石黒御住職ご指導集 令和7年11月

1

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集102

 

(4)下種本尊 4/5

 

三大秘法抄 1594

 

 三大秘法其()の体如何(いかん)。答ふ、予が己心の大事之に如()かず。汝(なんじ)が志無二なれば少し之を言はん。寿量品に建立する所の本尊は、五百塵点(じんでん)の当初(そのかみ)より以来(このかた)、此土有縁深厚(しど・うえん・じんこう)・本有無作(ほんぬ・むさ)三身(さんじん)の教主釈尊是なり。

 

この御文は、御本尊の根本を明かされている部分です。

 

【現代語訳】

 

弟子が「三大秘法(さんだいひほう)とは、いったいどんな本体(ほったい)をもっているのですか?」とお尋ねします。

 

それに対して大聖人は、

 

「それ(=三大秘法)の本体は、日蓮自身の心の中の大事(仏の悟り)にほかならない。

あなた(弟子)の志が真剣で一心であるなら、少しだけその秘密を語ろう。」

 

と前置きされて、こう教えられます。

 

「法華経の寿量品に説かれている御本尊とは、

はるか過去の『五百塵点劫(ごひゃくじんでんこう)』という久遠の昔から、

この娑婆世界(しゃばせかい)と深い縁をもって現れてこられた、

本来から三身(法身・報身・応身)を具えた教主釈尊である。」

 

 

【解説】

 1. **「三大秘法」**とは

 御本尊・題目・戒壇の三つの秘法のことです。

 これが末法の衆生を成仏させる根本の法です。

 2. **「その体(たい)とは何か」**という質問に対し、

 大聖人は「自分(日蓮)の心の中の悟りそのものが三大秘法の体である」と仰せです。

 つまり、**日蓮大聖人の悟り=御本尊の体(ほんたい)**なのです。

 3. そしてその御本尊とは、

 法華経「寿量品」に説かれた「久遠実成(くおんじつじょう)の釈尊」の法体、

 すなわち、久遠元初(くおんがんじょ)から仏であられる教主釈尊を顕されたもの、

 という意味です。

 4. さらに、「此土有縁深厚(しどうえんじんこう)」とは、

 この日本の国土と深い縁をもつ仏ということ。

 「本有無作三身(ほんぬむささんじん)」とは、

 もともと作られたものではなく、本来から三身(法・報・応)を具えた仏という意味です。

 

 つまり「久遠の昔から、すでに悟りきった、永遠の生命の仏」であるということです。

 

【まとめ】

 

用語 意味

三大秘法  

本門の本尊・題目・戒壇の三つの秘法

 

体如何 その本体(ほんたい)は何か

 

予が己心の大事

日蓮大聖人の悟りの心(久遠元初の自受用身)

 

寿量品の本尊

久遠実成の教主釈尊

 

本有無作三身

生まれながらに三身を具えた永遠の仏

 

此土有縁深厚

この国土(末法の日本)と特別に深い縁をもつ仏

 

 

「三大秘法の根本とは、日蓮大聖人の悟りの心にある。

その御本尊とは、久遠の昔からこの世界を救うために現れた、永遠の仏(本有無作三身の教主釈尊=久遠の本仏)を顕したものである。」

 

※釈尊と表現してますが、3千年前の釈尊ではなく、

久遠の本仏=大聖人です。

 

 

2

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集103

 

(4)下種本尊 5/5

 

御義口伝 1773

 

「第廿五  建立御本尊等の事

(寿量品廿七箇の大事)

 

  此の本尊の依文(えもん)とは如来秘密神通之力(にょらいひみつじんずうしりき)の文なり。戒定慧の三学、寿量品の事の三大秘法是なり。日蓮慥(たしか)に霊山(りょうぜん)に於て面授口決(めんじゅぐけつ)せしなり。本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云。

 

現代語訳

 

この御本尊の根拠(もとになる文)は、「如来の秘密・神通の力」という寿量品(じゅりょうほん)の教えの中の言葉です。

そこには、仏の悟りの三つの力「戒(かい)・定(じょう)・慧(え)」がそなわっています。

この三つの力は、実は「三大秘法(さんだいひほう)」の教えにあたるのです。

 

日蓮大聖人は、霊鷲山(りょうじゅせん)で久遠の釈尊から直接に、この三大秘法の奥義を受け継がれました。

そして、その究極の姿としての「御本尊」とは、法華経の行者=日蓮大聖人ご自身の生命の当体である、と仰せなのです。

 

 

解説

 1. 「如来秘密神通之力」

 これは『法華経』寿量品に出てくる言葉で、

 仏の「深い悟りの力・不可思議なはたらき」をあらわしています。

 つまり、御本尊は「仏の秘密の力(本仏の智慧)」を、そのまま表したものなのです。

 2. 「戒・定・慧」=三学(さんがく)

 - 「戒」悪をやめること。

 - 「定」心を静めること。

 - 「慧」真理を見抜く智慧。

 この三つは仏道修行の基本であり、仏の悟りのはたらきです。

 大聖人はこれを、「三大秘法(本門の本尊・本門の題目・本門の戒壇)」にあてて説かれています。

 3. 「霊山に於て面授口決」

 これは、単なる象徴ではなく、

 久遠の本仏(くおんのほんぶつ)釈尊から日蓮大聖人が直接に授けられた、ということを意味します。

 「面授口決(めんじゅぐけつ)」とは、「仏と仏とが直接対面して法を受け継ぐこと」です。

 4. 「本尊とは法華経の行者の一身の当体」

 つまり、御本尊とは外にあるものではなく、

 **日蓮大聖人ご自身の悟りの生命=九識の当体(くしきのとうたい)**を文字にあらわしたものです。

 だから、私たちが御本尊に南無妙法蓮華経と唱えることは、

 大聖人の仏界の生命と自分の生命が一体になる、ということなのです。

 

まとめ

      「如来秘密神通之力」=御本尊の根本の文。

      「戒定慧の三学」=三大秘法にあたる。

      「霊山面授口決」=大聖人は久遠の本仏から直接、法を受け継がれた。

      「本尊とは法華経の行者の一身の当体」=御本尊は大聖人ご自身の仏の命のあらわれ。

 

🔹要するに:

御本尊とは、久遠の仏の悟りの命そのものを、日蓮大聖人がご自身の生命をもってあらわされた「仏のすがた」です。

私たちはその御本尊に向かって題目を唱えることで、同じ仏の命をわが身にあらわしていくことができる、という深い御文なのです。

 

3日

 

  日蓮大聖人御金言義類別入文集104

 

(5)題目  1/41

 

一生成仏抄 46

 

 只今(ただいま)も一念無明(むみょう)の迷心は磨かざる鏡なり。是(これ)を磨かば必ず法性真如(ほっしょうしんにょ)の明鏡(みょうきょう)と成るべし。深く信心を発(おこ)して、日夜朝暮に又懈(おこた)らず磨くべし。何様(いかよう)にしてか磨くべき、只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、是をみがくとは云ふなり。

 

 この一節は、**「信心によって心の迷いをはらい、仏の智慧をあらわす」**ということを教えられています。

 

 

現代語訳

 

今の私たちの心は、「一念無明(いちねんむみょう)」――つまり迷いにおおわれた心で、磨いていない鏡のようなものです。

けれども、信心を深くおこして、朝も夜も怠けずに磨き続ければ、必ず「法性真如(ほっしょうしんにょ)」という仏の智慧の光を放つ鏡になるのです。

 

では、どうやって磨くのか?

それは――ただ南無妙法蓮華経と唱えること。

お題目を唱えることこそ、心を磨く修行なのです。

 

解説

 

🪞1. 「磨かざる鏡」とは

人の心は、本来みんな仏になれる尊い命(仏性)を持っています。

でも、怒りや欲、疑い、怠けなどの**迷い(無明)**によって曇ってしまい、輝きを失っています。

だから大聖人は「磨かざる鏡」と言われるのです。

 

🌕2. 「磨けば必ず明鏡になる」

鏡は、もともと光を映す力を持っています。

同じように、どんな人の心も磨けば必ず光るのです。

それが「法性真如の明鏡(仏の智慧と慈悲)」です。

つまり、「自分には仏になる力がある」と信じて磨き続けることが大事だと教えられています。

 

🕊3. 「信心を発して、日夜朝暮に懈らず磨く」

一度磨いたら終わりではなく、毎日の信心のくり返しが大事です。

朝夕の勤行・唱題は、まさにその「心を磨く時間」なのです。

 

🔔4. 「どうやって磨くのか」

その答えが、はっきりと示されています。

 

「只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、是を磨くとは云ふなり」

 

つまり、お題目を唱えることで、自分の心の迷いが消え、仏の命が光り出す――これが「磨く」という行です。

 

 

🪷まとめ

 

磨かざる鏡

迷いにおおわれた私たちの心

 

磨く

南無妙法蓮華経と唱えること

 

明鏡になる

仏の智慧・慈悲があらわれること

 

「心を磨くとは、お題目を唱えること」

「唱題のたびに、仏の光がわが身に現れる」

 

4日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集105

 

(5)題目  2/41

 

一念三千法門 108

 

さて此の妙法蓮華経を唱ふる時、心中の本覚(ほんがく)の仏顕(あら)はる。

 

この御文は、お題目を唱える時に、自分の中の仏の命があらわれるという、非常に大切な教えです。

 

 

🌸現代語訳

 

「さて、この妙法蓮華経を唱えるとき、

 人の心の中に本来そなわっている“仏の命(本覚の仏)”があらわれる。」

 

 

🔍語句の意味

      妙法蓮華経を唱ふる時

 = 南無妙法蓮華経と声に出して唱えるとき。

 これは仏の命(九識の当体)に直結する修行です。

      心中(しんちゅう)

 = 自分の心の奥底、生命の根本のこと。

 そこには、だれにも仏の種(仏性=ぶっしょう)が宿っています。

      本覚(ほんがく)

 = 本来から悟っている命。

 つまり、仏の智慧・慈悲・力は、私たちの生命の中にもともと備わっている、という教えです。

      仏顕はる(ほとけあらわる)

 = その仏の命が実際に光り出す・働き出すこと。

 つまり、唱題によって自分の中の仏が“目を覚ます”という意味です。

 

🪷解説

 

日蓮大聖人は、「仏は遠いところにいる存在ではない」と説かれました。

仏は、私たち一人ひとりの心の中に本来そなわっている。

ただ、それが迷いや苦しみによって隠れているのです。

 

しかし、南無妙法蓮華経と唱えるとき、

その心の奥底(九識)の仏性が動き出し、

智慧・勇気・慈悲など、仏のはたらきがあらわれます。

 

それが「心中の本覚の仏顕はる」――

つまり、自分の中の仏が姿を現すということなのです。

 

🌞たとえ話で言うと

 

太陽が雲にかくれているときでも、

太陽そのものは消えていません。

ただ、雲(=迷いや無明)が邪魔して見えないだけです。

 

お題目を唱えることは、

その雲を吹き払い、

自分の生命の太陽――仏の光を輝かせることなのです。

 

 

🕊まとめ

 

教えの言葉 やさしい意味

妙法蓮華経を唱ふる時 お題目を唱えるとき

心中 自分の心の奥底(九識)

本覚の仏 本来そなわる仏の命

顕はる その仏の命があらわれる

 

🔹要するに:

お題目を唱えるたびに、

「自分の中の仏が動き出す」――これがこの御文の意味です。

 

 

5日

 

 日蓮大聖人金言義類別入文集106

 

(5)題目  3/41

 

総在一念抄 115

 

 一文(いちもん)不通(ふつう)の愚人南無妙法蓮華経と唱へては何の益(やく)か有らんや。答ふ、文盲(もんもう)にして一字を覚悟せざる人も信を致して唱へたてまつれば、身口意(しんくい)の三業の中には先()ず口業(くごう)の功徳を成就せり。若()し功徳成就すれば仏の種子むね()の中に収めて必ず出離(しゅつり)の人と成るなり。

 

 

この御文は、日蓮大聖人が「文字を知らない人でも、南無妙法蓮華経と唱えれば必ず救われる」という大慈悲の教えを説かれた部分です。

 

 

 

原文の意味

 

一文不通の愚人南無妙法蓮華経と唱へては何の益か有らんや。

 

――文字の読めない人(経文を理解できない人)が、南無妙法蓮華経と唱えても、いったい何の意味があるのか?という疑問を立てています。

 

答ふ、文盲にして一字を覚悟せざる人も信を致して唱へたてまつれば、身口意の三業の中には先ず口業の功徳を成就せり。

 

――大聖人はこう答えられます。

たとえ字を知らず、経文の意味がわからなくても、信心をもって真剣に題目を唱えるならば、

人間の三つの働き(身=行い、口=言葉、意=心)のうち、まず「口」で功徳を積むことができる、ということです。

 

若し功徳成就すれば仏の種子胸の中に収めて必ず出離の人と成るなり。

 

――題目を唱える功徳が成就すれば、その人の胸の中には**仏になる「種(たね)」**が植えられる。

だから、必ず迷いや苦しみの世界から抜け出して、成仏の道に入る人になるのだ、という教えです。

 

まとめ

      お経を読めない人でも大丈夫。

      大切なのは、信心の心で南無妙法蓮華経と唱えることです。

      唱えることで「口」の功徳が必ず生じ、その功徳が仏になる種となる。

      その人は、必ず仏の道に進むことができる。

 

日蓮大聖人の教えの心

 

この御文には、大聖人のすべての人を救う大慈悲の精神が表れています。

学問のあるなし、地位や身分、男女の別を問わず、

「南無妙法蓮華経」と唱える信心さえあれば、

だれもが仏の種をいただける――

まさに一切衆生成仏の法なのです。

 

 

6日

 

 唱法華題目抄 229

 

 行儀は本尊の御前にして必ず坐立(ざりゅう)行なるべし。

道場を出でては行住(ぎょうじゅう)坐臥(ざが)をゑらぶべからず。

常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱ふべし。

 

 

💬現代語訳

 

信心の実践(行儀)は、御本尊の前で、**正しい姿勢(坐って、または立って)**で唱題すべきです。

しかし、一歩道場(仏間)を出たら、どんな姿勢でも、どんな場所でもかまいません。

歩いていても、座っていても、寝ていても、働いていても、

いつでも「南無妙法蓮華経」と唱えることが大切です。

 

つまり、

      御本尊の前では、礼儀正しく心を正して唱える。

      日常生活の中では、時や場所を選ばず、題目を心に唱える。

 

ということです。

 

 

🌸やさしい解説

 

大聖人は、題目の行(修行)の正しい姿を教えておられます。

御本尊の前では、仏さまに直接向かう気持ちで、真剣に・礼儀正しく唱題します。

これを「坐立行(ざりゅうぎょう)」といいます。

 

しかし、家を出て生活の中に入ったら、

信心は「特別な場所だけのもの」ではなく、

どんなときでも、心に御本尊を思い出し、題目を唱える生活が大切なのです。

 

 

🪷まとめ

 

御本尊の前では姿勢正しく唱える。

日常生活では、どんな時も心に題目を忘れない。

 

この一節は、

「形式と心の両面の修行」を教えてくださっている御文です。

 

7日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集108

 

(5)題目  5/41

 

唱法華題目抄 230

 

 今法華経は四十余年の諸経を一経に収めて、十方世界の三身円満の諸仏をあつめて、釈迦一仏の分身(ふんじん)の諸仏と談ずる故に、一仏一切仏にして妙法の二字に諸仏皆(みな)収まれり。故に妙法蓮華経の五字を唱ふる功徳莫大(ばくだい)なり。諸仏諸経の題目は法華経の所開(しょかい)なり、妙法は能開(のうかい)なりとしりて法華経の題目を唱うべし。

 

 

【原文の要点】

 1. 法華経は、釈尊がそれまで説いたすべての経(四十余年の諸経)をまとめた究極の教えである。

 2. 十方世界のすべての仏(過去・現在・未来の仏)も、釈迦一仏の分身としてこの法華経を中心に説いている。

 3. つまり、「一仏(釈迦仏)」の中に「一切の仏」が含まれている。

 そしてそのすべての仏の智慧と功徳が、「妙法」という二文字におさまっている。

 4. だからこそ、**「南無妙法蓮華経」と唱える功徳は計り知れない(莫大)**のだ。

 5. また、ほかの経典や仏の名号の題目は、すべてこの法華経によって開かれたものである。

 したがって、**「妙法」はすべてを開く根本の法(能開)**であると心得て、題目を唱えなさい。

 

 

【現代語訳】

 

お釈迦さまは、四十年以上にわたって多くの経を説かれましたが、その集大成・完成版が法華経です。

この法華経の中には、十方世界すべての仏の智慧と功徳が一つにおさまっています。

 

つまり、法華経の中に全ての仏の教えがあり、妙法の二字の中に諸仏の功徳がすべて含まれているのです。

 

だから、私たちが「南無妙法蓮華経」と唱えることは、

一切の仏を供養し、一切の経典を修めるのと同じ、いやそれ以上の功徳があるのです。

 

そして、「阿弥陀経」や「金剛経」など他の経の題目も、もとはこの法華経から開かれたものです。

ゆえに、法華経こそ根本の経、妙法こそすべてを開く鍵なのです。

 

【まとめ】

      法華経=お釈迦さまの全経のまとめ・最高の教え

      妙法=すべての仏・すべての経の根本

      題目を唱える=全仏の功徳を受ける修行

      だから「南無妙法蓮華経」と唱える功徳は「莫大(ばくだい)」である。

 

8日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集109

 

()題目 6/41

 

月水御書 305

 

 南無一乗妙典と唱へさせ給う事、是同じ事には侍(はべ)れども、天親(てんじん)菩薩・天台大師等の唱へさせ給ひ候しが如く、只(ただ)南無妙法蓮華経と唱へさせ給ふべきか。是子細(しさい)ありてかくの如くは申し候なり。

 

意味

 

あなたが「南無一乗妙典(なんむいちじょうみょうてん)」と唱えておられるのは、「南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)」と意味としては同じことです。

しかし、大聖人は「ただ南無妙法蓮華経と唱えるべきである」とおっしゃっています。

それには、深い理由(子細)があるのです。

 

背景とポイント

      「一乗妙典(いちじょうみょうてん)」とは、法華経そのものを指す言葉です。

「一乗(いちじょう)」とは、「すべての人を仏にする唯一の道」という意味で、法華経の別名です。

ですから「南無一乗妙典」も「法華経に帰依します」という意味になります。

      しかし、日蓮大聖人は、「南無妙法蓮華経」こそが末法の正しい題目であると明らかにされました。

これは、単なるお経の名前ではなく、成仏の根本の法をそのまま唱えるお題目です。

      天親菩薩や天台大師などは、釈尊の滅後、まだ末法以前の時代の修行者でした。

彼らは「法華経の教え」を理解していましたが、妙法蓮華経という「題目」を唱える段階には至っていなかったのです。

      そこで大聖人は、「ただ南無妙法蓮華経と唱えるべき」と教えられたのです。

これは、末法の今、成仏できる唯一の修行が題目であるということを示しています。

 

 

まとめ

 

同じ「法華経を信じる」という気持ちでも、

ただ「南無一乗妙典」と唱えるのではなく、

「南無妙法蓮華経」と、そのまま題目を唱えることが大切です。

 

なぜなら、

この五字七字(妙法蓮華経)そのものが、

仏の智慧と慈悲のすべてを含み、

私たちを成仏へ導く「生きた法」だからです。

 

9日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集110

 

法華経題目抄 353

 

 何(いか)に況(いわ)んや法華経の題目は八万聖教(しょうぎょう)の肝心、一切諸仏の眼目(けんもく)なり。汝等(なんだち)(これ)をとなえて四悪趣をはな()るべからずと疑ふか。正直捨方便の法華経には「信を以て入ることを得()」と云ひ、雙林最期の涅槃経には「是の菩提の因は復無量なりと雖(いえど)も、若し信心を説けば、則(すなわ)ち已(すで)に摂尽(しょうじん)す」等云云。

 夫(それ)仏道に入()る根本は信をもて本とす。

 

この御文は、信心の大切さと、題目の功徳の偉大さを明らかにされた、とても重要な御文です。

 

現代語訳

 

ましてや、**法華経の題目(南無妙法蓮華経)は、

すべての仏の教え(八万四千の経)の中の肝心(いのち)であり、

あらゆる仏が悟りを開いた眼(まなこ)**なのです。

 

あなた方がこの題目を唱えて、

地獄・餓鬼・畜生・修羅の四悪趣から離れられないなどと、

疑うことがあってはなりません。

 

法華経には「信によってこそ仏の悟りの世界に入ることができる」と説かれ、

涅槃経にも「悟りの原因はたくさんあるように見えるが、

その中でも信心こそがすべてを含む根本である」と説かれています。

 

つまり――

仏道に入る根本は、信心をもって第一とするのです。

 

 

解説

 

① 「法華経の題目は八万聖教の肝心・一切諸仏の眼目なり」

 

ここで大聖人は、「南無妙法蓮華経」という題目の尊さを強調されています。

 

仏が一代の教えで説かれた「八万四千の経(すべての経典)」は、

たくさんの薬のように、人の悩みや病に応じて説かれたものでした。

しかし、それらすべての中心(肝心)・**いのち(眼目)**は、

「法華経の題目」なのです。

 

つまり、

題目を唱えることは、すべての仏法の中心を行ずることになるのです。

 

 

② 「四悪趣を離るべからずと疑ふか」

 

「題目を唱えても、地獄や餓鬼などの苦しみから離れられないのではないか」と、

そんな疑いをもってはいけない、というお諭しです。

 

「南無妙法蓮華経」と唱えること自体に、

罪を消し、苦しみを脱する功徳が厳然とあります。

唱題の功力を信じることが大切なのです。

 

 

③ 「信を以て入ることを得」「信心を説けば則ち已に摂尽す」

 

法華経と涅槃経、どちらの経典も「信心こそが仏道修行の根本」だと説いています。

      どんなに知識があっても、信心がなければ仏の悟りには入れません。

      逆に、学問がなくても、信心があれば仏の智慧を得ることができます。

 

大聖人は、ここで「信心の一念がすべての修行を超える力を持つ」と明かされています。

 

 

④ 「仏道に入る根本は信をもて本とす」

 

この最後の一句が、この御文の結論です。

つまり――

 

仏の悟り(成仏)に至る道の出発点は、何よりも「信心」である。

 

知識よりも、形式よりも、まず「信じる心」がすべての根本。

信があれば智慧も生まれ、功徳も現れ、行も続く。

信こそが「成仏の第一歩」です。

 

 

まとめ

 

教えの要点 意味

法華経の題目は八万聖教の肝心 「南無妙法蓮華経」は全仏法の中心

疑うな 題目の功徳は必ず四悪趣を離れる力を持つ

信によって入る 信心こそ仏道の入口

仏道の根本は信 成仏のすべては信から始まる

 

 

🪷結びの一句(要約)

 

「南無妙法蓮華経」と唱えることは、

仏の命をそのまま我が身に受け入れること。

すべては信心に始まり、信心に尽きるのです。

 

10日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集111

 

()題目 8/41

 

聖愚問答抄 405

 

    所謂(いわゆる)諸仏の誠諦(じょうたい)得道の最要は只是(ただこれ)妙法蓮華経の五字なり。檀王の宝位を退き、竜女が蛇身を改めしも只此の五字の致す所なり。夫(それ)(おもんみ)れば今の経は受持の多少をば一偈一句と宣()べ、修行の時刻をば一念随喜と定めたり。凡(およ)そ八万法蔵の広きも一部八巻の多きも、只是五字を説かんためなり。霊山(りょうぜん)の雲の上、鷲峯(じゅぶ)の霞(かすみ)の中に、釈尊要を結び地涌付属を得ることありしも法体は何事ぞ、只此の要法(ようぼう)に在り。

 

この御文は、日蓮大聖人が、「仏が悟りを開いた本当の根本の教えは何か」を明らかにされています。

 

🔶原文の要点

 

所謂諸仏の誠諦得道の最要は只是妙法蓮華経の五字なり。

檀王の宝位を退き、竜女が蛇身を改めしも只此の五字の致す所なり。

 

ここでは、「諸仏が悟りを開いた最も大事な教えは、妙法蓮華経の五字(みょうほうれんげきょう)である」と述べています。

つまり、仏の悟りの核心=南無妙法蓮華経なのです。

 

また、「檀王が王位を捨てて出家し、竜女が蛇の身を改めて仏になった」――これらの奇跡も、すべてこの五字の力によるものだと説かれています。

 

今の経は受持の多少をば一偈一句と宣べ、修行の時刻をば一念随喜と定めたり。

 

法華経では、「たとえ一偈(ひとつの偈文)や一句だけを信じ受け持っても功徳がある」と説かれています。

また、「一念随喜(いちねんずいき)」――すなわち、ほんの一瞬でも心から喜び信じること自体が、修行として尊いと教えています。

 

これは、「量(多い・少ない)」ではなく、「心(信心)」こそが大事だということです。

 

凡そ八万法蔵の広きも一部八巻の多きも、只是五字を説かんためなり。

 

仏教には「八万法蔵」といって、非常に多くのお経があります。

しかしそのすべては、結局この「妙法蓮華経の五字」を説くためだった――と大聖人は断言されています。

つまり、すべてのお経の目的は、南無妙法蓮華経という真実の法を悟らせるため、ということです。

 

霊山の雲の上、鷲峯の霞の中に、釈尊要を結び地涌付属を得ることありしも法体は何事ぞ、只此の要法に在り。

 

釈尊が霊鷲山(りょうじゅせん)で法華経を説かれ、地涌の菩薩(じゆのぼさつ)たちに末法弘通を託された――その「要(かなめ)」となる教えは何か。

それがまさに「妙法蓮華経の五字」なのです。

 

 

まとめ

 

仏の悟りも、すべての経も、すべてこの「南無妙法蓮華経」という五字の中におさまっている。

一偈一句を信じても、一念でも喜んで信じても、その功徳は無量。

末法の今、私たちがこの題目を唱えることこそ、釈尊の本懐・大聖人の御意である。

 

再度まとめ

 

仏さまが悟りを開かれた根本の法は、ただ「南無妙法蓮華経」の五字です。

八万のお経も、釈尊の一代の説法も、この五字を明かすためでした。

私たちが一念でも喜び、真心で題目を唱えることこそ、仏と同じ悟りの道なのです。

 

11日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集112

 

()題目 9/41

 

聖愚問答抄  406

 

只南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪や有るべき、来たらぬ福(さいわいのや有るべき。真実なり甚深なり。是を信受すべし。

 

現代語訳

 

ただ「南無妙法蓮華経」と唱え奉るならば、

消えない罪などあるはずがない。

来ない福(しあわせ)などあるはずがない。

これはまことに真実であり、深い意義をもつ。

ゆえに、これをしっかりと信じて受け入れなさい。

 

解説

 

この御文は、題目(南無妙法蓮華経)を唱える功徳を明確に説かれた箇所です。

 

日蓮大聖人は、「南無妙法蓮華経」と唱えるだけで、

どんなに重い罪でも滅び、

どんなに大きな福も必ず来る、

と断言されています。

 

つまり――

      過去の罪(過去世・今世の悪業)も題目で清められ、

      未来の幸せ・成仏の果報も必ず開けてくる。

 

ということです。

 

そして、「真実なり甚深なり」と結ばれているように、

これは単なる励ましではなく、仏の真理そのものであり、

深く理解しきれないほどの大法なのです。

 

まとめ

 

「ただ題目を唱えるだけで、罪は消え、福は来る。これはまことの真理である」

 

この信心を疑わずに持ち続けることが、

末法の私たちにとっての最も深く確かな救いの道である――

と日蓮大聖人は教えてくださっているのです。

 

 

12日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集113

 

()題目 10/41

 

聖愚問答抄  406

 

 夫(それ)妙法蓮華経とは一切衆生の仏性なり。仏性とは法性(ほっしょう)なり。法性とは菩提なり、所謂(いわゆる)釈迦・多宝・十方の諸仏・上行・無辺行等・普賢・文殊・舎利弗・目連等、大梵天王・釈提桓因(しゃくだいかんにん)・日月・明星・北斗・七星・二十八宿・無量の諸星・天衆・地類・竜神・八部・人天・大会・閻魔法王・上は非想の雲の上・下は那落の炎の底まで所有(あらゆる)一切衆生の備うる所の仏性を妙法蓮華経とは名(なづ)くるなり。されば一遍此の首題を唱へ奉れば一切衆生の仏性が皆よばれて爰(ここ)に集まる時我が身の法性の法報応の三身ともに・ひかれて顕れ出ずる是を成仏とは申すなり、例せば籠の内にある鳥の鳴く時・空を飛ぶ衆鳥の同時に集まる是を見て籠の内の鳥も出でんとするが如し。

 

 この一節は、**「妙法蓮華経の五字の功徳とは何か」**を、日蓮大聖人がやさしく、しかも深く説かれている部分です。

 

🔶原文と意味

 

①「夫(それ)妙法蓮華経とは一切衆生の仏性なり」

 

まず、「妙法蓮華経とは一切衆生の仏性(ぶっしょう)である」と説かれます。

仏性とは、すべての人の中にある仏となる種・命の根本です。

つまり、妙法蓮華経=仏性=命そのものの真実、ということです。

 

 

②「仏性とは法性(ほっしょう)なり。法性とは菩提なり」

 

ここで「仏性」と「法性」「菩提(ぼだい)」が同じ意味であることを示されています。

      仏性 すべての人の中にある仏の命

      法性(ほっしょう) 宇宙・生命の真理そのもの

      菩提(ぼだい) 仏の悟り(仏智)

 

つまり、「妙法蓮華経」は、仏の悟りの本体(真理)そのものなのです。

 

 

③「釈迦・多宝・十方の諸仏・上行・無辺行…竜神・八部・人天…那落の炎の底まで」

 

ここでは、仏・菩薩・諸天・地の精霊・人間・地獄の衆生――

上から下まで、すべての存在に仏性があることを挙げられています。

 

つまり、「どんな命の中にも妙法が宿っている」のです。

仏も、天も、人も、地獄の衆生までも、みな同じ妙法の命です。

 

 

④「されば一遍此の首題を唱へ奉れば一切衆生の仏性が皆よばれて爰(ここ)に集まる」

 

ここが非常に大事です。

私たちが「南無妙法蓮華経」と一度でも唱えると――

宇宙に広がる**すべての仏性(仏の命)**が呼び集められ、

自分の中の仏性もそれに呼応して目を覚まします。

 

 

⑤「時我が身の法性の法報応の三身ともにひかれて顕れ出ずる 是を成仏とは申すなり」

 

「三身(さんじん)」とは、仏の三つの姿です👇

      法身 真理そのもの(妙法)

      報身 智慧の光

      応身 すがたを現して衆生を導く働き

 

この三つが「自分の中に顕れる」こと、

すなわち 仏の命が現れる=成仏 ということです。

 

 

⑥「例せば籠の内にある鳥の鳴く時、空を飛ぶ衆鳥の同時に集まる…」

 

ここは、大聖人がわかりやすくたとえられた部分です。

      自分の中の仏性(妙法)を唱えることは、

 →「かごの中の鳥が鳴く」ようなもの。

      すると、空を飛ぶ他の鳥(宇宙に満ちる仏性たち)が呼び寄せられる。

 → その響きにひかれて、かごの鳥(自分の仏性)も外へ出て飛び立つ。

 

これが「成仏」のありさまです。

題目を唱えると、自分の仏性が宇宙法界の仏性と響き合い、仏の命が現れる――

この尊い真理をたとえで示されています。

 

 

🔶まとめ

 

南無妙法蓮華経とは、すべての人・すべての命の中にある仏の心(仏性)そのものです。

題目を唱えると、自分の仏性が呼び覚まされ、仏の命と響き合います。

その時、私たちの心の中に仏の智慧・慈悲・力が現れる――

これを「成仏」といいます。

 

まとめ(短く)

 

「南無妙法蓮華経」と唱える一声は、

自分の中の仏の命が鳴くようなものです。

その声に呼ばれて、仏の命が集まり、

自分の中の仏の光が現れてくる――

これが、私たちの成仏のすがたです。

 

13日

 

  日蓮大聖人御金言義類別入文集114

 

()題目 11/41

 

聖愚問答抄  407

 

 一切名の大切なる事蓋(けだ)し以て是くの如し。天台は名詮(みょうせん)自性(じしょう)・句詮差別とも名者大綱とも判ずる此の謂(いわ)れなり。又名は物をめ()す徳あり、物は名に応ずる用(ゆう)あり。法華題名の功徳も亦(また)以て此()くの如し。

 

【現代語訳】

 

すべての「名前(名)」というものが大切であるというのは、このような理由による。

天台大師は、「名詮自性(みょうせんじしょう)」「句詮差別(くせんしゃべつ)」ともいい、また「名は大綱(たいこう)なり」とも説いている。

つまり「名(名前)」には深い意味が込められており、そのものの本質を表しているということだ。

 

さらに、「名」は物を呼び出す力(徳)があり、「物」はその名に応じて働く力(用)をもっている。

たとえば、「火」と言えば火の働きを、「水」と言えば水の性質を思い起こすように、名と実体(もの)は深く結びついている。

 

したがって、「法華経の題名(南無妙法蓮華経)」にも、このような名の力と功徳があり、題名を唱えることで、すべての仏の功徳が現れるのである。

 

【解説】

 

ここで大聖人は、「名前(名)には大きな力がある」と教えられています。

「名前」は、ただの呼び名ではなく、そのものの本当の性質(実体)を表すものです。

 

たとえば──

      「太陽」と聞けば、光とあたたかさを思い出す。

      「毒」と聞けば、害や恐れを感じる。

 

このように、「名」は実際の働きを呼び起こす力を持っています。

これを「名は物を召す徳あり、物は名に応ずる用あり」と言います。

 

同じように、

「南無妙法蓮華経」と唱えるとき、その名(題目)によって、

仏の智慧・慈悲・功徳という実体が、私たちの生命の中に呼び起こされて働くのです。

 

【まとめ】

      「名」はそのものの本質を表す。

      「名」を呼ぶことで、実体が働く。

      だから「南無妙法蓮華経」という名を唱えるとき、

 仏の功徳そのものが、私たちに現れてくる。

 

 

つまり大聖人は、

 

「法華経の題名(南無妙法蓮華経)こそ、仏のすべての功徳を含み、唱えるだけでその功徳が現れる」

と教えておられるのです。

 

14日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集115

 

()題目 12/41

 

十章抄 466

 

 真実に円の行に順じて常に口ずさ()みにすべき事は南無妙法蓮華経なり。心に存すべき事は一念三千の観法なり、これは智者の行解(ぎょうげ)なり。日本国の在家の者には但(ただ)一向に南無妙法蓮華経ととな()えさすべし。名は必ず体にいたる徳あり。

 

【現代語訳】

 

本当に円満な修行(正しい行)に従って、

いつも口にすべきことは「南無妙法蓮華経」である。

 

心の中で思うべきことは「一念三千(いちねんさんぜん)」という深い観法(かんぽう)であり、

これは学識ある智者(ちしゃ=修行の深い人)が行う修行・理解である。

 

けれども、日本国の在家の人(普通の信心の人々)には、

ただひたすら「南無妙法蓮華経」と唱えるようにすればよい。

 

「名(名前)」には、必ずその「体(ほんとうの実体)」に至る徳(力)があるからである。

 

 

【解説】

 

この御文で、大聖人は信心の基本をとても明確に教えられています。

 

① 「口に唱える修行」

真実に円の行に順じて常に口ずさみにすべき事は南無妙法蓮華経なり。

**もっとも正しい修行(円の行)**は、「南無妙法蓮華経」と唱えること。

これが仏の教えの中心であり、誰でも実践できる修行です。

 

② 「心で観ずる智慧」

心に存すべき事は一念三千の観法なり。

→ 「一念三千」とは、一つの念の中に全宇宙(三千世界)が具わるという法門。

これは仏の智慧を観じる深い修行で、理論的理解や観想を伴います。

だから、これは「智者の行解」──学識ある修行者の修行です。

 

③ 「一般の信者に大切なのは題目」

日本国の在家の者には但一向に南無妙法蓮華経と唱えさすべし。

→ 私たち在家信徒にとっては、難しい理屈よりも、

 ひたすら南無妙法蓮華経を唱えることが第一です。

 

唱える行為そのものに、仏の智慧・慈悲・功徳がすべて具わっているのです。

 

④ 「名と体の関係」

名は必ず体にいたる徳あり。

→ 「名前(名)」を唱えると、その「実体(体)」が働く力がある。

たとえば、「火」と言えば熱や光を思い起こすように、

「南無妙法蓮華経」と唱えれば、仏そのものの功徳が現れるという意味です。

 

 

【まとめ】

 

南無妙法蓮華経を唱える  最高の修行(円の行)

 

一念三千を観ずる

智者の修行(理を理解する行)

 

在家の修行

ただ題目を唱えることで成仏できる

 

名は体に至る徳あり

「南無妙法蓮華経」と唱えれば、仏の功徳が必ず現れる

 

【信心の要】

 

つまり大聖人はこう仰せです👇

 

「深い理屈を知らずとも、ただ真剣に南無妙法蓮華経と唱えれば、

仏の智慧と功徳は、必ずその人の身に現れる。」

 

    まさに「唱えることがそのまま悟りの道」という、

南無妙法蓮華経の信仰の核心を示された御文です。

 

15日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集116

 

()題目 13/41

 

観心本尊抄 653

 

釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。

我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。四大声聞の領解〔りょうげ〕に云はく

「無上宝聚〔むじょうほうじゅ〕、不求自得〔ふぐじとく〕」云云。

 

🪷意味の説明

 

①「釈尊の因行果徳の二法」

      「因行」とは、釈尊(お釈迦さま)が修行された行いのことです。

      「果徳」とは、その修行の結果として得られた智慧や慈悲などの徳のことです。

つまり、「釈尊が修行して得られたすべての功徳」という意味です。

 

 

②「妙法蓮華経の五字に具足す」

      「南無妙法蓮華経」というお題目の中には、

 釈尊の修行の功徳(因行)も、その結果としての悟りの功徳(果徳)も、

 すべて完全にそなわっている、ということです。

つまり、「お題目の中に仏のすべての功徳が入っている」のです。

 

 

③「我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ」

      私たちがこの「南無妙法蓮華経」を信じ、唱えて受け持つなら、

 お釈迦さまは、その修行と悟りの功徳を、自然にそのまま私たちに分け与えてくださるのです。

つまり、修行を長く積まなくても、お題目を信じて唱えることで、

仏の功徳をそのまま自分のものにできる、ということです。

 

 

④「無上宝聚、不求自得」

      『法華経』の中の言葉で、意味は

 「最高の宝の集まりを、求めずして自然に得る」ということです。

つまり、南無妙法蓮華経と唱えるだけで、

 仏さまの最高の功徳(宝)を、努力して探さなくても自然に得られる、ということです。

 

 

🌸まとめ

 

お釈迦さまが長い修行で得られた悟りのすべての功徳は、

「南無妙法蓮華経」という五字の中にすべて入っています。

 

私たちが信心をもってこのお題目を唱えると、

お釈迦さまの修行と悟りの功徳が、自然にそのまま私たちに伝わります。

 

だから、お題目を唱えることは、最高の宝を**「求めずして得る」**道なのです。

 

 

16日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集117

 

()題目 14/41

 

諸法実相抄 664

 

 法華経の第一方便品に云く「諸法実相乃至本末究竟等」云云。此の経文の意(こころ)如何(いかん)。答へて云はく、下(しも)地獄より上(かみ)仏界までの十界の依正(えしょう)の当体、悉(ことごと)く一法ものこさず妙法蓮華経のすがた()なりと云ふ経文なり。

 

🪷1.まず、「諸法実相」とは何か?

 

「諸法実相(しょほうじっそう)」とは、

この世に存在する**すべてのもの(諸法)のほんとうの姿(実相)**という意味です。

 

つまり、

「ものごとの本当の姿」「生命の根本の真理」ということです。

 

🪷2.「下地獄より上仏界までの十界」とは

 

これは、「十界(じっかい)」と呼ばれる生命の段階を表します。

 1. 地獄界(苦しみ)

 2. 餓鬼界(欲に支配される)

 3. 畜生界(理性を失う)

 4. 修羅界(争い)

 5. 人界(思慮・安定)

 6. 天界(喜び)

 7. 声聞界(小乗の悟り)

 8. 縁覚界(独り悟る)

 9. 菩薩界(他を救う)

 10. 仏界(究極の悟り)

 

 

🪷3.「依正の当体(えしょうのとうたい)」とは?

      「依報(えほう)」は、私たちが住む環境・世界のこと。

      「正報(しょうほう)」は、私たちの生命そのもの。

 

つまり、生命と環境のすべてという意味です。

 

 

🪷4.大聖人のお示しの意味

 

「下地獄より上仏界までの十界の依正の当体、悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなり」

 

この部分は非常に深い真理を説かれています。

 

つまり――

 

どんな命(地獄のような苦しみの命)も、

どんな世界(悪い環境)も、

また仏のような悟りの命も、

 

すべては本来、妙法蓮華経という一つの真理のあらわれなのだ

ということです。

 

 

🌸まとめ

 

法華経の「諸法実相」とは、

この世界のあらゆるもの──苦しみの命も、悟りの命も、

よい世界も悪い世界も──

すべてが「妙法蓮華経」という真実の法のあらわれである、という意味です。

 

つまり、

私たちの生命そのものが妙法であり、仏のすがたなのです。

 

 

再度、まとめ

 

「諸法実相」とは、

この世界のすべてのものが「妙法蓮華経」という仏の命のあらわれだ、ということです。

 

私たちの命も、まわりの世界も、みな妙法の姿。

だからこそ、題目を唱えることで、

苦しみの中にも仏のいのちを輝かせることができるのです。

 

 

17

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集118

 

()題目 15/41

 

当体義抄 692

 

 問う。妙法蓮華経とは、その体何物ぞや。

 答う。十界の依正(えしょう)即ち妙法蓮華の当体なり。

 問ふ。若し爾らば我等が如き一切衆生も妙法の全体なりと云はるべきか。

 答う、勿論なり。

 

 この御文は、「私たちの生命そのものが妙法蓮華経の姿である」という、

日蓮大聖人の教えの核心を示されています。

 

🪷1.「妙法蓮華経とは、その体何物ぞや」

 

「妙法蓮華経というのは、一体何をさしているのですか?」

という質問です。

つまり、「妙法蓮華経の本当の正体(すがた)とは何か?」という問いです。

 

 

🪷2.「十界の依正、即ち妙法蓮華の当体なり」

 

大聖人はこう答えられます。

 

「十界(地獄界から仏界までのすべての命)と、

それぞれに対応する世界(依報)をふくめた、

すべての存在そのものが、

じつは妙法蓮華経のあらわれ(当体)である。」

 

つまり、

この宇宙のすべての命と環境が、妙法蓮華経の姿そのものなのです。

 

🪷3.「もししからば、我らがごとき一切衆生も妙法の全体なりと云わるべきか」

 

弟子がたずねます。

「それでは、私たちのような凡夫(煩悩だらけの人間)も、妙法そのものなのですか?」

 

 

🪷4.「勿論なり」

 

大聖人は、力強く答えられます。

「もちろん、そのとおりである。」

 

つまり、

どんな凡夫の命も、もともと妙法蓮華経そのものの命である、

ということです。

 

 

🌸まとめ

 

日蓮大聖人は、

「妙法蓮華経」とはどこか遠くにある聖なる教えではなく、

この世のすべての命と世界のすがたそのものだと説かれました。

 

だから、私たち一人ひとりの命も、

もともと「妙法」の命、すなわち仏の命なのです。

 

南無妙法蓮華経と唱えることで、

その本来の仏の命が輝き出る――これが信心の実践です。

 

 

🗣️再度、まとめ

 

「妙法蓮華経とは何ですか?」と聞かれたとき、

大聖人はこうお答えになりました。

「地獄から仏界まで、すべての命と世界が妙法蓮華経の姿である」と。

 

つまり、私たち一人ひとりの命も、もともと妙法そのものなのです。

だからこそ、お題目を唱えることで、

どんな苦しみの中でも仏のいのちを輝かせることができます。

 

 

18日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集119

 

()題目 16/41

 

阿仏房御書 7923

 

    南無妙法蓮華経ととなふるものは、我が身宝塔にして、我が身又多宝如来なり。妙法蓮華経より外(ほか)に宝塔なきなり。法華経の題目宝塔なり、宝塔又南無妙法蓮華経なり。

 今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり。然(しか)れば阿仏房さながら宝塔、宝塔さながら阿仏房、此(これ)より外の才覚無益(むやく)なり。聞(もん)・信(しん)・戒(かい)・定(じょう)・進(しん)・捨(しゃ)・慚(ざん)の七宝(しっぼう)を以てかざり宝塔なり。

 

 

解説

 

■①「南無妙法蓮華経と唱える人の体こそ宝塔である」

 

御文では、

 

南無妙法蓮華経と唱える者の身体そのものが宝塔であり、また多宝如来である。

 

と述べています。

 

宝塔(ほうとう)とは?

法華経で、仏の悟りの尊さを示す特別な塔。

 

つまり大聖人は、

      題目を唱えるあなた自身が、尊い宝塔であり

      あなたの命の中に多宝如来が現れている

 

と教えています。

 

外に宝塔を探す必要はない。あなたの身こそ宝塔である。

 

 

■②「阿仏房の一身の五大=題目の五字である」

 

阿仏房の身体は「地・水・火・風・空」の五大でできている。

そして、この五大は題目の五字(妙・法・蓮・華・経)に当たると教えます。

 

つまり、

      阿仏房の身体全部が妙法蓮華経でできている

      阿仏房自身が題目そのものの姿である

 

ということ。

 

だから、

 

阿仏房=宝塔

宝塔=阿仏房

 

と重ねて強調しているのです。

 

 

■③「これ以上の才覚(賢さ)を求める必要はない」

 

大聖人は、

 

これより外の才覚は無益である

 

とまで言われます。

 

つまり、

      難しい知識よりも

      特別な修行よりも

 

ただ題目を信じて唱えることが一番尊い。

 

阿仏房はその信心によって、すでに最高の功徳を備えた宝塔そのものである。

 

 

■④「あなたの信心は七つの宝で飾られた宝塔である」

 

最後に、

 

聞・信・戒・定・進・捨・慚(ざん)の七宝で飾られた宝塔

 

と褒められています。

 

七宝とは「信心の七つの清らかな徳」。

これを持っている阿仏房は、

      内面が光り輝く

      功徳に満ちた

      七宝の宝塔そのもの

 

と讃えられているのです。

 

 

まとめ

 

◎題目を唱える人の命そのものが宝塔である。

外に立派な塔を探す必要はありません。

南無妙法蓮華経と唱えるあなたの身体・命の中に、

多宝如来の尊い光がそのまま現れているからです。

 

◎五大の身は五字の題目。

私たちの命のすべてが妙法の当体である。

 

◎難しい才覚はいらない。

素直に題目を信じ、唱え抜くことが最高の賢さ。

 

◎信心ある人は七宝の塔のように尊い。

阿仏房のように「聞いて、信じて、実践する」その姿こそ、

七つの宝で飾られた宝塔の輝きである。

 

 

19

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集120

 

()題目 17/41

 

妙密上人御消息 967

 

 今日蓮は然らず。已今当(いこんとう)の経文を深くま()ぼり、一経の肝心たる題目を我も唱へ人にも勧(すす)む。麻の中の蓬(よもぎ)、墨うてる木の自体は正直ならざれども、自然(じねん)に直()ぐなるが如し。経のまゝに唱ふればまがれる心なし。当(まさ)に知るべし、仏の御心の我等が身に入()らせ給はずば唱へがたきか。

 

解説

 

本文のポイントは次の3つです。

 1. 日蓮大聖人は、釈尊の教えの中でも「法華経」を深く守り、

その中心である題目「南無妙法蓮華経」を唱え、他にも勧めた。

 2. 人は心が曲がっていたり弱かったりしても、

正しい教えに触れれば自然に正しくなっていく。

 3. 題目が唱えられるのは、仏さまの心(慈悲)が自分の身に入ってくださっているからだ。

 

◆たとえ話の意味

 

●「麻の中の蓬(よもぎ)」

 

蓬は曲がった雑草ですが、

まっすぐな麻の中に生えると、自然に真っ直ぐ伸びていきます。

 

●「墨うてる木」

 

もともとまがってる木でも、墨線を記すことでまっすぐに製材できるということ。

環境や触れるものによって、人は変わるという意味。

 

 

◆大聖人の言いたいこと

 

「人間は弱く、迷いやすくても構わない。

正しい教え(妙法)に触れ、題目を唱えていけば、心も人生も自然にまっすぐになる。

だから安心して題目を唱えなさい。」

 

という大慈悲のお励ましです。

 

◆「仏の御心が我等が身に入らせ給わずば唱へがたきか」の意味

 

これは、

 

もし仏さまの心が私たちの中に働いていなければ、

題目を唱えることすらできないはずだ。

それができているのは、すでに仏さまの守護がある証拠なのだ。

 

という力強い教えです。

 

 

◆まとめ

      私たちは時に迷い、弱い心を持っています。

      しかし、法華経の中心である題目を唱えると、

曲がりやすい心も自然に正しく、強くなっていく。

      題目を唱えられるということ自体が、

すでに仏さまが私たちを守り、導いてくださっている証拠である。

 

20日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集121

 

()題目 18/41

 

四条金吾殿御返事 991

 

 一切衆生、南無妙法蓮華経と唱ふるより外の遊楽(ゆうらく)なきなり。経に云はく「衆生所遊楽(衆生の遊楽する所)」云々。この文あに自受法楽(じじゅほうらくらく)にあらずや。

 

大意

 

日蓮大聖人は四条金吾殿に向かって、

人間にとって、本当の楽しみは「南無妙法蓮華経」と唱えること以外にない。

経文に『衆生の遊楽する所』とあるが、これはすなわち“自受法楽(じじゅほうらくらく)”の境地である。

と仰せになっています。

 

 

意味

 

●①「遊楽(ゆうらく)」とは

 

ここで言う「遊楽」とは、

**心が本当に満ち足りて、安心して生きられる究極の楽しみ”**のことです。

 

世間の楽しみ――お金・名誉・趣味・娯楽など――は一時的ですが、

題目の信心で得られる楽しみは、心の底から湧いてくる永久の楽しみです。

 

●②「南無妙法蓮華経と唱えるより外の遊楽なし」

 

これは、

 

本当に人生を幸せにするのは、題目を唱える信心しかない。

 

ということです。

 

忙しい日でも、悩みの多い日でも、

題目を唱えると心が整い、力が湧いてきます。

この“心の安らぎと強さ”こそが、真実の楽しみ=遊楽です。

 

●③「自受法楽(じじゅほうらく)」とは

 

自分の心の中から自然にあふれてくる「法の楽しみ」という意味です。

 

外から与えられる楽しみではなく、

 

題目を唱えるうちに、自分の生命の中から喜び・安心・勇気が湧き出る状態

 

これを「自受法楽」といいます。

 

◆まとめ(法話用に)

 

大聖人は、

題目を唱えることこそ人間の最高の喜びである と教えられています。

 

外の刺激や娯楽はすぐ消えてしまいますが、

題目で得られる喜びは、

悩みを乗り越える力となり、心が揺るがない安心となり、

生命の奥底から湧く“自受法楽”の境地です。

 

日々のなかで、つらい時こそ題目を唱え、

この「自受法楽」を深めていくことが

真実の幸せへの道であると仰せなのです。

 

21

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集122

 

()題目 19/41 

 

四条金吾殿御返事 991

 

 遊楽とは我等が色心依正ともに一念三千自受用身(じじゅゆうしん)の仏にあらずや。法華経を持(たも)ち奉るより外に遊楽はなし。現世安穏・後生善処とは是なり。たゞ世間の留難(るなん)来るとも、とりあへ給ふべからず。賢人聖人も此の事はのがれず。たゞ女房と酒うちのみて、南無妙法蓮華経ととなへ給へ。苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合はせて、南無妙法蓮華経とうちとな()へゐ()させ給へ。これあに自受法楽にあらずや。

 

現代語訳

 

「遊楽」とは、人間の本当の楽しみのこと。

それは、私たちの身も心も、そのまま一念三千の仏の生命を具えている、

“自受用身(じじゅゆうしん)の仏”であることに気づく喜びです。

法華経、すなわち題目を持つ信心のほかに、本当の楽しみはありません。

 

題目を持てば、

現世は安穏となり、来世は必ず善い所へ生まれる。

これが本当の幸せだと大聖人は仰せです。

 

そして続けて、

 

世間の災難や試練は、誰にでも起こるもの。

賢い人も聖人でさえ逃れられない。

心配し過ぎてはいけない。

 

夫婦で仲良く、お酒でも飲みながら、

ただ南無妙法蓮華経と唱えなさい。

 

苦しい時は「これは苦なんだ」と受けとめ、

楽しい時は「これは楽なんだ」と味わい、

苦も楽も、ぜんぶ題目に合わせていきなさい。

 

これこそが“自受法楽(じじゅほうらく)”の境地である。

 

と仰せなのです。

 

 

 

◆ポイント

 

①「遊楽」とは

 

ここでは**“本当の楽しみ・生きる喜び”**のこと。

外の娯楽ではなく、生命の奥底から湧き上がる喜びです。

 

 

②「一念三千の自受用身の仏」

 

難しく聞こえますが要するに、

 

私たちの生命には、もともと仏と同じ尊い力が備わっている。

題目を唱えることで、その仏の力が自然に働き始める。

 

これが“自受用身の仏”という教えです。

 

 

③「法華経を持つより外に遊楽はなし」

 

つまり、

 

題目によって湧き出る安心・勇気・喜びこそが、最高の楽しみ。

ほかのものでは得られない真の幸福である。

 

 

④「現世安穏・後生善処」

 

信心によって、

      この世では心が安穏に生きられ

      来世も必ず良い境涯に向かう

 

という大きなご利益です。

 

 

⑤「世間の留難が来ても、取り合うな」

 

どんな人にも悩み・病気・争い・仕事の問題は起きる。

それは賢人も聖人も避けられない。

だから、悩み過ぎる必要はない。

 

 

⑥「女房と酒うちのみて…」

 

これは非常に温かい御文で、

 

夫婦仲良く、気を楽にして、題目を唱えなさい。

 

という深い慈愛の励ましです。

 

⑦「苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき」

 

苦しい時は無理に“楽しくしよう”と偽らなくていい。

苦しみは苦しみのままに認め、

楽しい時は素直に楽しむ。

 

しかし、どちらも最後には、

 

苦も楽も、全部題目に結んでいく。

これが信心の生き方。

 

 

⑧「これが自受法楽である」

 

“自受法楽”とは、

 

題目を唱えるなかで、

生命の奥底から自然に湧いてくる喜び。

誰にも奪えない、仏の楽しみ。

 

という意味です。

 

 

◆まとめ

 

大聖人は、

人生の本当の楽しみは、題目の信心にある

と力強く教えてくださっています。

 

苦しい時も、楽しい時も、

それをそのまま受け止めながら、

南無妙法蓮華経と唱えていく。

 

その姿こそ、自受法楽――

生命の中からあふれる仏の喜びに生きる姿です。

 

今日も一日、

苦も楽も全部題目に合わせて、

“自受法楽”の境地を深めてまいりましょう。

 

 

22日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集123

 

()題目 20/41

 

報恩抄 1033

 

 南無妙法蓮華経と申せば、南無阿弥陀仏の用(ゆう)も、南無大日真言の用も、観世音菩薩の用も、一切の諸仏諸経諸菩薩の用も、皆悉(ことごと)く妙法蓮華経の用に失はる。彼()の経々は妙法蓮華経の用を借()らずば、皆いたづら()のもの()なるべし。

 

 

大意

 

「南無妙法蓮華経」と唱えると、ほかのすべての仏さま・お経の力を超える功徳が働く。

阿弥陀仏や大日如来、観音さまなどのお力も、法華経の力を借りているにすぎない。

だから法華経を離れれば、それらは本当の力を発揮できない。

 

という意味です。

 

 

どういうことか?

 

日蓮大聖人は、仏さまの教えには「中心となる最高の教え」があると説かれました。それが、

 

妙法蓮華経=仏法の根本のエンジン

 

ということです。

 

ほかのお経(阿弥陀仏の教え、大日如来の教え、観音経など)は、

すべて法華経という“本体の力”を借りて働いている小さな歯車のようなものです。

 

 

たとえ

 

◎スマホで例えると

      「妙法蓮華経」=スマホ本体・OSiOSAndroid

      「阿弥陀仏・大日如来など」=個別のアプリ

 

アプリ(他のお経)はOS(法華経)がなければ動きません。

OSがしっかりしてこそ、アプリも正しく働く。

 

 

🔶結論:なぜ題目が最も大事なのか

 

大聖人はこう伝えておられます。

 

「妙法蓮華経こそ、すべての仏・菩薩・お経の根源の力。

だから南無妙法蓮華経と唱えることが、最高の功徳を生む」

 

題目を唱える信心は

他の何かの力を借りる必要もなく、

自分の中の仏の生命を直接ひらく行である、という御教示です。

 

23日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集124

 

()題目 21/41

 

四信五品抄 1114

 

 其の義を知らざる人唯(ただ)南無妙法蓮華経と唱へて解義の功徳を具するや否(いな)や。

 答ふ。小児乳を含むに其の味(あじわい)を知らずども自然に身を益(やく)す。耆婆(ぎば)が妙薬(みょうやく)誰か弁(わきま)へて之(これ)を服せん。水(みず)心無けれども火を消し火物を焼く、豈(あに)(さと)り有らんや。

 

 

◆本文の大意

 

質問

「御書の内容をよく理解していない人でも、ただ南無妙法蓮華経と唱えるだけで、解義(教えの意味を理解した時と同じ)功徳があるのでしょうか?」

 

答え

「もちろんある。」

 

その理由を、日蓮大聖人は三つの例えで教えておられます。

 

解説

 

① 赤ちゃんとミルクの例え

 

赤ちゃんは、ミルクを飲んでも

「このミルクには栄養があって…」

とは理解していません。

 

でも わからなくても飲めば、自然と体が育ち、元気になります。

 

お題目も同じです。

意味を深く知らなくても、

唱えれば心と生命を強く、明るくしてくれる功徳がある。

 

 

② 名医の薬の例え

 

有名な名医「耆婆(ぎば)」の薬は、とてもよく効く薬です。

でも普通の人は、薬の成分なんて分かりません。

 

しかし 成分を知らなくても飲めば効く。

 

お題目も同じく、

意味を全部理解していなくても、唱えれば確かに功徳が働く。

 

 

③ 水と火の例え

 

水には「火を消そう」と思う心はありません。

火にも「物を焼こう」と考える心はありません。

 

でも、

水は火を消し、火は物を燃やす。

 

力が自然に働いているからです。

 

同じように、

お題目にも、唱えるだけで自然に働く仏さまの力がある。

 

 

◆まとめ

      教えを全部理解していなくても大丈夫。

      南無妙法蓮華経と唱える行為そのものに、計り知れない力がある。

      赤ちゃんがミルクで育つように、名医の薬が効くように、

お題目は自然に人を成長させ、苦しみを消し、幸せへ導く働きが

 

24

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集125

 

()題目 22/41

 

兵衛志殿御返事 1126

 

 青鳧(せいふ)五貫文送り給()び了(おわ)んぬ。唱へ奉る南無妙法蓮華経一返の事。

 

◆意味

 

●「青鳧五貫文(せいふ ごかんもん)送り給び了んぬ」

 

「青鳧(せいふ)」というのは、銭のこと。一貫文は、1000文。1文は、4.5円。一貫文は、45000円です。当時は、一貫文で、米1(150kg)買えたそうです。

今年は、米1kg1000円くらいですので、1石は、15万になります。

 

五貫文を送ってくださいました。受け取りました。というお礼の言葉です。

 

 

「唱へ奉る南無妙法蓮華経一返の事」

 

これは

「南無妙法蓮華経と一声唱える功徳について」

という意味です。

 

この後の御文で、大聖人は「たった一声の題目にも計り知れない功徳がある」と説かれていきます。

 

◆趣旨

 

この部分は、

兵衛志殿からの供養へのお礼を述べたうえで、題目を一返唱える功徳の大きさを教える前置き

になっています。

 

◆まとめ

      兵衛志殿が、多額の供養としてお送りした

 → 大聖人は「確かに受け取りました」とお礼を述べる

      そして

 「南無妙法蓮華経を一回唱える功徳」

 について教え始められる部分です。

 

「唱へ奉る南無妙法蓮華経一返の事」の内容を解説します。

 

◆【一返(いっぺん)のお題目の功徳とは】

 

大聖人は、兵衛志殿の大きな供養をたたえながら、

それよりも、たった一度の「南無妙法蓮華経」の功徳は、はるかに大きい

と教えられます。

 

理由を簡単に説明すると

 

◆1.たった一返で「仏の命」とつながる

 

大聖人は、題目とは

      仏さまの悟り

      仏さまのいのち

 

そのものだと教えます。

 

だから

 

一度唱えただけで、その仏の命に自分が触れ、つながる。

 

これが計り知れない功徳になります。

 

◆2.一返で「大きな罪すら消える」

 

人間は、知らず知らずのうちに

      人を傷つけたり

      嘘をついたり

      仏法を軽んじたり

 

いろんな因縁を積みます。

 

しかし大聖人は言います。

 

南無妙法蓮華経を一度唱えると、その重い罪すら焼ける火のように消える。

 

理由は、妙法五字が

大いなる仏さまの智慧と力だからです。

 

◆3.一返で「未来の幸せへの道」が開く

 

題目を唱えるたびに

      現世の悩みが軽くなり

      不思議な守りを受け

      未来の幸せ(後生善処)が決まっていく

 

という功徳が説かれます。

 

つまり、

 

一返が、自分の人生の流れを良い方向へ変える力を持つ。

 

◆4.だからこそ、供養よりも“信心の実践”が大事

 

兵衛志殿は五貫文という大金を供養しました。

 

しかし大聖人は、そのことを大いに称えながらも、あわせてこう教えます。

 

供養も尊いが、南無妙法蓮華経を唱える信心は、それ以上に尊い。

 

供養は心の表れですが、

題目は自分自身の命を仏の方向へ変えていく行

だからです。

 

 

◆まとめ 

      大きな供養をしていただいた たいへん尊い

      しかし

 題目を一回唱える功徳は、その供養よりも大きい

      理由

         仏の心とつながる

         どんな罪も消える

         現在も未来も良くなる

      だから

 何より大切なのは、毎日のお題目です。

 

25日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集126

 

()題目 23/41

 

曽谷入道殿御返事 1188

 

 題目をはなれて法華経の心を尋ぬる者は、猿をはなれて肝をたづねしはかなき亀なり。山林をすてて菓(このみ)を大海の辺(ほとり)にもとめし猿猴(えんこう)なり。はかなしはかなし。

 

意味

 

◆1.「題目を離れて法華経の心を求める者は──」

 

これは、

 

南無妙法蓮華経という“題目”を唱えずに、

法華経の本当の心を理解しようとする人は…

 

という意味です。

 

大聖人は、

 

法華経の核心は題目そのもの

 

であり、

題目を離れて法華経を理解することは不可能、と教えています。

 

◆2.「猿を離れて肝を求めようとした愚かな亀のようだ」

 

これは、インドの有名なたとえ話です。

      亀が

**「猿の肝(きも)が薬になる」**と聞き、

      だましだまし猿を海へ連れ出し、

      「肝を出せ」と言ったら、

      猿が

「肝は家に忘れてきたよ」

と機転をきかせて逃げた

 

という逸話。

 

ここでのポイントは

 

“猿から離れて肝だけ” を手に入れることは絶対にできない

 

ということ。

 

大聖人はこれを使って、

 

題目なくして法華経の心を得ようとするのは、

肝を手に入れられない亀と同じくらい愚かだ

 

とたとえています。

 

 

◆3.「山林を捨てて、木の実を大海のほとりで求める猿のようだ」

 

猿が木の実(食べ物)を探すなら

山や森に行かなければなりません。

 

それなのに、

海辺で木の実を探す猿は、どう考えても見つけられません。

 

つまり、

 

法華経の“実”は、題目の中にしかない。

題目から離れたところで探しても、絶対に見つからない。

 

 

◆4.「はかなし、はかなし」

 

大聖人の強い嘆きの言葉です。

 

「なんと愚かで、あわれなことか」

「本当にむなしいことだ」

 

と繰り返して強調されています。

 

 

◆【まとめ】

      法華経の本当の心は 題目(南無妙法蓮華経) の中に全部ある

      題目を唱えずに法華経を理解しようとするのは

 ・猿から離れて肝を取ろうとする亀

 ・海辺で木の実を探す猿

 → どちらも 絶対にあり得ない行動

      つまり

 題目こそ法華経の中心。題目以外に法華経の心はない。

 

26

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集127

 

()題目 24/41

 

上野殿御返事 1219

 

 今末法に入りぬれば余経も法華経もせん()なし。但(ただ)南無妙法蓮華経なるべし。かう申し出だして候も、わた()くしの計(はからい)にはあらず。釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌千界の御計(おはか)らひなり。此の南無妙法蓮華経に余事をまじ()へば、ゆゆしきひが()事なり。

 

◆解説

 

日蓮大聖人様は、

 

「末法の今の時代には、どんなお経を読んでも、結局は成仏の力にはならない。

ただ『南無妙法蓮華経』と唱えることだけが大事である」

 

と仰せです。

 

これは、大聖人様が勝手に決めたことではなく、

      釈迦仏

      多宝如来

      十方のすべての仏

      そして地涌の菩薩たち

 

――このすべての仏菩薩の“はかりごと(御計らい)”によって決まったことだ、と説明されています。

 

つまり、

 

●末法では「題目以外には救いがない」

 

●だからこそ「題目を純粋に、まぜものなく唱えること」が大切

 

ということです。

 

そして、最後の

 

「この南無妙法蓮華経に余計なことを混ぜるのは、重大なまちがいだ」

 

とは、

      題目に別の祈りを混ぜたり

      他の宗教や修行を合わせたり

      「題目+何か」

 

という姿勢は、かえって信心を狂わせ、功徳を失わせる“大きな誤り”になる、という厳しい戒めです。

 

 

◆まとめ

 1. 末法では題目こそが唯一の成仏の道。

 2. これは大聖人様個人の判断ではなく、仏菩薩全体の御計らい。

 3. 題目に他の祈りや信仰を混ぜるのは、重大なひがごと(まちがい)。

 4. だからこそ、純粋に、まっすぐに、南無妙法蓮華経と唱えることが大功徳。

 

27日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集128

 

()題目 25/41

 

六難九易抄 1243

 

 法華経一部の肝心は南無妙法蓮華経の題目にて候。朝夕御唱せ候はば正(まさ)しく法華経一部を真読(しんどく)にあそばすにて候。二反(へん)唱ふるは二部、乃至百反は百部、千反は千部、加様(かよう)に不退に御唱へ候はば不退に法華経を読む人にて候べく候。

 

◆解説

 

大聖人様は、

 

「法華経の一番大事なところ(肝心)は、南無妙法蓮華経という題目です。」

 

と仰せです。

 

だから、

朝と夕方に題目を唱えることは、まさしく「法華経一部(全部)を読んだこと」と同じ功徳があるのだ、と教えています。

 

そして、

      2回唱えれば「法華経を2巻読んだ功徳」

      100回なら「100巻読んだ功徳」

      1000回なら「1000巻読んだ功徳」

 

――というたとえを出されています。

 

これは、題目の功徳が「経を全部読んだ功徳に等しい」ほど、絶大であることを示す御指南です。

 

そして結びに、

 

「続けて(不退で)唱えていけば、そのまま“退転しないで法華経を読み続ける人”になる」

 

と励ましておられます。

 

 

◆ポイント

 1. 法華経のいちばん大事な部分は題目である。

 2. 題目を唱えることは、法華経一部を読んだのと同じ大功徳。

 3. 回数に応じて、そのまま「何部も読んだ功徳」にたとえられる。

 4. 毎日コツコツ続ければ、必ず不退転の信心になる。

 

 

◆短い法話

 

「題目は法華経のすべてを凝縮した“心臓”です。

私たちが朝夕に南無妙法蓮華経と唱えることは、

そのまま法華経一部を読み切った功徳に等しい。

だから、1回・2と積み重ねる題目は、

そのまま百部・千部の功徳となります。

続ける人は、必ず退転しない強い信心になる――

これが大聖人様の励ましです。」

 

28日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集129

 

()題目 26/41

 

法華初心成仏抄 1320

 

 経に云はく「仏諸(もろもろ)の羅刹女(らせつにょ)に告げたまはく、善きかな善きかな、汝等(なんだち)但能()く法華の名を受持せん者を擁護(おうご)せん福量(はか)るべからず」と」云云。此の文の意は、十羅刹の法華の名を持つ人を護(まも)らんと誓言を立て給へるを、大覚世尊讃()めて言(のたま)はく、善きかな善きかな、汝等南無妙法蓮華経と受け持たん人を守らん功徳、いくら程とも計りがたくめでたき功徳なり、神妙なり、と仰せられたる文なり。是(これ)我等衆生の行住坐臥(ぎょうじゅうざが)に南無妙法蓮華経と唱ふべしと云ふ文なり。

 

【解説】

 

■御文のポイント

 

日蓮大聖人が引用されているお経の場面では、**「十羅刹女(じゅうらせつにょ)」**という、強い力を持った守護の神様たちが登場します。

 

この十羅刹女が、

「法華経の名を信じて唱える人を必ず守ります」

と仏さまの前で誓います。

 

すると、お釈迦さまはその誓いを聞いて

「よいことだ、よいことだ。その守りの功徳は計り知れない」

と大いにほめられた、というのが御文の内容です。

 

【意味】

 

◎十羅刹女とは?

 

強い力で人々を守る働きを持つ守護の神様たちのことです。

特に「法華経を信じて唱える人」を守ると誓われた存在です。

 

 

◎お釈迦様がほめた理由

 

十羅刹女が

「南無妙法蓮華経と唱える人を必ず守ります」

と誓ったことに対して、お釈迦さまは

      その誓いはすばらしい

      守護の功徳は計り知れない

      とても尊くありがたいことである

 

と、大変ほめられました。

 

 

◎御文が言いたいことは?

 

日蓮大聖人はこの部分を引用して、こう教えています。

 

だからこそ、私たちは行きている時も、止まっている時も、座る時も、横になる時も(行住坐臥 = 日常のすべての場面で)、「南無妙法蓮華経」と唱えるべきである。

 

 

【結論:とても大事な教え】

 

「お題目を唱える人は、十羅刹女が必ず守ってくれる」

 

「その守りの力は計り知れないほど大きい」

 

「だからこそ、毎日の生活のなかで、どんな時でもお題目を唱えなさい」

 

これが御文のシンプルな結論です。

 

29日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集130

 

()題目 27/41

 

松野殿後家尼御前御返事 1356

 

 上宮太子と申せし人、唐土より始めて仏法渡させ給ひて、其より以来今に七百余年の間、一切経並に法華経はひろまらせ給ひて、上(かみ)一人より下(しも)万人に至るまで、心あらむ人は法華経を一部、或は一巻、或は一品持(たも)ちて或は父母の孝養とす。されば我等も法華経を持(たも)ツと思ふ。しかれども未だ口に南無妙法蓮華経とは唱へず。信じたるに似て信ぜざるが如し。譬へば一眼の亀のあひがたき栴檀(せんだん)の聖木(しょうもく)にはあいたれども、いまだ亀の腹を穴に入れざるが如し。

 

【解説】

 

■①聖徳太子のおかげで仏法が広まった

 

大聖人はまず、**聖徳太子(上宮太子)**が日本に初めて仏教を本格的に広めてくださった、と述べています。

 

それから 七百年以上の間(日蓮大聖人の時代まで)に、

多くの人が法華経を大切にし、

      法華経一部全部

      一巻だけ

      一品だけ

 

と、いろいろな形で持ち、

親孝行のために供養したり、お経を読んだりしてきました。

 

■②「法華経を大事にしよう」という心は正しい

 

だから、「自分も法華経を大切にしたい」と思うことは良いことです。

 

しかし——

 

■③お題目を唱えなければ、本当に信じているとは言えない

 

大聖人はここで厳しく指摘されます。

 

「法華経を信じようと思っていても、口で『南無妙法蓮華経』と唱えなければ、本当に信じていることにはならない」

 

つまり、

心で「大事だ」と思っているだけではだめ。

行動(唱えること)が伴って、初めて本物の信心になる。

 

■④亀のたとえの意味

 

大聖人はここで、とてもわかりやすいたとえを使われます。

 

「一つ目の亀(めったに出会えない亀)が、栴檀という貴重な木で作った輪(救いの輪)に偶然ぶつかったとしても、

その輪に腹(体)を通さなければ助かったことにはならない」

 

これは

「チャンスに出会っても、実際に行動しなければ意味がない」

というたとえです。

 

■⑤たとえを、信心に当てはめると?

      法華経に出会えたこと=亀が栴檀の輪に出会った

      お題目を唱えること=亀がその輪に体を通す(助かる)

 

つまり——

 

法華経にご縁があっても、南無妙法蓮華経と唱えなければ、せっかくの大きな功徳を手に入れられない。

 

 

【まとめ(最重要ポイント)】

 

法華経を信じようと思うだけでは十分ではない。

 

大事なのは、実際に「南無妙法蓮華経」と唱えること。

 

お題目を唱えてこそ、本当に法華経を持つ(信じる)ことになる。

 

法華経に出会えた貴重なご縁を活かすには、「唱える」行動が不可欠。

 

法華経=本門戒壇の大御本尊

 

 

30日

 

日蓮大聖人御金言義類別入文集131

 

()題目 28/41

 

新池殿御消息 1363㌻ 

 

 八木(はちぼく)三石(こく)送り給()び候。今一乗妙法蓮華経の御宝前に備へ奉りて、南無妙法蓮華経と只(ただ)一遍唱へまいらせ候ひ畢(おわ)んぬ。いとをしみ(さいあい)の御子(みこ)を、霊山(りょうぜん)浄土へ決定(けつじょう)無有疑(むうぎ)と送りまいらせんがためなり。

 

◆原文の意味

 

「米三石をお送りくださいました。私はこれを、法華経(ご本尊)の前にお供えし、南無妙法蓮華経と一回お唱えしました。これは、あなたが最愛のお子さんを必ず霊山浄土へ送り届けたい、という願いのために行ったのです。」

 

 

◆解説

 

① 「八木三石を送り給び候」

 

新池殿が大聖人のもとへ、**米をかなりの量(三石)**届けた、という意味です。

昔は信心の供養として、生活に必要な物や食物などを御本尊に供えることがありました。

 

② 「一乗妙法蓮華経の御宝前に備へ奉りて」

 

送られた供養を

「ご本尊(法華経の御宝前)」に丁寧にお供えし、功徳を回向します

という大聖人のお言葉です。

 

 

③ 「南無妙法蓮華経と一遍唱へまいらせ候ひ畢んぬ」

 

「送ってくださった供養の功徳が届くように、

私はご本尊の前で、一度題目をお唱えしましたよ」

という意味です。

 

大聖人みずから題目を唱えてくださる、これ以上ない最大の功徳回向です。

 

④ 「いとをしみの御子を、霊山浄土へ送りまいらせんがためなり」

 

「いとをしみ(最愛の)」は

深く愛してやまないお子さんのこと。

 

そのお子さんを

必ず仏様の世界(霊山浄土)へ導きたい!

という新池殿の切実な願いのために、大聖人が供養を受け取り、題目を唱えて功徳を回向してくださったということです。

 

 

◆まとめ

      新池殿は、亡くなった大切なお子さんのために供養として米を送った。

      大聖人はそれを御本尊にお供えし、題目を唱えて功徳を回向してくださった。

 

      「あなたのお子さんが必ず仏様の世界にいけるように」という慈悲の励ましの御文です。