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三誡三請(さんかいさんしょう)のうち、三誡のところ。

 

妙法蓮華経如来寿量品第十六

 

爾時仏告諸菩薩。及一切大衆。諸善男子。汝等当信解。如来誠諦之語。復告大衆。汝等当信解。如来誠諦之語。又復告諸大衆。汝等当信解。如来誠諦語。

 

爾の時に仏、諸の菩薩、及び一切の大衆に告げたまわく、 諸(もろもろ)の善男子、汝等(なんだち)(まさ)に、如来の誠諦の語(ことば)を信解すべし。

(また)大衆(だいしゅう)に告げたまわく、汝等当に如来の誠諦の語を信解すべし。 

又復(またまた)、諸の大衆に告げたまわく、汝等当に、如来の誠諦の語を信解すべし。

 

誠諦(じょうたい)‥‥

誤りのない絶対の真実。真理。

 

法華経は、随自意(仏自らの意(こころ)に随(したが)って説く真実の語(ことば)であるが、特に寿量品はその要(かなめ)であり、要を説きます。

この要を説くゆえに、仏が「如来の誠諦の語」と言われたのであります。

では、その要とは、仏の寿命に関しての説法であります。

 

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三誡三請(さんかいさんしょう)

 

**法華経の如来寿量品(じゅりょうほん)**は、

お釈迦様が「自分はずっと昔から仏であり、永遠に生き続けて人々を救っている」と明かす、とても大事な章です。

 

その如来寿量品の最初の場面で、

「三回の戒め(三誡)」「三回のお願い(三請)」が出てきます。

これを簡単にいうと、

 

【三誡三請とは?】

      三誡(さんかい)は、

→「まだ説く時ではない。今は話せない。」

 とお釈迦様が3回断ることです。

      三請(さんしょう)は、

→「どうか説いてください!」

 と大勢の菩薩たちが3回お願いすることです。

 

 

【なぜ三回も?】

 

お釈迦様は、とても深くて難しい真実(永遠の仏の命)を説こうとしています。

でもそれを聞く側(普通の人たち)が、心が準備できていなければ、かえって信じられずに迷ってしまうからです。

 

だから、

      お釈迦様はあえて「まだ説かない」と慎重に構え、

      菩薩たちが「ぜひ!」と何度も心から願うことで、

      聞く側の信じる心、受け取る覚悟が整うのを待ったのです。

 

→ 3回のやりとりを通して、本当に大事な教えを伝える準備が整った

そういう場面なのです。

 

 

【まとめ】

      三誡三請= お釈迦様が3回断り、菩薩たちが3回お願いするやりとり

      これは、如来寿量品という深い教えを説くために、心の準備を整える大事な儀式だった。

 

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三誡三請のうち、三請のところ。

 

是時菩薩大衆。弥勒為首。合掌白仏言。世尊唯願説之。我等当信受仏語。

如是三白已復言。唯願説之。我等当信受仏語。

 

 是()の時に菩薩大衆(だいしゅう)、弥勒を首(はじめ)と為()して、合掌して仏に白(もう)して言(もう)さく、世尊、唯願わくは之を説きたまえ。我等当(まさ)に仏の語(みこと)を信受したてまつるべし。 

(かく)の如く三()たび白(もう)し已(おわ)って、復(また)(もう)さく、唯願わくは之を説きたまえ。我等当に仏の語を信受したてまつるべし。

 

 

弥勒(みろく)とは弥勒菩薩のこと。阿逸多(あいった)ともいう。

釈尊に先立って入滅し、都卒天の内院に生じて天人のために法を説くとされる。釈尊滅後五十六億七千万年後に、再び生まれて来て、釈尊の説法に漏れた衆生を救うとされる。

弥勒復興(ふっこう)また、仏興(ふっこう)ともいう。 

なお、都卒の内院は、お題目が認(したた)められている塔婆に触れた風が、当たった畜生が死んだのちに、生まれ変わるところと大聖人様が仰せです。

 

4

菩薩たち

 

寿量品の会座には地涌の菩薩たちもいました。

 

1. 涌出品(第十五品)での登場

 

地涌の菩薩たちは、釈尊が「この娑婆世界を弘教する者は、ここにいる自分の弟子たちである」と宣言したときに、地中から無数に出現した菩薩たちです。彼らは釈尊が遥か過去から教え導いてきた「本地の弟子」であることが、明かされます。

 

2. 続く寿量品でも会座にとどまる

 

地涌の菩薩たちは、涌出品だけで姿を消したわけではありません。その後の**如来寿量品(第十六品)**でも会座に留まり、釈尊の説法を聴いています。

 

3. 寿量品冒頭の文脈

 

寿量品の冒頭では、弥勒菩薩など「迹化(しゃっけ)の菩薩」たちが、釈尊の「寿命」の真実について問いを発します。これは、地涌の菩薩たちも含めた全会衆の関心事として提示されています。したがって、弥勒菩薩の問いは、会座にいる地涌の菩薩たちの前で行われたものと理解されます。

 

日蓮大聖人の視点から

 

日蓮大聖人は、法華経の中でも特に寿量品と涌出品を重視し、自らを地涌の菩薩の一人であると捉えていました。したがって、寿量品における釈尊の本仏としての顕現は、地涌の菩薩にとっても最も重大な教示であり、その場に当然同席していたと受け取ることができます。

 

 

如来寿量品の初めに、お釈迦様に三度お願いした菩薩たちとは、主に

上行(じょうぎょう)・無辺行(むへんぎょう)・浄行(じょうぎょう)・安立行(あんりゅうぎょう)

という、4人の「上行等の四菩薩(じょうぎょうとうのしぼさつ)」です。

 

【四菩薩とは?】

      上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)

→ 最も代表でリーダー格。妙法(法華経の教え)を未来に広める使命を持つ。

      無辺行菩薩(むへんぎょうぼさつ)

→ 限りない行動力で人々を救う。

      浄行菩薩(じょうぎょうぼさつ)

→ 清らかな実践によって人々を導く。

      安立行菩薩(あんりゅうぎょうぼさつ)

→ 揺るがない信念で人々に安心を与える。

 

この四菩薩たちを中心に、

地湧(じゆ)の菩薩──つまり、大地からわき出るように無数の菩薩たちが登場して、

「どうか寿量品の深い真実を説いてください!」と心からお願いしました。

 

 

【ポイント】

      この菩薩たちは、もともと「お釈迦様の弟子」ではないんです。

      遥か過去から、お釈迦様(永遠の仏)に師事してきた「根本の弟子」たちです。

      特に上行菩薩は、未来の世界(末法)に妙法を弘める中心的な存在とされています。

 

だから日蓮大聖人は、

「私は上行菩薩の働きをしている」と自ら仰せになったんですね。

 

 

まとめると:

      寿量品でお願いしたのは、**四菩薩(上行・無辺行・浄行・安立行)**を中心とする地湧の菩薩たち。

      彼らは、お釈迦様の本当の弟子であり、妙法を未来に弘める使命を持っている。

 

5日

【なぜ大地から地涌の菩薩たちが出てきたのか?】

 

これは一言でいうと、

 

もともとこの地球、この世界に存在していたから

です。

 

もう少し詳しく言うと:

 

普通、仏教の経典では、仏様の弟子は「天(てん:天上界)から来る」「他の世界から来る」というイメージが多いんです。

でも、法華経・寿量品では違う。

 

ここでは、

      菩薩たちはどこか遠い世界からやって来たのではない。

      ずっとこの地、この世界にいて、ひそかに修行を続けてきた。

 

それが、お釈迦様がいよいよ寿量品で永遠の真実を明かす時になって、

大地を破って(大地が裂けて)一斉に現れた──という演出なのです。

 

これは象徴的に、

 

この地(娑婆世界・人間世界)こそ、仏が一番救いたい場所だ

そのために地の底から長い間、密かに鍛え上げられた弟子たちがいる

という、とても深い意味を持っています。

 

【ポイント】

      「地涌の菩薩(じゆのぼさつ)」とは、

→ 地から湧き出る菩薩たち=この世界に根ざして修行してきた菩薩たちのこと。

      天から降りた存在ではない。

→ この人間社会に生きる私たちの中から現れることを意味している。

 

 

【まとめ】

 

大地から出てきたのは、

この世界そのものを救う使命を持ち、もともとこの世界で修行していた菩薩たちだから。

それをドラマチックに表現したのが、「大地を破って出現する」というシーンなんです。

 

 

この「地涌の菩薩」というイメージ、

実は、日蓮大聖人が「自分たち末法の信徒こそ地涌の菩薩だ」と教えられた重要なところにもつながってきます。

 

6日

【上行菩薩と日蓮大聖人の関係】

 

日蓮大聖人は、上行菩薩の使命を受け継ぎ、実際にその働きを現された方です。

 

 

上行菩薩とは、

      法華経の中で、地涌の菩薩たちのリーダーとして現れた存在です。

      使命は「妙法蓮華経(法華経の真髄)を末法の時代に弘める」こと。

      特に、苦しみが深まる末法(未来の時代)に、命をかけて教えを広める役割が託されています。

 

つまり、

上行菩薩は未来の人々を救うために、妙法を広めるリーダーという重大な使命を持った菩薩なのです。

 

 

そして、日蓮大聖人は、

      鎌倉時代、日本に実際に出現し、

      命がけで法華経の根本「南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)」を弘め、

      大迫害(竜の口の法難、佐渡流罪など)を受けながらも信仰を貫かれました。

 

この生き方、活動そのものが、

法華経で説かれた上行菩薩の使命と完全に一致しているのです。

 

だから大聖人は、

 

「我こそ上行菩薩の自覚をもっている」

「地涌の菩薩の先頭に立つ者だ」

と、自らはっきり仰せになっています。

 

 

さらに大事な点として、

日蓮大聖人は単に「上行菩薩の生まれ変わり」といった程度ではありません。

      上行菩薩が法華経の中で未来への働きを約束した「その誓願」を、

      日蓮大聖人が現実の歴史の中で実際に果たされた、

ということなのです。

 

つまり、

約束された未来の菩薩の働きを、日蓮大聖人が本当に実現した。

ここがとても重要なのです。

 

      上行菩薩は、末法に妙法を弘めるリーダーの菩薩。

      日蓮大聖人は、その上行菩薩の誓願・使命を受け継ぎ、現実に命がけで実践された。

      よって、日蓮大聖人は上行菩薩の本懐(使命の成就)そのものといえる。

 

もちろん、日蓮大聖人の本地は、久遠元初自受用報身如来(久遠元初の御本仏)です。

 

7日

地涌の菩薩と末法の広宣流布とのつながり

 

地涌の菩薩と**末法の広宣流布(こうせんるふ)**のつながりは、日蓮仏法の核心にも関わる深い内容です。

 

 

【結論から言うと】

 

末法の時代に「南無妙法蓮華経」を広めるのが、地涌の菩薩の使命である。

その使命を実際に果たされたのが日蓮大聖人であり、

その志を受け継いで弘教する人々もまた、地涌の菩薩の一員とされます。

 

 

【法華経の中の地涌の菩薩】

 

『法華経・如来寿量品』の前の章(従地涌出品 じゅうじゆじゅっぽん)で、

お釈迦様がこう言います:

 

「末法の世に、私の正しい教えを広めるのは、遠い国の弟子たちではなく、

この娑婆世界(人間社会)に生まれてくる、地涌の菩薩たちである。」

 

そしてその中心が「上行菩薩」。

 

 

【日蓮大聖人と地涌の菩薩】

 

日蓮大聖人は、御書の中で何度も、

ご自身を「地涌の菩薩の上首(じょうしゅ=先頭)」と仰せになっています。

 

たとえば:

 

「我等が一類は南無妙法蓮華経と唱え奉る者なり。

日蓮は地涌の上首なり」(『聖人御難事』)

 

つまり大聖人は、法華経に予言された地涌の菩薩たちが、

末法に「南無妙法蓮華経」を弘めていく姿そのものを実行されたのです。

 

 

【現代の私たちと地涌の菩薩】

 

では、「地涌の菩薩」とは昔の話なのか?というと、そうではありません。

 

日蓮大聖人の仏法を信じ、弘め、実践していく人々もまた、地涌の菩薩の一員なのです。

 

なぜなら、

      南無妙法蓮華経を信じて実践し、

      一人でも多くの人に伝えようと努力する

その姿は、まさに法華経に出てくる地涌の菩薩の使命そのものだからです。

 

 

【まとめ】

      地涌の菩薩とは、末法で妙法を弘める使命を持った特別な菩薩。

      そのリーダーである上行菩薩の使命を果たしたのが日蓮大聖人。

      そしてその精神を受け継ぎ、実践・弘教する人々も現代の地涌の菩薩の一員。

      だからこそ、広宣流布とは「地涌の菩薩の働きが世の中に広がっていくこと」なのです。

 

8日

爾時世尊。知諸菩薩。三請不止。而告之言。汝等諦聴。如来秘密。神通之力。

 

 爾()の時に世尊、諸の菩薩の、三たび請(しょう)じて止()まざることを知しめして、之に告げて言(のたま)わく、汝等諦(あきや)かに聴け、如来の秘密神通の力を。

 

わかりやすく現代語で説明します。

 

そのとき、世尊(お釈迦さま)は、

菩薩たちが三度にわたって(真実を)お願いし続けていることを知り、

彼らにこうおっしゃいました:

 

「あなたたちは、よくよく聞きなさい。

これから、如来の秘められた真実と、

不思議な力について説き明かそう。」

 

この場面は、菩薩たちが「お釈迦さま、どうかあなたの本当の命のあり方、悟りの実相を教えてください」と強く願い続けた結果、ついにお釈迦さまが語り始める、重要な転機の場面です。

 

「如来秘密・神通之力」とは──

・如来秘密(にょらいひみつ):お釈迦さまが長い間明かさなかった真実の教え。

・神通之力(じんずうしりき):常識では計れない、仏の自由自在な力(たとえば、寿命・生死を超えた存在であること)です。

 

このあと、いよいよ「実は私は過去久遠にすでに成仏していた」という仏の久遠実成(くおんじつじょう)の真実が説かれます。寿量品の核心に入る入口の一節です。

 

9日

一切世間。天人。及阿修羅。皆謂今釈迦牟尼仏。出釈氏宮。去伽耶城不遠。坐於道場。得阿耨多羅三藐三菩提。 

 

「一切世間、天人、及羅、皆、今の釈迦牟尼仏は釈氏の宮に出でて、伽ること遠からず、道場に坐して、阿耨多羅三藐三菩提を得たりと謂えり。」

 

現代語訳

「世の中のすべての人々や天の神々、阿修羅たちは、みんなこう思っています――

『お釈迦さま(釈迦牟尼仏)は釈迦族の王子として生まれ、伽耶城の近くの菩提樹の下で悟りを開かれた』と。」

 

      一切世間、天人、及び阿修羅:

 人間だけでなく、天界の神々や争いの神(阿修羅)まで、あらゆる存在が、という意味です。

      今の釈迦牟尼仏:

 今、目の前にいる「お釈迦さま」という認識。

      釈氏の宮に出でて:

 釈迦族(インドのシャーキャ族)の宮殿に生まれた。

      伽耶城を去ること遠からず:

 伽耶城(ガヤー)の近くで――これはブッダガヤーという、悟りを開いた地のこと。

      道場に坐して、阿耨多羅三藐三菩提を得たり:

 修行の場に座って、最高の悟り(=阿耨多羅三藐三菩提)を得た、ということ。

 

10日

然善男子。我実成仏已来。無量無辺。百千万億。那由他劫。  

 

 然るに善男子、我実に成仏してより已来(このかた)、無量無辺百千万億那由他劫なり

 

 

【仏は久遠に成仏していた】

 

「実は、私はこの世で初めて悟りを開いたのではありません。

はるか昔、無量無辺の時間の彼方に、すでに仏になっていたのです。」

 

お釈迦さまは、インドで出家し、修行して悟りを開いたと一般に言われていますが、実はその成仏(仏になること)は、「久遠」という、私たちが想像もできないほどの大昔であった、という驚くべき真実を明かします。

 

 

【仏の寿命は限りない】

 

「私の命は限りあるように見えるかもしれないが、実は永遠です。

人々を導くために、あえて老いや死を見せているだけなのです。」

 

仏の命は永遠であり、生死を超越しています。

ただし、人々が正しい教えを信じ、修行に励むために、あえて人間のような姿で生まれ、病み、老い、死ぬように見せているのです。これを「方便(ほうべん)」といいます。

 

 

【人々を見守り続ける仏の慈悲】

 

「私は常にこの世界にいて、人々を見守り、導いています。

ただ、人々が私を軽んじないよう、あえて遠くに去ったように見せることもあるのです。」

 

これは「仏は遠くにいるのではなく、常にそばにいる」という教えです。

人の信心を試すため、仏があえて見えないようにすることもある。

でも、信じて求める者には、必ずその慈悲の力が届くということです。

 

 

この寿量品では、

      仏は実は「久遠の昔」に成仏していた(仏の命は永遠)

      私たちを救うために姿を現した(仮に現れた)

      常にそばにいて見守っている(絶えず教えを与え導いている)

 

という、**仏の真実の姿(久遠実成)**が説かれます。

これは法華経の中でも最も重要な教えとされ、「南無妙法蓮華経」と唱える信仰の核心となります。

 

11日

御義口伝(1766)

 

我実成仏已来

 

()とは釈尊久遠実成道なりと云う事を説かれたり。然(しか)りと雖(いえど)も当品の意(こころ)は、我とは法界の衆生なり。十界己々(ここ)を指()して我と云うなり。実(じつ)とは無作の三身の仏なりと定めたり。此れを実と云うなり。成(じょう)とは能成(のうじょう)所成なり。成(じょう)は開く義なり。

法界無作の三身の仏なりと開きたり。仏とは是(これ)を覚知するを云うなり。

 

わかりやすく話します。

 

この文は、法華経の教えをもとに、仏とは何か、「我」とは何かを深く説明している非常に大切な箇所です。日蓮大聖人が説かれた仏の本質についての内容です

 

「日蓮大聖人の我とは釈尊久遠実成道なりと云う事を説かれたり」

 

→ 日蓮大聖人は、「我(=われ)」という言葉は、じつは久遠の昔から仏である釈尊(お釈迦様)を意味している、と説かれました。

 

「然りと雖も当品の意は、我とは法界の衆生なり」

 

→ けれども、法華経のこの部分(寿量品)の本当の意味は、「我」とは仏だけでなく、宇宙に存在するすべての生き物(法界の衆生)のことを指している、ということです。

 

「十界己々を指して我と云うなり」

 

→ 地獄から仏まで、十の世界(十界)にいるそれぞれの存在が、それぞれ「我(わたし)」と呼ばれている、ということです。

 

「実とは無作の三身の仏なりと定めたり。此れを実と云うなり」

 

→ 「実(じつ)」とは何かというと、もともと作られたものではない(無作)の「三身(さんじん)の仏」(法身・報身・応身)こそが、真実の仏である、という意味です。それを「実」と呼びます。

 

「成とは能成所成なり。成は開く義なり」

 

→ 「成(じょう)」とは、「成すもの(能成)」と「成されるもの(所成)」の両方を指します。つまり、自ら仏になる力と、仏になれる結果の両方ということ。そして「成」には「開く(開示する)」という意味もあります。

 

「法界無作の三身の仏なりと開きたり」

 

→ 宇宙のすべての存在(法界)に、はじめから仏の性質(無作の三身の仏)がそなわっていることを、明らかに示した(開いた)ということです。

 

「仏とは是を覚知することを云うなり」

 

→ そのこと(自分の中に仏の本質があること)に目覚めて知る人こそが、「仏」だというのです。

 

まとめると

 

この文は、「仏」とは特別な存在ではなく、すべての人の中に本来そなわっている仏性(ぶっしょう)=仏のいのちに目覚めることによって誰でもなれる、という教えを説いています。

      「我」とは仏だけでなく、すべての衆生(私たち一人ひとり)である。

      真実の仏(実)は、生まれたり作られたりしたものではなく、もともと誰の中にもある「無作の三身の仏」である。

      それに目覚めること、それを知ることが「仏」になるということ。

 

(ここ大事❗️)

釈尊の久遠の寿命の開顕は、一切衆生の開顕を意味し、実義は、無作三身の開顕にあります。

この無作三身とは、南無妙法蓮華経を受持信行する法華経の行者の当体であり、大聖人が寿量品の本仏である事を宣言されています。

 

12日

譬如五百千万億那由他。阿僧祇。三千大千世界。仮使有人。抹為微塵。過於東方。五百千万億。那由他阿僧祇国。乃下一塵。如是東行。尽是微塵。諸善男子。意於云何。是諸世界。可得思惟校計。知其数不。

 

 譬えば五百千万億那由他阿僧祇の三千大千世界を、仮使(たとい)人あって抹(まっ)して微塵と為して、東方五百千万億那由他阿僧祇の国を過ぎて、乃(すなわ)ち一塵を下(くだ)し、是(かく)の如く東に行()いて是()の微塵(みじん)を尽()くさんが如き、諸(もろもろ)の善男子、意(こころ)に於(おい)て云何(いかん)。是の諸の世界は、思惟(しゆい)し校計(けょうけ)して其()の数を知ることを得()べしや不(いな)や。

 

 この一節は、とても壮大なたとえ話を使って、仏の寿命(いのち)や時間の長さが人間の想像を超えていることを示しています。

 

譬如五百千万億那由他。阿僧祇。三千大千世界。

 

たとえば、「五百千万億」「那由他(なゆた)」「阿僧祇(あそうぎ)」といった、とても大きな数だけの**三千大千世界(宇宙)**があったとします。

 

仮使有人。抹為微塵。

 

もし、その宇宙の一つ一つを**粉々の微塵(ごく細かいちり)**にしたとします。

 

過於東方。五百千万億。那由他阿僧祇国。乃下一塵。

 

そして、東の方角に向かって、また「五百千万億・那由他・阿僧祇」の国々(とても遠く)を11つ超えていって、やっと1粒の塵(ちり)を落とすのです。

 

如是東行。尽是微塵。

 

このように、塵を1粒ずつ落としながら東へ東へと進んで、すべての塵を落とし終わるまで続けるのです。

 

諸善男子。意於云何。是諸世界。可得思惟校計。知其数不。

 

さて皆さん、どう思いますか?

このようにして通ってきた国々の数を、人間の考えや計算で知ることができるでしょうか?

 

 

要するに、仏の寿命(仏がどれほど長く存在しているか)は、これほど気が遠くなるような、計算も想像もできないほどの長い時間なのですよ、という意味です。

 

13日

弥勒菩薩等。倶白仏言。世尊。是諸世界。無量無辺。非算数所知。亦非心力所及。一切声聞。辟支仏。以無漏智。不能思惟。知其限数。我等住阿惟越致地。於是事中。亦所不達。世尊。如是諸世界。無量無辺。

 

 弥勒菩薩等、倶(とも)に、仏に白(もう)して言(もう)さく、世尊、是の諸の世界は、無量無辺にして、算数(さんじゅ)の知る所に非ず、亦(また)心力(しんりき)の及(およ)ぶ所に非(あら)ず。一切の声聞、辟支仏(ひゃくしぶつ)、無漏智(むろち)を以(もっ)ても、思惟(しゆい)して其()の限数(げんしゅ)を知ること能(あた)わじ。我等、阿惟越致地(あゆいおっちじ)に住(じゅう)すれども、是()の事()の中に於(おい)ては亦(また)達せざる所なり。世尊、是(かく)の如き諸の世界無量無辺なり。

 

この部分は、仏の寿命(命の長さ)がとてもではないが想像できないと、弥勒菩薩(みろくぼさつ)たちが驚いて感嘆し、お釈迦様に申し上げている場面です。

 

弥勒菩薩等、倶(とも)に仏に白(もう)して言さく、

 

弥勒菩薩たち一同が仏に申し上げました。

 

 

世尊、是の諸の世界は、無量無辺にして、算数の知る所に非ず、亦た心力の及ぶ所に非ず。

 

「世尊(仏よ)、これらの世界の数は限りなく広大で、数で数えることもできず、心で想像することもできません。」

 

※「無量無辺」は「はかりしれない、限界がない」という意味です。

※「算数の知る所に非ず」は「どんな数や計算でも及ばない」ということ。

 

一切の声聞・辟支仏、無漏の智を以てすら、思惟してその限数を知ること能わず。

 

「すべての声聞(しょうもん)や辟支仏(びゃくしぶつ)(自分の悟りだけを目指す修行者)でさえ、

たとえ煩悩を離れた智慧(=無漏智)を使っても、

その世界の数や距離、時間を思いはかることはできません。」

 

※「無漏智(むろち)」とは、煩悩や迷いに染まらない清らかな智慧のことです。

 

 

我等、阿惟越致(あゆいおっち)の地に住すと雖も、此の事の中には亦達する所に非ず。

 

「私たちは阿惟越致(あゆいおっち)=決して退転しない菩薩の境地に達しているといっても、

このことについてはやはり、理解しきることができません。」

 

※阿惟越致とは、一度そこまで悟ったらもう後戻りしないという高い菩薩の境地のことです。

 

 

世尊、是の如き諸の世界は、無量無辺なり。

 

「世尊よ、このようにして広がる世界は、本当に無限で、限りがないのです。」

 

この箇所は、仏が説かれた寿命の長さや仏界の広がりが、あまりに壮大すぎて、最高位の修行者たちでさえ理解できないという驚きと敬意を、弥勒菩薩たちがあらわしている場面です。

 

つまり──

 

「どんなに優れた智慧を持っていても、仏のいのち・仏の世界は、とうてい理解できないほど深くて広い」

「私たちの思考や計算を超えた世界に、仏はすでに到達しておられる」

 

ということを意味しています。

 

 

この部分は、次第に「仏は久遠(くおん)から存在しており、今までも常に人々を救い続けていた」という「久遠本仏」の教えの核心に向かっていく大切な場面でもあります。

 

14日

爾時仏告。大菩薩衆。諸善男子。今当分明。宣語汝等。是諸世界。若著微塵。及不著者。尽以為塵。一塵一劫。我成仏已来。復過於此。百千万億。那由他。阿僧祇劫。

 

 爾()の時に仏、大菩薩衆に告げたまわく、諸の善男子、今(いま)(まさ)に分明(ふんみょう)に汝等(なんだち)に宣語(せんご)すべし。是の諸の世界の、若()は微塵を著()き、及(およ)び著かざる者を、尽(ことごと)く以(もっ)て塵(ちり)と為()して、一塵(いちじん)を一劫(いっこう)とせん。我成仏してより已来(このかた)、復(また)()れに過()ぎたること、百千万億那由他(なゆた)阿僧祇劫(あそぎこう)なり。

 

 この箇所では、仏がいよいよ自分の**「本当の成仏の時」=久遠実成(くおんじつじょう)**を明かす核心部分に入っていきます。

 

爾時、仏、大菩薩の衆に告げたまわく、

 

そのとき、仏(お釈迦さま)は、大勢の菩薩たちにこうおっしゃいました。

 

 

諸の善男子よ、今まさに分明(ぶんみょう)に、汝等に宣語(せんご)すべし。

 

「よいか、諸菩薩たちよ。今からはっきりと真実をあなたたちに語ろう。」

 

※「分明」は「はっきりと、明確に」。

※「宣語」は「公に語る、大きく説く」という意味。

 

是の諸世界、若し微塵に著する者、及び著せざる者も、ことごとく塵と為して、

 

「これらの世界を、もし塵(ちり)になっている部分も、なっていない部分も、全部こまかい塵(微塵)にして数えたとしたら…」

 

※「著する者」は「微塵が実際に落ちた場所」、

※「著せざる者」は「塵が落ちていない空間」まで含む、という意味です。

 

つまり、「空間も物質も、すべてを塵として数える」ということ。

 

 

一塵を一劫とせば、

 

「その塵ひとつを1劫(こう)=とてつもなく長い時間としたら

 

 

我が成仏已来(このかた)、復(また)これを過ぐること、百千万億、那由他、阿僧祇劫なり。

 

「私(仏)が仏となってからの時間は、そのとてつもない数の劫よりも、さらに遥かに長いのだ。」

 

 

【やさしいまとめ】

 

仏(釈尊)はこう語っています:

 

「今から、本当のことを話そう。

この世界のすべてを塵にして、その11粒を“1という長い時間としたとしても、

私が仏となってからの時間は、それをはるかに超えているのだ。」

 

 

【この言葉の意味と意義】

 

この宣言は、仏がそれまで「今世で仏になった」と説いていたのをくつがえし──

 

「実は私は、無量無辺の昔からすでに仏だった」

 

と、**「久遠実成の仏」**であることをはっきりと明かした、法華経の最も大切な核心部分の一つです。

 

 

この「仏が久遠から存在していた」ということは、

仏が「はるか昔に去ってしまった人」ではなく、今もこの娑婆世界にいて、常に人々を導いている存在だという意味になります。

 

15日

自従是来。我常在此。娑婆世界。説法教化。亦於余処。百千万億。那由他阿僧祇国。導利衆生。 

 

 是()れより来(このかた)、我常に此の娑婆世界(しゃばせかい)に在()って、説法教化す。亦(また)余処(よしょ)の百千万億那由他阿僧祇の国に於(おい)ても衆生を導利(どうり)す。

 

 この箇所はとても感動的で重要なところです。

先ほどまでに、仏は「私ははるか久遠の昔に仏になっていた」と明かされました。

そして今、いよいよ──

 

「その仏は今もどこかに去ったのではなく、実は今もここ(娑婆世界)にいて、人々を導いている」

 

という、とても慈悲深い真実が説かれます。

 

 

原文とやさしい現代語訳・解説:

 

 

原文:

 

是(これ)より来(このかた)、我れ常に此(ここ)に在(あっ)て、

 

「私(仏)は、久遠に仏になって以来、常にここに居続けており、」

 

※「自従是来」は「それ以来ずっと」

※「常に在此」は「ずっとここにいる」、つまり「今もこの娑婆世界に存在している」

 

 

娑婆世界に於いて、説法・教化す。

 

「この娑婆世界で法を説き、人々を導いている。」

 

※「説法」は仏の教えを説くこと、

※「教化(きょうけ)」は人々を導き育てることです。

 

亦た余処の百千万億、那由他・阿僧祇国に於いても、衆生を導利(どうり)す。

 

「さらに他の無数の世界でも、人々を救い導いているのだ。」

 

※「導利」は、導いて利益(りやく)を与えること=救うことです。

 

 

仏(釈尊)はこうおっしゃっています:

 

「私は、久遠の昔に仏となってから、

今もこの娑婆世界に常にいて、教えを説き、人々を導いてきた。

そしてこの世界だけでなく、ほかの無数の世界でも、衆生を救い続けているのだ。」

 

 

この箇所で、仏は単に「過去に偉大な悟りを開いた人」ではなく、

**今もずっと、この世界に生きて、教えを説き続けている永遠の仏”**であることが明かされました。

 

つまり──

 

「仏は今ここにいて、常に私たちのそばで法を説いている」

「仏は絶対に私たちを見捨てず、導き続けている」

 

という、ものすごく大きな安心と信頼の根拠となる教えです。

 

 

仏は、文上では、釈尊

文底では、大聖人様です。

16日

諸善男子。於是中間。我説燃燈仏等。又復言其。入於涅槃。如是皆以。方便分別。

 

 諸(もろもろ)の善男子、是()の中間(ちゅうげん)に於(おい)て、我(われ)燃燈仏(ねんとうぶつ)(とう)と説き、又復(またまた)、其()れ涅槃(ねはん)に入()ると言()いき。是(かく)の如(ごと)きは皆、方便を以(もっ)て分別(ふんべつ)せしなり。

 

法華経の寿量品にあるこの一節を、わかりやすく丁寧に説明いたします。

「諸善男子。於是中間。我説燃燈仏等。又復言其。入於涅槃。如是皆以。

 

「善い心を持つ人たちよ(弟子たちよ)、

これまで私は、燃燈仏(ねんとうぶつ)などの仏さまの話をしてきたり、

ある仏が亡くなって涅槃に入った(完全に消えてしまった)と語ったりしてきた。

けれども、そういう話はすべて、真実そのものではなく、

人々を導くための方便(ほうべん)=たとえ話・仮の説明だったのだ。」

 

この部分でお釈迦さま(仏)は、「過去に話してきた他の仏さまの出現や入滅(亡くなること)は、すべて方便だった」と語っています。

      **方便(ほうべん)**とは、仏さまが人々を悟りに導くために用いる、仮の教えや例え話です。

      **燃燈仏(ねんとうぶつ)**は、お釈迦さまよりもはるか以前に現れたとされる仏で、お釈迦さまが過去世で修行していた時に出会ったとされます。

      仏が「入涅槃した」と言っていたのも、「仏は亡くなった」と見せかけていただけで、実は仏は常に存在しているという真実を、寿量品では明かしています。

 

この文でお釈迦さまは:

      「これまで話した過去の仏や入滅の話は、方便だった」

      「本当は、仏は常に存在し続けており、滅することはない」

 

と、「仏の命は永遠である」という深い真理を弟子たちに打ち明けているのです。

 

17日

諸善男子。若有衆生。来至我所。我以仏眼。観其信等。諸根利鈍。随所応度。

 

 諸の善男子、若()し衆生有()って、我が所(もと)に来至(らいし)するには、我仏眼(ぶつげん)を以(もっ)て、其()の信等の諸根(しょこん)の利鈍(りどん)を観(かん)じて、応(まさ)に度()すべき所に随って、

 

 

「善き人たちよ(弟子たちよ)、

もし生きとし生ける者が私のもとにやって来るならば、

私は仏のまなざし(仏眼)でその人の信じる心の強さや、

持っている能力(智慧や理解力)が鋭いか鈍いかを見極め、

その人に最もふさわしい方法で、救っていくのである。」

 

この文は、「仏が人々を救うときの姿勢・方法」について語っています。

      仏眼(ぶつげん):仏の持つ、すべてを見通す眼。信心や心の深さまで見抜く智慧です。

      信等(しんとう):「信等」とは「信心など」の意味。信心の深さ・強さを指します。

      諸根の利鈍(しょこんのりどん):人間の五感や理解力・感受性の優れているか(利)・劣っているか(鈍)を意味します。

      随所応度(ずいしょおうど):「その人に応じて適切に救う」こと。まさに仏の慈悲の表れです。

 

仏は、信じる人々の状態を正確に見て、

      心の強さ

      能力・素質

を判断し、それに合った最適な方法で救ってくださる、という深い慈悲の教えです。

 

これは「方便」の精神とも通じており、寿量品で明かされる「本仏の慈悲」を象徴する一節です。

 

18日

処処自説。名字不同。年紀大小。亦復現言。当入涅槃。

 

 処処(しょしょ)に自(みずか)ら名字(みょうじ)の不同・年紀の大小を説き、亦復(またまた)、現じて当(まさ)に涅槃に入()るべしと言()い、

 

 

「仏である私は、さまざまな場所で教えを説くときに、

それぞれ異なる名前で現れたり、

年齢も若かったり年をとっていたりと、いろいろな姿を見せる。

さらに、“私はもうすぐ涅槃に入る(亡くなる)”と語ることもある。」

 

この部分も、前に続いて「仏が人々を導くために、姿や言葉を変えて現れる」ことを説いています。

      処処自説(しょしょじせつ):あちこちの場所で、自ら教えを説く。

      名字不同(みょうじふどう):「名前が同じではない」つまり、仏は場所や人々によって名前を変えて現れる(たとえば釈迦牟尼仏、阿弥陀仏など)。

      年紀大小(ねんごたいしょう):「年齢も大小ある」=若い姿で現れることも、老いた姿で現れることもある。

      亦復現言(やくぶげんごん):「また、こう言うこともある」。

      当入涅槃(とうにゅうねはん):「私はもうすぐ涅槃(亡くなる)に入る」=実際には永遠に存在している仏が、あえてそう見せる。

 

      仏は人々のために、いろいろな姿・名前・年齢で現れる。

      そして、「私はもうすぐ死ぬ(涅槃に入る)」という言葉も、方便(仮の姿)として説かれる。

      実際には、仏は常に生きていて人々を導いている。

 

 

この一節は、仏の永遠性(常住)と慈悲の深さを明かす流れの中にあります。

 

19日

又以種種方便。説微妙法。

能令衆生。発歓喜心

 

(また)種々(しゅじゅ)の方便を以(もっ)て、微妙(みみょう)の法を説き、能()く衆生をして歓喜(かんぎ)の心を発(おこ)さしめき。 

 

この一節は、寿量品の慈悲と智慧の核心とも言えるところです。

 

「また、私はさまざまな方法(方便)を使って、

とても深くすばらしい教え(微妙法)を説いて、

多くの人々の心に、喜びと感動の心を起こさせるのです。」

 

この文は、仏がいかにして人々を導いているか、その具体的な姿を示しています。

      種種方便(しゅじゅほうべん):仏は、相手に応じてあらゆる方法や言葉(たとえ話、教えの段階など)を使って説法します。

      微妙法(みみょうほう):「微妙」は、奥深く、繊細で美しいという意味。法(仏の教え)の中でも、特に深くすぐれた教えを指します。

      能令衆生発歓喜心(のうりょうしゅじょうほつかんぎしん):人々の心に「仏に出会えたありがたさ」「真理に触れた感動」といった、心からの喜びを起こさせる。

 

仏は、

      多くの工夫(方便)をこらして、

      深くすばらしい教え(微妙法)を説き、

      その教えを聞いた人々の心に、大きな喜びと安心(歓喜心)を生み出す。

 

という、限りない慈悲と智慧の働きを明かした一節です。

 

この後も、寿量品では「仏の永遠の命」と「人々を救う誓願」がより深く説かれていきます。

 

【余談】

微妙(みみょう)とは、深遠(じんのん)ですぐれてさま。

言葉では言い尽くせない不思議で奥深い素晴らしさのこと。

 

一般的に、微妙(びみょう)は、『新明解国語辞典』第5版には、「細かいところに美しさ、問題点、重要な意味などが有って、単純な論評を許さない様子。」とあります。

 

今は、元の意味が、変化して、例えば、「このハンバーグ、美味(おい)しい?」「んー、微妙(ビミョー)」のように、求められた答えが肯定できず、否定的に傾いている時に使う"曖昧(あいまい)な表現として用いられています。

また、

「ビミョー」が「イマイチだよね」に近い意味で使われてます。

 

20日

諸善男子。如来見諸衆生。楽於小法。徳薄垢重者。

為是人説。我少出家。得阿耨多羅三藐三菩提。

 

 諸(もろもろ)の善男子、如来諸の衆生の、小法(しょうぼう)を楽(ねが)える徳薄垢重(とくはくくじゅう)の者を見ては、是()の人の為に.我少(わか)くして出家し、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得()たりと説く。

 

現代語訳:

 

「善き男子たちよ。仏(如来)は、あらゆる衆生が小さな教え(小乗)を好み、善根が浅く、煩悩が深い者であるのを見て、このような人々のために、私は若くして出家し、すぐに最高の悟り(阿耨多羅三藐三菩提)を得た、と説いたのである。」

 

この部分は、お釈迦様がなぜ方便(仮の教え)として、自分が「この世に生まれて、若くして出家し、すぐに悟りを得た」と語ったのかを説明しています。

      「楽於小法」:小さな教え(=声聞乗や縁覚乗)を好む、つまり自己の解脱だけを求めるような教えに執着している人々のこと。

      「徳薄垢重」:善根が浅く(善い行いが少なく)、煩悩(心の汚れ)が重い人たち。

      「為是人説」:そういう人々に合わせて教えを説く、という意味。

      「我少出家 得阿耨多羅三藐三菩提」:仏が「私は若くして出家し、すぐに悟りを得た」と語ったのは、実は方便であって、衆生を導くための手段だった、ということです。

 

仏の本意:

 

本当は仏は遥(はる)か昔に悟りを得て、ずっとこの世にいる(=久遠の仏)というのが寿量品の核心です。しかし、直接それを説いても理解できない人々のために「最近出家して悟った」と方便で語った、ということなのです。

 

21日

諸善男子。如来見諸衆生。楽於小法。徳薄垢重者。

為是人説。我少出家。得阿耨多羅三藐三菩提。

 

 諸(もろもろ)の善男子、如来諸の衆生の、小法(しょうぼう)を楽(ねが)える徳薄垢重(とくはくくじゅう)の者を見ては、是()の人の為に.我少(わか)くして出家し、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得()たりと説く。

 

現代語訳:

 

「善き男子たちよ。仏(如来)は、あらゆる衆生が小さな教え(小乗)を好み、善根が浅く、煩悩が深い者であるのを見て、このような人々のために、私は若くして出家し、すぐに最高の悟り(阿耨多羅三藐三菩提)を得た、と説いたのである。」

 

この部分は、お釈迦様がなぜ方便(仮の教え)として、自分が「この世に生まれて、若くして出家し、すぐに悟りを得た」と語ったのかを説明しています。

      「楽於小法」:小さな教え(=声聞乗や縁覚乗)を好む、つまり自己の解脱だけを求めるような教えに執着している人々のこと。

      「徳薄垢重」:善根が浅く(善い行いが少なく)、煩悩(心の汚れ)が重い人たち。

      「為是人説」:そういう人々に合わせて教えを説く、という意味。

      「我少出家 得阿耨多羅三藐三菩提」:仏が「私は若くして出家し、すぐに悟りを得た」と語ったのは、実は方便であって、衆生を導くための手段だった、ということです。

 

仏の本意:

 

本当は仏は遥(はる)か昔に悟りを得て、ずっとこの世にいる(=久遠の仏)というのが寿量品の核心です。しかし、直接それを説いても理解できない人々のために「最近出家して悟った」と方便で語った、ということなのです。

 

22日

「久遠実成(くおんじつじょう)」と日蓮大聖人の教えとの関係について、説明します。

 

「久遠実成」とは何か?

 

法華経寿量品で説かれる大事な教えです。

 

仏はこの世に現れて、インドの釈迦族の王子として出家し、修行して悟った…

――これは実は方便(仮の姿)であり、

本当は「久遠の昔」にすでに仏になっていたのだという教えです。

 

つまり、仏は一人の歴史的人物ではなく、永遠のいのちを持つ存在であり、

私たちを導くために、その時代・その国に応じて姿を現してくださるのだ

 

それが「久遠実成の仏」という思想です。

 

 

日蓮大聖人はどう受け止めたのか?

 

日蓮大聖人は、法華経の中でもとくに「寿量品」を根本の教えとされました。

そして、この「久遠実成」の仏こそ、真実の仏であり、

その仏の本当の目的・働きを私たちが信じ実践できる道が「南無妙法蓮華経」であると示されました。

 

 

◆ 日蓮大聖人の主張:

 

**久遠元初(くおんがんじょ)の自受用身(じじゅゆうしん)**の御本仏は、今、末法において『南無妙法蓮華経』と顕れる」

 

つまり:

      釈迦如来が説いた「久遠の仏」とは、

      実は、末法において日蓮大聖人ご自身が、その働きを受け持つ存在なのだと示されたのです。

 

これを**出世の本懐(しゅっせのほんがい)**と呼びます。

 

 

そして、私たちとの関係は?

 

日蓮大聖人は、久遠の仏の慈悲と智慧をすべて含んだお題目

**「南無妙法蓮華経」**を私たちに教えてくださいました。

 

だからこそ、私たちも仏と同じ久遠のいのちを持ち、

この一生で仏と同じ境涯(悟り)を得られるのです。

 

 

まとめ

 

教えの名前 内容 日蓮大聖人の教えとの関係

久遠実成 仏は久遠の昔に悟っていた その仏の真の働きは「南無妙法蓮華経」に顕れている

方便品・寿量品 仏が方便で様々な姿を現す 日蓮大聖人は末法の世に久遠の仏の姿として出現された

南無妙法蓮華経 仏の生命のすべてが込められた言葉 唱えることで仏と同じ生命・智慧が湧く

 

23日

諸善男子。如来所演経典。皆為度脱衆生。或説己身。或説他身。或示己身。或示他身。或示己事。或示他事。

 

 諸の善男子、如来の演()ぶる所の経典(きょうでん)は、皆衆生を度脱(どだつ)せんが為(ため)なり。或(あるい)は己身(こしん)を説き、或は他身(たしん)を説き、或は己身を示(しめ)し、或は他身を示し、或は己事(こじ)を示し、或は他事(たじ)を示す。

 

   この部分も法華経寿量品における重要な教えのひとつです。仏がどうやって人々を救っているか、という「方便(ほうべん)」の具体的な内容が語られています。

 

現代語訳:

 

「善き男子たちよ。仏が説くすべての経典は、すべて人々を救うためのものである。

ときには自分自身(仏自身)のことを語り、

ときには他の仏や菩薩のことを語る。

ときには自分の姿を示し、

ときには他の姿を示す。

ときには自分に関する出来事を見せ、

ときには他人に関する出来事を見せる。」

 

 

解説:

      「諸善男子」

 → 仏が語りかける聴衆への呼びかけ。「善い男子たちよ」と優しく語りかけています。

      「如来所演経典」

 → 仏がこれまで説いてきたすべての経典のこと。

      「皆為度脱衆生」

 → すべては、衆生(私たち一人ひとり)を苦しみから救い、仏の道に導くためのもの。

      「或説己身」(あるいは己身を説き)

 → 自分自身の話をする(たとえば釈迦の修行・成道の話など)。

      「或説他身」(あるいは他身を説き)

 → 他の仏や菩薩、天人などの話をする。

      「或示己身」(あるいは己身を示し)

 → 自分自身の姿として現れる(仏の姿として現れる)。

      「或示他身」(あるいは他身を示し)

 → 他人の姿になって現れる。たとえば菩薩や凡夫の姿で現れることもある。

      「或示己事」(あるいは己事を示し)

 → 自分に関する出来事を見せる。

      「或示他事」(あるいは他事を示し)

 → 他人に関する出来事を見せる(たとえば誰かが仏道を得たという話など)。

 

 

この部分は、仏が衆生を救うためにあらゆる手段・姿・物語を使うという、

**「徹底した慈悲と方便(導きの技法)」**を説いています。

 

つまり仏は:

      必ずしも自分の話だけをするわけではない。

      他の仏や凡夫の話を通して、人々に気づきを与えることもある。

      仏という姿で現れるとも限らず、普通の人や、時に子供・女性・老人などの姿でも現れることがある。

      現実に起こったような出来事や物語を通して教えを伝えることもある。

 

こうして、仏は人々の心に合わせて、あらゆる方法で導いてくださるのです。

 

24日

諸所言説。皆実不虚。所以者何。如来如実知見。三界之相。無有生死。若退若出。亦無在世。及滅度者。非実。非虚。非如。非異。不如三界。見於三界。如斯之事。如来明見。無有錯謬。

 

 諸(もろもろ)の言説(ごんせつ)する所(ところ)は、皆(みな)(じつ)にして虚(むな)しからず。所以(ゆえ)は何(いか)ん、如来は如実(にょじつ)に三界(さんがい)の相(そう)を知見す。生死の、若()しは退(たい)、若しは出(しゅつ)()ること無()く、亦(また)在世及び滅度の者(もの)も無()し。実(じつ)に非(あら)ず、虚()に非ず、如(にょ)に非ず、異()に非ず、三界の三界を見るが如(ごと)くならず。斯(かく)の如きの事()、如来明(あき)らかに見て、錯謬(しゃくみょう)()ること無()し。

 

 この部分は法華経寿量品の中でも、仏の教えは真実であり、仏の見ている世界は私たちの迷いの世界(生死の三界)とは異なるという大事な教えです。

 

現代語訳:

 

「私(仏)がさまざまに説いた言葉は、すべて真実であり、虚(うそ)ではない。

なぜなら、如来(仏)は三界(欲界・色界・無色界)の本当のありさまを、ありのままに知っているからである。

 

そこには、生まれることも死ぬことも、退(しりぞ)くことも出てくることも、本当は存在しない。

また、現れてこの世にいるとか、いなくなって滅度(死)したということも、本当の意味ではない。

 

それは実在でもなく、虚構(きょこう)でもなく、同じでもなく、異なるものでもない。

三界のようには見えないが、三界の中でそれを見ることができる。

 

このような真理を、如来は明確に見ており、少しの誤りもないのである。」

 

解説:

 

「諸所言説。皆実不虚。」

 

「仏があちこちで説いてきた教えは、すべて真実であり、うそではない」

 

→ これまでの話や方便も、すべては衆生を救う真実に基づく導きである、という意味です。

 

「所以者何。如来如実知見。三界之相。」

 

「なぜなら、如来(仏)は三界の真実の姿を、ありのままに見ているからである」

 

→ 三界とは:

      欲界(欲望にとらわれる世界)

      色界(欲望は離れるが形がある世界)

      無色界(形すら超えた精神的な世界)

これらは迷いの世界(生死の輪廻の世界)を意味します。

仏はこの迷いの世界の真実の相(すがた)を完全に見抜いています。

 

「無有生死。若退若出。」

 

「そこには、生きるとか死ぬとか、退くとか出てくるとかいうことは本当はない」

 

→ 仏の境地には、生死や出現・退去といった時間的な変化はないということです。

 

「亦無在世。及滅度者。」

 

「仏がこの世にいるとか、いなくなった(入滅した)ということも、真実ではない」

 

→ 仏は本当はずっと存在していて、私たちが見るか見ないかの違いにすぎない。

 

「非実。非虚。非如。非異。」

 

「それは実在ともいえず、虚(うそ)ともいえず、同じともいえず、異なるともいえない」

 

→ この世のものとは根本的に違う次元の存在であり、言葉で固定的に表せるものではない。

 

「不如三界。見於三界。」

 

「三界と同じではないが、三界の中にその存在を見ることができる」

 

→ 仏は迷いの世界の中にはいないように見えて、実はそこにいて、人々を導いている。

 

「如斯之事。如来明見。無有錯謬。」

 

「このような真理を、如来は明確に見ていて、少しの誤りもない」

 

→ 仏の智慧は完全で、間違いも迷いもない、ということです。

 

まとめ:

 

キーワード 意味

言説は真実 仏の教えは方便を含んでいても、すべて衆生を救う真実

三界を如実に知る 仏は迷いの世界(三界)の本質を完全に見抜いている

生死・滅度は仮のもの 仏にとっては生まれる・死ぬという区別はない

不可思議な存在 仏の存在は言葉や概念では捉えきれない

仏は常にそこにいる 私たちの迷いの世界の中にも仏のはたらきはある。

 

25日

以諸衆生。有種種性。種種欲。種種行。種種憶想。分別故。欲令生諸善根。以若干因縁。譬喩言辞。種種説法。所作仏事。未曾暫廃。

 

 諸の衆生、種々の性・種々の欲・種々の行・種々の憶想分別あるを以ての故に、諸の善根を生ぜしめんと欲して、若干の因縁・譬喩・言辞を以て種々に法を説く。所作の仏事未だ曾て暫くも廃せず。

 

 この部分は、仏がなぜさまざまな方法で教えを説くのかという理由が語られている箇所です。

 

現代語訳:

 

「なぜなら、衆生(人々)は、それぞれにさまざまな性質、欲望、行い、思い、考え方を持っている。

だからこそ、人々の心に善根(よき種)を植えたいと願い、

仏はさまざまな因縁(状況)、たとえ話、言葉づかいを使って、いろいろな教え方をしてきた。

 

そしてそのようにして人々を導く仏の行い(仏事)は、一時たりとも休まったことはない。」

 

解説:

 

「以諸衆生 有種種性 種種欲 種種行 種種憶想 分別故」

 

「人々はそれぞれに性格・欲望・行動・思い・考え方が異なるため」

 

→ この世の人々(衆生)は皆バラバラで、

      好みや関心も違えば、

      行動の仕方、

      心の働き、

      考え方や理解力も人それぞれです。

 

仏は、そうした多様な人々に合わせた教えを説いてくださるのです。

 

「欲令生諸善根」

 

「(仏は)人々に善根を起こさせたいと願って」

 

→ 善根とは、仏道へ向かう「よい因(たね)」のこと。

仏は、人々の中に信心・慈悲・智慧などの善い心を起こさせたいと願っています。

 

「以若干因縁 譬喩言辞 種種説法」

 

「さまざまな縁や例え話、言葉づかいを用いて、多様な説法を行う」

 

→ 仏は人それぞれに合った方法を選び、

      状況(因縁)に応じ、

      わかりやすいたとえ話を使い、

      その人が理解できる言葉で、

教えを説いていきます。

 

「所作仏事 未曾暫廃」

 

「仏が行っている衆生救済の働き(仏事)は、一時も止まることがない」

 

→ 仏の慈悲と導きは絶え間なく続いており、片時もやんだことがないのです。

 

まとめ:

 

内容 意味

衆生はさまざま 人々の性格や欲望、考え方はバラバラである

仏はそれに合わせる 一人ひとりに応じた方法で教えを説く

善根を育てたい 仏はすべての人に仏道のたねを植えたいと願う

教えは多様 因縁・たとえ・言葉を使い分けて説く

仏の働きは止まらない 仏は一瞬も休まずに私たちを導いてくださっている

 

この一節は、仏がどこまでも私たちのために工夫して説法される姿を示しており、

日蓮大聖人が「一切衆生を救う妙法」として南無妙法蓮華経を弘められた深い慈悲とも響き合います。

 

26日

如是我成仏已来。甚大久遠。寿命無量。阿僧祇劫。常住不滅。

 

 是()の如く、我成仏してより已来(このかた)、甚(はなは)だ大(おおい)に久遠なり。寿命無量阿僧祇劫なり。常住にして滅(めっ)せず。

 

この一節は、法華経・寿量品の中でも最も核心的な言葉の一つで、

仏(釈尊)が実は「はるか大昔、久遠に仏になった」ことを明かしている箇所です。

 

「このように私は、仏になってからすでに、非常に長い久遠の時が経っている。

その寿命(いのち)は限りなく長く、数えきれないほどの劫(こう)が過ぎている。

私は常に存在し、決して滅びることはない。」

 

「如是我成仏已来」

 

「このように私は、仏になってから…」

 

→ これは釈尊ご自身(久遠実成の仏)が語っていることばです。

これまで人々は、釈尊が「インドで出家して修行し悟りを開いた」と思っていましたが、

この部分で「実はもっと前から仏であった」と打ち明けているのです。

 

「甚大久遠(じんだいくおん)」

 

「非常に遠い大昔から」

 

→ 「甚大」はきわめて大きく

「久遠」は“はてしなく昔”という意味。

つまり、私たちの想像を超えた遥か過去のことを指します。

 

「寿命無量」

 

「その寿命(いのち)は限りがない」

 

→ 仏の命には終わりがなく、時間の制限を超えて永遠に存在しているということです。

 

 

「阿僧祇劫(あそうぎこう)」

 

「数えきれないほどの長い時間」

 

→ 「阿僧祇(あそうぎ)」とは、**天文学的な数字(無量数)**の単位。

「劫(こう)」は仏教で使う時間の単位で、ほぼ無限に近い長さを意味します。

それが無数に重なるほどの時間が経っている、という強調です。

 

「常住不滅」

 

「私は常に存在し、決して滅びることはない」

 

→ これが寿量品の極意です。

仏は過去に生まれて、今はもういない存在ではなく、

永遠にこの世にいて、私たちを見守り続けているのです。

 

 

仏の本当の姿 意味

久遠実成 仏はインドで初めて仏になったのではなく、無限の昔から仏だった

無量寿命 仏の命は尽きることがなく、永遠に生きている

常住不滅 仏はいつも存在し、決していなくならない

 

 

信仰のうえでの意義:

 

この教えによって、私たちは仏を「歴史上の偉人」としてではなく、

**今ここに生きて働いてくださる永遠の仏”**として信じることができるのです。

 

日蓮大聖人も、この「久遠実成の仏」を御本仏とし、

南無妙法蓮華経と唱えることでその仏の命に直結できるとお説きになっています。

 

もちろん、久遠実成の仏様は、日蓮大聖人です。

 

27日

諸善男子。我本行菩薩道。所成寿命。今猶未尽。復倍上数。

 

諸(もろもろ)の善男子、我(われ)本(もと)菩薩の道(どう)を行じて、成(じょう)ぜし所(ところ)の寿命、今(いま)(なお)()きず。復(また)(かみ)の数(すう)に倍(ばい)せり。

 

 

「善い心を持つ人たちよ。私は昔、菩薩の修行をしていたときに得た命(寿命)は、今もまだ尽きていない。しかも、それは今まで言ってきた寿命よりも、はるかに長いものである。」

 

これは、釈尊(しゃくそん/お釈迦様)がご自身の「真実の命」について語っている場面です。

      「我本行菩薩道」

 →「私はもともと、菩薩として修行していた」

      「所成寿命」

 →「その修行の結果として得た命(仏としての寿命)」

      「今猶未尽」

 →「それは今でもまだ尽きていない、終わっていない」

      「復倍上数」

 →「しかも、それは以前に示した寿命の何倍も長い」

 

 

この部分でお釈迦様は、「私の命は実は限られたものではなく、永遠に近いほどのものだ」と明かしています。

つまり、「仏の命」や「仏の働き」は人間の寿命のように限りあるものではなく、

常にこの世界に生きて、導き続けているという「久遠(くおん)の仏」の思想が語られているのです。

 

28日

「我本行菩薩道。所成寿命。今猶未尽。復倍上数」

は、日蓮正宗の信仰において、非常に深い意味を持っています。

 

① この御文の中心的意味:「仏の命は永遠」

 

この御文でお釈迦様は、

 

「私(仏)の命は、修行で得たものであり、今でも尽きることがない。しかも、それは言葉では言い表せないほど長い」

 

と語っています。これは、仏の命は人間のように有限なものではなく、永遠であるという教えです。

 

② 日蓮正宗におけるこの教えの位置づけ

 

日蓮正宗では、この寿量品の教えを土台として、さらに深く展開しています。

 

● 日蓮大聖人は、この寿量品の仏こそ「久遠元初の自受用身の仏」と示された

      日蓮正宗では、寿量品に説かれる仏は、単なる歴史上の釈迦牟尼仏ではなく、

      **久遠元初(くおんがんじょ)から仏界にあって、法そのものとして永遠に存在する「本仏」**であると説かれています。

 

そして日蓮大聖人は、この「久遠元初の仏」の正体は、南無妙法蓮華経の本尊=御本仏たるご自身であると明らかにされたのです。

 

 

日蓮正宗では:

 

🔹 寿量品の仏 永遠の仏 久遠元初の仏 日蓮大聖人こそその仏

という教えになります。

 

 

③ 日蓮正宗の信仰とのつながり

 

この寿量品の御文が、日蓮正宗の信仰とどう関係するかを整理すると、以下のようになります: 

 

教え 意味 信仰との関係

仏の命は尽きない 永遠に衆生を導く仏がいる 大聖人は今も、御本尊として私たちを導いている

所成寿命 修行で得た命 私たちも正しい修行(勤行・唱題)によって、仏の命に近づける

久遠の仏 法そのものが仏の正体 南無妙法蓮華経を根本とする信仰が、仏そのもの

 

29日

然今非実滅度。而便唱言。当取滅度。

 

然(しか)るに今、実(じつ)の滅度に非(あら)ざれども。而(しか)も便(すなわ)ち唱えて、当(まさ)に滅度(めつど)を取るべしと言う。

 

 

「ところが、今、真実の本当の滅度ではないにもかかわらず、

人々を導くために、あえて『私は今、亡くなって涅槃に入る』と言ってきたのです。」

 

      「滅度(めつど)」 とは仏が入滅、つまり亡くなること(涅槃に入ること)を指します。

      釈尊は、実際には永遠の命を持ち、常に存在している「久遠の仏」です。

      しかし、人々の理解力に合わせて、「私は死んだ」と方便として語ったというのがこの一節の意味です。

 

 

この箇所は、釈尊が「本当は永遠の存在だけれど、教えを伝えるために“亡くなった”というふうに見せていた」と告白しているところです。

 

この部分は法華経の核心であり、

仏は遠い昔からずっと存在し、人々を救い続けている、という希望のメッセージです。

 

30日

如来以是方便 教化衆生 所以者何 若仏久住於世

薄徳之人 不種善根 貧窮下賎 貧著五欲 入於憶想 妄見網中 

 

 

如来(にょらい)、是(これ)の方便(ほうべん)を以(もっ)て、衆生(しゅじょう)を教化(きょうけ)す。所以(ゆえ)は何(いか)ん。

()し仏、久(ひさ)しく世に住(じゅう)せば、薄徳(はくとく)の人は、善根(ぜんごん)を種(う)えず。貧窮下賤(びんぐげせん)にして、五欲(ごよく)に貧著(とんじゃく)し、憶想(おくそう)に入り、妄見(もうけん)の網(あみ)に入る。

 

 

 

仏(如来)は、この方法(方便)によって人々を導いています。

なぜならば――

もし仏が入滅することなく、長い間この世にとどまっているとしたら、

福徳の少ない人(仏道に縁が浅い人)は、善い行い(善根)を積もうとしなくなる。

貧しく身分が低い人々は、目先の快楽(五欲)に執着して、妄想にとらわれ、誤った見解(妄見)の網にかかってしまう。

 

まとめ

 

仏は方便という方法を使って、人々を教え導いています。

なぜかというと、もし仏がいつまでもこの世に現れていたら、徳の浅い人たちは安心して怠けてしまい、善い行いをしようとしなくなるからです。

そういう人たちは、貧しくて地位も低く、目先の欲にとらわれ、正しい教えを思い出せず、間違った考えに陥ってしまうのです。

 

この部分は、「なぜ仏があえて姿を隠す(入滅する)ように見せるのか」を説明しているところです。

仏はいつまでも現れていては、人々の信仰心が弱まり、修行しようという気持ちが薄れてしまう――だから、方便として「仏は亡くなった」と見せて、人々に努力させるのです。

 

31日

 

若見如来。常在不滅。便起憍恣。而懐厭怠。不能生於。難遭之想。恭敬之心。

 

()し如来(仏)が、常(つね)に在()って滅(めっ)せずと見れば、便(すなわ)ち憍恣(きょうし)を起して、しかも厭怠(えんだい)を懐(いだ)き、難遭(なんぞう)の想(おも)い、恭敬(くぎょう)の心を生(しょう)ずること能(あた)わじ。

 

こうした人々が「もし仏はいつもこの世にいる」と思ったなら、すぐにおごり高ぶり、勝手気ままな心を起こしてしまう。

さらに、めんどくさいとか、やる気が出ないという怠け心を持ってしまう。

「仏に出会うことはめったにない」というありがたみの心や、敬う心を持てなくなってしまう。

 

 

この部分も、「仏がなぜ姿を隠すのか」という教えの続きです。

仏は実際には常に衆生を見守っている(寿量品の根本の教え)けれど、

あえて「入滅した(この世にいない)」と示すのは、

 

人々が怠けたり傲慢にならず、仏に会いたいと願い、信心を深めるようにさせるためです。