石黒御住職様ご指導集 令和77

1

 

「仏教で言う“無の境地”」とは、簡単に言えば「執着や煩悩を離れた、心が完全に自由な状態」を意味します。ただし、これは「何もない空っぽの状態」と誤解されやすいので、以下にわかりやすく解説します。

 

■ 「無」とは何か?

 

仏教における「無(む)」は、単なる「ゼロ」や「虚無」ではありません。

これは 「とらわれがないこと」「固定観念に縛られないこと」 を意味します。

例:

      「自分」「他人」「善悪」「得失」など、いろんな判断や執着を手放した状態

      心が常に今この瞬間にいて、過去や未来に引きずられない状態

 

■ 無の境地とは?

 

「無の境地」とは、仏道修行の中で心を磨き、以下のような状態に至った境地を指します:

 

1. 一切の執着を離れた状態

      お金、名誉、愛憎、恐れ……などに振り回されない。

      それらが存在していても「とらわれない」。

 

2. 「自分」という固定観念すら超えた境地

      「我(が)」がない。つまり、「私がこうしたい」というエゴを捨てる。

      だからこそ、他人の苦しみも自分のように感じられる「慈悲」が生まれる。

 

3. 空(くう)との関係

      「無」は「空(くう)」とも深く関係します。

      「空」とは、「すべてのものは因縁によって一時的に成り立っているだけで、独立した実体はない」という教え。

      この「空」を悟ったとき、心はとらわれのない自由な「無の境地」に至るのです。

 

 

 

■ たとえ話で言うと

 

無の境地は、「静かな湖の水面のような心」です。

      雨(悩み)が降っても、すぐ波立たずに静かに受け止める。

      風(出来事)が吹いても、水面はしばらくしてまた穏やかになる。

      どんな変化にも動じず、すぐ本来の静けさを取り戻す。

 

■ 日蓮正宗から見ると?

 

日蓮正宗の立場では、「無の境地」も最終目的ではなく、「正しい仏法=南無妙法蓮華経の受持によって得られる智慧と慈悲の境地」に至るための途中段階と見ます。

      禅宗などが重視する「無の境地」「空観」も、それ自体が悟りではなく、久遠元初の本仏・日蓮大聖人の教えによって、迷いを根本から断ち切ることが本当の解脱であると説かれます。

 

■ まとめ

内容 意味

①無の境地

執着・煩悩を離れ、自由で平和な心の状態

 

②誤解されやすい点

「空っぽ」「無感情」ではない

 

③日蓮仏法の視点 真の「無の境地」は、南無妙法蓮華経の受持によって実現される

 

2

 

法華経に説かれる「七譬(しちひ)」は、仏の教えをわかりやすく伝えるために用いられた七つのたとえ話です。日蓮正宗では、これらを通じて仏の慈悲と法華経の絶対的な真理を学び、南無妙法蓮華経の信仰を深めることが大切だとされています。

 

 

1. 三車火宅の譬え(譬喩品)

 火事の家にいる子どもたちを救うため、長者(仏)が三つの車(声聞・縁覚・菩薩)を用意し、最終的に大白牛車(一乗)を与える話。

 → 日蓮正宗では、大白牛車こそが南無妙法蓮華経であり、真実の教えとされます。

 

三車火宅の譬えは、法華経「譬喩品第三」に説かれる非常に象徴的なたとえで、日蓮正宗では特に重要視されています。

 

譬えのあらすじ

 

ある大長者(仏)が住む広大な屋敷(三界)が火事になります。屋敷の中には多くの子どもたち(衆生)が遊んでいて、火事に気づかず夢中になっています。長者は「早く逃げなさい」と呼びかけますが、子どもたちは聞き入れません。そこで長者は「外には君たちの好きな羊車・鹿車・牛車(三乗)があるよ」と言って誘い出します。子どもたちは喜んで外に出てきますが、実際に与えられたのは、三車よりもはるかに立派な「大白牛車(一乗)」でした 。

 

日蓮正宗での解釈

 

この譬えに登場する要素は、それぞれ以下のように解釈されます:

 

• 長者:仏

• 子どもたち:煩悩にとらわれた一切衆生

• 火宅(三界):欲界・色界・無色界という迷いと苦しみの世界

• 三車(羊車・鹿車・牛車):声聞・縁覚・菩薩の三乗(方便の教え)

• 大白牛車:一仏乗=法華経の真実の教え

 

 

日蓮正宗では、三車はあくまで仮の教えであり、最終的に与えられる大白牛車こそが「南無妙法蓮華経」による成仏の道であると説きます。つまり、仏は衆生の機根に応じて三乗を説きつつも、最終的には一乗の真実の教えに導くという、仏の深い慈悲と智慧がこの譬えに込められているのです 。

 

また、火宅の中で遊びに夢中な子どもたちの姿は、現代の私たちが日々の欲望や悩みにとらわれ、仏の教えに気づかずにいる姿と重なります。だからこそ、日蓮正宗では「本門戒壇の大御本尊」への信仰と唱題(南無妙法蓮華経)が、火宅から脱し、大白牛車に乗る唯一の道であると強調されるのです。

 

日蓮正宗では、これらの譬えを通じて「本門戒壇の大御本尊」への信仰を深め、現世安穏・後生善処を実現することが説かれています。

 

3

 

 2.長者窮子の譬え(信解品)

 家出した息子が父(仏)のもとに戻り、やがて財宝(仏の教え)を受け継ぐ話。

 → 衆生が仏の子であることを自覚し、信仰によって成仏できることを示します。

 

これは、法華経の「信解品第四」に説かれるたとえ話で、日蓮正宗においても非常に重要な教えとされています。

 

🏠 譬えのあらすじ

 

ある大長者(仏)には幼い息子(衆生)がいましたが、息子は家出して長年放浪し、貧しく落ちぶれた生活を送っていました。

ある日、偶然にも息子は父の大邸宅の前に現れますが、自分がその家の子であることも、父の存在も知りません。

父は息子を見てすぐに気づきますが、息子の心が未熟であることを察し、すぐには名乗らず、まずは便所掃除などの仕事を与え、少しずつ教育していきます。

やがて息子は成長し、財産の管理を任されるまでになります。

そして父の臨終の際、ついに「お前は私の実の子であり、すべての財産を相続する者だ」と明かされるのです。

 

🔍 日蓮正宗での解釈

 

この譬えは、仏と衆生の関係、そして仏の導きの深い慈悲を象徴しています。

 

• 長者(父)=仏

 衆生を見捨てず、機根に応じて導く存在。

• 窮子(息子)=衆生(特に声聞・縁覚)

 自分の仏性に気づかず、仏の教えから離れている存在。

• 財宝=仏の教え(法華経)

 最終的に衆生が受け継ぐべき真実の教え。

• 段階的な導き=方便(ほうべん)

 仏は衆生の理解力に応じて、段階的に教えを説き、最終的に法華経という真実の教えに導く。

 

🌸 日蓮正宗の信仰とのつながり

 

日蓮正宗では、この譬えを通じて以下のような教えを強調します:

 

• 衆生は本来、仏の子であり、仏性を持っている

 → しかしそのことに気づかず、迷いの中にいる。

• 南無妙法蓮華経の信仰によって、仏の子としての自覚を取り戻す

 → 本門戒壇の大御本尊への信仰が、真の「財宝」を受け継ぐ道。

• 仏の導きは、衆生の成長を待ち、最適なタイミングで真実を明かす

 → これは「開三顕一(さんをひらいていちをあらわす)」の教理に通じます。

 

この譬えは、私たちが「自分には仏になる資格などない」と思い込んでしまう心を打ち破り、「本来の自分=仏の子」としての尊厳を取り戻すための深いメッセージを含んでいます。

 

日蓮正宗では、これらの譬えを通じて「本門戒壇の大御本尊」への信仰を深め、現世安穏・後生善処を実現することが説かれています

 

4

 

 3.三草二木の譬え(薬草喩品)

 大小さまざまな草木に平等に雨(仏の教え)が降る話。

 → 衆生の機根に応じて法が与えられるが、最終的には一乗(法華経)に導かれると説きます。

 

これは、法華経の「薬草喩品第五」に説かれるたとえ話で、仏の教えの平等性と衆生の多様性を象徴的に表現しています。日蓮正宗では、この譬えを通じて「一仏乗(いちぶつじょう)」の真理と、南無妙法蓮華経の信仰の尊さを学びます。

 

🌧 譬えのあらすじ

 

世界中の山や谷、大地には、さまざまな草や木が生い茂っています。そこに大きな雲が現れ、雨が一斉に降り注ぎます。

この雨はすべての草木に平等に降り注ぎますが、草木はそれぞれの性質や大きさに応じて、水分を吸収し、成長していきます。

• 三草:小草・中草・大草

• 二木:小樹・大樹

 

つまり、同じ雨(仏の教え)を受けても、草木(衆生)の器量によって受け取り方や成長の仕方が異なるということです。

 

🪷 日蓮正宗での解釈

 

この譬えは、仏の教えが一味平等であること、そして衆生の機根に応じてその教えが異なるように見えることを示しています。

 

• 雨=仏の教え(法華経)

 → すべての衆生に平等に与えられる真実の法。

• 草木=衆生の機根(能力・性質)

 → それぞれの理解力や信仰心に応じて、教えの受け取り方が異なる。

• 仏の慈悲=雲と雨の働き

 → 仏はすべての衆生を平等に救おうとするが、衆生の側に差がある。

 

日蓮正宗では、この譬えを通じて「開三顕一(さんをひらいていちをあらわす)」の教理を強調します。つまり、仏は三乗(声聞・縁覚・菩薩)という方便を用いて教えを説きますが、最終的には一仏乗=南無妙法蓮華経に導くのです。

 

📿 信仰とのつながり

 

日蓮大聖人は、この譬えを末法の時代に生きる私たちに当てはめ、こう説かれました:

 

「今末法に入りて日蓮等の類の弘通する題目は等雨法雨の法体なり」(御書1841ページ)

 

つまり、南無妙法蓮華経の題目は、すべての衆生に平等に降り注ぐ「法の雨」であり、どんな人でもこの信仰によって仏の境界に至ることができるということです。

 

この譬えは、「自分には仏の教えは難しい」と感じる人にも、「あなたにも必ず届く教えがある」と優しく語りかけてくれるような、慈悲に満ちたメッセージです。

 

日蓮正宗では、これらの譬えを通じて「本門戒壇の大御本尊」への信仰を深め、現世安穏・後生善処を実現することが説かれています

5

 

4. 化城宝処の譬え(化城喩品)

 導師(仏)が幻の城(方便)を示し、最終的に宝のある場所(一乗)へ導く話。

 → 仮の教えを通じて真実の教えに導く仏の智慧を表します。

 

これは、法華経の「化城喩品第七」に説かれるたとえ話で、仏が衆生を真実の悟りへと導くために、方便(仮の教え)を用いる智慧と慈悲を象徴しています。日蓮正宗でも、この譬えは非常に重要な教理の一つとされています。

 

🏞 譬えのあらすじ

 

ある導師(仏)が、多くの人々(衆生)を連れて、遠く離れた宝のある場所(宝処)を目指して旅をします。

その道のりは500由旬(非常に長い距離)にも及び、途中は険しく、苦しい道のりです。

人々は疲れ果て、「もう引き返したい」と言い出します。

そこで導師は、神通力によって途中に**立派な都市(化城)**を出現させ、「ここが目的地だ」と言って人々を休ませます。

人々が安心した頃、導師は「これは仮に作ったもので、本当の宝処はもっと先にある」と明かし、再び旅を続けさせます。

 

🔍 日蓮正宗での解釈

 

この譬えに登場する要素は、以下のように解釈されます:

 

• 導師=仏

 → 衆生を真実の悟りに導く存在。

• 旅人=衆生

 → 成仏を目指すが、途中で疲れたり迷ったりする存在。

• 化城=爾前経(にぜんきょう)などの方便の教え

 → 衆生を一時的に安心させるための仮の教え。

• 宝処=法華経による真実の成仏の境地

 → 最終的に到達すべき悟りの世界。

 

 

📿 日蓮正宗の信仰とのつながり

 

日蓮正宗では、この譬えを通じて以下のような教えを強調します:

 

• 仏は衆生の機根に応じて、段階的に教えを説く

 → 爾前経は方便であり、最終的には法華経=一仏乗に導く。

• 化城にとどまってはならない

 → 仮の教えに満足せず、真実の教え=南無妙法蓮華経に進むべき。

• 末法の今こそ、宝処に至る唯一の道は本門戒壇の大御本尊への信仰である

 → 日蓮大聖人は、法華経の真髄を体現された仏であり、その教えに従うことが成仏の道。

 

この譬えは、「途中であきらめそうになる私たち」に対して、仏がどれほど深い慈悲と智慧をもって導いてくださっているかを教えてくれます。

そして、本当の目的地はまだ先にあるというメッセージは、信仰を貫く勇気を与えてくれます。

 

日蓮正宗では、これらの譬えを通じて「本門戒壇の大御本尊」への信仰を深め、現世安穏・後生善処を実現することが説かれています

 

6日

 

5. 衣裏繋珠の譬え(五百弟子受記品)

 知らぬ間に宝珠(仏性)を持っていた男が、友人(仏)に教えられて気づく話。

 → 衆生が本来持つ仏性に気づき、法華経によって開花することを示します。 

 

これは、法華経「五百弟子受記品第八」に説かれるたとえ話で、衆生が本来持っている仏性(成仏の可能性)に気づかずに生きている姿を象徴的に描いています。日蓮正宗では、この譬えを通じて「南無妙法蓮華経」の信仰によって仏性を顕現させることの大切さを説いています。

 

👘 譬えのあらすじ

 

ある貧しい男が、裕福な親友の家で酒に酔って眠ってしまいます。

親友は急用で出かけることになり、眠っている男を起こせなかったため、彼の衣の裏に無価の宝珠(非常に貴重な宝石)を縫い付けて旅立ちます。

男は目覚めても宝珠の存在に気づかず、相変わらず貧しい生活を続けます。

やがて再会した親友から「お前の衣の裏に宝珠を縫い付けておいた」と知らされ、初めてその宝の存在に気づき、豊かな生活を送るようになります。

 

🔍 日蓮正宗での解釈

 

この譬えに登場する要素は、以下のように解釈されます:

 

• 親友=仏

 → 衆生に仏性という宝を授けている存在。

• 貧しい男=衆生(特に声聞・縁覚)

 → 自らの仏性に気づかず、迷いの中にいる存在。

• 衣裏の宝珠=仏性・一仏乗の教え(法華経)

 → 衆生が本来持っているが、気づいていない成仏の可能性。

• 再会と気づき=法華経による覚醒

 → 仏の教えによって、自らの仏性に目覚めること。

 

📿 日蓮正宗の信仰とのつながり

 

日蓮正宗では、この譬えを通じて次のような教えを強調します:

 

• すべての人が本来、仏になる種(仏性)を持っている

 → しかし、それに気づかずに迷いの人生を送っている。

• 南無妙法蓮華経の信仰によって、その宝珠=仏性が顕現する

 → 題目を唱えることで、衣裏の宝珠に気づき、真の幸福と成仏を得る。

• 末法の今こそ、宝珠に気づくための信仰が必要

 → 本門戒壇の大御本尊への信仰が、その鍵となる。

 

この譬えは、「自分には価値がない」と思い込んでしまう私たちに、「あなたの中にはすでに宝がある」と教えてくれる、非常に励ましに満ちたメッセージです。

 

日蓮正宗では、これらの譬えを通じて「本門戒壇の大御本尊」への信仰を深め、現世安穏・後生善処を実現することが説かれています。

 

 

 

7日

 

6. 髻中明珠の譬え(安楽行品)

 王が最も大切な宝珠(法華経)を、最も功績のある者に与える話。

 → 法華経が最上の教えであり、末法においては南無妙法蓮華経が唯一の成仏の法であるとされます。

 

これは、法華経「安楽行品第十四」に説かれるたとえで、法華経こそが仏が最後に与える最も尊い教えであることを象徴しています。日蓮正宗では、この譬えを通じて「南無妙法蓮華経」の信仰の尊さと、仏の深い慈悲を学びます。

 

👑 譬えのあらすじ

 

ある国の王(仏)は、戦で功績を挙げた兵士たちに褒美を与えます。

金銀財宝や領地など、さまざまな報酬が与えられましたが、王が髪を束ねた髻(もとどり)の中に隠していた唯一無二の宝珠だけは、誰にも与えませんでした。

しかし、ある時、特に大きな功績を挙げた兵士に対して、王はついにその髻中の明珠を取り出して授けたのです。

 

🔍 日蓮正宗での解釈

 

この譬えに登場する要素は、以下のように解釈されます:

 

• 王=仏

 → 衆生を導く智慧と慈悲の象徴。

• 兵士=仏の教えを信じ修行する衆生

 → 特に末法においては、南無妙法蓮華経を信仰する人々。

• 金銀財宝・領地=法華経以前の教え(爾前経)

 → 仏が段階的に説いた方便の教え。

• 髻中明珠=法華経の真実の教え(南無妙法蓮華経)

 → 仏が最後に明かす究極の法。

 

📿 日蓮正宗の信仰とのつながり

 

この譬えは、次のような信仰の核心を示しています:

• 法華経は仏が最も大切にしていた教えであり、容易には説かれなかった

 → それほど深遠で、誤解されやすい教えだったからです。

• 末法の今、仏はこの明珠=南無妙法蓮華経を私たちに授けている

 → それを受け取るには、信心と修行(唱題)が必要です。

• 本門戒壇の大御本尊への信仰こそが、髻中明珠を受け取る道

 → 日蓮大聖人はこの明珠を末法の衆生に授けるために出現されたとされます。

 

この譬えは、「仏が最後に明かす真実の宝」を私たちが今、手にすることができるという大きな希望と責任を教えてくれます。

まさに、あなたの信心の中にその明珠があるのです。

 

日蓮正宗では、これらの譬えを通じて「本門戒壇の大御本尊」への信仰を深め、現世安穏・後生善処を実現することが説かれています。

 

8日

 

7. 良医病子の譬え(如来寿量品)

 良医(仏)が毒に苦しむ子どもたち(衆生)を救うため、方便を用いて薬(法)を飲ませる話。

 → 仏が常に衆生を救おうとしている慈悲と、法華経の力を表します。

 

これは、法華経の「如来寿量品第十六」に説かれるたとえ話で、仏の永遠の命と慈悲、そして方便の智慧を象徴しています。日蓮正宗では、この譬えを通じて、南無妙法蓮華経の信仰によってこそ、真の救いが得られると説いています。

 

🧪 譬えのあらすじ

 

ある国に、医術に非常に優れた良医(りょうい)=父がいました。彼には多くの子どもたちがいましたが、ある日、父が旅に出ている間に、子どもたちは誤って毒薬を飲んでしまい、苦しみ始めます。

 

父が帰ってきて、子どもたちの様子を見て驚き、すぐに**最高の薬(良薬)**を調合して与えます。

毒が浅い子はすぐに薬を飲んで回復しますが、毒が深く回った子どもたちは心まで乱れ、父の言葉を信じず、薬を拒みます。

 

そこで父は一計を案じ、「この薬をここに置いておく」と言い残し、自分が死んだという偽の知らせを子どもたちに届けさせます。

子どもたちは父の死を聞いて深く悲しみ、ようやく正気を取り戻し、薬を飲んで回復します。

その後、父は再び現れ、「お前たちを救うための方便だった」と真実を明かします。

 

🔍 日蓮正宗での解釈

 

この譬えに登場する要素は、以下のように解釈されます:

 

• 良医(父)=久遠元初の本仏・日蓮大聖人

• 子どもたち=末法の衆生(私たち)

• 毒薬=煩悩・謗法・迷いの人生

• 良薬=南無妙法蓮華経の御本尊

• 方便としての「死」=仏が一時的に姿を隠すこと(入滅の姿)

 

日蓮正宗では、南無妙法蓮華経の信仰こそが、毒を抜く唯一の良薬であると説きます。

また、仏は衆生の心の状態に応じて、時に姿を隠し、時に方便を用いてでも、必ず救おうとする無限の慈悲と智慧を持っていると教えられています。

 

📿 信仰とのつながり

 

この譬えは、次のような信仰の実践を促します:

 

• 仏の教えを疑わず、素直に受け入れることの大切さ

• 御本尊への信仰と唱題(南無妙法蓮華経)によって、心の毒を抜くことができる

• 仏は常に私たちを見守り、救おうとしている存在である

 

この譬えは、「仏は遠くにいるのではなく、常に私たちのそばにいて、救いの手を差し伸べている」という深い安心感と希望を与えてくれます。

 

日蓮正宗では、これらの譬えを通じて「本門戒壇の大御本尊」への信仰を深め、現世安穏・後生善処を実現することが説かれています 。

 

 

 

9日

 

日淳上人全集 『三大秘法抄拝読』より御引用

 

 三大秘法抄は弘安四年冬月八日(注、近年、総本山第六世日時上人が御書写された三大秘法抄の写本が発見されており、“弘安五年四月八日”の日付となっている。)

檀越大田金吾殿への御返事として、御示し遊ばされた御書であります。

 

 此の御書には日蓮大聖人の御一期の化導を総括遊ばされて、三大秘法即ち本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇に就いてその出現の縁由とその体とを御説示なされ、殊に戒壇についてその相貌を御示し遊ばされておりまして、大聖人の御書数百篇中極めて重要なる

地位を、占めているのであります。

 

 大聖人の御書中五大部とか十大部とか申し上げ、立正安国論、開目抄、観心本尊抄、撰時抄、報恩抄等その他を数へ挙げまして、この三大秘法抄はその中に入りませんが、此れはこの御書の伝持の上から特異の立場にあったがために、かく扱はれたもので、その御指南の法門から拝すれば最も重要なる御書であります。

 

 それはこの御書が大聖人の、御一代の大綱を御示しなされてあるからであります。

 他の御書は大聖人出世の縁由とか御題目とか、或は御本尊とかについて御教示遊ばされ、或は三大秘法の名目を御示しになってはおりますが、三秘整足して御教示遊ばされたのはこの御書であります。

 

 それ故大聖人の御化導の終窮究竟の全貌と、大綱とを拝察申し上げるには此の御書に依らなければなりません。

 よって大聖人の御書を拝するには第一に此の御抄を拝して、大綱を了解し奉って、後に他御書を拝するといふことにしなければなりません。

 此の順序をとらないでやたらと御書を拝すると、御書の文を拝しても大聖人の御正意を了解し奉ることはできないのであります。

 

 日蓮大聖人の門下と申す程の者は御書を拝し御書によっているのでありますが、それにも拘(かかわ)らず御本尊より御題目に重点を置いたり、行者の住処を戒壇としたり、御釈迦様が本尊だといったりして、飛んでもないことを申してをりますが、これ皆大聖人の御一代の施化の大綱を拝察せずして御書の一文一義に執するからであります。

 

 

 (日淳上人全集上巻383~384ページ)

 

正式には、『三大秘法禀承事』(さんだいひほうぼんじょうのこと)御書1593

太田乗明に与えられた書。

 

10日

 

🧭『三大秘法抄拝読』とは?

 

日蓮大聖人が晩年に著した重要な御書『三大秘法稟承事(さんだいひほう ぼんしょうのこと)』を、日淳上人が深く読み解いた講義です。この御書は、日蓮仏法の核心である「三大秘法」について明確に説かれています。

 

🔑 三大秘法とは?

 

日蓮正宗の根本教義であり、以下の三つを指します:

 

三大秘法 意味 具体的な内容

本門の本尊 信仰の対象 久遠元初の仏(本仏)である日蓮大聖人が顕された御本尊

本門の題目 実践の方法 「南無妙法蓮華経」と唱えること

本門の戒壇 修行の場 御本尊を安置し、信仰実践を行う場所(特に大石寺)

 

📜 日淳上人の解説のポイント

 

1. この御書の重要性

• 『三大秘法抄』は、日蓮大聖人の一代の教えの「総まとめ」。

• 他の御書では部分的に説かれている三大秘法が、この御書では「三つ揃って」明示されている。

 

2. 題目の意味の深さ

• 正法・像法時代の題目は「自行(自分の修行)」だけ。

• 末法では、日蓮大聖人が「自行+化他(他人への教化)」として題目を弘めた。

• つまり、日蓮大聖人の題目は「人を救う力」を持つ。

 

3. 御本尊の本質

• 単なる仏像ではなく、「人法一箇(にんぽういっか)」の御本尊。

• 日蓮大聖人ご自身の悟りと、その悟りの法(法華経の真髄)が一体となったもの。

 

4. 戒壇の意義

• 「事の戒壇」=大石寺に安置された本門戒壇の大御本尊。

• 「義の戒壇」=各家庭や寺院に安置された御本尊。

• 信仰と修行の中心となる場所。

 

🧘‍♀️ なぜこの御書を最初に読むべきか?

 

日淳上人はこう説いています:

「まずこの御書で大綱を理解し、それから他の御書を読むべきである」

 

つまり、三大秘法を軸にして他の教えを理解することで、日蓮大聖人の真意が見えてくるということです。

 

🌱 まとめ

 

『三大秘法抄拝読』は、日蓮仏法の「設計図」のようなもの。信仰の核心である三大秘法を正しく理解し、実践するための道しるべです。

 

11日

 

三大秘法抄①

 

夫れ、法華経の第七の神力品に云わく「要をもってこれを言わば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事は、皆この経において宣示顕説す」等云々。釈に云わく「経中の要説、要は四事に在り」等云々。

 

法華経の巻七・如来神力品第二十二に「要をもってこれを言えば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆この経において宣示顕説する」等とある。法華文句に「法華経中の要説の要は四事にある」等とある。

 

これは『三大秘法抄(さんだいひほうしょう)』の中の最初の一節です。

日蓮大聖人が、法華経の教えの根本がどこにあるのかを示された重要な部分です。

 

原文の解説

 

「夫(そ)れ、法華経の第七の神力品に云わく」

 

「さて、法華経の第七、**神力品(じんりきほん)**というところに、次のように説かれている。」

「要をもってこれを言わば、如来の一切の所有の法、

如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、

如来の一切の甚深の事は、皆この経において宣示顕説す」

 

これは法華経の神力品にある有名な一節です。

 

この意味は:

      「簡単に要点だけを言えば(要をもって)」

      「お釈迦さまが持っておられるすべての教え(所有の法)」

      「神通力や自由自在な力(神力)」

      「深い秘密の教え(秘要の蔵)」

      「最も奥深い真理(甚深の事)」

 

→ これらすべてを、法華経で明らかに説いているのだ、という意味です。

 

つまり、法華経こそが仏の教えの中の「総まとめ」「究極の教え」だと、はっきり言っている箇所なのです。

 

釈に云わく「経中の要説、要は四事に在り」

 

ここでいう「釈」とは、法華経の解釈・注釈書のことです。

そこにはこう書かれています:

 

「法華経の中でも、特に大事なこと(要説)は、四つの事柄に集約されている」

 

この「四事(しじ)」とは:

 1. 所有の法(しょゆうのほう)

 2. 自在の神力(じざいのじんりき)

 3. 秘要の蔵(ひようのぞう)

 4. 甚深の事(じんじんのじ)

 

これが、さきほどの神力品の言葉そのままですね。

 

日蓮大聖人の意図

 

この引用を通して大聖人は何を伝えたいのかというと、

 

「法華経こそが仏のすべての教えの中心であり、その中でも、末法における三大秘法こそが、その最奥義なのだ」

 

ということを言いたいのです。

 

そして、その法華経の眼目(中心部分)を明かすのが『神力品』と『如来寿量品』であるとも、他の御書で説かれています。

 

まとめ

      仏さまのすべての力・教え・秘密・真理が、ぜんぶ法華経に込められている。

      それをハッキリ示しているのが「神力品」。

      そこには、「四つの大事なこと」が説かれている。

      日蓮大聖人は、その「法華経の真髄」を受け継ぎ、三大秘法として私たちに教えてくださった。

 

12日

 

 三大秘法抄②

 問う 所説の要言の法とは何物ぞや、 答て云く 夫れ釈尊初成道より四味三教乃至法華経の広開三顕一の席を立ちて略開近顕遠を説かせ給いし涌出品まで秘せさせ給いし実相証得の当初修行し給いし処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり。

 

問う。説くところの要言の法とは何物であるか。答えていう。釈尊が初めて成道して以来、四味三教から法華経の広開三顕一の説法の席を立って、略開近顕遠を説かれた従地涌出品第十五まで秘せられた、諸法の実相を証得したその昔に修行されたところの寿量品の本尊と戒壇と題目の五字である。

こちらも『三大秘法抄』の非常に重要な一節です。

日蓮大聖人が「仏教の真髄は何か?」という問いに、明快に答えておられます。

 

原文と通釈

問う 所説の要言の法とは何物ぞや

「問う」=質問の形で話が始まります。

**「仏が説いた一番大事な法(要言の法)とは、一体なんですか?」**という問いです。

答て云く

 

「それに対して、答えましょう」という形で、大聖人がはっきりと答えられます。

夫(それ)れ、釈尊初成道より、四味三教、乃至法華経の広開三顕一の席を立ちて、略開近顕遠を説かせ給いし涌出品まで、秘せさせ給いし実相証得の、当初修行し給いし処の、寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり。

 

一文がとても長いですが、わかりやすく分けて説明します。

🔹1. 「釈尊初成道より、四味三教、乃至法華経の広開三顕一の席を立ちて」

 

ここでは、お釈迦さまの説法の流れをお話ししています。

      釈尊初成道(しゃくそんしょじょうどう):

お釈迦さまが悟りを開かれてから…

      四味三教(しみさんきょう):

四つの教えの味(蔵・通・別・円)と三段階の教え(頓・漸・秘密)。これは「法華経以前」の仏の説法です。

      法華経の広開三顕一の席を立ちて:

「三顕一(さんけんいち)」とは、仮の三教を開いて、唯一の真実を顕すという法華経の大事な教え。

→「仮を開いて真を顕す」、つまり、それまでの方便をはっきり否定し、法華経で真実を語り出した、ということ。

 

🔹2. 「略開近顕遠を説かせ給いし涌出品まで」

      略開近顕遠(りゃくかいごんけんのん):

「近(この世で成仏したという仮の姿)を開いて、遠(遥か昔から成仏していたという真の姿)を顕す」

 

→ 法華経の「涌出品(ゆじゅつほん)」までは、まだ真実をはっきりとは言っていない。

→ お釈迦さまの本当の姿(久遠実成)を、まだ秘しておられたという意味です。

🔹3. 「秘せさせ給いし実相証得の、当初修行し給いし処の」

      秘せさせ給いし実相証得:

仏が悟った「真の実相(真理)」を、まだ秘していた。

      当初修行し給いし処の:

その真理を得るために、仏がもともと修行した「根本の場所・立場」

 

→ つまり、仏がもともとどんな修行をして、どんな境地を得たのかを、ずっと隠していたということ。

 

🔹4. 「寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり」

 

ここがこの一節の結論です。

 

「それこそが、法華経・寿量品に明かされた、本当の仏の姿(本尊)と、

その仏をおまつりする戒壇(信仰の道場)、そして南無妙法蓮華経の五字なのだ」

 

要するにこういう意味です(やさしく)

 

仏さまが悟って以来、いろんな教えを説いてきたけれど、

本当に言いたかった一番大事なこと(要言の法)は、

実は法華経の中でも「寿量品」まで秘めていて、

ようやく明かされたのが——

 

      久遠本仏の本尊(お曼荼羅)と、

      それをおまつりする戒壇(信仰の実践の道場)、

      そして唱えるべき題目「南無妙法蓮華経」

 

この三つ(=三大秘法)なんだよ、ということです。

 

まとめ

 

この御文を通して、日蓮大聖人はこう仰せです:

 

釈尊が一代で説かれたすべての経の中で、最も肝心な教えとは何か?

それは「寿量品に秘められた三大秘法」であり、

その正体は『本尊・戒壇・題目』である

13日

 

三大秘法抄③

教主釈尊此の秘法をば三世に隠れ無き普賢文殊等にも譲り給はず況や其の以下をや、されば此の秘法を説かせ給いし儀式は四味三教並に法華経の迹門十四品に異なりき、所居の土は寂光本有の国土なり能居の教主は本有無作の三身なり所化以て同体なり、かかる砌なれば久遠称揚の本眷属・上行等の四菩薩を寂光の大地の底よりはるばると召し出して付属し給う、道暹律師云く「法是れ久成の法なるに由る故に久成の人に付す」等云云。

 

教主釈尊はこの三大秘法を過去・現在・未来の三世に隠れることのない普賢菩薩・文殊菩薩などの大菩薩にも譲られなかった。ましてそれ以下の菩薩においてはなおさらである。だからこの三大秘法を説かれた儀式は四味三教ならびに法華経の迹門十四品に異なっていた。舞台となった国土は常寂光土で本有の国土である。そこに居る教主は本有無作の三身如来である。弟子もまた同体である。このような場合であるから、久遠以来、仏とその久遠の妙法を誉め称えてきた本眷属である上行菩薩等の四菩薩を常寂光土の大地の底からはるばると呼び出して付属されたのである。道暹律師は「法はこれ久遠実成の法による故に久遠実成の本化の菩薩に付嘱する」等といっている。

 

こちらも『三大秘法抄』の非常に深い一節で、

**日蓮大聖人が「三大秘法はどれほど尊い法なのか」**を、

重々しく説かれているところです。

 

やさしく、順を追ってご説明いたします。

【原文とわかりやすい現代語訳】

🔸原文:

 

教主釈尊此の秘法をば三世に隠れ無き普賢文殊等にも譲り給はず況や其の以下をや、

 

わかりやすく言うと:

 

仏さまは、この「三大秘法」という最も大事な教えを、

過去・現在・未来のいかなる時にも、

文殊菩薩や普賢菩薩のような高位の菩薩にもお与えにならなかった。

 

ましてや、それ以下の者に与えるはずがない──という強い表現です。

➡️つまり、それほど「三大秘法は別格であり、他に譲られなかった仏法」ということです。

 

🔸原文:

されば此の秘法を説かせ給いし儀式は、四味三教並びに法華経の迹門十四品に異なりき。

わかりやすく言うと:

だから、この秘法(三大秘法)を説かれるときの場面・儀式(仏のふるまい)は、

釈尊がそれまでに説いた「四味三教」や「法華経の迹門十四品」とは全く異なっていたのです。

➡️「迹門十四品」というのは、法華経の前半部分(方便の教え)です。

 

🔸原文:

所居の土は寂光本有の国土なり

わかりやすく言うと:

この秘法が説かれた場所は、仮の娑婆世界ではなく、

「寂光(じゃっこう)」という本当の仏の国土(仏の悟りの世界)であった。

 

※寂光土とは:仏の悟りの境地そのもの。永遠に変わらず、穢れもない清浄な世界。

 

🔸原文:

 

能居の教主は本有無作の三身なり

わかりやすく言うと:

そこにおられた教主(仏さま)は、仮の姿ではなく、

もともと永遠から存在している、作られたものではない「本有無作(ほんぬむさく)の三身の仏」であった。

 

※三身とは:

      法身(ほっしん):真理そのもの

      報身(ほうじん):功徳の体

      応身(おうじん):人間の姿で現れる仏

 

➡️「無作」とは、生まれたり滅したりしない、永遠の存在という意味です。

🔸原文:

所化(しょけ)は以て同体なり

 

わかりやすく言うと:

その仏から教えを受ける衆生たち(所化)も、仏とまったく同じ悟りの命を持った存在であった。

 

➡️仏と弟子(所化)が、命において「同じ体」だという、非常に深い境地です。

 

🔸原文:

かかる砌(みぎり)なれば、久遠称揚の本眷属・上行等の四菩薩を寂光の大地の底よりはるばると召し出して付属し給う。

わかりやすく言うと:

 

そうした尊い場であるからこそ、釈尊は、

永遠の昔からの弟子である「上行菩薩たち四菩薩」を、

寂光の大地の底から呼び出して、

この三大秘法を正式に付属(ふぞく=任せること)されたのである。

 

➡️これが『法華経・如来寿量品』と『涌出品』に示される最高潮の場面です。

🔸原文:

 

道暹律師(どうせんりっし)云く「法是れ久成の法なるに由る故に久成の人に付す」等云云。

わかりやすく言うと:

 

中国の道暹律師という学者はこう言った。

「この法は、永遠の過去から成り立っている『久成の法』なので、

やはりそれを受け取る人も、永遠から修行していた『久成の人』でなければならない」

 

➡️「久成の人」とは、久遠の弟子、つまり上行菩薩のこと。

 

🔶まとめ

 

日蓮大聖人はこの御文で、こう教えておられます:

「三大秘法(本尊・戒壇・題目)」は、

ただの教えではない。

仏さまが永遠の昔から秘してきた、絶対に譲らなかった究極の法です。

 

それは、法華経の中でも特別な場所=仏の悟りの世界「寂光土」で、

永遠の仏と同じ命を持つ弟子たちに向かって、初めて説かれたのです。

そしてその教えを託されたのが、久遠の弟子「上行菩薩たち」。

この上行とは、末法に出現してこの法を弘める日蓮大聖人その人です。

 

14日

 

三大秘法抄④

 

問て云く其の所属の法門仏の滅後に於ては何れの時に弘通し給う可きか、答て云く経の第七薬王品に云く「後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布して断絶せしむること無けん」等云云、謹んで経文を拝見し奉るに仏の滅後正像二千年過ぎて第五の五百歳・闘諍堅固・白法隠没の時云云、問て云く夫れ諸仏の慈悲は天月の如し機縁の水澄めば利生の影を普く万機の水に移し給べき処に正像末の三時の中に末法に限ると説き給わば教主釈尊の慈悲に於て偏頗あるに似たり如何、答う諸仏の和光・利物の月影は九法界の闇を照すと雖も謗法一闡提の濁水には影を移さず正法一千年の機の前には唯小乗・権大乗相叶へり、像法一千年には法華経の迹門・機感相応せり、末法の始の五百年には法華経の本門・前後十三品を置きて只寿量品の一品を弘通すべき時なり機法相応せり。今此の本門寿量の一品は像法の後の五百歳・機尚堪えず況や始めの五百年をや、何に況や正法の機は迹門・尚日浅し増して本門をや、末法に入て爾前迹門は全く出離生死の法にあらず、但専ら本門寿量の一品に限りて出離生死の要法なり、是を以て思うに諸仏の化導に於て全く偏頗無し等云云、問う仏の滅後正像末の三時に於て本化・迹化の各各の付属分明なり但寿量の一品に限りて末法濁悪の衆生の為なりといへる経文未だ分明ならず慥に経の現文を聞かんと欲す如何、答う汝強ちに之を問う聞て後堅く信を取る可きなり、所謂寿量品に云く「是の好き良薬を今留めて此に在く汝取て服す可し差じと憂うる勿れ」等云云。

 

問うて言う。その所嘱された法門は仏の滅後においては、いずれの時に弘通されるべきか。

答えて言う。法華経の第七巻薬王品第二十三に「後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布して断絶させてはならない」等とある。謹んで経文を拝見すると、仏の滅後において正法千年・像法千年の二千年が過ぎて、第五の五百歳に当たり、闘いや諍いが盛んになり、釈尊の教法の功力が失われた時、とある。

問うて言う。もろもろの仏の慈悲は天月のようである。衆生の機根の水が澄むと、それを縁として利益の影をあまねくすべての機根の水に映されるはずである。それなのに正法・像法・末法の三時の中に末法に限ると説かれるのは、教主釈尊の慈悲に偏りがあるようであるが、どうであろうか。

答える。もろもろの仏の慈悲の光、衆生を利益する月影は九界の闇を照らすけれども、正法を謗り信じない者の濁った水には月影を映さない。正法時代一千年の衆生の機根の前にはただ小乗教や権大乗教が合致していた。像法時代の一千年には法華経の迹門が衆生の機根と仏の感応が相応している教えであった。末法の始の五百年には法華経の本門のうち、前後の十三品を差し置いてただ寿量品の一品を弘通すべき時である。衆生の機根と教法が相応しているからである。

今、この法華経本門の寿量品の一品は、像法時代の後の五百歳の機根でさえ堪えることができない。まして像法時代の始めの五百年はなおさらである。いかにいわんや正法時代の機根は法華経迹門になお日が浅く堪えられない。まして本門においてはなおさらである。末法時代に入って爾前経・法華経迹門は全く生死の苦しみから離れる法ではない。ただ専ら法華経本門の寿量品の一品だけが生死の苦しみから離れる肝要の法である。このことから思うと、もろもろの仏の化導に全く偏りはない。

問う。仏の滅後、正法・像法・末法の三時において本化の菩薩と迹化の菩薩へのそれぞれの付属は明らかである。ただ寿量品の一品のみが末法の濁悪の衆生を利益するという経文は未だ明らかでない。確かに経に現われている文証を聞きたいと思うが、どうか。

答える。あなたは強いてこれを問うのなら聞いて後、堅く信じるべきである。いわゆる法華経如来寿量品第十六に「この好き良薬を今留めてここに置く。汝、取って服しなさい。病が治癒しないと憂えてはいけない」等とある。

 

日蓮大聖人の『三大秘法抄』のこの部分は、末法に弘まるべき仏法、特に「本門寿量品」の教えの大切さを明らかにしておられます。

わかりやすく分解して解説します。

 

原文のポイントとやさしい解説

 

🔸質問1:「仏さまが亡くなったあと、いつこの教え(三大秘法=本門の教え)を弘めるべきなのですか?」

 

→ それに対する答えは:

 

経典(法華経薬王品)に

「仏の滅後、後の五百年の間に、この教えは世界中に広まって、絶えることがない」

と書かれています。

 

◎ここでいう「後の五百年」とは、仏の滅後(入滅)から始まる「末法時代」のことです。

 

🔸質問2:「でも仏さまはみんなに平等に慈悲をかけるのでは?

 

なのに、なぜ末法だけにこの本門の教えを説くのですか?

それって、不公平では?」

 

→ 答え:

 

たしかに仏の慈悲は太陽や月のように、すべてを照らします。

しかし、どんな人にも合う教えというのは時代によって違います。

 

そして時代ごとに合う教えはこうです:

 

時代 主な教え 理由

正法時代(最初の1000年) 小乗・権大乗 修行する人(機根)がしっかりしていた

像法時代(次の1000年) 法華経の「迹門」 教えを信じる人はいるが、力が弱くなる

末法時代(今の時代) 法華経「本門寿量品」だけ 他の教えでは人々を救えないから

 

特に、末法の最初の500年間は、「本門寿量品」ただ一つがふさわしい時代。

それ以外の教え(法華経の前半=迹門など)では、人々を救うことができない。

 

🔸質問3:「でも、本当に経典(お経)に、本門寿量品だけが末法にふさわしいって書いてあるの?」

 

→ 答え:

 

はい、ちゃんと書いてあります。

寿量品にこうあります:

 

「このすばらしい薬(=寿量品の法門)を今この場所に残しておく。

あなたは取って飲みなさい。治らないと心配するな。」

 

◎これは、仏さまが末法の私たちのために、唯一残してくださった教えが「寿量品」であることを意味します。

 

💡まとめ

 

日蓮大聖人が『三大秘法抄』でおっしゃっていることは:

      今の時代(末法)には、法華経の中でも「本門寿量品」だけが人々を救う力を持っている。

      それを仏さまご自身が、経典で「これだけは残しておくから、飲みなさい(信じて実践しなさい)」と教えている。

      時代によって合う教えが違い、今の時代にはこの本門寿量品を信じ実践することが、成仏の唯一の道である。

 

15日

 

 三大秘法抄⑤

 

問て云く寿量品専ら末法悪世に限る経文顕然なる上は私に難勢を加う可らず然りと雖も三大秘法其の体如何、答て云く予が己心の大事之に如かず汝が志無二なれば少し之を云わん寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初より以来此土有縁深厚本有無作三身の教主釈尊是れなり、寿量品に云く「如来秘密神通之力」等云云、疏の九に云く「一身即三身なるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず」等云云。

 

問うていう。寿量品は専ら末法の悪世に限るとの経文がはっきりしている以上は自分勝手な疑難を加えてはならないと思う。しかしながら三大秘法のその法体はどんなものか。

答えていう。我が己心の大事はこれに及ぶものはない。あなたの志が無二であるので、少しこれを説こう。寿量品に建立するところの本尊は五百塵点の当初から、この土に有縁深厚である本有無作の三身の教主釈尊がこれである。寿量品に「如来の秘密・神通の力」等とある。法華文句の巻九に「一身即三身であることを秘と名付け、三身即一身であることを密と名付ける。また昔から説かないところを秘と名付け、ただ仏のみ自ら知っているところを密と名付ける。仏は過去世・現在世・未来世の三世に等しく法報応の三身がある。もろもろの教えの中にこれを秘して伝えない」等とある。

 

この部分も、本門寿量品に説かれた教主釈尊(久遠元初の仏様)本当のお姿=本尊の本体とは何か、というとても大事な教えを明らかにされています。

 

やさしく・丁寧に解説していきます。

 

🟡原文をわかりやすく解説(段落ごと)

 

🟨質問:

 

「寿量品が末法の悪世(悪い時代)のためだけに説かれているということが、はっきりしているのなら、もう反対する理由はありません。

でも、三大秘法の“本体”って、いったい何なのですか?」

 

🟨答え:

 

「これは私(日蓮大聖人)の心の一番大事な教えなので、全部を話すことはできません。

けれども、あなた(問いかけた人)が心から求めていて、真剣な様子なので、少しだけ話しましょう。」

 

🟨本尊とは何か?

 

「法華経寿量品に基づいて建立する本尊とは――

実は、はるか五百塵点劫(ごひゃくじんでんごう)という遠い昔から、ずっとこの娑婆世界に縁を結んでいた、

“本有無作三身(ほんぬむささんじん)の教主釈尊”こそが本尊です。」

 

💬ここでのキーワードの意味:

      五百塵点劫(ごひゃくじんでんごう):ものすごく長い過去。仏が最初に成仏された遠い昔のこと。

      本有無作三身(ほんぬむささんじん):

 ・「本有」=もとから存在する

 ・「無作」=つくられたものでない自然の仏

 ・「三身」=法身・報身・応身の三つの仏の姿(悟りの内容・仏の姿・人としての姿)

 

つまり、作られた仏ではなく、もとから永遠に存在している仏のお姿という意味です。

 

🟨その根拠となるお経の言葉:

 

寿量品には、「如来秘密神通之力(にょらいひみつじんつうのりき)」とあります。

 

つまり仏さまは、ふつうの人には見えない、深い秘密の力(神通力)によって真実を説いているということ。

 

 

🟨さらに注釈書(法華玄義の疏)ではこう書かれている:

 

「一つの仏の姿が三つの仏(法身・報身・応身)でもある、

これを“秘(ひ)”といい、

三つの仏が一つでもある、

これを“密(みつ)”という。

 

また、今までのお経では説かれなかったことを“秘”といい、

仏だけが自分で知っていることを“密”という。

 

仏は、過去・現在・未来の三世にわたって常に三身(さんじん)を持っているが、

他のお経ではこのことを隠していて説いてこなかった。」

 

🔵まとめ:わかりやすく言うと

 

この段落では、次のような大事なことを教えてくださっています:

 

1. 寿量品は末法にふさわしい教えであることは明白

 

だから、もう反対する理由はない。

 

2. 三大秘法の「本尊」の本体とは?

      それは、**永遠の昔からこの世と深い縁を結び、人々を救ってきた「本有無作三身の教主釈尊」**である。

      仏の三つの姿(悟り・光・人間の姿)すべてを持つ「本仏」のお姿。

 

3. この仏こそが、法華経寿量品で初めて説かれた「秘密の仏」

      他のお経では説かれず、仏さまだけが知っていた深い真実。

      それが、「如来秘密神通之力」によって明かされた。

      この仏が、末法の私たちにとって、南無妙法蓮華経と一体の「本尊」になる。

 

🔶信心の立場からの要点

 

日蓮大聖人は、「末法にはこの“本有無作三身の教主釈尊”の御本尊だけが人々を救う」と仰せです。

それが、日蓮正宗の「本門の本尊」=本門戒壇の大御本尊のお姿です。

 

そしてこれは、普通の人間が勝手に作った仏像ではなく、仏がご自身の神通力で末法に明かされた「真の仏像」であり、唯一の成仏の拠り所なのです。

 

16日

 

 三大秘法抄⑥

 

題目とは二の意有り所謂正像と末法となり、正法には天親菩薩・竜樹菩薩・題目を唱えさせ給いしかども自行ばかりにしてさて止ぬ、像法には南岳天台等亦南無妙法蓮華経と唱え給いて自行の為にして広く他の為に説かず是れ理行の題目なり、末法に入て今日蓮が唱る所の題目は前代に異り自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり名体宗用教の五重玄の五字なり。

 

題目とは二つの意義がある。いわゆる正法・像法の題目と末法における題目である。正法時代には天親菩薩・竜樹菩薩が題目を唱えられたけれども自行ばかりであって、これで止まってしまった。像法時代には南岳大師・天台大師等がまた南無妙法蓮華経と唱えられたが自行のためであって広く他人のために説かなかった。これは理行の題目である。

末法時代に入って今、日蓮が唱えるところの題目は前の時代とは異なって自行・化他にわたる南無妙法蓮華経である。この題目は名・体・宗・用・教の五重玄を具えた妙法蓮華経の五字である。

 

こちらの文も非常に大切な教えです。

日蓮大聖人が、「題目(南無妙法蓮華経)」には時代によって違いがあること、

そして自分のためだけではなく、人にも弘める「化他(けた)」が大事であることをお示しになっています。

 

段落ごとにわかりやすく説明していきます。

 

🔶原文とやさしい解説

 

🔸原文:

 

題目とは二の意有り。所謂、正像と末法となり、

 

やさしい意味:

 

「題目(南無妙法蓮華経)」には、2つの大きな意味があります。

それは、「正法・像法」の時代と、「末法」の時代での意味の違いです。

 

🔸原文:

 

正法には、天親菩薩・竜樹菩薩、題目を唱えさせ給いしかども、自行ばかりにして、さて止(や)ぬ。

 

やさしい意味:

 

正法の時代(仏が亡くなってから最初の1000年)には、

天親菩薩(てんじんぼさつ)や竜樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)といった偉い仏教者たちが「南無妙法蓮華経」の題目を唱えていました。

しかし、それは自分の修行(自行)のためだけで、他人に弘めたりはしませんでした。

 

🔸原文:

 

像法には、南岳・天台等、亦「南無妙法蓮華経」と唱え給いて、自行の為にして広く他の為に説かず。是れ理行の題目なり。

 

やさしい意味:

 

像法の時代(次の1000年)には、

中国の南岳大師や天台大師もまた「南無妙法蓮華経」と唱えました。

しかし彼らも、それを自分の修行(自行)のために唱えていただけで、広く人々に弘めはしませんでした。

 

このときの題目は「理行の題目(りぎょうのだいもく)」と言います。

      理行とは:教理上は正しいが、実際に広く行動(実践)に移していない修行。

 

🔸原文:

 

末法に入って、今日蓮が唱える所の題目は、前代に異なり、自行・化他に亘りて「南無妙法蓮華経」なり。

 

やさしい意味:

 

ところが末法の今、日蓮が唱えている題目は、

それまでの時代とは違い、自分の修行(自行)だけでなく、人にも教えて弘める(化他)修行でもあります。

 

つまり、自分も唱えるし、人にも勧める。それが末法の題目なのです。

 

🔸原文:

 

名・体・宗・用・教の五重玄の五字なり。

 

やさしい意味:

 

この「南無妙法蓮華経」という五字には、深い意味があります。

天台大師が説いた「五重玄義(ごじゅうげんぎ)」の五つの内容が、この題目にすべて込められています。

 

🟨五重玄義とは?

 

これは法華経の深い意味を5つの角度から説明するもの:

 1. 名(みょう)名前の意味(南無妙法蓮華経)

 2. 体(たい)その本質(仏の生命そのもの)

 3. 宗(しゅう)中心となる教え(久遠本仏の南無妙法蓮華経)

 4. 用(ゆう)働き(人々を成仏させる力)

 5. 教(きょう)どの経から出たか(法華経寿量品)

 

つまり、**題目はただの名前や音ではなく、仏の命と智慧と力がすべて込められた完全な教え”**なのです。

 

🔷まとめ:わかりやすく言うと

時代 題目の唱え方 特徴

正法時代 天親・竜樹など 自分のためだけに唱える(自行) 他人には弘めない

像法時代 南岳・天台など やはり自行中心 理論としての題目

末法時代(今) 日蓮大聖人 自分も唱え、人にも弘める(化他) 実践と弘通の題目

 

そしてこの日蓮大聖人の唱える題目「南無妙法蓮華経」は、

仏さまの命そのもの、真理そのものを唱える尊い行であり、

しかもそれを人に伝える(折伏する)ことに意味があると説かれています。

 

17日

 

 三大秘法抄⑦

 

戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して蹋給うべき戒壇なり。

 

戒壇とは王法が仏法に冥じ、仏法が王法に合して、王と臣が一同に本門の三大秘密の法を持って、有徳王と覚徳比丘のその昔の事績を末法時代の濁悪の未来に移し現わそうとする時、勅宣ならびに御教書を申し下して、霊山浄土に似ている最も勝れた地を探し求めて戒壇を建立すべきものか。時を待つべきのみである。事の戒法というのはこれである。インド・中国・日本の三国ならびに一閻浮提の人が懺悔し滅罪する戒法だけでなく、大梵天王や帝釈等も来って踏まれるべき戒壇である。

 

この箇所は『三大秘法抄』の中でも、「戒壇(かいだん)」とは何か、

そしてそれが未来の末法の時代にどのように実現されるのかという大切な教えを述べられたところです。

 

段落ごとにわかりやすく解説します。

 

🟡原文とやさしい解説

 

🔸原文:

 

戒壇とは王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて…

 

やさしい意味:

 

「戒壇(かいだん)」とは、仏法(信仰の教え)と王法(国の法律・政治)が調和して、

天皇や将軍、役人など(=王臣おうしん)もみんな、

日蓮大聖人の本門の三大秘法(本尊・題目・戒壇)を信じて受持する時に建てられるものです。

 

🔸原文:

 

有徳王・覚徳比丘の其の乃往(そのむかし)を、末法濁悪の未来に移さん時、

 

やさしい意味:

 

昔、お釈迦様の時代にいた「有徳王(うとくおう)」「覚徳比丘(かくとくびく)」という信心深い王様や修行者がいたように、

そのような信仰と政治が一体となった理想のあり方が、

末法の未来の世の中に再び実現されるときが来ます。

 

🔸原文:

 

勅宣(ちょくせん)並に御教書(みきょうしょ)を申し下して…

 

やさしい意味:

 

天皇や将軍からの**正式な命令や文書(勅宣や教書)**によって、

国家が信仰を認め、後押しする形になります。

 

🔸原文:

 

霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて、戒壇を建立すべき者か、時を待つべきのみ。

 

やさしい意味:

 

そのとき、仏が説かれた霊山浄土(りょうぜんじょうど)=霊鷲山のような神聖な場所にふさわしい、

最も清らかな場所を探して、そこに本門の戒壇を建てるのです。

 

しかし、今はまだその時ではないので、

その時が来るのを待たなければならない。

 

🔸原文:

 

事の戒法と申すは是なり。

 

やさしい意味:

 

このように、仏の真実の教え(本門の三大秘法)に基づいて、

国家ぐるみで建てられる実際の「本門の戒壇」こそ、

「事の戒法(じのかいほう)」と呼ばれるものです。

 

🔸原文:

 

三国並びに一閻浮提の人、懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して蹋(ふ)み給うべき戒壇なり。

 

やさしい意味:

 

この本門戒壇は、ただ個人が罪を懺悔して清らかになるだけのものではありません。

 

それは、仏教を信じる「三国(日本・中国・インド)」はもちろん、

全世界(一閻浮提)に住む人々が参詣するほどの最も尊い信仰の中心になります。

 

そして、なんと仏法を守る天界の神々(大梵天王や帝釈天)ですら、

その場所に降りて来て、足を踏み入れるような尊い場所になるのです。

 

🔷まとめ:わかりやすく言うと

 

日蓮大聖人は、次のようなことをおっしゃっています:

 

1. 「本門の戒壇」とは何か?

      仏法と国の政治(王法)が一体となり、

      人々が「本門の三大秘法(本尊・題目・戒壇)」を信じ受け入れた時に、

      国家の認可のもとで、特別な場所に実際に建てられる信仰の中心地。

 

2. それは「事の戒壇」と呼ばれる

      抽象的な意味ではなく、「実際に建てられる」現実の戒壇。

      「信じる者の心の中」だけでなく、「形あるものとして建てられる」。

 

3. その場所は、世界中の人々が参詣し、天の神々も来るほど尊い場所

      個人の修行だけでなく、国家と世界全体を救うための中心となる。

 

4. しかし、まだその時ではない

      将来、時が来たら実現される。

      今はその「時を待つ」べきとき。

 

🟡現代の信仰とどう関係するの?

      日蓮大聖人が仰せの「本門の戒壇」とは、

 日蓮正宗で大石寺(たいせきじ)に厳護される本門戒壇の大御本尊を中心として、

 未来に戒壇堂が建てられ、国家的にも認められる時代が来ることを指します。

      私たちは、その未来の実現を願い、今は信心と弘教に励むことが大切とされています。

 

18日

 

 三大秘法抄⑧

 

此の戒法立ちて後・延暦寺の戒壇は迹門の理戒なれば益あるまじき処に、叡山に座主始まつて第三・第四の慈覚・智証・存の外に本師伝教・義真に背きて理同事勝の狂言を本として我が山の戒法をあなづり戯論とわらいし故に、存の外に延暦寺の戒・清浄無染の中道の妙戒なりしが徒に土泥となりぬる事云うても余りあり歎きても何かはせん、彼の摩黎山の瓦礫の土となり栴檀林の荊棘となるにも過ぎたるなるべし、夫れ一代聖教の邪正偏円を弁えたらん学者の人をして今の延暦寺の戒壇を蹋ましむべきや、此の法門は義理を案じて義をつまびらかにせよ。

 

三大秘法抄の一節は、日蓮大聖人が「本門の戒壇」の意義を説かれる中で、延暦寺の戒壇がもはや正しい戒壇ではないことを厳しく批判されている重要な部分です。

 

わかりやすい現代語訳(意訳)

 

「本門の戒壇(末法の正しい戒壇)が立った今となっては、

もともと迹門(釈尊の教え)による“理の戒壇”であった比叡山の戒壇は、

もはや功徳はなくなっているはずです。

 

それなのに、延暦寺の座主たちは、

伝教大師(最澄)や義真(その弟子)という正師の教えに背いて、

“理(道理)と同じなら、事実として勝れている”というような狂った理屈を掲げ、

自分たちの山(叡山)の戒壇を軽んじ、

仏法をお笑いごとのように扱ったのです。

 

そのため、延暦寺の戒壇は、

かつては清浄無染で中道の尊い戒壇だったのに、

今ではただの泥土と化してしまいました。

このことは、いくら言っても言い尽くせず、いくら嘆いても仕方がない。

 

まるで、昔の摩黎山が瓦礫の山となり、

栴檀の林が荊棘(いばら)に変わってしまったのと同じ、

いやそれ以上に悲惨なことでしょう。

 

仏教の一切経の中から、正邪・偏円を見分けられるような真の学者がいたなら、

今の延暦寺の戒壇など、踏みしめることさえしないでしょう。

 

この法門は、よく義理を考えて、

その道理を明らかにするよう努めなさい。」

 

補足解説

 

●「本門の戒壇」とは

 

日蓮大聖人が末法の衆生を成仏させるために明かされた「三大秘法」のうちの一つ、「本門の戒壇」。末法の正しい信仰の中心となる霊地のことです。これは「本門寺の戒壇」とも言われ、広宣流布の時に国立戒壇として建立されるべきものです。

 

●「迹門の理戒」について

 

延暦寺の戒壇は法華経の迹門(前半部分)に基づいた「理(道理)の戒壇」とされます。実際の戒を授ける場所ではあっても、末法の成仏には力をもたないという位置づけです。

 

●「理同事勝の狂言」

 

「理においては同じでも、事(現実)においては勝れている」という考え。つまり「うちの戒壇も道理は一緒だから、実際にも一番だ」と言い張る偏った考え方です。大聖人はそれを「狂言」と断じています。

要約

      延暦寺の戒壇は、昔は立派な戒壇でしたが、今では本当の仏法から外れてしまい、形ばかりで中身がないものになってしまいました。

      それは、仏の教えにそむいて、自分たちの都合で仏法をねじまげたからです。

      本当に正しい戒壇は、日蓮大聖人の本門戒壇であり、それが末法における成仏の根本です。

      仏法の正邪を見分ける力を持った人なら、今の延暦寺の戒壇など、近づきもしないはずです。

      私たちは、何が正しい教えかをよく考え、正法に従って生きることが大事です。

 

19日

 

 三大秘法抄⑩

 

 問う一念三千の正しき証文如何、答う次に出し申す可し此に於て二種有り、方便品に云く「諸法実相・所謂諸法・如是相・乃至欲令衆生開仏知見」等云云、底下の凡夫・理性所具の一念三千か、寿量品に云く「然我実成仏已来・無量無辺」等云云、大覚世尊・久遠実成の当初証得の一念三千なり、今日蓮が時に感じて此の法門広宣流布するなり予年来己心に秘すと雖も此の法門を書き付て留め置ずんば門家の遺弟等定めて無慈悲の讒言を加う可し、其の後は何と悔ゆとも叶うまじきと存ずる間貴辺に対し書き送り候、一見の後・秘して他見有る可からず口外も詮無し、法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり、秘す可し秘す可し。

  弘安五年卯月八日                  日 蓮 花 押

    大田金吾殿御返事

 

これは日蓮大聖人が弘安5年(1282年)48日に、大田乗明(おおた・じょうみょう)こと大田金吾殿に与えられたお手紙の一節です。

特に「一念三千の正しい証文(あかし)とは何か?」という問いに、大聖人ご自身が明確に答えられている、大変重要な御文です。

 

原文と現代語訳

 

🔹原文(冒頭)

 

問う、一念三千の正しき証文如何、

答う、次に出し申す可し。

 

現代語訳

 

「質問:一念三千が正しい教えであることを証明する根拠はどこにありますか?

答えましょう。以下にその証文(あかし)を示します。」

 

🔹原文(中盤)

 

此に於て二種有り、

方便品に云く「諸法実相、所謂諸法、如是相、乃至欲令衆生開仏知見」等云云、

底下の凡夫・理性所具の一念三千か、

寿量品に云く「然我実成仏已来・無量無辺」等云云、

大覚世尊・久遠実成の当初証得の一念三千なり。

 

現代語訳

 

一念三千には2つの立場からの証文があります。

 

ひとつは法華経の方便品にある

「諸法実相、いわゆる諸法、如是相、…乃至、衆生をして仏の知見を開かしめんと欲す」などの文。

これは、凡夫が本来そなえている理性の中に、一念三千の可能性があることを示しています。

 

もうひとつは、寿量品にある

「しかるに我れ実に成仏して已来、無量無辺の阿僧祇劫なり」などの文。

これは、久遠元初の仏(久遠実成の仏)が最初に悟った一念三千を示すものです。

🔹原文(後半)

 

今日蓮が時に感じて此の法門広宣流布するなり、

予年来己心に秘すと雖も、此の法門を書き付けて留め置かずんば、

門家の遺弟等定めて無慈悲の讒言を加う可し、

其の後は何と悔ゆとも叶うまじきと存ずる間、

貴辺に対し書き送り候。

 

現代語訳

 

この一念三千の法門は、今日、私(日蓮)が時代の要請を受けて広めているのです。

 

私は長年、この法門を心の中に秘めてきましたが、

もし今これを書き残さずにいたならば、将来きっと後継の門下の中から、

「日蓮は本当の法門を教えなかった」と、

慈悲のない悪口を言う者が現れるに違いありません。

そうなってからでは後悔しても間に合わないので、

あなた(大田金吾)に宛ててこの教えを書き送ります。

 

🔹原文(結び)

 

一見の後、秘して他見有る可からず、口外も詮無し、

法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は、

此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり。

秘す可し秘す可し。

 

現代語訳

 

この文を読んだあとは、他の人に見せたり口に出して話したりしてはなりません。

仏が法華経を「出世の一大事」として説かれたのは、

この法華経にこそ三大秘法がふくまれているからです。

 

どうか秘密にしてください、秘密にしてください。

ポイントまとめ

 

      一念三千の教えが説かれている場所は、法華経の「方便品」と「寿量品」。

         方便品 凡夫の中にある可能性としての一念三千

         寿量品 久遠の仏が悟った本当の一念三千(最も深い教え)

      日蓮大聖人は、この一念三千の法門を、いよいよ時代が来たので広めている。

      この大事な法門を、将来に残すために、大田金吾にだけこっそり書き送った。

      この教えこそが法華経の核心であり、三大秘法の根本。

      よって、他人に見せたり軽々しく話したりしてはならない。

 **「秘すべし、秘すべし」**とは、それほどの重大さを意味しています。

 

まとめ

 

日蓮大聖人が広められた「一念三千」という教えは、

実は仏さまが法華経の中で説かれた最高の智慧なのです。

 

この教えは、私たち凡夫の中にも仏の命がそなわっていることを示し、

同時に、久遠元初の仏が本当に悟った仏法の核心でもあります。

 

日蓮大聖人は、この深い教えを後の世に伝えるために、

信頼できる弟子にだけ、こっそりと書き送られました。

 

それほどまでに大切な法門、

それが「三大秘法」そして「一念三千」なのです。

 

明日より、日顕上人の『日蓮大聖人御金言義類別入文集』より、要文を配信します。

乞うご期待!

 

20日

 

 三大秘法抄⑩

 

 問う一念三千の正しき証文如何、答う次に出し申す可し此に於て二種有り、方便品に云く「諸法実相・所謂諸法・如是相・乃至欲令衆生開仏知見」等云云、底下の凡夫・理性所具の一念三千か、寿量品に云く「然我実成仏已来・無量無辺」等云云、大覚世尊・久遠実成の当初証得の一念三千なり、今日蓮が時に感じて此の法門広宣流布するなり予年来己心に秘すと雖も此の法門を書き付て留め置ずんば門家の遺弟等定めて無慈悲の讒言を加う可し、其の後は何と悔ゆとも叶うまじきと存ずる間貴辺に対し書き送り候、一見の後・秘して他見有る可からず口外も詮無し、法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり、秘す可し秘す可し。

  弘安五年卯月八日                  日 蓮 花 押

    大田金吾殿御返事

 

これは日蓮大聖人が弘安5年(1282年)48日に、大田乗明(おおた・じょうみょう)こと大田金吾殿に与えられたお手紙の一節です。

特に「一念三千の正しい証文(あかし)とは何か?」という問いに、大聖人ご自身が明確に答えられている、大変重要な御文です。

 

原文と現代語訳

 

🔹原文(冒頭)

 

問う、一念三千の正しき証文如何、

答う、次に出し申す可し。

 

現代語訳

 

「質問:一念三千が正しい教えであることを証明する根拠はどこにありますか?

答えましょう。以下にその証文(あかし)を示します。」

 

🔹原文(中盤)

 

此に於て二種有り、

方便品に云く「諸法実相、所謂諸法、如是相、乃至欲令衆生開仏知見」等云云、

底下の凡夫・理性所具の一念三千か、

寿量品に云く「然我実成仏已来・無量無辺」等云云、

大覚世尊・久遠実成の当初証得の一念三千なり。

 

現代語訳

 

一念三千には2つの立場からの証文があります。

 

ひとつは法華経の方便品にある

「諸法実相、いわゆる諸法、如是相、…乃至、衆生をして仏の知見を開かしめんと欲す」などの文。

これは、凡夫が本来そなえている理性の中に、一念三千の可能性があることを示しています。

 

もうひとつは、寿量品にある

「しかるに我れ実に成仏して已来、無量無辺の阿僧祇劫なり」などの文。

これは、久遠元初の仏(久遠実成の仏)が最初に悟った一念三千を示すものです。

 

🔹原文(後半)

 

今日蓮が時に感じて此の法門広宣流布するなり、

予年来己心に秘すと雖も、此の法門を書き付けて留め置かずんば、

門家の遺弟等定めて無慈悲の讒言を加う可し、

其の後は何と悔ゆとも叶うまじきと存ずる間、

貴辺に対し書き送り候。

 

現代語訳

 

この一念三千の法門は、今日、私(日蓮)が時代の要請を受けて広めているのです。

 

私は長年、この法門を心の中に秘めてきましたが、

もし今これを書き残さずにいたならば、将来きっと後継の門下の中から、

「日蓮は本当の法門を教えなかった」と、

慈悲のない悪口を言う者が現れるに違いありません。

そうなってからでは後悔しても間に合わないので、

あなた(大田金吾)に宛ててこの教えを書き送ります。

 

🔹原文(結び)

 

一見の後、秘して他見有る可からず、口外も詮無し、

法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は、

此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり。

秘す可し秘す可し。

 

現代語訳

 

この文を読んだあとは、他の人に見せたり口に出して話したりしてはなりません。

仏が法華経を「出世の一大事」として説かれたのは、

この法華経にこそ三大秘法がふくまれているからです。

 

どうか秘密にしてください、秘密にしてください。

 

ポイントまとめ

 

      一念三千の教えが説かれている場所は、法華経の「方便品」と「寿量品」。

         方便品 凡夫の中にある可能性としての一念三千

         寿量品 久遠の仏が悟った本当の一念三千(最も深い教え)

      日蓮大聖人は、この一念三千の法門を、いよいよ時代が来たので広めている。

      この大事な法門を、将来に残すために、大田金吾にだけこっそり書き送った。

      この教えこそが法華経の核心であり、三大秘法の根本。

      よって、他人に見せたり軽々しく話したりしてはならない。

 **「秘すべし、秘すべし」**とは、それほどの重大さを意味しています。

 

まとめ

 

日蓮大聖人が広められた「一念三千」という教えは、

実は仏さまが法華経の中で説かれた最高の智慧なのです。

 

この教えは、私たち凡夫の中にも仏の命がそなわっていることを示し、

同時に、久遠元初の仏が本当に悟った仏法の核心でもあります。

 

日蓮大聖人は、この深い教えを後の世に伝えるために、

信頼できる弟子にだけ、こっそりと書き送られました。

 

それほどまでに大切な法門、

それが「三大秘法」そして「一念三千」なのです。

 

明日より、日顕上人の『日蓮大聖人御金言義類別入文集』より、要文を配信します。

乞うご期待!

 

 

 

21日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集1

 

法華経1/66

 

🔹 今日の御聖訓(ごせいくん)

日蓮大聖人の『戒体即身成仏義』(御書9)より

 

「法華経には『正直に方便を捨てて但無上道(むじょうどう)を説く』と云云。法華已前(ほっけいぜん)の経は不正直の経、方便の経。法華経は正直の経、真実の経なり。」

 

🔸 やさしい意味

 

この御文は、法華経こそが真実の教えであることを、はっきりとお示しになった大事な一節です。

 

🔸 ポイント解説

 1. 「正直に方便を捨てて但無上道を説く」って?

 これは『法華経・方便品』に出てくるお経の言葉です。

 

 「正直に」とは、まっすぐに、偽りなくという意味。

 「方便」とは、一時的な教えや仮の手段のこと。

 「但無上道を説く」とは、仏になるための最高の教えだけを説くということ。

 

 つまり、仏さまは「もう仮の教えは使わず、本当の教えだけを話しますよ」と宣言されたのです。

 

 2. なぜ、他のお経は「不正直の経」なの?

 お釈迦さまは、人々の心の状態に合わせて、わかりやすくするために「方便(ほうべん)」の教えを先に説きました。これが**法華経以前の教え(華厳経・阿含経・般若経など)**です。

 

 でも、それらはあくまで導入・仮の教え。本当の悟りには至れません。

 

 だから大聖人は、「法華経以前の経は、不正直=まことの教えではない」とおっしゃっているのです。

 

 3. 法華経こそ真実の教え!

 法華経では、すべての人が仏になれる「一仏乗(いちぶつじょう)」の教えが説かれます。

 特に、**末法の今の時代に仏になれる教え(本門の寿量品)**が明かされています。

 

 日蓮大聖人は、この法華経の中でもさらに最も大切な南無妙法蓮華経を信じて唱えることで、

 **今この身のままで仏になれる(即身成仏)**のだと教えてくださったのです。

 

🔸 まとめ

      仏さまは最初、方便を使って教えを説かれました(法華経以前の経)。

      でも、法華経では「もはや方便は捨てた」と言って、本当の悟りの道=無上道を明かされました。

      日蓮大聖人はこの教えを根本として、「法華経こそ真実の教えだよ」と私たちに伝えてくださっているのです。

 

🔔 信心の実践へ

私たちも、仮の教えに迷うことなく、大聖人の仰せのままに南無妙法蓮華経と唱え抜いていくことが、まさに正直で、真実の信心の道です。

 

22日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集2

 

法華経2/66

 

🔹 今日の御聖訓(ごせいくん)

日蓮大聖人の『戒体即身成仏義』(御書10)より

 

法華経の悟りと申すは易行の中の易行なり。 只五戒の身を押さへて仏因と云ふ事なり。

掟 五戒の我が体は即身成仏とも云はるゝなり。

 

こちらの御文は、日蓮大聖人が「五戒を守ることが、即身成仏に直結する」と教えておられる、非常に大切な御指南です。

 

原文

 

法華経の悟りと申すは易行の中の易行なり。

 

意味:

 

「法華経による悟り(成仏)は、数ある修行の中でも 最もやさしい修行 である」という意味です。

昔の仏教には、難行(山にこもる、長い瞑想、苦行など)が多かったのに対し、法華経は、日常生活の中で誰もが実践できる教えなのです。

 

只五戒の身を押さへて仏因と云ふ事なり。

 

意味:

 

「ただ、五戒(ごかい)を守ることで、仏になるための原因=仏因(ぶついん) になる」ということです。

 

五戒とは、在家信者が守るべき五つの基本的な戒めです:

 1. 不殺生(ふせっしょう)生き物を殺さない

 2. 不偸盗(ふちゅうとう)盗みをしない

 3. 不邪淫(ふじゃいん)道ならぬ男女関係を持たない

 4. 不妄語(ふもうご)うそをつかない

 5. 不飲酒(ふおんじゅ)酒におぼれない

 

つまり、人間として基本的な道徳を守ることが、そのまま仏になるための道(仏因)であるとおっしゃっているのです。

 

五戒の我が体は即身成仏とも云はるゝなり。

 

意味:

 

五戒を守っている自分の身体そのものが、**この身のままで仏になれる(即身成仏)**の体だといえる、ということです。

まとめ

 

日蓮大聖人は、「法華経の悟りは、難しいものではない」と教えてくださっています。

特別な山にこもることも、特別な才能もいりません。

 

日々、五戒という基本の道徳をしっかり守り、南無妙法蓮華経と唱えることこそ、仏の道であり、即身成仏の実践なのです。

 

この身このまま、日々の生活の中で仏の道を歩んでいける――

これが日蓮大聖人の「戒体即身成仏」の尊い教えです。

 

23日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集3

 

法華経3/66

 

🔹 今日の御聖訓

『総在一念抄』(114)

 

法華以前の諸経は権法を説き交ゆるが故に、塵劫(じんごう)を経歴(きょうりゃく)して受持すとも仏種となるべからず、仏智を説き顕はさざるが故なり。

 

解説

 

法華経より前に説かれたお経(華厳経・阿含経・般若経など)は、全部「権教(ごんぎょう)」――つまり「仮の教え」なんです。

これは、まだ仏の本当の教えを直接伝えると、衆生(しゅじょう・人々)が理解できないので、**段階的に導くための方便(ほうべん)**として説かれたものです。

 

ですから、大聖人はこう仰せです:

 

どれだけ長い時間(塵劫:ちりごう=無限のように長い年月)それらの経典を受け持ち、信じて読んでも、

仏になるための「種」にはならない。

 

なぜなら、そのお経には仏になるための「根本の智慧=仏智(ぶっち)」が説き顕されていないからです。

 

現代語風まとめ

 

皆さん、仏になるためには、「仏の智慧(仏智)」を正しく知り、それに基づいて修行しなければなりません。

 

ところが、法華経より前のお経では、その仏の智慧の核心が明かされていません。だから、それらをいくら信じても、本当の仏の道には至らないのです。

 

日蓮大聖人は、このことを厳しく明らかにして、仏になれるのは法華経だけだと断言されているのです。

 

まとめ

 

「法華以前の諸経は権法を説き交ゆるが故に、塵劫を経歴して受持すとも仏種となるべからず」

 

つまり、大聖人は、どれほど他のお経を長く信じていても、仏にはなれないと教えられています。

なぜかというと、それらは「権教」――仮の教えだからです。

 

仏の智慧、仏の命の本体は、法華経にしか説かれていないのです。

 

私たちはこの末法において、日蓮大聖人の御本仏の南無妙法蓮華経を信じ、唱えることによって、

この身このままで仏になる「即身成仏」の道を歩むことができます。

 

今日も、確信をもって、題目をお唱えしてまいりましょう。

 

 

 

 

 

24日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集4    法華経4/66

 

🔹 今日の御聖訓

『総在一念抄』(114)

 

法華以前の諸経の中に円教と云ひて殊勝(しゅしょう)の法門を説く、何ぞ強(あなが)ちに爾前(にぜん)の諸経をば仏の種子と成らずと之(これ)を簡(えら)ぶや。答へて云はく、円教を説くといへども、彼()の円は仏の種子を失へる声聞・縁覚・悪人・女人を成仏すと説かざるが故に円教の至極にあらず、究竟(くきょう)に非(あら)ざるが故に仏意を挙げず、故に又仏智にもあらず、されば成仏の種子に非ざるなり。

 

🔶原文のポイント:

 

法華経の前の教え(=法華以前の諸経)にも、「円教(えんぎょう)」といって、すぐれた教えがあるといわれています。

でも、どうして日蓮大聖人は、それらを「仏になるための種(仏種)にはならない」とおっしゃるのでしょうか?

 

という問いに対して、大聖人は次のように答えています。

 

🔷現代語訳(わかりやすく):

 

法華経より前のお経の中にも、「円教(すぐれた教え)」と言われるものがあります。

しかし、それらは本当の意味で完全な教え(=仏の心)ではありません。なぜかというと――

それらのお経では、

      声聞(しょうもん=修行して悟る人)

      縁覚(えんがく=因縁を見て悟る人)

      悪人(罪の重い人)

      女人(女性)

 

といった人たちが「仏になれる」とは説いていないのです。

 

だから、見た目は立派な教えに見えても、それは仏が本当に伝えたかった究極の教え(仏智)ではない。

だからこそ、それらの教えには「成仏できる力=仏種」はないのです。

 

🔶もう少し簡単にまとめると:

 

法華経より前のお経は、いくらすばらしくても、

 

「誰でも仏になれる」とは説いていない。

 

つまり、成仏するための「ほんとうの種」にはならない、ということです。

 

🔸信仰としてのポイント:

 

私たちが仏になるためには、「仏の知恵(仏智)」を開く教えが必要です。

その仏智を開ける教えこそ、法華経であり、特に寿量品と南無妙法蓮華経です。

 

だから日蓮大聖人は、「南無妙法蓮華経を唱えることでこそ、すべての人が仏になれる」と説かれたのです。

 

25日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集5

 

法華経5/66

 

🔹 今日の御聖訓

『守護国家論』(126)

法華経の如(ごと)きは、序分の無量義経に、慥(たし)かに四十余年の年限を挙げ、華厳・方等・般若等の大部の諸経の題名を呼んで未顕真実と定め、正宗の法華経に至りて一代の勝劣を定むる時「我が所説の経典、無量千万億にして、已(すで)に説き今説き当に説かん」の金言を吐いて「而(しか)も其()の中に於()いてこの法華経は最も為()れ難信難解(なんしんなんげ)なり」と説きたまふ。

 

わかりやすい現代語訳・説明

 

「法華経というのは――」

法華経の前に説かれたお経、つまり華厳経(けごんきょう)・方等経(ほうどうきょう)・般若経(はんにゃきょう)など、さまざまな大きなお経をすべて含めて、仏さまご自身が「今まで説いてきた教えは、真実をまだはっきりとは説いていない(=未顕真実)」とおっしゃっているのです。

 

「四十余年の年限を挙げ」とは、

お釈迦さまが法華経を説くまでに、約40年もの間、いろんなお経を説いてきたことを、無量義経(むりょうぎきょう)というお経の中で、はっきりと仰っています。

 

「正宗の法華経に至りて」

ついに、本当の教えである「法華経」に入り、仏さまは一代の教え(生涯で説いたすべてのお経)の**どれが一番すぐれているか(勝劣)**を明らかにされます。

 

「我が所説の経典、無量千万億にして…」の金言を吐いて

仏さまは、「私がこれまで説いた、そしてこれから説こうとする無量の経典の中でも…」と前置きした上で、

 

「この法華経は、もっとも信じがたく、理解しがたい(難信難解)教えである」

と、法華経こそが仏さまの最高の教えであると、明確にお示しになったのです。

 

ポイントのまとめ

      仏さまは約40年間、いろんな教えを説かれましたが、それらは「まだ本当の教えではない」と仰っている。

      法華経になると、「これが本当の仏の教えだ」と明かされます。

      法華経は、信じるのも理解するのも難しいほど深く尊い教え。

      日蓮大聖人は、その法華経の真実を命をかけて説かれました。

 

お釈迦さまが一生をかけて説かれたたくさんのお経の中で、「これこそが最高の教え」とおっしゃったのが法華経です。

それを、命がけで守り、私たちに伝えてくださったのが日蓮大聖人です。

だから私たちは、「南無妙法蓮華経」をお唱えすることで、仏さまと同じ悟りへの道を歩んでいるのです。

26日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集6

 

法華経6/66

 

守護国家論138

手に法華経一部八巻を執()らざれども、この経を信ずる人は昼夜十二時の持経者なり。口に読経の声を出ださざれども、法華経を信ずる者は、日々、時々、念々に一切経を読む者なり。

 

 

📖 原文の意味(やさしく)

 

• 「法華経の巻物を手に持っていなくても、この経を信じる人は、昼も夜もずっと法華経を読んでいる人と同じです。」

• 「声に出して読経していなくても、法華経を信じる人は、毎日、毎時、毎瞬間に、すべての仏教の教えを読んでいる人と同じです。」

 

🌱 どういうこと?

 

日蓮聖人は、単に読経や儀式をすることよりも、心から法華経を信じることの尊さを強調しています。つまり:

 

• 手に経典を持っていなくても、信じる心があれば、それは常に読んでいるのと同じ。

• 声に出していなくても、信仰の心があれば、すべての仏の教えを実践しているのと同じ。

これは、信仰の力が行動を超えるという教えです。形式よりも、心のあり方が大切だということですね。

 

🌸 たとえ話で言うと

 

たとえば、誰かが「ありがとう」と言葉にしなくても、心から感謝しているなら、その気持ちはちゃんと伝わるし、価値がある。それと同じように、法華経を信じる心があれば、読んでいなくても、その功徳はあるということです。

 

法華経=御本尊様の功徳の優れていることを示しています。

朝夕の勤行しっかりして、功徳善根を積みましょう。

 

27日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集7

 

法華経7/66

 

守護国家論138

 

 法華経を信ずる者は、設(たと)い臨終の時・心に仏を念ぜず口に経を誦せず道場に入らざれども、心無くして法界を照し、音無くして一切経を誦し、巻軸を取らずして法華経八巻を拳(にぎ)る徳之有り。

 

 法華経を信じることの深い功徳について語られています。

 

🧘‍♂️この文の意味

 

「法華経を信ずる者は…」

臨終のとき、たとえ心で仏を思わず、口でお経を唱えず、仏道修行の場に入らなくても——

 

• 「心無くして法界を照し」

→ 心がなくても、すべての世界(法界)を照らすほどの力がある。

• 「音無くして一切経を誦し」

→ 声を出さなくても、すべてのお経を唱えるほどの功徳がある。

• 「巻軸を取らずして法華経八巻を拳る徳之有り」

→ 実際に経典を手に取らなくても、法華経八巻を握るのと同じほどの徳がある。

 

🌟要するに

 

法華経を心から信じるだけで、臨終のときに仏を思わなくても、声に出して読まなくても、修行の場にいなくても、すべての仏教の教えを実践したのと同じ功徳が得られるということです。

 

これは、法華経の力がどれほど偉大で、信仰の心がどれほど尊いかを示しています。行動よりも「信じる心」が最も重要だという、大聖人さまの核心に触れる教えです。

 

「臨終只今にあり」との、気持で、常に退ぜず、怠らず、唱題に励みましょう。

いつ何時(なんどき)ですよ。

 

28日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集8

 

十法界明因果抄216

 

法華経に於ては二乗七逆の者を許す上、博()地の凡夫、一生の中に仏位に入り妙覚に至つて因果の功徳を具するなり。

 

 法華経の力と信仰の功徳を端的に表した重要な一節です。

 

🧠原文の意味を分解すると

 

「法華経に於ては二乗七逆の者を許す上」

→ 法華経では、仏教の教えを否定したり、重い罪(七逆)を犯した人や、悟りを求めない者(二乗)でさえも、救いの対象として受け入れる。

 

「博地の凡夫、一生の中に仏位に入り妙覚に至つて」

→ 最も未熟で迷いの深い凡夫(博地)でも、法華経を信じることで、この一生のうちに仏の境地(妙覚)に至ることができる。

 

「因果の功徳を具するなり」

→ つまり、仏になるための「因(原因)」と「果(結果)」のすべての功徳を備えることができる、ということ。

 

🌟わかりやすくまとめると

 

法華経を信じる者は、どんなに罪深くても、どんなに未熟でも、この人生の中で仏になる可能性がある。

しかも、仏になるために必要なすべての条件(修行・悟り・功徳)を、法華経の信仰によって自然と備えることができる、という教えです。

 

これは、「即身成仏(この身のままで仏になれる)」の力強い宣言でもあります。

 

29日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集9

 

唱法華題目抄221

 

下根下智末代の無智の者の、わづかに浅き随喜の功徳を、四十 余年の諸経の大人(だいにん)上聖(じょうしょう)の功徳に勝れたる事を顕わさんとして五十展転の随喜は説かれたり。

 

 法華経の偉大さと、信仰の功徳がいかに深いかを語る重要な一節です。

 

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🧘‍♀️この文の意味を分かりやすく

 

「下根下智末代の無智の者」

→ 能力が低く、知恵も乏しい、末法の時代に生きる無知な人々。

 

「わづかに浅き随喜の功徳」

→ ほんの少し、心から喜んで法華経を信じるだけの功徳。

 

「四十余年の諸経の大人上聖の功徳に勝れたる事」

→ 仏が40年以上かけて説いた他のお経を、賢者や聖人が修行して得た功徳よりも、その浅い随喜の功徳のほうが優れている。

 

「五十展転の随喜は説かれたり」

→ 法華経では、信仰の喜びが人から人へ50回も伝わる「五十展転の随喜」の功徳が説かれている。

 

🌟まとめると

 

どんなに知恵がなくても、どんなに修行していなくても、法華経を少しでも喜んで信じる心があれば、他の経典を長年修行した聖人よりも大きな功徳が得られるということです。

 

これは、法華経の力がどれほど偉大で、信じる心がどれほど尊いかを示しています。

そして、末法の時代に生きる私たちのような凡夫でも、仏になる道が開かれているという希望のメッセージでもあります。

 

30日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集10

 

法華経10/66

 

唱法華題目抄232

 

妙楽大師釈して云はく「仏世〔ぶっせ〕は当機の故に簡〔えら〕ぶ、末代は結縁〔けちえん〕の故に聞かしむ」と釈し給へり。文の心は仏在世には仏一期(いちご)の間、多くの人不退の位にのぼりぬべき故に法華経の名義を出だして謗ぜしめず、機をこしらへて之を説く。仏滅後には当機の衆は少なく結縁の衆多きが故に、多分に就〔つ〕いて左右なく法華経を説くべしと云ふ文なり。

 

これは『唱法華題目抄』の中で、妙楽大師(中国・天台宗の高僧)が法華経の教えをどう広めるべきかについて述べた部分です。

 

🧘‍♂️原文の意味をかみ砕いて解説

 

🕰「仏世は当機の故に簡ぶ」

 

**仏が生きていた時代(仏世)**には、人々の理解力や修行の力(=機根)が高かった。

• だから、仏はその人々に合った教えを選んで説いた(簡ぶ=選ぶ)。

• 特に法華経は深い教えなので、誤解されて謗られないように、慎重にタイミングを見て説いた。

 

🕊「末代は結縁の故に聞かしむ」

 

**仏が亡くなった後の時代(末代)**には、仏の教えを深く理解できる人は少ない。

• でも、法華経に触れることで未来に悟りを得る「縁(結縁)」を結ぶ人が多い。

• だから、理解できるかどうかに関係なく、広く法華経を説いて聞かせるべきだとされる。

 

🌱まとめると

 

• 仏(釈尊)が生きていた時代は、教えを理解できる人に合わせて説いた。

• 仏が亡くなった後は、理解できなくても、縁を結ぶために法華経を広めることが大切。

• つまり、末法の時代(今のような時代)こそ、法華経を広く唱えることに意味があるという教えです。

 

31日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集11

 

法華経11/66

 

唱法華題目抄232

 

仏世に出でましまして先ず四十余年の権大乗・小乗の経を説き後には法華経を説いて言わく「若以小乗化・乃至於一人・我則堕慳貪・此事為不可」文。文の心は仏但爾前の経計りを説いて法華経を説き給はずば仏慳貪(けんどん)の失ありと説かれたり。

 

 これは仏教の教えの流れと、法華経の重要性を強調する部分です。

 

📜原文のポイント

 

🕰「仏世に出でましまして先ず四十余年の権大乗・小乗の経を説き」

 

• 仏(釈迦)はこの世に現れてから、最初の約40年間は「権教(仮の教え)」である大乗や小乗の経典を説いていました。

• これは人々の理解力に合わせて、段階的に教えを説いたということです。

 

📖「後には法華経を説いて言わく

 

• 最後に法華経という「実教(真の教え)」を説きました。

• その中で仏はこう言います:「もし小乗の教えでたった一人でも導こうとするなら、私は慳貪(けんどん=物惜しみ・貪り)の罪に堕ちる。それは許されないことだ」

 

🌱この言葉の意味すること

 

• 仏がもし法華経を説かず、小乗の教えだけで済ませていたら、それは真理を惜しんで人々に与えなかったことになる。

• つまり、法華経こそが仏の本当の慈悲の表れであり、これを説かないことは仏の本意に反するということ。

 

🧘‍♀️まとめると

 

• 仏は人々の理解に合わせて段階的に教えを説いたが、最終的には法華経という最高の教えを説いた。

• それを説かないことは、仏が真理を惜しんだことになり、仏の慈悲に反する。

 

• だからこそ、法華経を広めることが仏教の核心であり、末法の時代においても最も重要な行いとされるのです。