とは、そのまま『妙法蓮華経』を表している

 

ということです。

 

 

「一心に仏を見る」とは

 

一心に仏を見る、心を一にして仏を見る、一心を見れば仏なり。

 

普通は「仏を見る」と聞くと、どこか外にいる仏様を拝むように思います。

 

しかし大聖人は、

 

仏は自分の生命の中にある

 

と教えられています。

 

そのため、

 

「仏を見たい」と願って御本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱えるならば、

 

自分自身の生命に具わる仏界を現していくことができるのです。

 

だから、

 

一心を見れば仏なり

 

すなわち

 

自分の生命の本当の姿を見れば、それが仏である

 

という意味です。

 

 

「不自惜身命是なり」とは

 

此の五字を弘通せんには不自惜身命是なり。

 

「不自惜身命」とは、

 

「身命を惜しまず法華経を弘める」

 

ということです。

 

末法において南無妙法蓮華経を受持し弘教(ぐきょう)していく時には、

 

* 悪口を言われる

* 反対される

* 苦労する

 

こともあります。

 

しかし、それを恐れず妙法を弘めていく姿こそが「不自惜身命」の実践であり、日蓮大聖人御自身のお姿でもあります。

 

 

結論

 

無作の三身の仏果を成就せん事は、恐らくは天台・伝教にも越へ竜樹・迦葉にも勝れたり。

 

「無作の三身」とは、もともと生命に具わる仏の境界です。

 

末法の衆生が御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え、弘教に励むならば、

 

生きたまま仏の生命を現し、成仏することができる。

 

この成仏は、理論として悟っただけではなく、実際に仏界を涌現するので、

 

天台大師や伝教大師、あるいは竜樹菩薩・迦葉尊者にも勝るほど尊い功徳であると仰せなのです。

 

一言で

 

「仏様は遠くにいる特別な存在ではなく、本当は自分の生命の中にいる。御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え、人にも妙法を伝えていけば、その仏の生命が現れる。これこそ末法の成仏わの道であり、最高の実践である。」

 

ということです。

 

 

 

27日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集333

 

(二七)無作三身 2/7

 

教行証御書 1107

 

 此の経には二十の大事あり。就中(なかんづく)五百塵点(じんでん)顕本の寿量に何(いか)なる事を説き給へるとか人々は思(おぼ)し召()し候。我等が如き凡夫、無始已来(いらい)生死(しょうじ)の苦底に沈輪(ちんりん)して仏道の彼岸を夢にも知らざりし衆生界を無作本覚(ほんがく)の三身と成()し、実に一念三千の極理(ごくり)を説くなんど浅深を立つべし。

 

この御文は、日蓮大聖人が法華経寿量品の真髄を説かれた大切な一節です。

 

わかりやすく現代語にすると

 

「法華経には二十の大事(重要な法門)が説かれている。その中でも、とくに五百塵点劫という久遠を明かした寿量品には、何が説かれていると思いますか。

 

それは、私たちのような凡夫が、無始の昔から生死を繰り返し、仏になる道も知らず苦しみ続けてきたその生命が、そのまま無作本覚の三身(ありのままで仏の生命)であることを明かし、まさに一念三千という仏法の究極の真理を説いているのです。」

 

ポイント① 「凡夫がそのまま仏」

 

ここで一番大切なのは、

 

「苦しみ多い凡夫を捨てて別の仏になる」のではない。

 

今のこの凡夫の生命そのものが仏である。

 

ということです。

 

私たちは迷いや苦しみがあります。しかし寿量品では、その生命の奥底には、久遠元初から変わらない仏の生命が具わっていることを明かしています。

 

ポイント② 「無作本覚の三身」とは

 

「無作」とは、つくろわず、はたらかず、ありのまま。

 

1. 「つくろわない」ありのままの姿

2. 本来そなわっている(本有:ほんぬ)

3. 計らいのない「自然(じねん)」の働き

 

「本覚」とは、もともと仏の生命を具えているという意味です。

 

つまり、

 

仏になるために新しい生命を作るのではなく、もともと具えている仏の生命を南無妙法蓮華経によって顕すということです。

 

ポイント③ 「一念三千の極理」

 

一念三千とは、

 

一瞬一瞬の私たちの生命の中に、宇宙法界のすべての働きと仏界まで具わっている

 

という法門です。

 

寿量品では、その仏界が一時的なものではなく、久遠以来の永遠の仏の生命であることが明かされました。

 

だからこそ、大聖人はこの寿量品を法華経の肝心とされました。

 

日蓮正宗の立場から

 

日蓮大聖人は、この寿量品の文底に秘沈された南無妙法蓮華経を御本尊として顕されました。

 

私たちは御本尊に唱題することで、

 

* 苦しみの凡夫のまま、

* 久遠元初の仏の生命を涌現し、

* 現実の生活の中で成仏の境界を現していくことができます。

 

つまり、この御文は、

 

「寿量品が明かした最大の教えは、凡夫の生命そのものが仏であり、その真実を一念三千の極理として説き明かしたことである」

 

ということを示しています。

 

このことが、日蓮大聖人の仏法における凡夫即極、即身成仏の根本となる教えなのです。

 

28日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集334

 

(二七)無作三身 3/7

 

御義口伝下 17656

 

「第一   南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事(寿量品二十七箇の大事)

 

 六即の配立(はいりゅう)の時は此の品の如来は理即の凡夫なり。頭(こうべ)に南無妙法蓮華経を頂戴(ちょうだい)し奉る時名字即なり。其()の故は始めて聞く所の題目なるが故なり。聞き奉りて修行するは観行即なり。此の観行即とは事の一念三千の本尊を観ずるなり。さて惑障(わくしょう)を伏するを相似(そうじ)即と云ふなり。化他に出づるを分真(ぶんしん)即と云ふなり。無作の三身の仏なりと究竟(くきょう)したるを究竟即の仏とは云ふなり。総じて伏惑(ぶくわく)を以て寿量品の極(ごく)とせず、唯(ただ)凡夫の当体本有(ほんぬ)の侭(まま)を此の品の極理と心得べきなり。無作の三身の所作は何物ぞと云ふ時、南無妙法蓮華経なり云云。

 

この御文は、御義口伝の中でも、日蓮大聖人が寿量品の本当の意義を教えられた大切なところです。

 

要点を一つずつ、わかりやすく説明します。

 

 

①「六即の配立」とは

 

「六即」とは、凡夫が仏へと至る道筋を六段階で表したものです。

 

1. 理即(りそく)すべての人は本来仏の生命を持っている。

2. 名字即(みょうじそく)南無妙法蓮華経を聞き、信心を始める。

3. 観行即(かんぎょうそく)御本尊に向かい唱題・信心を実践する。

4. 相似即(そうじそく)煩悩に負けない境涯になっていく。

5. 分真即(ぶんしんそく)人々を救う弘教に励む境涯。

6. 究竟即(くきょうそく)仏の境涯を完全に顕した状態。

 

 

②「頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時名字即なり」

 

これは、

 

初めて南無妙法蓮華経を聞き、「信じてみよう」と御本尊を受持する時(御授戒)が、名字即である

 

ということです。

 

信心は、まず妙法を聞くことから始まります。

 

 

③「聞き奉りて修行するは観行即なり」

 

妙法を聞くだけではなく、

 

* 朝夕の勤行

* 唱題

* 御書を学ぶ

* 弘教に励む

 

という実践を続けることが観行即です。

 

そして、

 

「事の一念三千の本尊を観ずるなり」

 

とは、

 

戒壇の大御本尊・御本尊を信じ、唱題することを意味しています。

 

 

④「惑障を伏するを相似即」

 

「惑障」とは、

 

*

* 怒り

* 愚かさ

* 自分勝手な心

 

などです。

 

信心を続けることで、それらに振り回されなくなっていく姿を相似即といいます。

 

 

⑤「化他に出づるを分真即」

 

「化他」とは、

 

**自分だけでなく、人にも妙法を伝えること(弘教)**です。

 

自分の幸せだけではなく、他人の幸せのためにも行動する境涯です。

 

 

⑥「無作の三身の仏なりと究竟したる」

 

ここでいう「無作の三身」とは、

 

* 法身

* 報身

* 応身

 

が、もともと自分の生命に具わっている仏の生命です。

 

それを完全に顕した姿が究竟即です。

 

 

一番大切な御文

 

「総じて伏惑を以て寿量品の極とせず、唯凡夫の当体本有の侭を此の品の極理と心得べきなり。」

 

これが最も重要です。

 

つまり、

 

「煩悩を全部なくした人だけが仏なのではない。」

 

ということです。

 

そうではなく、

 

今この凡夫の身のままで、もともと仏の生命を具えている。これが寿量品の究極の教えである。

 

という意味です。

 

これは日蓮大聖人の凡夫即仏の教えそのものです。

 

 

最後の一文

 

「無作の三身の所作は何物ぞと云ふ時、南無妙法蓮華経なり」

 

「仏の生命とは何か。」

 

その働きそのものが、

 

南無妙法蓮華経

 

である、と結論されています。

 

つまり、

 

* 御本尊を信じ、

* 南無妙法蓮華経と唱えることによって、

 

私たち凡夫の生命にもともと具わる仏界(無作の三身)が現れてくるのです。

 

 

この御文の要点

 

日蓮大聖人は、「寿量品」の極意は、遠い未来に仏になることではなく、凡夫である私たちが、御本尊を受持し、南無妙法蓮華経と唱えることで、本来具えている仏の生命(無作の三身)をそのまま現すことにあると教えられています。したがって、信心の目的は凡夫を捨てて別の存在になることではなく、凡夫の当体のままで仏の境涯を開いていくことにある、ということを明らかにされた大変重要な御文です。

 

()

今日の御文の前文に

「されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり。」

 

無作三身は、末法の法華経の行者。即ち日蓮大聖人。

無作三身の宝号は、南無妙法蓮華経。

日蓮大聖人即南無妙法蓮華経。

 

久遠元初の本有無作三身(御本仏)は、日蓮大聖人。

久遠元初の本法は、南無妙法蓮華経。

日蓮大聖人即南無妙法蓮華経。

 

29

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集335

 

(二七)無作三身 4/7

 

御義口伝下 1772

 

「第二十   得入無上道等の事(寿量品二十七箇の大事)

 

 御義口伝に云はく、無上道とは寿量品の無作の三身なり。此の外(ほか)に成就仏身之(これ)無し。今日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は成就仏身疑ひ無きなり云云。

 

この御文は、御義口伝の中でも、日蓮大聖人が「成仏とは何か」を明快に示された大切な御文です。

 

「無上道」とは、この上ない最高の仏の境界のことです。

 

その最高の仏の境界とは、**法華経寿量品に説かれる『無作の三身』**です。

 

「無作」とは、修行によって新しく作り上げるものではなく、本来誰もが生命に具えている仏の生命という意味です。

 

「三身」とは、

 

* 法身真理そのものの生命

* 報身智慧に満ちた生命

* 応身人々を救う慈悲の働きをする生命

 

この三つが一体となった仏の生命です。

 

そして大聖人は、

 

「この無作の三身以外に、仏になる道はありません」

 

と断言されています。

 

さらに、

 

「今日、日蓮大聖人の弟子檀那として南無妙法蓮華経と唱える人は、必ず仏の生命を成就することに疑いはない」

 

と仰せです。

 

私たちへの教え

 

この御文で最も大切なのは、

 

仏は遠い存在ではなく、南無妙法蓮華経を唱える私たち自身の生命に仏界が現れるということです。

 

たとえ今、悩みや苦しみの中にあっても、御本尊に向かって真剣に唱題することで、本来具わる仏の生命が現れます。

 

そのため、大聖人は

 

「南無妙法蓮華経と唱え奉る者は成就仏身疑無きなり」

 

と、少しの迷いもなく断言されています。

 

 

「仏になるとは、どこか別の世界へ行くことでも、特別な人だけができることでもありません。私たちが毎日、御本尊に向かって『南無妙法蓮華経』と唱えるとき、その一念に本来具わる仏の生命が湧き現れます。だからこそ大聖人は、『南無妙法蓮華経と唱え奉る者は成就仏身疑無きなり』と仰せです。今日も確信をもって唱題に励み、自身の仏の生命を力強く開いてまいりましょう。」

 

30

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集336

 

(二七)無作三身 5/7

 

「第廿三   久遠の事(寿量品二十七箇の大事)

 

 此の品の所詮は久遠実成なり。久遠とははたらかさず、つくろわず、もとの侭(まま)と云ふ義なり。無作の三身なれば初めて成ぜず、是働(はたら)かさざるなり。三十二相八十種好を具足せず、是繕(つくろ)はざるなり。本有常住の仏なれば本の侭なり。是を久遠と云ふなり。久遠とは南無妙法蓮華経なり。実成(まことにひらけたり)、無作と開けたるなり云云。

 

 この御文は、**「久遠実成とは何か」**を、日蓮大聖人が御本尊の立場から明かされた大変重要な御文です。

 

御文の意味

 

「此の品の所詮は久遠実成なり。」

 

寿量品の最も大切な教えは、「久遠実成」です。

 

一般には「釈尊は久遠の昔に仏となっていた」という意味に受け取られますが、大聖人はさらに深く、その本質を説かれています。

 

 

「久遠」とは何か

 

「久遠とははたらかさず、つくろわず、もとの侭(まま)と云ふ義なり。」

 

ここでいう「久遠」とは、ただ昔という時間のことではありません。

 

* はたらかさず新しく作り出すものではない。

* つくろわず飾ったり、修行で付け加えたりするものではない。

* もとのまま生命に本来そなわっている姿。

 

つまり、

 

仏の生命は、もともと誰の生命にも具わっているということです。

 

 

「無作の三身」とは

 

「無作の三身なれば初めて成ぜず」

 

「無作」とは、「作られたものではない」という意味です。

 

私たちは普通、「修行を積んで仏になる」と考えがちです。

 

しかし、大聖人は、

 

仏の生命は修行によって新しく作るものではなく、もともと生命に具わっている

 

と教えられています。

 

だから「初めて仏になる」のではありません。

 

 

「三十二相八十種好を具足せず」

 

仏には三十二相八十種好という立派な姿があると説かれます。

 

しかし大聖人は、

 

「それが仏の本質ではない」

 

と仰せです。

 

見た目が特別だから仏なのではなく、

 

生命そのものが妙法と一体になっていることが仏なのです。

 

 

「本有常住の仏」

 

「本有常住の仏なれば本の侭なり。」

 

「本有」とは、生まれつき具わっていること。

 

「常住」とは、永遠に失われないこと。

 

つまり、

 

私たちの生命には、もともと永遠の仏界が具わっている

 

ということです。

 

 

「久遠とは南無妙法蓮華経なり」

 

これがこの御文の結論です。

 

久遠とは、何億年前という時間ではありません。

 

久遠そのものが南無妙法蓮華経なのです。

 

南無妙法蓮華経は、

 

* 永遠の生命そのもの

* 仏の生命そのもの

* 宇宙の根本の法そのもの

 

です。

 

 

「実成、無作と開けたるなり」

 

「実成」とは、

 

南無妙法蓮華経を受持し唱えることによって、自分の生命にもともと具わっていた仏界が現れること

 

です。

 

新しく仏になるのではありません。

 

もともと具わっていた仏の生命が開き現れることを「実成」といいます。

 

 

 

寿量品の「久遠実成」とは、「遠い昔に仏になった」という歴史を教えるものではありません。大聖人は「久遠とは、はたらかさず、つくろわず、もとのままと云ふ義なり」と仰せになり、仏の生命はもともと私たちに具わっていることを明かされています。そして「久遠とは南無妙法蓮華経なり」と結論されています。私たちが御本尊に向かって南無妙法蓮華経と唱えるとき、生命に本来具わる無作の三身がそのまま現れます。だから成仏とは、新しい自分になることではなく、本来の仏の生命を開き現すことなのです。今日も確信をもって唱題に励み、久遠の仏の生命を力強く顕してまいりましょう。