1

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集215番外

 

(十二)久遠元初 4/4

 

本因妙抄 16823

 

 彼は応仏昇進の自受用報身の一念三千・一心三観、此は久遠元初の自受用報身無作本有(むさほんぬ)の妙法を直ちに唱ふ。

 

これは『本因妙抄』の中でも、文上と文底の違いを明かす重要な一節です。

 

 

全体の意味

 

👉 「彼」と「此れ」で二つを対比しています。

      彼 = 釈尊の立場(文上)

      此れ = 日蓮大聖人の立場(文底)

 

という違いです。

 

 

① 「彼は応仏昇進の自受用報身の一念三千一心三観」

 

● 応仏昇進とは?

 

応仏(おうぶつ)とは、

 

👉 衆生を救うために現れた仏(応身仏)

 

昇進とは、

 

👉 修行して次第に仏に近づくこと

 

つまり、

 

修行によって仏の境界へ昇っていく立場

 

です。

 

 

● 自受用報身の一念三千・一心三観とは?

 

これは天台教学の中心法門。

      一念三千 = 一念の中に三千の法界を具える

      一心三観 = 空・仮・中を同時に観ずる

 

しかしこれは

 

👉 観ずる修行によって体得する立場

 

です。

 

つまり「彼」は

 

修行して悟る一念三千

 

なのです。

 

 

② 「此れは久遠元初の自受用報身無作本有の妙法を直ちに唱ふ」

 

ここが大聖人の立場です。

 

 

● 久遠元初の自受用報身

 

久遠元初とは、

 

👉 はるか昔という時間ではなく

👉 始まりなき根源

 

自受用報身とは、

 

👉 妙法そのものを体とする仏

 

久遠元初の仏=妙法蓮華経

 

● 無作本有とは?

 

無作(むさ)とは、

 

👉 作られたものではない

👉 修行で得たものではない

 

本有(ほんぬ)とは、

 

👉 もともと具わっている

 

つまり、

 

もともと備わっている妙法

 

です。

 

 

● 直ちに唱ふ

 

ここが決定的に違います。

 

天台は「観ずる」。

 

大聖人は

 

南無妙法蓮華経と直ちに唱える。

 

観じて悟るのではなく、

 

唱えることがそのまま仏の因行になる。

 

③ 両者の違いを表にすると

 

彼(釈尊・天台の考えかた)

①修行して昇る

②観じて悟る

③理の一念三千

④応仏昇進

 

此れ(大聖人)

①直ちに唱える

② 受持して成仏

③ 事の一念三千

④ 無作本有

 

④ 一言でいうと、

天台は「観心の法門」

修行で近づく仏

 

大聖人は「唱題の仏法」

もともと具わる妙法

 

という違いです。

 

⑤ 直体との関係

 

この御文は、

 

👉 成仏を目指して昇る立場ではなく

👉 久遠元初の妙法を直ちに受持する立場

 

を明かしています。

 

つまり、

 

直体の妙法をそのまま唱える

 

これが末法の正意です。

 

まとめ

 

この御文の核心は

 

修行昇進の仏法ではない

久遠元初無作本有の妙法

それを直ちに唱える

唱題即成仏の法門

 

ということです。

 

2

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集216

 

(十三)教 1/7

 

教機時国抄 26970

 

 教とは、釈迦如来所説の一切の経律論五千四十八巻四百八十帙(ちつ)。天竺に流布すること一千年、仏の滅後一千一十五年に当たって震旦(しんだん)国に仏経渡る。後漢の孝明皇帝永平十年丁卯(ひのとう)より唐の玄宗(げんそう)皇帝開元十八年庚午(かのえうま)に至る六百六十四歳の間に一切経渡り畢(おわ)んぬ。

此の一切の経律論の中に小乗・大乗・権経・実経・顕経・密経あり。此等(これら)を弁(わきま)ふべし。此の名目(みょうもく)は論師人師よりも出でず、仏説より起る。十方世界の一切衆生一人も無く之を用ふべし。

 

『教機時国抄』のこの御文は、「教(おしえ)」とは何か、そしてその教えを正しく見分ける大切さを教えられたところです。

 

 

① 「教」とは何か?

 

ここでいう「教」とは、

 

👉 釈迦如来(お釈迦さま)が説かれた一切の経・律・論のことです。

      経(きょう)…仏の教えそのもの

      律(りつ)…生活のきまり

      論(ろん)…教えの解説

 

それが全部で

五千四十八巻・四百八十帙もある、と言われています。

 

つまり、「仏教全部」のことを指しています。

 

 

② 仏教が中国へ伝わった歴史

 

仏教はまずインド(天竺)に広まりました。

      仏滅後 約1000

      **後漢の孝明皇帝(永平10年)**の時に中国へ伝わります。

      そこから

**唐の玄宗皇帝(開元18年)**までの約664年間に

ほぼすべての経典が中国へ渡りました。

 

つまり、

 

👉 仏教は長い年月をかけて伝わり、整理されてきた

 

ということです。

 

 

③ でも、経典は全部同じではない

 

ここが一番大事なところです。

 

一切経の中には、いろいろな種類があります。

      小乗

      大乗

      権経(仮の教え)

      実経(真実の教え)

      顕経

      密経

 

つまり、

 

👉 全部が同じ価値・同じ深さではない

 

ということです。

 

 

④ その区別は誰が決めたの?

 

大事な御文があります。

 

「此の名目は論師人師よりも出でず、仏説より起る」

 

これは、

 

後の学者やお坊さんが勝手に決めたのではない

もともと仏の説法そのものに基づいている

 

という意味です。

 

仏が説法の中で、浅い教えから深い教えへと順々に説かれた。

だから自然に区別があるのです。

 

 

⑤ なぜ区別が必要なのか?

 

最後の御文。

 

十方世界の一切衆生一人も無く之を用ふべし。

 

これは、

 

👉 すべての人が、正しくこの区別を知るべきである

 

という意味です。

 

なぜなら――

 

もし、

      仮の教えを最高だと思えば

      小乗を究極だと思えば

 

成仏の道を誤ってしまうからです。

 

 

⑥ まとめ(中学生向けに)

 

この御文で大聖人が言われたいことは、

 

🌟 仏教にはたくさんの経典がある

🌟 しかし、全部が同じではない

🌟 正しい教えを見分けなければならない

🌟 それは仏ご自身が説き分けられた順番に従うこと

 

ということです。

 

末法においては、

 

👉 最高の実経である法華経

👉 その肝心である南無妙法蓮華経

 

これを弘教(ぐきょう)していくことが肝要、という流れにつながっていきます。

 

3

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集217

 

(十三)教 2/7

 

教機時国抄 2712

 

天台山の智者大師只(ただ)一人のみ、一切経の中に法華経を勝れたりと立つるのみに非ず、法華経に勝れる経之(これ)有りと云はん者を諫暁(かんぎょう)せよ。止()まずんば現世に舌口中(こうちゅう)に爛(ただ)れ後生(ごしょう)は阿鼻地獄に堕()すべし等云云。

此等の相違を能()能く之を弁へたる者は教を知れる者なり。

 

日蓮大聖人が

天台智顗(智者大師)の法華経観を引いて、

**「教えの勝劣を正しくわきまえることの大切さ」**を示された御文です。

 

 

🔹 内容

 

天台大師は、

      「一切経の中で、法華経が最もすぐれている」と立てた。

      それだけでなく、

      「法華経より勝れた経がある」と言う人がいたら、きちんと諫めなさいと教えた。

 

そして、

それでも改めないなら、

      現世では舌や口に苦しみを受け、

      後生では阿鼻地獄に堕ちる

 

とまで厳しく戒められた、というのです。

 

 

🔹 なぜそこまで厳しいのか?

 

ここが大事です。

 

仏法では、

どの教えが根本かを間違えると、

修行そのものが根本から狂ってしまうからです。

 

たとえば、

      法華経が最高と知りながら、

      それより下の教えを最高と思ってしまえば、

 

成仏の道を失うことになる、ということです。

 

だから天台大師は、

「法華経第一」を揺るがせにしてはならない、と強く言われたのです。

 

 

🔹 「此等の相違を能く能く弁へたる者は教を知れる者なり」とは?

 

ここが御文の結論です。

 

「これらの違い(=教えの勝劣・浅深)を

よくわきまえている人こそ、

本当に“教えを知っている人”である」

 

という意味です。

 

つまり、

      ただ経を読んでいるだけではなく

      どれが方便で

      どれが真実か

      どれが根本か

 

を見分けられる人が「教を知る者」なのです。

 

 

🔹 日蓮大聖人の御心

 

大聖人はこの文を通して、

      末法においても

      法華経を第一と立て

      それを弘めること

 

が正しい仏道であると示されています。

 

そして末法では、

法華経の肝要である

 

👉 南無妙法蓮華経

 

こそが最高の法である、という流れになります。

 

 

🌅 まとめ

 

仏さまの教えにはたくさんの経典があります。

でも、その中でいちばん大切なのが法華経です。

 

その順番を間違えると、

どんなに一生懸命でも成仏の道を外れてしまいます。

 

だからこそ、

 

「どの教えが一番大切か」

 

を正しく知ることが大事なのです。

 

これが

教えを知る人の姿です。

 

 

4日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集218

 

(十三)教 3/7

 

開目抄 5612

 

 教の浅深をしらざれば理の浅深を弁ふものなし。

 

🔹 わかりやすく言うと

 

「教えの浅い・深いがわからなければ、

その教えの中身(真理)がどれほど深いかも、わからない。」

 

という意味です。

 

 

🔹 もう少しかみくだくと

 

仏教には、たくさんのお経があります。

 

でも――

      どれも同じだ

      どれも平等だ

      好きなものを選べばいい

 

という考えでは、

本当の深さはわかりません。

 

たとえば、

 

例え話

 

小学生の算数と高校の数学。

 

どちらも「数学」ですが、

内容の深さはまったく違います。

 

もしそれを区別できなければ、

 

「どちらがより深い内容か」

も判断できません。

 

それと同じです。

 

 

🔹 「教」と「理」とは?

      教(きょう) = 仏が説かれた経典・教え

      理(り) = その中に説かれている真理・悟りの内容

 

つまり、

 

教えに浅い・深いの区別があるからこそ、

その中の真理の浅深もわかる、ということです。

 

 

🔹 なぜこれが大切なのか?

 

もし教えの違いを知らなければ、

      権教(仮の教え)と

      実教(本当の教え)

 

の区別がつきません。

 

その結果、

 

最高の教えである法華経の深さも

わからなくなってしまいます。

 

だから大聖人は、

 

👉 教の勝劣・浅深を知ることが大事

 

と教えられているのです。

 

 

🔹 日蓮大聖人の御心

 

『開目抄』は、

大聖人が命がけで法華経第一を立てられた書です。

 

ここで言われているのは、

      仏法を学ぶなら

      まず教えの位置づけを知りなさい

 

ということです。

 

 

🌅 まとめ 

 

仏さまの教えには、

浅い教えと深い教えがあります。

 

その違いがわからなければ、

どれが本当にすごい教えなのかもわかりません。

 

だから、

 

「どの教えがいちばん深いのか」

 

を知ることが、正しい信心の出発点なのです。

 

 

5日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集219

 

(十三)教 4/7

 

顕仏未来記 676

 

 正像の二時を末法に相対するに時と機と共に正像は殊(こと)に勝るるなり。何ぞ其()の時機を捨てて偏(ひとえ)に当時を指すや。答へて云はく、仏意(ぶっち)測り難(がた)し、予未だ之を得ざれども、試みに一義を案じ小乗経を以て之を勘(かんが)ふるに、正法千年は教行証の三つ具(つぶさ)に之を備ふ、像法千年には教行のみ有って証無し。末法には教のみ有って行証なし。

 

 

■ 御文のポイント

正法・像法の時代は、末法に比べれば「時」も「機(人の素質)」もすぐれている。

それなのに、なぜその良い時代を捨てて、わざわざ末法の今を大事にするのか。

その理由は、仏の深いお心ははかり知れないが、一つの見方として小乗経で考えると――

 

・正法千年:教・行・証の三つがそろっている

・像法千年:教と行はあるが、証(悟り)はない

・末法:教だけあって、行も証もない

 

 

🌅 三時のちがいをやさしく

 

① 正法時代(しょうぼう)

      仏の教え(教)

      修行(行)

      悟りの証明(証)

 

👉 三つともそろっている理想の時代。

 

② 像法時代(ぞうほう)

      教えはある

      修行もある

      しかし、悟る人がいない

 

👉 形はあっても中身が弱くなっている時代。

 

 

③ 末法時代(まっぽう)

      教えだけは残っている

      しかし正しい修行もなく、悟りもない

 

👉 教えはあっても、人々が実践できず、成仏できない時代。

 

 

🤔 では、なぜ末法が大事なのか?

 

一見すると、正法時代が一番よさそうに思えます。

 

しかし――

 

仏さまは 末法の衆生をこそ救おう とされました。

 

それが、

日蓮大聖人があらわれられた理由です。

 

末法は、従来の修行では救えない時代。

だからこそ、

 

👉 「誰でもできる」

👉 「むずかしい修行がいらない」

👉 「南無妙法蓮華経を唱える」

 

という下種の大法があらわれたのです。

 

 

🌱 たとえで言うと

 

正法時代は、元気な若者が多い時代。

像法時代は、少し弱ってきた時代。

末法は、病人ばかりの時代。

 

病人ばかりの時代には、

強い修行よりも、すぐ効く大良薬 が必要です。

 

その大良薬が、

末法万年のための南無妙法蓮華経なのです。

 

 

🌞 まとめ

      正法は教行証の三つが具足

      像法は教行のみ

      末法は教のみ

      しかし末法こそ、仏の本意があらわれる時代

 

だからこそ今、

私たちが題目を唱えることに、

大きな意味があるのです。

 

6

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集220

 

(十三)教 5/7

 

顕仏未来記 676

 

 法華経を以て之を探るに、正法千年に三事を具するは、在世に於て法華経に結縁(けちえん)する者、其の後正法に生まれて小乗の教行を以て縁と為()し小乗の証を得るなり。像法に於ては在世の結縁微薄(みはく)の故に小乗に於て証すること無く、此の人権(ごん)大乗を以て縁と為して十方の浄土に生ず。末法に於ては大小の益(やく)共に之無し。小乗には教のみ有て行証無く、大乗には教行のみ有って冥顕(みょうけん)の証之無し。

 

この御文は、正法・像法・末法で仏法の利益がどのように違うかを説明している大切なところです。

 

 

① 正法時代(しょうぼうじだい)

 

仏が亡くなって最初の 1000年。

 

御文

「正法千年に三事を具する」

 

ここでいう 三事 は

      教(おしえ)

      行(修行)

      証(悟り・成仏の証明)

 

つまり

教えもあり、修行もでき、実際に悟りも得られる時代です。

 

さらに大聖人はこう説明しています。

      釈迦在世で法華経と縁を結んだ人

      その人が正法時代に生まれる

      小乗の修行をして

      阿羅漢などの悟りを得る

 

という流れです。

 

簡単にいうと

 

仏の時代に種をまいた人が

正法時代に悟りを得る

 

ということです。

 

 

② 像法時代(ぞうぼうじだい)

 

次の 1000年。

 

御文

「在世の結縁微薄の故に」

 

これは

釈迦と縁が弱い人が生まれるという意味です。

 

そのため

      小乗では悟れない

      権大乗(ごんだいじょう)を修行する

 

そしてどうなるかというと

      悟りは得られないが

      浄土などの世界に生まれる

 

つまり

 

修行はする

しかしこの世で悟りは得ない

 

という状態です。

 

 

③ 末法時代(まっぽうじだい)

 

今の時代です。

 

御文

「末法に於ては大小の益共に之無し」

 

これは

      小乗

      大乗

 

どちらの教えでも 本当の利益はないという意味です。

 

さらに詳しく書いてあります。

 

小乗

 

「教のみ有て行証無し」

      教えは残っている

      しかし修行しても悟れない

 

大乗

 

「教行のみ有って冥顕の証之無し」

      教えはある

      修行もある

      しかし 悟りの結果は現れない

 

つまり

 

昔の仏教では

誰も成仏できない時代

 

ということです。

 

 

④ だから何が必要なのか

 

ここが大聖人の一番言いたいところです。

 

末法では

 

普通の仏教では

誰も悟れない。

 

だからこそ

 

南無妙法蓮華経

 

という

末法の成仏の法が必要になります。

 

 

まとめ

 

時代 状態

正法 教・行・証がそろう(悟れる)

像法 教・行だけ(悟れない)

末法 教だけ、または教行のみ(悟れない)

 

だから

 

末法の衆生を救うために

日蓮大聖人が南無妙法蓮華経を弘められた

 

という流れになります。

 

7

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集221

 

(十三)教 6/7

 

大学三郎殿御書 884

 

 仏説の如く之を勘ふれば、法華経の外(ほか)華厳経・大集経・般若経・大日経・深密経等の諸経は但(ただ)小衍(しょうえん)相対なり。但法華経計りに限っ已今当(いこんとう)を以て眷属の修多羅と為()す。

(しか)りと雖(いえど)も天台已前の諸師は法華経等の一切の大乗経を小衍相対を以て之を釈す。王臣の差別無く上下之を混す。仏法未だ顕れず。

 

これは、

「なぜ法華経が最も勝れているのか」 を説明している所です。

 

① 最初の文の意味

 

仏説の如く之を勘ふれば、法華経の外…諸経は但小衍相対なり。

 

意味

 

仏の教えのとおりに考えてみると、

法華経以外の経典(華厳経・般若経など)は、

小乗と大乗を比べる段階の教えにすぎない。

 

つまり

      小乗よりは大乗の方がすぐれている

という説明の段階の教えです。

 

ここで挙げている経典は例えば

      華厳経

      大集経

      般若経

      大日経

      解深密経

 

などです。

 

小衍(しょうえん)相対とは、大小相対と同義。

小乗経より大乗経が勝れていると示す比較のこと。

 

② 次の文の意味

 

但法華経計りに限っ已今当を以て眷属の修多羅と為す。

 

意味

 

しかし

法華経だけは特別で、

      過去(已)

      現在(今)

      未来(当)

 

すべての仏が説く中心の経であり、

他の経は その眷属(従う教え) になる。

 

つまり

 

👉 すべての経の中心が法華経

 

ということです。

 

 

③ 次の文の意味

 

天台已前の諸師は…小衍相対を以て之を釈す。

 

これは

 

天台智顗 より前の仏教学者たちは、

      法華経も

      他の大乗経も

 

全部同じ大乗として扱ってしまった

 

と言っています。

 

 

④ たとえの意味

 

王臣の差別無く上下之を混す。

 

これはたとえです。

 

意味は

      王様と家来の区別をせず

      同じに扱ってしまう

 

ということです。

 

つまり

      法華経(王)

      他の経(臣)

 

の違いを

区別しなかったということです。

 

 

⑤ 最後の文

 

仏法未だ顕れず

 

これは

 

👉 そのため 本当の仏法の正しい姿がまだ現れていなかった

 

という意味です。

 

 

まとめ

 

この御文の意味はこうです。

      多くの経は「小乗と大乗の比較」の段階の教え

      法華経だけがすべての経の中心

      しかし昔の学者はその違いを理解できず

      法華経と他の経を同じに扱った

      だから 本当の仏法はまだ明らかになっていなかった

 

ということです。

 

8

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集222

 

(十三)教 7/7

 

神国王御書 1302

 

 無量義経は始め寂滅(じゃくめつ)道場より終はり般若経にいたるまでの一切経を、或は名を挙げ或は年紀を限りて未顕真実と定めぬ。涅槃経と申すは仏最後の御物語に、初め初成道より五十年の説教の御物語、四十余年をば無量義経のごとく邪見の経と定め、法華経をば我が主君と号し給ふ。

 

この御文は、

なぜ法華経が最も大切なのかを、経文を根拠に説明しているところです。

 

① 最初の文

 

無量義経は始め寂滅道場より終はり般若経にいたるまでの一切経を…未顕真実と定めぬ。

 

ここに出てくる

無量義経 は、法華経の直前に説かれた経です。

 

この経では、

 

仏が悟りを開いた場所(寂滅道場)から

その後に説いた多くの経

 

例えば

      華厳経

      般若経

 

などを含めて

 

「まだ真実をはっきり説いていない(未顕真実)」

 

と説いています。

 

つまり

 

👉 それまでの経は最終の真実ではない

 

という意味です。

 

 

② 次の文

 

涅槃経と申すは仏最後の御物語に…

 

ここで出てくるのが

涅槃経 です。

 

これは

釈迦仏が亡くなる直前に説いた最後の経です。

 

 

③ 涅槃経の内容

 

初め初成道より五十年の説教の御物語

 

これは

 

釈迦仏が悟りを開いてから

50年間説いた教えを振り返る話

 

という意味です。

 

 

④ 重要なところ

 

四十余年をば無量義経のごとく邪見の経と定め

 

これは少し強い言い方ですが意味は

 

最初の四十余年の経は真実をまだ説いていない教え

 

ということです。

 

つまり

 

👉 仮の教え(方便)

 

という意味です。

 

 

⑤ 法華経について

 

法華経をば我が主君と号し給ふ

 

ここが一番大事です。

 

涅槃経では

 

法華経をすべての経の主君(王)

 

と認めています。

 

ここでいう法華経は

法華経 です。

 

⑥ まとめ

 

この御文は次のことを教えています。

 

① 仏は最初から多くの経を説いた

② しかし最初の四十余年の経はまだ真実をはっきり説いていない

③ 本当の中心は法華経である

④ 最後の涅槃経でもそれを認めている

 

という意味です。

 

 

まとめ

 

日蓮大聖人の教えでは

      多くの経があるが

      仏の本当の心は法華経にある

 

だからこそ

 

法華経の肝心である南無妙法蓮華経が末法の救いになる

 

と教えられています。

 

9日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集223

 

(十四)機 1/6

 

教機時国抄 270

 

 機とは、仏教を弘むる人は必ず機根を知るべし。(中略)

智恵第一の舎利弗(しゃりほつ)すら尚(なお)機を知らず。何(いか)に況(いわ)んや末代の凡師機を知り難(がた)し。但し機を知らざる凡師は所化の弟子に一向に法華経を教ふべし。

 

この御文は 教機時国抄 の中で、

日蓮大聖人が 仏法を弘める時[下種・折伏]の大事な原則を教えられているところです。

 

① 機とは何か

 

機とは、仏教を弘むる人は必ず機根を知るべし

 

ここでいう **機(き)**とは

 

人の素質・能力・仏法を受け入れる力

 

のことです。

 

つまり

 

仏法を教える人は

      その人がどんな人か

      どの程度理解できるか

 

を知ることが大切だ、という意味です。

 

② しかし機を知るのはとても難しい

 

次の御文です。

 

智恵第一の舎利弗すら尚機を知らず

 

舎利弗 は

**釈迦**の弟子の中で

 

智慧第一

 

と言われたほど賢い人です。

 

それほどの人でも

 

人の機根を完全に見抜くのは難しかった

 

と言われています。

 

 

③ 末法ではさらに難しい

 

何に況んや末代の凡師機を知り難し

 

末法では

 

普通の僧や指導者が

人の機根を見抜くことは

 

さらに難しい

 

と言われています。

 

つまり

 

「この人にはこの教え」

「この人には別の教え」

 

と正確に判断するのは

ほとんど不可能ということです。

 

 

④ ではどうすればいいのか

 

ここが一番大事です。

 

機を知らざる凡師は

所化の弟子に一向に法華経を教ふべし

 

意味は

 

機根が分からないなら、

とにかく皆に法華経を教えなさい

 

ということです。

 

⑤ なぜか

 

それは

 

法華経 が

 

すべての人を救う

最高の教え

 

だからです。

 

だから

      この人にはこれ

      あの人には別の教え

 

と分ける必要はなく

 

誰にでも法華経を教えるべき

 

という教えです。

 

 

⑥ まとめ

 

この御文の意味は

 

仏法を弘める人は

本当は機根を知るのが理想だが、

 

末法ではそれは難しい。

 

だから

 

すべての人に法華経を弘めなさい

 

ということです。

 

 

簡単に言うと

      人の機根を完全に見抜くのは難しい

      だからこそ

      誰にでも妙法を弘めることが大事

 

という教えです。

 

これはまさに

 

末法の弘教の姿を教えた御金言です。

 

 

10日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集224

 

(十四)機 2/6

 

教機時国抄 270

 

 謗法の者に向かっては一向に法華経を説くべし。毒鼓(どっく)の縁と成さんが為なり。例せば不軽(ふきょう)菩薩の如し。亦智者と成るべき機と知らば必ずまず小乗を教へ、次に権大乗を教へ、後に実大乗を教うべし。愚者と知らば必ず先ず実大乗を教ふべし。信謗共に下種と為()ればなり。

 

この御文は、日蓮大聖人が 人の機根(その人の理解力・信じる力)によって、どのように仏法を説くか を教えられている大事なところです。

 

 

① 謗法の人には法華経を説く

 

「謗法の者に向かっては、一向に法華経を説くべし。毒鼓の縁と成さんがためなり。」

 

意味

仏法を信じない人や、反対する人にも、法華経(南無妙法蓮華経)を説きなさいということです。

 

なぜかというと

**「毒鼓の縁」**になるからです。

 

毒鼓の縁とは

 

毒を塗った太鼓を打つと、

音を聞いた人は必ず毒が体に入ると言われます。

 

これと同じで

法華経の題目を聞けば、信じても・反対しても、必ず成仏の縁になるという意味です。

 

だから

反対する人にも妙法を聞かせること自体が大切なのです。

 

その例として挙げられているのが

不軽菩薩 です。

 

不軽菩薩は、人から悪口を言われても石を投げられても、

「あなたは必ず仏になります」と礼拝し続けました。

 

 

② 智慧のある人には順番に教える

 

「智者と成るべき機と知れば、必ずまず小乗を教え、次に権大乗を教え、後に実大乗を教うべし。」

 

理解力があり、順序だてて学べる人には

 1. 小乗教

 2. 権大乗

 3. 実大乗(法華経)

 

という順番で教えるのがよい、という意味です。

 

これは

釈迦如来 が一代の説法で行った教え方と同じです。

 

いきなり最高の教えを言っても理解できない人もいるため、

段階を踏んで導く方法です。

 

 

③ しかし愚者には最初から妙法

 

「愚者と知れば、必ずまず実大乗を教うべし。」

 

理解が難しい人には、

かえって 回り道をさせない方がよいので

 

最初から南無妙法蓮華経を教えなさい

 

という意味です。

 

末法の衆生は、この機根です。

 

 

④ 信じても反対しても下種になる

 

「信・謗共に下種となればなり。」

 

信じても、反対しても、どちらも仏の種(成仏の種)になるという意味です。

 

つまり

      信じる すぐ成仏の道へ

      反対する 将来必ず妙法に巡り会う

 

どちらも 妙法の種が心に植わるのです。

 

 

まとめ

 

この御文の結論は

 

人の機根によって教え方は違うが、末法では妙法を聞かせることが最も大事

 

ということです。

 

特に大聖人の仏法では

 

南無妙法蓮華経を聞かせること自体が成仏の種(下種)

 

になると教えられています。

 

大聖人の教え=下種益の教え(下種仏法)

 

11

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集225

 

(十四)機 3/6

 

持妙法華問答抄 298

 

 上根(じょうこん)に望めても卑下(ひげ)すべからず。下根(げこん)を捨てざるは本懐(ほんがい)なり。下根に望めても憍慢(きょうまん)ならざれ。上根も・も()るる事あり。心をいたさざるが故に。

 

この御文は、人に仏法を説くときの心構えを教えられた大事な言葉です。

 

① 上根の人に対しても、卑下してはいけない

 

「上根に望めても卑下すべからず」

 

**上根(じょうこん)**とは

仏法をよく理解できる 賢い人・信心の深い人 のことです。

 

そのような人に出会うと、

「自分なんかが話していいのだろうか」と 遠慮してしまうことがあります。

 

しかし大聖人は

**卑下してはいけない(遠慮しすぎてはいけない)**と教えられています。

 

なぜなら、仏法は 誰かの知識ではなく妙法の力だからです。

 

 

② 下根の人を捨ててはいけない

 

「下根を捨てざるは本懐なり」

 

**下根(げこん)**とは

仏法がよく分からない人や、信じにくい人のことです。

 

その人たちを

「この人は無理だ」と 見捨ててはいけないという意味です。

 

むしろ

**そのような人を救うことこそ仏の本当の願い(本懐)**です。

 

 

③ 下根の人に対しても、偉そうになってはいけない

 

「下根に望めても憍慢ならざれ」

 

仏法を知らない人に対して

      「自分は信心しているから偉い」

      「この人は分かっていない」

 

という **おごり(憍慢)**を持ってはいけない、という意味です。

 

信心の人は

いつでも謙虚であることが大切です。

 

④ 上根の人でも信心を失うことがある

 

「上根も漏るる事あり心をいたさざるが故に」

 

どんなに優れた人でも

 

信心を大切にしなければ、道を外れることがある

 

という意味です。

 

つまり

      頭が良いだけではだめ

      大事なのは 真剣な信心の心

 

なのです。

 

 

まとめ

 

この御文の教えは、弘教の姿勢として

 1. 賢い人に対して遠慮しすぎない

 2. 理解の遅い人を見捨てない

 3. 人を見下してはいけない

 4. 誰でも油断すると信心を失う

 

ということです。

 

つまり一言で言うと

 

すべての人を大切にし、謙虚な心で仏法を伝えなさい

 

という教えです。

 

12

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集226

 

(十四)機 4/6

 

南条兵衛七郎殿御書 323

 今の世は末法のはじ()めなり、小乗経の機・権大乗経の機みなう()せはててただ実大乗経の機のみあり。小船には大石をの()せず。悪人愚者は大石のごとし。小乗経並びに権大乗経念仏等は小船なり。大悪瘡(あくそう)の湯治(とうじ)等は病大なれば小治およ()ばず。末代濁世(じょくせ)の我等には念仏等はたとへば冬田()を作るが如し。

 

これは、日蓮大聖人が末法の時代にはどの教えが衆生を救えるのかを、たとえを使って教えられている御文です。

 

 

① 今は「末法のはじめ」の時代

 

御文の最初は

 

「今の世は末法のはじめなり」

 

という言葉です。

 

仏教では、仏の滅後の時代を三つに分けます。

      正法 教えも修行も正しく行われる時代

      像法 教えは残るが力が弱くなる時代

      末法 人々の心が乱れ、修行も難しい時代

 

日蓮大聖人の時代、そして今の私たちの時代は末法だと説かれています。

 

 

② 末法では「法華経の機」だけが残る

 

御文では

 

小乗経の機・権大乗経の機みな失せはてて

ただ実大乗経の機のみあり

 

とあります。

 

意味は

      小乗経の教えが合う人もいない

      権大乗(仮の大乗)の教えが合う人もいない

      ただ実大乗(法華経)だけが人々を救える

 

ということです。

 

つまり

 

👉 末法の衆生を救えるのは法華経だけ

という意味です。

 

 

③ 小船と大石のたとえ

 

次にたとえが出ます。

 

小船には大石を載せず

 

これは

      小船=小乗経や権大乗経

      大石=罪の重い末法の衆生

 

という意味です。

 

末法の人は

      煩悩が強い

      罪も深い

      心が乱れている

 

つまり大きな重い石のような存在です。

 

だから

 

小さな船(小さな教え)では

重すぎて沈んでしまう

 

ということです。

 

 

④ 病気のたとえ

 

さらに次のたとえです。

 

大悪瘡の湯治等は病大なれば小治及ばず

 

意味は

      大悪瘡(重い病気)

      弱い治療では治らない

 

ということです。

 

つまり

      末法の人=重い病気の人

      念仏など=弱い薬

 

だから

効かないということです。

 

 

 

⑤ 冬田のたとえ

 

最後に

 

念仏等はたとへば冬田を作るが如し

 

とあります。

 

これは

 

冬の田んぼで作物を作るようなもの

 

という意味です。

 

冬の田んぼでは

      種をまいても

      作物は育たない

 

つまり

 

👉 念仏などでは末法の人は救われない

 

と教えられています。

 

 

まとめ(大聖人の結論)

 

末法の衆生は

      罪が重い

      煩悩が深い

 

だから

      小乗経

      権大乗経

      念仏など

 

では救えない。

 

救えるのは

 

南無妙法蓮華経(法華経)だけ

 

ということを、この御文は教えています。

 

13日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集227

 

(十四)機 5/6

 

教行証御書 1103

 

 仏の在世にして法華経に結縁(けちえん)せしが其の機に熟否あり。円機純熟の者は在世にして仏に成れり、根機微劣(みれつ)の者は正法に退転して、権大乗経の浄名(じょうみょう)・思益(しやく)・観経(かんぎょう)・仁王(にんのう)・般若経等にして其の証果を取れること在世の如し。されば正法には教行証の三つ倶(とも)に兼備せり。像法には教行のみ有つて証無し。

 

この御文は、時代によって仏法の力(教・行・証)がどう変わるかを教えられています。

 

① まず「教・行・証」とは

 

仏教には三つの大事な要素があります。

 

教(きょう)

 

仏の教え

例:経典・法華経など

 

行(ぎょう)

 

教えを実践する修行

 

証(しょう)

 

修行によって悟りを得ること(成仏)

 

つまり

 

 

という順番です。

 

例えると

      教=勉強の内容

      行=勉強すること

      証=合格すること

 

です。

 

 

② 仏の在世(お釈迦様が生きていた時)

 

御文の最初

 

仏の在世にして法華経に結縁せしが其の機に熟否あり

 

意味

 

お釈迦様の時代に

法華経と縁を結んだ人がいたが

      すぐ悟る人

      まだ悟れない人

 

がいたということです。

 

 

③ 機根の良い人

 

御文

 

円機純熟の者は在世にして仏に成れり

 

意味

 

能力が高い人は

 

👉 お釈迦様の時代に

すぐ成仏できた

 

ということです。

 

 

④ 機根の弱い人

 

御文

 

根機微劣の者は正法に退転して

 

意味

 

能力が弱い人は

      すぐ悟れない

      途中で退いてしまう

 

しかし

 

権大乗経の浄名・思益・観経・仁王・般若経等

 

などの教えで修行して

 

其の証果を取れること在世の如し

 

正法時代に悟ることができた

 

という意味です。

 

 

⑤ 正法時代

 

御文

 

正法には教行証の三つ倶に兼備せり

 

意味

 

正法時代は

      教えがある

      修行もできる

      悟りも得られる

 

つまり

 

教・行・証が全部そろっている

 

時代です。

 

 

⑥ 像法時代

 

御文

 

像法には教行のみ有つて証無し

 

意味

 

像法になると

      教えはある

      修行もある

 

しかし

 

👉 悟る人(証)がいない

 

ということです。

 

つまり

 

修行しても成仏できない時代

 

です。

 

 

⑦ そして末法

 

この御文の続きの意味として

 

末法になると

      

      

      

 

すべてが乱れてしまいます。

 

だから日蓮大聖人は

 

👉 南無妙法蓮華経

 

を説かれました。

 

これは

 

末法でも成仏できる唯一の法

 

だからです。

 

 

まとめ

 

時代による違い

 

時代  教 行 証

仏在世 ○ ○ ○

正法  ○ ○ ○

像法  ○ ○

末法  

 

だから末法では

 

南無妙法蓮華経によって成仏する

 

と日蓮大聖人は教えられています。

 

 

 

14日

 

日蓮大聖人御金言義類別入文集228

 

(十四)機 6/6

 

教行証御書 11034

 

 今末法に入っては教のみ有って行証無く在世結縁の者一人も無し。権実の二機悉(ことごと)く失せり。此の時は濁悪たる当世の逆謗の二人に、初めて本門の肝心寿量品の南無妙法蓮華経を以て下種と為()す。

 

この御文は、末法の衆生をどうやって救うのかという、とても大事なところです。

 

① 末法になるとどうなるか

 

御文

 

今末法に入っては教のみ有って行証無く

 

意味

 

末法になると

      経典(教え)は残っている

      しかし修行しても悟れない

 

つまり

 

教えだけあって、行も証もない

 

という状態です。

 

例えると

      勉強の本はある

      でも勉強する力もなく

      合格する人もいない

 

というような状態です。

 

 

② 在世結縁の人がいない

 

御文

 

在世結縁の者一人も無し

 

意味

 

 

お釈迦様の時代に法華経と縁を結んだ人

 

がいました。

 

その人たちは

      正法時代

      像法時代

 

で悟ることができました。

 

しかし末法になると

 

👉 その人たちはもういない

 

ということです。

 

 

③ 権実の機もなくなる

 

御文

 

権実の二機悉く失せり

 

意味

      権教(仮の教え)を信じる機根

      実教(法華経)を理解する機根

 

その両方とも

 

なくなってしまった

 

ということです。

 

つまり末法の人は

      仏法の理解も弱く

      罪も深く

      謗法も多い

 

という状態です。

 

 

④ 末法の衆生の姿

 

御文

 

濁悪たる当世の逆謗の二人

 

末法の人は二つの特徴があります。

 

逆(ぎゃく)

 

仏に逆らう人

(五逆罪など)

 

謗(ぼう)

 

正しい仏法を悪く言う人

 

つまり

 

👉 罪がとても重い衆生

 

です。

 

 

⑤ そこで日蓮大聖人の仏法

 

御文

 

初めて本門の肝心寿量品の南無妙法蓮華経を以て下種と為す

 

意味

 

末法の衆生を救うために

 

初めて

 

南無妙法蓮華経を

 

下種(げしゅ)

 

するということです。

 

 

⑥ 下種とは

 

下種とは

 

👉 仏になる種を植えること

 

です。

 

例えると

      種をまく 下種

      育つ

      実がなる 脱(成仏)

 

です。

 

末法の衆生は

 

まだ

 

仏の種を持っていない

 

ので

 

まず

 

👉 南無妙法蓮華経で種を植える

 

必要があります。

 

 

まとめ

 

この御文の意味は

 

① 末法では

教えだけで悟る人はいない

 

② 在世に法華経と縁を結んだ人もいない

 

③ 人々は逆謗の重い衆生

 

だから

 

④ 日蓮大聖人が

南無妙法蓮華経を下種して衆生を救う

 

ということです。

 

15日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集229

 

(十五)時 1/11

 

教機時国抄 270

 

 時()とは、仏教を弘めん人は必ず時(とき)を知るべし。譬へば農人(のうにん)の秋冬田()作るに種と地と人の功労とは違(たが)はざれども一分(いちぶん)も益(やく)無く還(かえ)って損す、一段を作る者は少損なり、一町二町等の者は大損なり、春夏耕作すれば上中下に随って皆分分(ぶんぶん)に益有るが如し。

 

これは、日蓮大聖人が 「時(じ)の大切さ を教えられている御文です。

 

① 「時」とは何か

 

ここでいう 時 とは、

 

仏法を弘めるのにふさわしい時代・タイミング

 

のことです。

 

つまり

「どんな教えでも、時代に合わなければ人は救われない」

という意味です。

 

 

② 農業のたとえ

 

大聖人は、農業の例で説明されています。

 

農業では、

      秋や冬に種をまいても作物は育たない

      むしろ 種が無駄になる

 

しかし

      春や夏に種をまけば

      上手な人も普通の人も、少しは収穫できる

 

ということです。

 

御文の意味

      秋冬に田を作る

→ 努力しても利益がない

→ かえって損をする

      春夏に耕す

→ 上手な人も普通の人も

→ それぞれ収穫がある

 

 

③ 仏法に当てはめると

 

農業 = 仏法

 

になります。

 

つまり

      時代に合わない教えを弘めても、人は救われない

      時代に合った教えを弘めれば、多くの人が利益を受ける

 

ということです。

 

 

④ 大聖人が言いたいこと

 

日蓮大聖人の結論はこれです。

 

末法の時代には

 

末法に合った仏法を弘めなければならない

 

ということです。

 

そして大聖人は

 

末法の衆生を救う教えは

 

南無妙法蓮華経

 

であると明かされました。

 

 

⑤ まとめ

 

この御文のポイントは3つです。

 

1️⃣ 仏法を弘める人は 時代(時)を知らなければならない

2️⃣ 時代に合わない教えは 努力しても利益がない

3️⃣ 末法の今は 末法の仏法(南無妙法蓮華経)を弘める時である

 

16

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集230

 

(十五)時 2/11

 

如説修行抄 672

 

 国中の諸学者等、仏法をあらあらまな()ぶと云へども、時刻相応の道理を知らず。四節四節取り取りに替はれり。夏はあたたかに冬はつめたく、春は花さき秋は菓(このみ)()る。春種子(たね)を下(おろ)して秋菓()を取るべし。秋種子を下して春菓実を取らるんに豈(あに)取らるべけんや。極寒の時は厚き衣(きぬ)は用(ゆう)なり。極熱の夏はなにかせん。凉風は夏の用(ゆう)なり。冬はなにかせん。仏法も亦(また)()くの如し。

 

この御文は、仏法を弘めるときは「時(とき)」をよく知らなければならないということを、身近な例で教えられています。

 

 

① 世の中には「時に合ったこと」がある

 

大聖人はまず、自然の例を出されています。

      夏は暑い

      冬は寒い

      春は花が咲く

      秋は実がなる

 

つまり、季節にはそれぞれの働きがあるということです。

 

そして農業の例を出されます。

      春に種をまけば 秋に実がなる

      しかし

      秋に種をまいて 春に実を取ろうとしても無理

 

これは時が違うからです。

 

 

② 時に合わないことは役に立たない

 

さらに衣服の例です。

      寒い冬 厚い服が役に立つ

      暑い夏 厚い服は役に立たない

      夏は 涼しい風 が役に立つ

 

つまり

 

同じものでも、時によって役に立つかどうかが違う

 

ということです。

 

 

③ 仏法も同じ

 

ここが一番大事なところです。

 

大聖人は

 

仏法もまたこれと同じである

 

と仰せです。

 

つまり

      仏の教えにも 時代に合う教え がある

      どんなに立派な教えでも

時代に合わなければ衆生は救えない

 

ということです。

 

 

④ 末法の今は何か

 

日蓮大聖人の結論はここです。

 

末法の今は

 

南無妙法蓮華経

 

を弘める時です。

 

だから

      昔の修行(難しい修行や爾前経の修行)ではなく

      題目を唱える信心

 

これが 末法の衆生を救う仏法 ということです。

 

 

まとめ

 

この御文の意味は

 

どんなことでも「時に合ったもの」が大事である。

仏法も同じで、末法の今は南無妙法蓮華経を行ずる時である。

 

という教えです。

 

17日

 

日蓮大聖人御金言義類別入文集231

 

(十五)時 3/11

 

如説修行抄 672

 

 小乗の法流布して得益(とくやく)あるべき時もあり、権大乗の流布して得益あるべき時もあり、実教の流布して仏果を得べき時もあり。然(しか)るに正像二千年は小乗・権大乗の流布の時なり。末法の始めの五百年には純円一実(いちじつ)の法華経のみ広宣流布の時なり。此の時は闘諍堅固(とうじょうけんご)・白法隠没(びゃくほうおんもつ)の時と定めて権実雑乱(ごんじつぞうらん)の砌(みぎり)なり。

 

この御文も、昨日の「時に合った仏法」という話の続きです。

日蓮大聖人は、仏法には時代ごとに流布する教えがあることを説明されています。

 

① 仏法にも「時代ごとの教え」がある

 

大聖人はまずこう仰せです。

      小乗の教えが広まる時もある

      **権大乗(ごんだいじょう)**が広まる時もある

      **実教(じっきょう)**が広まる時もある

 

つまり

 

仏の教えは一つでも、時代によって弘まる教えが違う

 

ということです。

 

 

② 正法・像法の2000

 

次に時代の話になります。

 

仏滅後

      正法1000

      像法1000

 

この 2000年間は

      小乗の教え

      権大乗の教え

 

が広まり、人々もそれで利益を受ける時代でした。

 

 

③ 末法の時代

 

しかしその後に来る

 

末法

 

では事情が変わります。

 

大聖人は

 

末法の初めの五百年は

純円一実の法華経が広宣流布する時

 

と仰せです。

 

純円一実とは

      混ざりもののない

      完全な真実の教え

 

つまり

 

法華経の教えです。

 

さらに日蓮大聖人の御法門では

 

南無妙法蓮華経(御本尊)

 

が広宣流布する時代です。

 

 

④ 末法の特徴

 

次に末法の世の中の姿を説明されています。

 

闘諍堅固(とうじょうけんご)

 

人々が

      争い

      対立

      ケンカ

 

を繰り返す時代。

 

社会も心も乱れます。

 

 

白法隠没(びゃくほうおんもつ)

 

正しい仏法が隠れてしまう

 

つまり

      正しい教えが分からなくなる

      邪義や間違った教えが広まる

 

時代です。

 

 

権実雑乱(ごんじつぞうらん)

 

これは

      仮の教え(権教)

      真実の教え(実教)

 

がごちゃまぜになることです。

 

つまり

      どれが正しい仏法か分からなくなる

 

という状態です。

 

 

まとめ

 

この御文の意味は

 

仏法には時代があり、末法の今は

法華経(南無妙法蓮華経)が広宣流布する時代である。

しかし末法は争いが多く、正しい仏法が分からなくなる時代でもある。

 

ということです。

 

 

実はこの御文は、日蓮大聖人が

 

なぜ末法に法華経を弘められたのか

 

を説明している、とても重要なところです

 

 

 

 

18

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集232

 

(十五)   4/11

 

法蓮抄 820

 

 智者と申すは此()くの如き時を知りて法華経を弘通するが第一の秘事なり。たとへば渇(かわ)ける者は水こそ用うる事なれ。弓箭(きゅうせん)兵杖(ひょうじょう)はよしなし。裸なる者は衣を求む、水は用なし。一をもつて万を察すべし。

 

この御文は、

「その時に合った教えを伝えることが、いちばん大事なポイントである」

という意味です。

 

 

■ たとえ話の意味

 

御文では、わかりやすくするために例えが出ています。

      のどが渇いている人 水が必要

      裸の人 服が必要

 

ここから何が言いたいかというと…

 

👉 人によって「今、本当に必要なもの」は違う

👉 必要でないものをあげても意味がない

 

ということです。

 

 

■ 仏法にあてはめると

      ある時代・ある人には 小乗や権大乗が必要な場合もある

      しかし末法の今は 法華経(南無妙法蓮華経)こそ必要

 

つまり、

 

👉 今の人々の苦しみを本当に救える教えを選んで弘めることが「智者(ちしゃ)」

 

ということです。

 

 

■ 「一をもつて万を察すべし」とは

 

これは、

 

👉 一つの例を見れば、すべてがわかる

 

という意味です。

 

今回でいえば、

      渇きには水

      裸には衣

 

この道理から、

 

👉 仏法も「その時に合ったものを与えるべき」とわかる

 

ということです。

 

 

■ まとめ

      仏法は何でもいいのではなく「今に合った教え」が大事

      末法の今は、南無妙法蓮華経こそが人々を救う

      それを正しく弘める人こそ、本当の智者てある。

 

智者とは、一往は、大聖人の教えを下種・折伏する人。

再往は、日蓮大聖人・末法の御本仏。

 

19日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集233

 

(十五)   5/11

 

撰時抄 834

 

(それ)仏法を学せん法は必ず先()づ時をならうべし。過去の大通智勝仏は出世し給ひて十小劫が間一経も説き給はず。経に云はく「一坐十小劫」と。又云はく「仏時の未だ至らずと知ろしめして請ひを受けて黙然(もくねん)として坐したまへり」等云云。今の教主釈尊は四十余年の程、法華経を説き給はず。経に云はく「説時未だ至らざるが故なり」

 

🔹 この御文のポイント

 

**「仏法は時が何より大事」**ということです。

 

 

🔸 わかりやすい説明

 

① まず結論

 

仏法は、

👉 どんなに正しい教えでも、時が合わなければ人は救われない

ということを教えています。

 

 

② たとえ話(御文の意味)

 

🌱 大通智勝仏の話

昔の仏(大通智勝仏)は、

👉 十小劫(とても長い時間)も法を説かなかった

 

なぜか?

👉 まだ人々に教えを受け入れる準備(時)ができていなかったから

 

 

🌸 釈尊の話

今の教主である釈尊も、

👉 40年以上もの間、法華経を説かなかった

 

なぜか?

👉 やはり「まだその時ではない」と知っていたから

 

 

③ たとえで考えると

 

これはこんな感じです👇

      のどが渇いている人 水が必要

      寒い人 服が必要

 

👉 弓や武器を渡しても意味がないですよね

 

同じように、

👉 人や時代に合った教えでないと意味がないのです

 

 

🔹 日蓮大聖人の教え(ここが一番大事)

 

では今はどうか?

 

👉 今は末法という時代

👉 人々を救うのは南無妙法蓮華経だけの時

 

だから大聖人は、

 

👉 今こそ法華経を弘通するべき時だ!

 

と教えられているのです。

 

 

🔸 まとめ

      仏法は「正しいかどうか」だけでは足りない

      「今その教えが必要か(時)」が一番大事

      仏でさえ「時」を待った

      だから末法の今は

👉 南無妙法蓮華経を弘めることが一番大切である。

 

 

20日

 

日蓮大聖人御金言義類別入文集234

 

(十五)   6/11

 

撰時抄 836

 

 問うて云はく、何(いか)なる時にか小乗権経をとき、何なる時にか法華経を説くべきや。答へて云はく、十信の菩薩より等覚の大士にいたるまで、時と機とをば相(あい)知りがたき事なり。何に況(いわ)んや我等は凡夫なり。いかでか時機をしるべき。求めて云はく、すこしも知る事あるべからざるか。答へて云はく、仏眼をかっ()て時機をかんがへよ。仏日(ぶつじつ)を用(もっ)て国をてらせ。

 

 

🔹 全体のテーマ

 

👉 「どうやって機(人の能力)を見分けるのか?」

 

 

🔸 解説

 

① 問い(質問)

 

いつ小乗や権経を説き、いつ法華経を説くべきなのか?

 

👉つまり

**「教えの使い分けはどう判断するの?」**という疑問です。

 

 

② 最初の答え

 

菩薩でさえ、時と機を知るのは難しい。まして凡夫は無理

 

👉ポイントはここ👇

      十信〜等覚という高い菩薩でも難しい

      私たち凡夫にはなおさら難しい

 

👉つまり

人間の知恵だけでは正しく判断できないということです

 

 

③ さらに質問

 

では、まったく知ることはできないのですか?

 

👉ここで希望を求めています

 

 

④ 最後の答え(ここが核心)

 

仏の眼で時機を考え、仏の智慧で国を照らせ

 

🔹 超わかりやすく言うと

 

👉こういう意味です👇

      自分の考えだけで判断するな

      仏の教えを基準にしなさい

 

 

🔸 たとえで説明

 

例えば👇

      自分の勘だけで薬を選ぶ 危険

      医者の診断に従う 正しい

 

👉仏の教え=医者の診断

👉自分の判断=素人判断

 

 

🔹 日蓮大聖人の教えとして

 

ここが一番大事です👇

 

👉「仏の眼」とは何か?

 

それは

👉 法華経の教え(特に末法の正しい教え)

 

つまり

      今は末法

      仏の教えに照らすと

👉 南無妙法蓮華経こそが正しい

 

 

🔸 まとめ

      人間の知恵だけでは時と機はわからない

      だから

👉 仏の教えを基準にすることが大事

      末法の今は

👉 南無妙法蓮華経を弘めるのが正しい

 

 

🔹 一言でいうと

 

👉 「自分の考えではなく、仏の教えに従いなさい」

 

21

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集235

 

(十五)   7/11

 

撰時抄 836

 

 大集経に大覚世尊、月蔵(がつぞう)菩薩に対して未来の時を定め給えり。所謂(いわゆる)我が滅度の後の五百歳の中には解脱(げだつ)堅固(けんご)、次の五百年には禅定(ぜんじょう)堅固[已上一千年]、次の五百年には読誦多聞堅固、次の五百年には多造塔寺堅固[已上二千年]、次の五百年には我が法の中に於て闘諍(とうじょう)言訟(ごんしょう)白法(びゃくほう)隠没(おんもつ)せん等云云。

 

此御文は、「時」をさらに具体的に示しているところです。

 

 

🔹 この御文のテーマ

 

👉 仏滅後、時代ごとに仏法のあり方が変わる

 

 

🔸 内容をかみくだくと

 

仏は未来をこう分けて説かれました👇

 

 

① 最初の500年(解脱堅固)

 

👉 修行して悟る人が多い時代

      正しく修行すれば

👉 本当に悟れる

 

 

② 次の500年(禅定堅固)

 

👉 心を落ち着ける修行が盛んな時代

      精神修行が中心

 

 

👉ここまでで1000年(正法の時代)

 

 

③ 次の500年(読誦多聞堅固)

 

👉 お経を読む・学ぶことが盛んな時代

      勉強はするけど

👉 悟りはだんだん遠くなる

 

 

④ 次の500年(多造塔寺堅固)

 

👉 寺や仏塔をたくさん建てる時代

      形は立派になるけど

👉 中身(信心)は弱くなる

 

 

👉ここまでで2000年(像法の時代)

 

 

⑤ 最後の500年(闘諍言訟・白法隠没)

 

👉 争いだらけで、正しい教えが隠れる時代

      仏法の中でも争いが起きる

      正しい教え(白法)が見えなくなる

 

👉これが

末法の始まりです

 

 

🔹 たとえで考えると

 

こんな流れです👇

 1. 最初はよく効く薬(すぐ治る)

 2. だんだん効きにくくなる

 3. 最後は薬がわからなくなる

 

 

🔸 日蓮大聖人の教え(ここが重要)

 

今はどこか?

 

👉 の時代(末法)

 

つまり

      争いが多い

      正しい教えがわからない

 

だからこそ大聖人は

 

👉 南無妙法蓮華経こそ唯一の正しい法

 

と教えられたのです。

 

 

🔹 まとめ

      仏法は時代ごとに状態が変わる

      今は

👉 争いが多く、正法が隠れる末法の時代

      だからこそ

👉 正しい教えを見極めることが大事

 

 

🔹 一言でいうと

 

👉 「今は仏法が乱れる時代だから、正しい法をしっかり持ちなさい」

 

22

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集236

 

(十五)   8/11

 

妙密上人御消息 966

 

 されば仏の滅後、正像二千年の間は煩悩の病軽かりければ、一代第一の良薬(ろうやく)の妙法蓮華経の五字をば勧めざりけるか。今末法に入りぬ。人毎(ごと)に重病有り。阿弥陀・大日・釈迦等の軽薬にては治し難(がた)し。又月はいみじけれども、秋にあらざれば光を惜しむ。花は目出たけれども、春にあらざればさかず。一切時による事

なり。

 

① 全体の意味

 

この御文は、

 

👉 「仏法はに合った教えでなければ、人を救えない」

 

ということを教えています。

 

② 前半の意味

 

正像二千年の間は、煩悩の病軽かりければ…

 

ここでは、

      昔(正法・像法の時代)は

👉 人の迷いや苦しみ(=煩悩)がまだ軽かった

 

だから

 

👉 強い薬(妙法蓮華経)でなくても救えた

 

 

しかし今はどうか?

 

今、末法に入りぬ。人ごとに重病有り。

 

👉 今の時代(末法)は

みんな心の病がとても重い状態

 

たとえると

      昔:軽い風邪

      今:重い大病

 

 

だからどうなるか?

 

阿弥陀・大日・釈迦等の軽薬にては治し難し

 

👉 昔の教え(他の経)は

今の重い苦しみには効かない

 

👉 だからこそ

 

南無妙法蓮華経という最も強い薬が必要

 

ということです。

 

 

③ 後半のたとえ

 

ここがとても大事です。

 

🌙 月のたとえ

 

月はいみじけれども、秋にあらざれば光を惜しむ

 

👉 月はすばらしいけど

秋でなければ美しく見えない

 

 

🌸 花のたとえ

 

花はめでたけれども、春にあらざればさかず

 

👉 花もすばらしいけど

春でなければ咲かない

 

 

④ まとめ

 

👉 どんなに良いものでも

「時」が合わなければ力を発揮しない

 

そして

 

👉 今は末法という「重病の時代」

 

だからこそ

 

妙法蓮華経の題目(南無妙法蓮華経)だけが人を救える

 

 

⑤まとめ

      仏法は「何が正しいか」だけでなく

👉 「今の時代に合っているか」が大切

      今の時代は苦しみが深いからこそ

👉 一番強い法(妙法)を信じることが必要

 

 

23日

 

日蓮大聖人御金言義類別入文集237

 

(十五)   9/11

 

法華初心成仏抄 1311

 

 大集経の五箇の五百歳の中の第五の五百歳に当時はあたれり。其の第五の五百歳をば、闘諍堅固・白法隠没と云ひて、人の心たけく腹あしく貪欲(とんよく)瞋恚(しんに)強盛なれば軍(いくさ)合戦のみ盛んにして、仏法の中に先々弘まりしところの真言・禅宗・念仏・持戒等の白法は隠没すべしと仏説き給へり。

 

 この御文は、

 

👉「今の時代(末法)は、争いが増えて、人の心も荒れて、正しい仏法が見えなくなる時代である」

 

ということを説いています。

 

 

🔹言葉を分けてみる

 

●「第五の五百歳」

 

仏さまが亡くなった後の時代を、500年ずつ5つに分けた最後の時代です。

 

👉つまり

今の時代=いちばん最後で一番乱れる時代

 

 

 

●「闘諍堅固(とうじょうけんご)」

 

👉争いが当たり前になる時代

      ケンカ・戦争

      人と人が対立する

      仲良くできない

 

 

●「白法隠没(びゃくほうおんもつ)」

 

👉正しい仏法が隠れてしまう

      本当に人を救う教えがわからなくなる

      間違った教えや形だけの信仰が広まる

 

 

🔹なぜそうなるのか?

 

御文では理由も教えています👇

      貪欲(とんよく) 欲ばり(お金・物・自分中心)

      瞋恚(しんに) 怒りやすい

 

👉つまり

人の心が荒れているから

 

 

🔹まとめると

 

この御文はこういう意味です👇

 

👉

「今の末法の時代は、人々の心が乱れ、争いばかりが増え、これまでの仏教(真言・禅・念仏など)では人を救えなくなる時代である」

 

 

🔹ここが一番大事

 

ではどうすればいいのか?

 

👉だからこそ

今の時代に合った仏法(南無妙法蓮華経)が必要になる

 

という流れになります。

 

 

🔹たとえで言うと

      軽い病気 弱い薬でも治る(正法・像法)

      重い病気 強い薬が必要(末法)

 

👉今は

人の心が重病だから、最高の薬=妙法が必要

 

 

 

 

24

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集238

 

(十五)   10/11

 

上野殿御返事 1436

 

 一切の事は時による事に候か。春は花、秋は月と申す事も時なり。仏も世にい()でさせ給ひし事は法華経のためにて候ひしかども、四十余年はと()かせ給はず。其の故を経文にと()かれて候には「説時未だ至らざる故なり」等云云。なつ()あつわた(厚綿)のこそで(小袖)、冬かたびら()をたび()て候は、うれしき事なれども、ふゆのこそで(小袖)、なつのかたびら()にはすぎず。うへ()て候時のこがね()、かっ()せる時のごれう(御料)はうれしき事なれども、はん()と水とにはすぎず。仏に土をまいらせて候人(ひと)仏となり、玉(ぎょく)をまいらせて地獄へゆくと申すことこれか。

 

 

👉 「すべては時(タイミング)が大事」

 

 

🔹まず全体の意味

 

この御文は、

 

👉

どんなに良いものでも、時が合わなければ意味がない

ということを教えています。

 

 

🔹前半の意味

 

●「春は花・秋は月」

 

👉季節によって良いものが違う

       花がきれい🌸

       月がきれい🌙

 

👉つまり

良いものは“その時”によって変わる

 

 

●仏さまもすぐ法華経を説かなかった

 

仏さま(釈尊)は本当は最初から

法華経 を説きたかった

 

でも…

 

👉40年以上も説かなかった

 

なぜか?

 

👉「説くべき時ではなかったから(説時未至故)」

 

 

🔹たとえの話

 

①服のたとえ

      夏に厚い服 うれしくない

      冬に薄い服 役に立たない

 

👉

どんなに良い服でも、時が合わないとダメ

 

②食べ物のたとえ

      お腹いっぱいの時のごちそう うれしくない

      お腹すいた時 ご飯と水が一番ありがたい

 

👉

高級なものより“今必要なもの”が大事

 

 

🔹最後のたとえ

 

●「土を供えて仏になる人」

 

👉一見つまらないもの(ただの土)でも

正しい時・正しい教えにかなっていれば成仏できる

 

「徳勝・無勝の二童子は、仏に沙の餅を供養して閻浮提三分の一の主となる。いわゆる阿育大王これなり」

(上野殿御返事744)

 

 

●「玉を供えて地獄へ行く人」

 

👉どんなに立派なものでも

間違った教え・時に合わなければ意味がない

 

ある蛇の王がきわめて貴重な宝玉[摩尼珠(まにじゅ)]を仏に供養した。

しかしその供養は、名声を得たい。自分の力を誇示したい。他者を見下す心があった。(不浄の心)

結果、死後に地獄へ堕ちた。

 

 

🔹まとめ

 

この御文の結論👇

 

👉

「価値は“物の良し悪し”ではなく、“時に合っているか”で決まる」

 

🔹仏法で一番伝えたいこと

 

👉今は末法の時代

 

だから

      昔は良かった教え(念仏・禅など)でも

→ 今は人を救えない

 

👉今必要なのは

南無妙法蓮華経

 

🔹一言でいうと

 

👉

「今の時代に合った正しい信心をすることが一番大事」

 

25日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集239

 

(十五)   11/11

 

妙一女御返事 1500

 

 伝教大師云はく「正像稍(やや)過ぎ已()はって末法太(はなは)だ近きに有り、法華一乗の機今正(まさ)しく是其の時なり。何を以てか知ることを得ん。安楽行品に云はく末世法滅時」云云。此等の論師人師、末法闘諍堅固の時、地涌出現し給ひて本門の肝心たる南無妙法蓮華経の弘まらせ給ふべき時を知りて、恋させ給ひて是()くの如き釈を設けさせ給ひぬ。尚尚即身成仏とは、迹門は能入の門、本門は即身成仏の所詮の実義なり。

 

🔹全体の意味

 

👉

今の末法こそ、南無妙法蓮華経が弘まって、人々が成仏する時である

ということを教えています。

 

 

🔹 伝教大師の言葉

 

伝教大師

はこう言っています👇

 

👉

「正法・像法はもう過ぎて、今は末法に入る。

そして今こそ、法華経が必要な時である」

 

●根拠はどこ?

 

法華経の中の

法華経 の

安楽行品にある

 

👉「末世法滅時」

(末法の時に法が滅びそうな時)

 

という文です。

 

 

🔹 昔の人も今の時代を待っていた

 

御文では

      論師(インドの学者)

      人師(中国・日本の高僧)

 

たちが、

 

👉

「末法になったら、特別な仏法が広まる」

と分かっていて、

 

👉その時を待ち望んでいた(恋していた)

 

と説かれています。

 

🔹 その時に何が起きるのか?

 

👉

地涌の菩薩が出現する

 

そして

 

👉

本門の肝心(いちばん大事)である

南無妙法蓮華経が弘まる

 

 

🔹 「即身成仏」の意味

 

ここが一番大事です👇

 

●即身成仏とは?

 

👉

この身のままで仏になれること

 

 

 

●迹門と本門の違い

      迹門(しゃくもん)

👉仏になるための「入り口」

      本門(ほんもん)

👉実際に仏になれる「本当の教え」

 

 

つまり👇

 

👉

本門こそが、即身成仏できる本当の教え

 

 

🔹まとめ

 

この御文を一言でいうと👇

 

👉

今の末法は、南無妙法蓮華経によって

だれもがこの身のまま成仏できる時である

 

 

🔹たとえでいうと

      迹門 学校の「入学案内」

      本門 実際に「卒業できる授業」

 

👉

本門(南無妙法蓮華経)でこそ、本当に成仏できる

 

 

26日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集240

 

(十六)国 1/4

 

教機時国抄 272

 

 国(こく)とは、仏教は必ず国に依()って之(これ)を弘むべし。

 

とても大事な一文ですね。やさしく整理します。

 

 

◆ 御文の意味

 

「国とは、仏教は必ず国によって弘めなさい」

 

👉 これは

どんな国でも法華経をそのまま広めればよいのではない

という意味です。

 

 

◆ わかりやすく言うと

 

その国ごとに

      人々の考え方

      文化や習慣

      仏法への受け止め方

 

が違います。

 

👉 だから

その国に合った弘め方を選ばなければならない

ということです。

 

 

◆ たとえで考えると

 

例えば

      寒い国 厚い服が必要

      暑い国 薄い服が必要

 

👉 同じ服では合わない

 

仏法も同じで

 

👉 その国に合う広めかたでなければ、人は救われない

 

 

◆ 仏さまの実際のやり方

 

釈尊も

      はじめから最高の教えを押しつけたのではなく

      相手(国・人)に合わせて順番に説かれました

 

👉 これが「五時」の教えです

 

◆ では末法の日本という「国」は?

 

日蓮大聖人はここを一番大事にされています。

 

末法の日本は

      人の迷いが深い

      複雑な修行ができない

      他の教えでは救えない

 

👉 だから

 

南無妙法蓮華経こそが、この国にぴったりの教え

 

となります。

 

◆ まとめ

 

👉 仏法は「どこでも同じ」ではない

👉 法華経が第一、その国に合う、弘めかたが正しい方法

 

 

◆ 一言でいうと

 

👉 「法華経いがいの教えでは、人は救えない」

 

 

27日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集241

 

(十六)国 2/4

 

教機時国抄 272

 

 日本国は一向大乗の国なり大乗の中にも法華経の国為()る可きなり。瑜伽論(ゆがろん)・肇公(じょうこう)の記・聖徳太子・伝教大師・安然(あんねん)等の記之有り、是れ国を知れる者なり。

 

当時の日本が大乗仏教の国であることを前提としつつ、正法(法華経)を弘めるべき時であるかを教法流布の先後などから検討すべきと説いた御書の一節で、日本という国の性質」と「どの教えを弘めるべきか」を明確に示された、とても大事なところです。

 

 

🔹本文のポイント

 

「日本はもともと大乗仏教の国である。

その中でも、特に法華経が弘まるべき国である。」

 

👉つまり

「日本には、最初から“人を救う大きな教え(大乗)”が合っている。

そして一番ふさわしいのが法華経である」という意味です。

 

 

🔹むずかしい言葉の意味

      大乗(だいじょう)

 → みんなを救う仏教(自分だけでなく他人も救う教え)

      法華経

 → 仏教の中で最もすぐれた教え(すべての人が仏になれる)

 

🔹なぜそう言えるのか?

 

御文では、証拠として昔の偉い人たちを挙げています。

      瑜伽論

      僧肇(肇公)

      聖徳太子

      最澄

      安然

 

👉これらの人々が

「日本は大乗仏教、特に法華経が合う国だ」と書き残している、ということです。

 

 

🔹「国を知れる者なり」とは?

 

👉「その国に合った仏法を正しく分かっている人たちだ」という意味です。

 

つまり…

      仏法は、どこでも同じではなく

      その国・その時代に合った教えが大事

 

ということです。

 

 

🔹まとめ

 

この御文の結論はシンプルです👇

 

👉 日本は

      小乗ではなく「大乗」の国

      その中でも 法華経こそ最もふさわしい

 

👉 だから

日本で仏法を弘めるなら、法華経でなければならない

 

🔹信心につなげると

 

日蓮大聖人はここから

 

👉「今の日本(末法)では南無妙法蓮華経を弘めるべきだ」

 

と結論されます。

 

28日

 

日蓮大聖人御金言義類別入文集241

 

(十六)国 3/4

 

四条金吾殿御返事 1175

 

 天竺をば月氏(がっし)という、我が国をば日本と申す。一閻浮提(えんぶだい)八万の国の中に大なる国は天竺、小なる国は日本なり。名のめでたきは印度第二、扶桑(ふそう)第一なり。仏法は月の国より始めて日の国にとどまるべし。月は西より出でて東に向かひ、日は東より西へ行く事天然のことわり、磁石と鉄と、雷(いなずち)と象華(ぞうげ)とのごとし。

 

この御文は、仏法がどのように世界に広まり、最終的に日本に至るのかを、たとえを使って説かれた大切なところです。

 

 

① 国の大きさと名前の意味

 

まず日蓮大聖人はこう言われます。

      天竺(インド)は「月氏(つきの国)」

      日本は「日の国」

 

そして、

      インド 大きな国

      日本 小さな国

 

でも「名前のめでたさ(尊さ)」では

      インドは第二

      日本は第一

 

とされています。

 

👉 ここでのポイント

国の大きさではなく、「仏法が行き着く場所」として日本が特別だ、ということです。

 

 

② 仏法は「月の国」から「日の国」へ

 

次にとても重要な一文です。

 

仏法は月の国より始めて日の国にとどまるべし

 

これは、

      仏教はインドで始まり(西)

      中国などを経て

      最後に日本(東)に至る

 

という意味です。

 

👉 つまり

仏法は東へ東へと進み、最後に日本で完成する

という考え方です。

 

 

③ 自然の道理にかなっている

 

さらに大聖人は、これは偶然ではなく

自然の道理(当たり前の法則)だと説明されます。

 

たとえば:

      月は西から東へ動く

      太陽は東から西へ動く

      磁石と鉄は引き合う

      雷と象牙も引き合う

 

👉 これらと同じように

 

仏法も自然に日本へ来るべきものだった

 

と教えられています。

 

 

④ まとめ

 

この御文の結論はとてもシンプルです。

 

👉 仏法は

      インドに始まり

      東へ伝わり

      最後に日本に至って完成する

 

👉 だから日本は

末法において仏法が弘まる最も大切な国である

 

⑤ 信心の立場で見ると

 

この御文は、ただの地理の話ではありません。

      自分たちがいる日本こそ

      仏法を弘める使命のある国である

 

という自覚を教えられています。 

 

29日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集242

 

(十六)国 4/4

 

諫暁八幡抄 1543

 

 天竺国をば月氏国と申す、仏の出現し給うべき名なり。扶桑国をば日本国と申す、あに聖人出で給はざらむ。月は西より東に向かへり、月氏の仏法、東へ流るべき相なり。日は東より出づ、日本の仏法、月氏へかへるべき瑞相なり。月は光あきらかならず、在世は但(ただ)八年なり。日は光明(こうみょう)月に勝(まさ)れり。五五百歳の長き闇を照らすべき瑞相なり。

 仏は法華経謗法の者を治し給はず。在世には無きゆへに。末法には一乗の強敵(ごうてき)充満すべし。不軽(ふきょう)菩薩の利益(りやく)(これ)なり。各々我が弟子等はげませ給へ、はげませ給へ。

 

この御文は、前日の御文(四条金吾殿御返事・1175)よりも一歩進んで、

**「これからの時代(末法)に何をすべきか」**まで教えてくださっている大切なところです。

 

① インドと日本の意味

 

最初はこういう意味です。

      インド(天竺)=「月の国」

 → 仏が出る国

      日本=「日の国」

 → 聖人が出る国

 

👉 ポイント

仏はインドに現れ、末法の聖人は日本に現れる

ということを示しています。

 

 

② 仏法の流れ(行きと帰り)

 

ここがとても重要です。

 

行き(過去)

      月(インド) 東へ

      仏法はインドから日本へ伝わる

 

帰り(未来)

      日(日本) 西へ

      日本の仏法がインドへ戻る

 

👉 つまり

 

仏法は日本で完成し、今度は日本から世界へ広がる

 

という大きな流れです。

 

 

③ 月と太陽のたとえ

 

ここでは仏法の力の違いをたとえています。

      月の光 やや弱い

 → 釈迦仏の教え(在世の仏法)

      太陽の光 とても強い

 → 末法の妙法

 

さらに、

      釈迦仏の教えは約50年ほど

      末法は「五五百歳(長い長い暗い時代)」

 

👉 だから

 

長い闇(末法)を照らせるのは、強い太陽のような妙法だけ

 

ということです。

 

 

④ なぜ末法に戦いがあるのか

 

仏は法華経謗法の者を治し給はず。在世には無きゆへに。

 

これは、

      釈迦仏の時代には

 👉 法華経に反対する強い人が少なかった

 

でも末法になると

      法華経に反対する人(強敵)がたくさん出る

 

👉 だから

 

末法では正しい法を弘めると必ず反対にあう

 

という現実を教えています。

 

 

⑤ 不軽菩薩の精神

 

ここで出てくるのが

不軽菩薩 です。

 

この菩薩は

      どんな人にも礼拝して

      「あなたは必ず仏になります」と言い続けた

      迫害されてもやめなかった

 

👉 これが

 

末法の修行の見本

 

です。

 

⑥ 最後の一文が一番大事

 

各々我が弟子等はげませ給へ、はげませ給へ

 

これは大聖人の強い励ましです。

 

👉 意味は

      末法は大変な時代だけれど

      正しい仏法を弘める使命がある

      だから負けずに進みなさい

 

 

⑦ まとめ

 

👉 仏法は

      インドから日本へ来て完成し

      日本から世界へ広がる

 

👉 末法では

      正しい法を弘めると反対にあう

      それがむしろ正しい証拠

 

👉 だからこそ

      不軽菩薩のように

      人を信じて

      負けずに進むことが大切

 

30日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集244

 

(十七)種・熟・脱 1/5

 

開目抄下 554

 

 真言・華厳等の経々には、種熟脱の三義、名字すら猶(なお)なし。何(いか)に況(いわ)んや其の義をや。華厳・真言経等の一生初地の即身成仏等は、経は権経にして過去をかくせり。種をしらざる脱なれば、超高が位にのぼり、道鏡が王位に居()せんとせしがごとし。

 

 

① まず全体の意味

 

日蓮大聖人はここで、

 

👉 真言や華厳の教えでは「仏になる本当の筋道」がわかっていない

 

と厳しく指摘されています。

 

 

② 「種・熟・脱」とは何か

 

これは仏になるまでの流れです。

      種(しゅ):仏になる原因(タネ)を植える

      熟(じゅく):そのタネが育つ

      脱(だつ):最後に仏になる(悟る)

 

🌱たとえでいうと

タネ 成長 実がなる、です。

 

 

③ 御文のポイント

 

①「名字すら猶なし」

 

👉 真言・華厳には

この「種・熟・脱」という考え方の名前すらない

 

つまり

➡️ 仏になる仕組みを知らない

 

 

②「種をしらざる脱」

 

👉 一番大事なのは「種(タネ)」なのに

それを知らずに「悟り(脱)」だけを説いている

 

つまり

➡️ 原因なしに結果だけ言っている

 

 

③「過去をかくせり」

 

👉 本当は人は過去に仏のタネをもらっているのに

それを隠している

 

➡️ 根本がわからない教え

 

 

④ たとえ話の意味

 

「道鏡が王位に居せんとせしがごとし」

 

これは

道鏡 というお坊さんの話です。

 

👉 本来、天皇でないのに

👉 無理に王になろうとした人

 

 

このたとえの意味

 

👉 タネもないのに仏になろうとするのは

 

➡️ 身分が違うのに王になろうとするのと同じ

 

つまり

無理がある

本当ではない

 

 

⑤ まとめ(超シンプル)

 

この御文はこう言っています👇

 

👉 仏になるには

「種 脱」の順番が大事

 

👉 でも真言や華厳は

タネ(種)を知らない

だから本当の悟りではない

 

👉 それは

「普通の人が急に王になろうとするようなもの」

 

⑥ 一番大事なポイント

 

日蓮大聖人が言いたいのは

 

👉 末法では「種(下種)」が一番大事

 

つまり

 

👉 南無妙法蓮華経こそ仏になるタネ

 

ということです。

 

31日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集245

 

(十七)種・熟・脱 2/5

 

開目抄下 554

 

 宗々互ひに種を諍(あらそ)ふ。予此(これ)をあらそわず、但(ただ)経に任(まさ)べし。

 

わかりやすく言うと

 

いろいろな宗派が

「自分たちの教えこそが、人を仏にする“種”だ!」

と争っている。

 

しかし私は、そのような争いには加わらない。

ただし、経典(仏の教えそのもの)にまかせて判断すべきである。

 

 

解説

 

①「種」とは何か

ここでいう「種」とは

👉 仏になるための原因(仏のタネ) のことです。

 

どの教えが本当に人を救うのか、という問題です。

 

 

② 他宗の姿

多くの宗派は

「自分の教えが正しい」と主張して争っています。

 

 

③ 日蓮大聖人のお立場

しかし大聖人は

      感情的な議論はしない

      権威や人の意見にも頼らない

 

👉 ただ仏の説かれた経典そのものを基準にする

 

と言われています。

 

 

たとえで言うと

 

「どの薬が効くか」で人々が言い争っているときに、

      あの人が言ったから正しい

ではなく

      医学書(正しい根拠)に基づいて判断しよう

 

と言っているのと同じです。

 

まとめ

 

この御文は

 

👉 正しさは人の意見ではなく、仏の教え(経)によって決めるべきである

 

 

という、仏法の基本姿勢を教えています。