石黒御住職ご指導集 令和7年4月

1

「無量(むりょう)・無礙(むげ)」とは?

 

法華経「方便品」で説かれる「無量・無礙」とは、仏の智慧(知見)が 「限りなく広大で」(無量)、そして 「何ものにも妨げられず自由である」(無礙)ことを表しています。

簡単に言えば、仏の智慧は どこまでも広がり、何の制限も受けない ということです。

「無量」とは?

「無量」は 「量ることができないほど広大」 という意味です。仏の智慧や慈悲(人を救おうとする心)は、数字や範囲で測ることができるものではなく、無限に広がっています。

 

わかりやすい例え

・太陽の光がどこまでも届くように、仏の智慧もすべての人に届く。

・海の水が尽きることがないように、仏の慈悲も尽きることがない。

つまり、仏の智慧と慈悲は すべての人を包み込み、どんな人も導くことができるほど広大で深い のです。

 

「無礙」とは?

 

「無礙」とは、 「何ものにも邪魔されない」 という意味です。仏の智慧は、どんな障害にも妨げられず、自由自在に働きます。

 

わかりやすい例え

・水がどんな形の器にもぴったり合うように、仏の智慧もどんな人にも適した形で届く。

・風がどんな場所にも吹き抜けるように、仏の教えもどんな状況にも通じる。

つまり、仏の智慧は どんな困難や制限があっても、それを超えて働き、人々を救うことができる のです。

なぜ「無量・無礙」が大切なのか?

私たちの考えや知識は 限られていて、ときには 偏見や障害にとらわれる ことがあります。しかし、仏の智慧は 無限であり、何にも縛られない ので、私たちが迷いや悩みから抜け出す道を示してくれます。

 

例えば、

・「私は能力がないから無理だ」と思う 仏の智慧は「あなたには無限の可能性がある」と教えてくれる。

・「過去の失敗にとらわれて動けない」 仏の智慧は「何ものにもとらわれず、新しい道を進める」と示してくれる。

どうすれば「無量・無礙」に近づけるのか?

 

私たちも、仏の智慧に少しでも近づくことができます。そのためには、

 1. 心を広く持つ(無量の実践)

→ 物事を狭い視野で考えず、広い心で受け止める。

 2. とらわれをなくす(無礙の実践)

→ 先入観や過去の経験に縛られず、新しい考え方を受け入れる。

 3. 仏の教えを学び、実践する

→ 法華経の教えを日々の生活に活かす。

まとめ

「無量」は 仏の智慧が限りなく広い こと、「無礙」は 何にも妨げられず自由に働く ことを意味します。私たちも、視野を広げ、先入観をなくし、柔軟な心を持つことで、仏の智慧に少しずつ近づくことができるのです。

 

 

2

深入無際 成就一切 未曽有法

 

深く無際に入り、一切未曽有の法を成就せり。

法華経の方便品に出てくる**「深入無際(じんにゅうむさい)」「成就一切(じょうじゅいっさい)」「未曽有法(みぞうほう)」**の意味について、わかりやすく説明します。

① 深入無際(じんにゅうむさい) 「深く入り込み、限りがない」

これは、「仏の智慧が限りなく深く、どこまでも広がっている」ことを意味します。

ポイント

 • 「深入(じんにゅう)」=深く入り込むこと。つまり、仏の悟りは浅いものではなく、どこまでも深く追求されるもの。

 • 「無際(むさい)」=限りがないこと。つまり、仏の智慧には終わりがなく、すべての真理を含んでいる。

例え

仏の智慧を「大海」にたとえると、普通の人が理解できるのはその表面だけ。でも、仏はその深い底まで知り尽くしている。つまり、仏の悟りは普通の知識とは比べものにならないほど深遠である、ということ。

② 成就一切(じょうじゅいっさい) 「すべてを成し遂げる」

これは、「仏の智慧によって、あらゆるものが完全に成り立っている」ことを意味します。

ポイント

 • 「成就(じょうじゅ)」=完全に成し遂げること。

 • 「一切(いっさい)」=すべての存在や現象。

つまり、「仏の智慧はすべての真理を理解し、それによって一切のものを完成させる」ということです。

例え

仏の悟りは「完璧な設計図」のようなもの。すべてのもの(世界の成り立ち、因果の法則、人々の救い方など)が、その智慧によって正しく整えられている。

③ 未曽有法(みぞうほう) 「今までにない素晴らしい教え」

これは、「法華経の教えが、これまでのどの教えよりも特別である」ことを示しています。

ポイント

 • 「未曽有(みぞう)」=これまで一度もなかったほど素晴らしいこと。

 • 「法(ほう)」=仏の教え。

 

つまり、「法華経はこれまでにない最も尊い教えであり、すべての人を救う究極の真理である」という意味になります。

 

例え

仏教の教えを「薬」にたとえると、これまでの薬(他の経典の教え)は一部の病気にしか効かなかった。しかし、法華経は「どんな病気でも治せる究極の薬」であり、すべての人にとって最適な救いの方法を示している。

まとめ

「深入無際」 仏の智慧はどこまでも深く、限りがない

「成就一切」 仏の智慧によって、すべての真理が完全に整えられている

「未曽有法」 法華経はこれまでになかった最も尊い教え

 

つまり、法華経の方便品では、「仏の智慧がどこまでも深く、すべてを完成させ、これまでにない最高の教えを説く」と示しているのです。

 

10

 

舎利弗④

 

舎利弗(シャーリプトラ)が亡くなったときのエピソードが説かれている経典として、代表的なものに 『大般涅槃経』(だいはつねはんぎょう) があります。ただし、ここで言う『大般涅槃経』は、大乗仏教のものではなく、パーリ仏典(南伝)の 『大般涅槃経(マハー・パリニッバーナ・スッタ)』(Mahāparinibbāna Sutta)とは別の経典です。

 

また、『舎利弗般涅槃経(しゃりほつはつねはんきょう)』 という経典もあり、これに舎利弗の最期の様子が詳しく記されています。

 

舎利弗の入滅(般涅槃)

 

舎利弗は釈尊の十大弟子の一人で、「智慧第一」と称されました。しかし、高齢となり、病気がちになったため、自らの故郷である ナーランダ近郊の生家(ブラフマンの村・ウパッタナ村) に戻ります。

 

その後、母(モーダリヤンニー) に最後の説法をし、彼女を仏教に帰依させた後、静かに亡くなったとされています。舎利弗は生涯にわたり釈尊の教えを広め、多くの弟子を導いた功績を残しました。

 

彼の遺骨(舎利)は、弟子の チュンダ によって釈尊のもとへ届けられ、祇園精舎で荼毘に付されたと伝えられています。

 

この説話の意義

 

舎利弗の入滅のエピソードは、**「すべてのものは無常であり、最も優れた弟子であっても例外ではない」**という仏教の基本教義を示しています。釈尊自身も、この出来事を通じて弟子たちに無常の理(すべてのものは変化する)を説きました。

 

この物語は、仏教の修行者にとって重要な教訓とされ、後世にも多くの経典で語り継がれています。

 

11

如来能種種分別 巧説諸法

 

「如来は、よく種々(しゅじゅ)に分別(ぶんべつ)したまう」

 

この部分、「如来能種種分別(にょらい のう しゅじゅ ふんべつ)」をわかりやすく言うと:

 

「仏(如来)は、人それぞれに合わせて、さまざまな教え方を使い分けることができる」

 

という意味です。

 

背景:方便品のテーマ

 

方便品では、お釈迦様がこんなことを言います:

 

「今まで説いてきた教え(小乗など)は仮のもので、本当はみんなを仏にする教え(大乗)があるんだよ」

 

この「仮の教え」のことを**「方便(ほうべん)」**と言います。つまり、お釈迦様は相手の理解力や状況に応じて、教えの段階を変えていた、ということです。

 

「種々分別」の具体例

 

たとえば:

 • 子どもには絵本で教える

 • 大人には論理的に話す

 • 病気の人にはやさしく励ます

 

…というように、それぞれに合った教え方を使い分けている。それが「如来能種種分別」のイメージです。

 

まとめ

 

如来(仏)は、人それぞれの心や状態を見極めて、その人にとって最も効果的な教え方で真実(仏の道)へ導いてくれる存在。

それを言い表しているのがこの「能種種分別」です。

 

巧説諸法

 

(たくみ)に諸法を説き

 

「巧説諸法(ぎょうせっしょほう)」とは、仏がさまざまな教えを巧みに説くことを指します。これは、仏が人々の理解や状況に応じて、適切な方法で真理を伝えることを意味します。

 

日常生活での例え:

 

例えば、親が子供に道徳や生活の知恵を教える場面を考えてみましょう。幼い子供には、難しい理論を直接伝えるのではなく、絵本や物語を通じて善悪を理解させることが効果的です。一方、成長した子供には、具体的な事例や論理的な説明を用いて、より深い理解を促します。このように、相手の年齢や理解度に合わせて伝え方を工夫することが、「巧説諸法」の実践と言えます。

 

仏教においても、仏は人々の能力や性格、状況に応じて、さまざまな方法で教えを説きます。これにより、すべての人が最終的に真理に到達できるよう導いているのです。

 

12

言辞柔軟 悦可衆心

 

言辞柔軟にして、衆の心を悦可せしむ。

 

「言辞柔軟(ごんじにゅうなん)」と「悦可衆心(えっかしゅしん)」は、法華経の方便品第二に登場する言葉で、以下のような意味があります。

 • 言辞柔軟:柔らかく穏やかな言葉遣い

 • 悦可衆心:人々の心を喜ばせること

 

つまり、**「仏は柔和な言葉で人々に説法し、その結果、人々の心は喜びに満ちる」**ということを示しています。 

 

日常生活での例え:

 

例えば、親が子供に何かを教えるとき、厳しい言葉よりも優しく丁寧な言葉で伝えると、子供は安心して話を聞き、理解しやすくなります。これが「言辞柔軟」の実践です。その結果、子供が喜びや安心感を得ることが「悦可衆心」に当たります。

 

このように、相手の心に寄り添い、思いやりのある言葉を使うことで、良好な人間関係を築くことができます。

 

13

舎利弗⑤

 

『涅槃経』における舎利弗(サーリプッタ)の記述は、他の経典に比べると少ないですが、いくつか重要な点が語られています。

 

1. 釈迦の涅槃の場にはいなかった

 

『大般涅槃経』(いわゆる「大涅槃経」)によれば、舎利弗は釈迦が涅槃に入る前にすでに入滅していました。そのため、釈迦がクシナガラで最期を迎えたとき、舎利弗と目連(マハー・モッガラーナ)はその場にはいませんでした。

 

2. 釈迦の涅槃を予見していた

 

舎利弗は、自身の命が長くないことを悟り、釈迦のもとを訪れて最後の別れを告げたとされています。彼は釈迦に、自らが涅槃に入る許可を求め、釈迦もそれを許しました。

 

3. 最期の説法と涅槃

 

舎利弗は故郷であるナーラカ村(マガダ国)に戻り、母の前で最後の説法を行いました。彼の母はそれまで仏教に帰依していませんでしたが、この説法を聞いて仏法を理解し、信仰を深めたといわれています。その後、舎利弗は静かに入滅しました。

 

4. 釈迦からの高い評価

 

『涅槃経』では、舎利弗が仏弟子の中で「智慧第一」とされ、仏陀の教えを正しく理解し、人々を導いた偉大な存在であったことが語られています。釈迦は、舎利弗と目連がすでに涅槃に入ったことを知り、彼らの不在を嘆く場面もあります。

 

まとめ

      舎利弗は釈迦が涅槃に入る前にすでに亡くなっていた。

      自らの涅槃を悟り、釈迦に別れを告げた。

      母の前で最後の説法をし、その後入滅した。

      釈迦は彼の不在を惜しみ、智慧第一の偉大な弟子と称えた。

 

舎利弗は仏教の教義を深く理解し、それを広めた重要な人物であり、『涅槃経』でもその功績が語られています。

 

14

取要言之

 

要を取って之を言わば

 

「取要言之(しゅようごんし)」は、法華経の方便品第二に登場する表現で、「要(かなめ)を取りて之を言わば」と訓読されます。これを現代語に訳すと、「要点をまとめて言えば」や「簡潔に言うと」という意味になります。 

 

日常生活での例え:

 

例えば、会議の後に同僚から「さっきの会議、どんな内容だった?」と尋ねられたとします。その際に、「取要言之、プロジェクトの進捗と今後の課題について話し合ったよ」と答えると、「要点をまとめて言うと、プロジェクトの進捗と今後の課題について話し合ったよ」という意味になります。

 

15

「無量無辺 未曾有法 仏悉成就(むりょうむへん みぞうほう ぶっしつじょうじゅ)」

 

無量無辺未曽有の法を仏悉(ことごと)く成就したまえり。

 

各語の意味:

 • 無量無辺(むりょうむへん):量り知れず、限りがないこと。

 • 未曾有法(みぞうほう):これまでに存在しなかった素晴らしい教え。

 • 仏悉成就(ぶっしつじょうじゅ):仏がすべてを完全に成し遂げられたこと。

 

つまり、「仏は限りない素晴らしい教えをすべて完全に成し遂げられた」という意味になります。

 

日常生活での例え:

 

例えば、ある先生が長年の経験と努力によって、多くの教育方法を身につけ、生徒一人ひとりに最適な指導を行えるようになったとします。この先生は、教育に関する無数の知識と技術(無量無辺の未曾有の法)を習得し、それを実践で完全に活用している(仏悉成就)と言えます。

 

このように、「無量無辺 未曾有法 仏悉成就」は、仏が計り知れないほどの素晴らしい教えをすべて完全に成し遂げられたことを示しています。

16

「止 舎利弗 不須復説」

 

止みなん、舎利弗、復(また)説くべからず

 

お釈迦様が弟子の舎利弗に対して、「これ以上話すのはやめましょう。もうこれ以上説明する必要はありません」と伝えている部分です。

 

背景:

 

お釈迦様は、仏が成し遂げた教えは非常に深遠で、一般の人々には理解しがたいものであると説かれました。そのため、これ以上説明しても、人々が混乱したり、誤解したりする可能性があると考え、舎利弗に対して説明を控える意向を示されたのです。 

 

日常生活での例え:

 

例えば、親が子供に対して非常に複雑な話題を説明しようとしたとき、子供がまだその内容を理解する準備ができていないと感じた場合、親は「今はまだ難しいから、また今度話そう」と言って説明を控えることがあります。これと同じように、お釈迦様も弟子たちの理解度を考慮し、適切なタイミングで教えを説こうとされたのです。

 

この一節は、教えを伝える際には、相手の理解度や状況を考慮し、適切なタイミングや方法で伝えることの重要性を示しています。

 

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所以者何(しょいしゃが)

 

所以(ゆえ)はなに(いか)

 

310参照

 

方便品には、9回。十如是までで、3回。寿量品には、4回。

法華経28品全体では、50回出てきます。

因みに、法華経を真読・訓読し、最後に

28品を各品ごとに、検索しました。

 

法華経の中では、「所以者何」と出てきたら、「あ、これから大事な理由が説明されるんだな」と意識して読んでみると、理解しやすくなります。

 

18

「仏所成就 第一希有 難解之法」

(ぶっしょじょうじゅ だいいちけう なんげしほう)

 

これは、法華経の核心に触れる非常に重要な句です。

 

原文の意味(直訳)

      仏所成就(ぶっしょじょうじゅ):

仏(お釈迦様)が成し遂げられた(悟られた)

      第一希有(だいいちけう):

最も優れていて、めったにない(まれで尊い)

      難解之法(なんげしほう):

理解するのが難しい教え。

 

 

「仏が悟った教えは、非常にすぐれた、まれで尊い教えであり、簡単には理解できない深い真理である」

 

という意味です。

 

この言葉は、法華経の教えが「ただの教え」ではなく、仏が長い修行と智慧によって到達した最も深遠な真理であるということを示しています。だからこそ、「方便」(=わかりやすく、段階を追って教える手法)が必要になるのです。

 

 

もし現代のたとえで話すとすれば:

 

たとえば、ある科学者が長年の研究の末に究極の理論を完成させたとします。その理論はとても難しくて、普通の人にはすぐには理解できません。だから、科学者はまず基礎から丁寧に、相手に応じた説明を工夫して話していきます――これが「方便」です。

 

 

19

「唯仏与仏 乃能究尽 諸法実相」

(ゆいぶつよぶつ ないのうくじん しょほうじっそう)

 

これは「法華経 方便品」の中でも特に有名な句です。

 

      唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ):

 ただ仏と仏とだけが

      乃能究尽(ないのうくじん):

 はじめて、すべてを究めつくすことができる

      諸法実相(しょほうじっそう):

 すべての現象の本当の姿(真実のすがた)

 

 

「この世界のすべての真実(ものごとの本当の姿)を完全に理解できるのは、仏と仏だけである」

 

という意味です。

 

 

世の中にはいろんな出来事や存在がありますよね。人間関係、自然、心の動き、苦しみや幸せ…。それらすべてには「本当の姿(実相)」があるけれど、それを完全に、深く、正しく理解できるのは仏だけだと説いています。

 

だから仏の教えは、普通の知識や常識とは次元が違う「真理」なんですね。

 

 

たとえば迷路に入ってしまった人が、自分で道を探してもなかなか出られない。でも、上空から全体を見ている人(=仏)なら、「この道を行けば出口だよ」と教えてくれる。――そんな感じです。

 

 

この「諸法実相」という言葉は、日蓮大聖人もとても重視しています。「南無妙法蓮華経」とは、この「諸法実相」を現実に生きる力として顕した大法なんです。

 

 

20

「所謂諸法(しょいしょほう)」も、法華経 方便品の重要な流れの中に出てくる言葉です。

 

原文の意味:

      所謂(しょい):いわゆる(つまり、これから説明するのは)

      諸法(しょほう):あらゆるものごと・現象(目に見えるものも見えないものも含めて)

 

「では、“あらゆるもの”とは何を指すのかというと…」

 

という意味です。

 

具体的には:

 

この「所謂諸法」のあとには、こう続きます:

 

「所謂諸法、如是相・如是性・如是体・如是力…」

(いわゆる“諸法”とは、すべてが、こうした相(すがた)、性(本質)、体(実体)などを持っている、ということだ)

 

つまり仏は、これから「諸法実相とはどういうものか」を、詳しく説明していくよ、という導入の言葉が「所謂諸法」なんです。

 

学校の先生が「この世界には“力”というものがある。では、その“力”って何かというとね…」と説明を始める、その「では、何かというと…」が「所謂(いわゆる)」です。

 

      「所謂諸法」=「いわゆる“あらゆる現象”とは、これから説明するような性質を持っているんだよ」

      ここから「十如是(じゅうにょぜ)」という深い教えが始まります。

 

21

「十如是(じゅうにょぜ)」を一つずつ、説明していきます。

 

十如是とは?

 

「如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等」

(にょぜそう・にょぜしょう・にょぜたい・にょぜりき・にょぜさ・にょぜいん・にょぜえん・にょぜか・にょぜほう・にょぜほんまつくきょうとう)

 

これは、「すべてのものごとは、この10の側面すべてがそのまま真実の姿だ」と示した教えです。

 

一つずつ、わかりやすく:

 

1. 如是相(にょぜそう)

 

→ 見た目・外から見える姿

たとえば人の顔や服、建物の形など。

 

2. 如是性(にょぜしょう)

 

→ 内面・性質・性格

たとえば「明るい性格」「燃えやすい物質」などの中身の特性。

 

3. 如是体(にょぜたい)

 

→ 本体そのもの(存在そのもの)

見た目や性格だけじゃなく、存在そのものの“本質”。

 

4. 如是力(にょぜりき)

 

→ もともと持っている力

たとえば「走る力」「考える力」など、その存在がもつ能力。

 

5. 如是作(にょぜさ)

 

→ 実際に働いている姿・行動

力を使って何かをしている状態。走る、書く、考える…など。

 

 

(ここまでが「現在の状態」に関わる5つ)

6. 如是因(にょぜいん)

 

→ 行いの原因・動機

なぜその人がそうなったのか?原因となった思いや行動。

 

7. 如是縁(にょぜえん)

 

→ 周りの条件・環境

環境や周囲の影響、タイミングなどの“縁”。

 

8. 如是果(にょぜか)

 

→ 結果・手にした状態

原因と縁が合わさって出てくる“結果”。

 

9. 如是報(にょぜほう)

 

→ より長期的な結果、受ける報い

人生において受ける幸・不幸。

 

 

10. 如是本末究竟等(にょぜほんまつくきょうとう)

 

→ これらすべてが一貫していて、つながっていて、等しく真実であること。

「始まり(本)」から「終わり(末)」まで、どの段階もすべてが“真実の姿”であり、バラバラじゃない、ということ。

 

「十如是」は、「この世のすべての存在は、外見から中身、力、行動、原因、結果、そのすべてがつながっていて、それら全部を合わせて“真実の姿”なんだよ」と教えているんです。

 

たとえば「あなた」一人の存在も、

      見た目(相)

      性格(性)

      体と心(体)

      能力(力)

      実際の行動(作)

      過去の選択(因)

      周囲との関係(縁)

      今の状態(果)

      長期的に受ける運命(報)

      それら全体の流れ(本末究竟等)

 

これらすべてが「かけがえのない尊い命の姿」である、ということになります。

 

22

久遠実成の釈尊

 

今回は、法華経の中でも最も深い核心――

**「久遠実成の釈尊(くおんじつじょうのしゃくそん)」**について、わかりやすくお話しします。

 

 

【意味を一言で言うと?】

 

お釈迦さまは、インドで初めて悟りを開いたのではなく、はるか久遠の昔からすでに仏だった

→ これが「久遠実成(じつじょう)の釈尊」です。

 

 

【どんな話なの?】

 

ふつう仏教では――

お釈迦さま(釈尊)は、約2500年前にインドで悟りを開いて仏になったとされています。

 

でも**法華経の「如来寿量品第十六」**では、釈尊がこう語ります:

 

「私は遥か昔、“久遠”という無限の時間の彼方に、すでに仏になっていた」

「この娑婆世界(しゃばせかい)で、生老病死を見せているのは、衆生を導くための方便(演出)である」

 

つまり――

      今見ている釈尊の姿は“仮の姿(応身)”であり、本当の仏は永遠の存在だった

      この真実が明かされたのが「寿量品」であり、釈尊が“久遠の昔にすでに仏になっていた”ことを“実成”という

 

→ だから「久遠実成の釈尊」なのです。

 

 

【なぜこの教えが重要?】

 

それは次のような理由からです:

 

1. 仏は遠い存在ではない

      過去に一人だけ仏になったのではなく、永遠に命を持ち、今も生きて働いている仏

      だから、私たちの今の苦悩も、仏はすべて見て、寄り添ってくれている

 

2. 私たちの命の中に、久遠の仏性がある

      久遠実成の仏とは、遠い歴史の人物ではなく――

 

「あなたの命の奥底に眠る“永遠の仏の命”そのもの」

 

      だから、私たちも仏と同じ“久遠の命”を宿している

 

3. 南無妙法蓮華経によって、その仏の命を現すことができる

      日蓮大聖人は、この久遠実成の仏の正体を明かされました:

 

「久遠元初自受用報身如来こそ、南無妙法蓮華経の体そのものである」

 

 

【日蓮大聖人の位置づけ】

 

日蓮大聖人は、ただ釈尊を礼拝するのではなく、

 

自らが久遠実成の仏であることを顕された

→ だからこそ「末法の御本仏」と仰がれるのです。

 

そして大聖人はこう教えます:

 

我ら衆生もまた、久遠実成の仏の命をそのままそなえている。

その命を呼び起こす鍵が“南無妙法蓮華経”である。

 

23

仏界の久遠性  

 

今回は「仏界の久遠性(ぶっかいのくおんせい)」について、わかりやすくお話します。

 

これは、法華経の最も深い教えの一つであり、私たちの中にある“仏の命”は永遠であるという、力強い生命観に通じます。

 

 

【仏界の久遠性とは?】

 

簡単に言うと――

 

仏という存在は、はるか過去から永遠に存在し、今この瞬間も私たちの中に生きている

→ これを「仏界の久遠性」と言います。

 

 

【法華経での根拠】

 

この思想の根本は、法華経「如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)」第16章に説かれています。

 

ここでお釈迦さまはこう仰せになります:

 

「自分はこの世で初めて悟りを開いたのではなく、実は“久遠”というはるか過去にすでに仏となっていた」

 

つまり――

      釈迦はインドで初めて仏になったのではない

      仏という存在は、始まりも終わりもない“永遠の命”そのものだったと明かされるのです。

 

 

【「久遠」とは?】

 

「久遠(くおん)」とは:

 

無限の過去・未来にわたる永遠の時間

 

時間に縛られない命のあり方。

それは、今ここに生きる私たちにも通じる仏の命です。

 

 

【なぜこの教えが大切?】

 

ここが本当に大切なポイントです:

      私たちは、苦しみや迷いの中にいると「自分なんてダメだ」と思いがちです。

      しかし法華経は、「あなたの中には久遠の仏界がそなわっている」と説きます。

      つまり、どんなに迷っていようとも、仏の命は決して失われていない。永遠にそこにある。

 

 

【日蓮大聖人の解釈】

 

日蓮大聖人は、この「久遠の仏界」の教えを実践として確立されました。

 

そして明らかにされたのが:

 

「久遠元初(くおんがんじょ)の自受用身(じじゅゆうしん)」の御本仏は、南無妙法蓮華経なり。

 

つまり――

      仏とは、どこか遠くにいる存在ではない

      私たちが法華経を信じ、唱題するその“一念”に、永遠の仏の命が湧き上がる

      それが「久遠の仏界の発現」です

 

 

【現代に生きる意味】

 

仏界の久遠性を信じることは、次のような生き方につながります:

      今の苦しみも、過ちも、仏界を曇らせているだけで、消えてしまったわけではない

      南無妙法蓮華経と唱えれば、久遠の仏界がよみがえる

      私たちの命は、絶対に希望を失わない。

 

24

十界互具

 

今回は「十界互具(じっかいごぐ)」について、わかりやすくお話しますね。

これは、一念三千を成り立たせる大事な要素の一つで、「人間の心の奥深さと尊さ」を示す仏教の根本思想です。

 

【十界とは?】

 

まず「十界」とは、仏教でいう**十の生命の状態(世界)のことです。

私たちの心の中にある“10の生き方・感じ方”**といってもいいでしょう。

 1. 地獄界(じごく):苦しみ、怒り、絶望の状態

 2. 餓鬼界(がき):欲望にとらわれ、満たされない状態

 3. 畜生界(ちくしょう):本能だけで生き、理性がない状態

 4. 修羅界(しゅら):争いや嫉妬、プライドに支配された状態

 5. 人間界(にんげん):善も悪もある、バランスのとれた人間的な状態

 6. 天界(てん):喜びや快楽に満たされている状態

 7. 声聞界(しょうもん):仏教の教えを聞いて学ぶ境地

 8. 縁覚界(えんがく):世の中の因縁を悟る智慧をもつ境地

 9. 菩薩界(ぼさつ):人のために尽くそうとする慈悲の境地

 10. 仏界(ぶつ):すべてを知り、慈しみで満ちた悟りの境地

 

【互具とは?】

 

「互具」とは、「互いに具(そな)えている」という意味です。

 

つまり、

 

どの一つの界(生命の状態)にも、他の9つの世界すべてが含まれている

 

という教えです。

【たとえば…】

 

たとえば今、あなたが「人間界」の心でいるとします。

でもその中に…

      ムカッと怒れば「地獄界」

      もっと欲しいと思えば「餓鬼界」

      誰かを思いやれば「菩薩界」

      仏を敬い祈れば「仏界」

 

…というように、他の9つの生命状態すべてが同時に潜んでいるんです。

 

つまり、**「地獄の中にも仏界があり、仏界の中にも地獄がある」**ということ。

 

 

【なぜ大事?】

 

この「十界互具」は、日蓮大聖人がとても大切にされた考え方です。

 

→ なぜなら:

      どんなに苦しい中にあっても、仏界(悟り・希望・慈悲)は失われていない

      逆に、どんなに悟ったように見える人でも、怒りや欲の心を持っている

 

つまり:

 

どの命も、今すぐに仏の境地へと変わる力をもっている。

そのカギが「一念」なんだよ、と。

【日常での例】

 

たとえば、仕事で怒られて落ち込んで(地獄)、

でも「次はがんばろう」と立ち上がる(人間)、

仲間のために手伝おうと思う(菩薩)、

感謝の祈りをささげる(仏)。

 

→ これらは全部、あなたの一日の中で起こりうること。

 

教え

内容

十界

10の生命のあり方・心の状態

互具

どの界にも、他の9界がそなわっている

意味

誰の心にも、仏の心が今この瞬間にある

実践

南無妙法蓮華経と唱えることで、仏界を呼び起こす

 

この十界互具の理解があってこそ、「一念三千」が成り立ちます。

そして、その「仏界を自らの中から呼び起こす行」が――

 

**唱題(南無妙法蓮華経)**なのです。

 

25

一念三千

 

「一念三千(いちねんさんぜん)」は、天台大師が法華経の深意をもとに説いた、仏教思想の最高峰とも言える教えです。

 

 

【一念三千とは?】

 

「一念」に「三千」の世界が具わるという意味です。

      一念:私たちの一瞬の心、わずかな「思い」や「意識」

      三千:あらゆる世界、現象、存在を網羅した「三千の世界」

 

たった一つの心の中に、全宇宙のすべてが存在している――これが「一念三千」です。

 

 

【どうやって「三千」が出てくるの?】

 

これは、天台大師の極めて緻密な思想構成から導き出されたものです。

 

ステップ1:十界(じっかい)=10の世界

 1. 地獄(苦しみ)

 2. 餓鬼(欲に飢える)

 3. 畜生(本能で生きる)

 4. 修羅(怒り・争い)

 5. 人間(苦も楽もある)

 6. 天(喜び・楽しみ)

 7. 声聞(学ぶ)

 8. 縁覚(悟る)

 9. 菩薩(人を救う)

 10. 仏(悟り)

 

→ 人の心には、これらすべての性質がある。

 

 

ステップ2:十界互具(じっかいごぐ)=10×10100

      どの一つの世界にも、他の9つの性質が含まれている。

      たとえば「人間界」にいても、「怒り(修羅)」や「慈悲(菩薩)」が同居している。

 

 

ステップ3:一界に十如是がある → 100×101000如是

      各界には、それぞれ「十如是」の側面がある。

      外見・性格・原因・結果…すべてがそなわっている。

 

 

ステップ4:三世間(さんせけん)を掛ける → 1000×3=三千

 

三世間とは:

 1. 五陰世間(ごおんせけん):色・受・想・行・識(五蘊の世界)

 2. 衆生世間(しゅじょうせけん):生きとし生ける者の世界

 3. 国土世間(こくどせけん):その存在が住む環境(社会・自然)

 

 

【つまり、一念三千とは】

 

「一瞬の心の中には、十界・十如是・三世間、すべての世界(三千の存在)が具わっている」

 

という、人間の心の尊さ・深さ・宇宙的広がりを示した教えです。

 

 

【なぜ大切なの?】

 

日蓮大聖人はこの一念三千をもとに、

 

「我が一念を正せば、宇宙全体に良い影響が及ぶ」

と説かれました。

 

そして、この一念三千を実践として成り立たせる教えが――

 

南無妙法蓮華経

です。

 

26

「三諦円融(さんたいえんゆう)」です。これは、天台大師の教えの中でも「一念三千」と並ぶ核心的な思想で、この世の真理の見方を三つの面から一体としてとらえるものです。

 

 

【三諦とは?】

 

仏教では「この世の真理とは何か?」をさまざまな角度から説きますが、

天台大師は特に法華経の精神に基づいて、**三つの真理の見方(=三諦)**をまとめました。

 

 

一、空諦(くうたい)

      すべてのものは因縁によって成り立っており、実体がない(空である)

      固定した「自分」や「物」があるように見えても、よく観ればそれは「関係性の中にあるもの」

 

たとえば、「花」はそれ自体で存在するのではなく、太陽・水・土などの縁がそろって成り立っている。

→ だから「本質的に変わらない実体」はない=空

 

 

二、仮諦(けたい)

      空であるものが、仮に形をもって現れている(現実に見えている)

      実体はないけれど、今たしかに私たちはそれを「ある」として生きている

 

花は空ではあるけれど、私たちの目には咲いているように見えるし、香りもある。

→ それは仮の姿だが、まちがいなく存在しているように感じる=仮

 

 

三、中諦(ちゅうたい)

      空と仮、どちらか一方だけではなく、その“両方の真理”をふくんだ「中道」の見方

      どちらにも偏らず、「空でもあり、仮でもある」というバランスされた見方

 

花は実体はない(空)けれど、たしかに咲いている(仮)。

→ その両方の真理を一体として見る見方=中

 

 

【円融とは?】

 

「円融(えんゆう)」とは:

 

この三つの真理はバラバラに存在するのではなく、互いに溶け合い、同時に成り立っている

 

つまり――

 

一つの物事を見たとき、

それは「空」であり「仮」であり「中」でもある、

**三つの真理が一つにとけ合っている(円融)**ということ。

 

 

【三諦円融のイメージ】

 

たとえば「あなた」という存在を見ると:

      空:あなたという実体はなく、時間・環境・人間関係などの縁で成り立っている

      仮:でも、今ここに生きていて、笑ったり悩んだりしている、確かに存在している

      中:それらすべてを含んで「これがあなたなんだ」と見る。どれも真実。

 

 

【なぜ大切?】

 

三諦円融は、法華経の「すべての命が仏性を持ち、尊い」という思想とつながっています。

      どんなに苦しみの中にある人も、「空」「仮」「中」のすべてを備えていて、仏と同じ真理の上に生きている。

      この三諦が円融するからこそ、私たちの「一念」は「三千の世界」に通じる(=一念三千)というわけです。

 

 

【まとめ】

 

三諦 意味 例え

空諦 実体がなく、因縁によって成り立つ 花は縁で咲く

仮諦 空であるが、仮に存在している 花は見えて香る

中諦 空と仮を含んだ中道の見方 花は空でも仮でもある、その両方

 

→ この三つがバランスよく融合していることを「三諦円融」と言います。

 

27日

久遠元初の自受用報身仏

 

今回は、いよいよ核心中の核心――**「久遠元初の自受用報身仏(くおんがんじょ の じじゅゆうほうしんぶつ)」**について、わかりやすく丁寧にお話します。

 

 

【この言葉が意味すること】

 

一言で言うと――

 

はじまりのない久遠の昔から、永遠に存在している“本当の仏”とは誰か?

→ それは、**「久遠元初の自受用報身仏」**であり、

→ さらに日蓮大聖人はその仏が「南無妙法蓮華経そのもの」であると明かされました。

 

 

【用語を分解して解説】

 

それぞれの言葉の意味から見てみましょう。

 

 

1. 久遠(くおん)

      時間の流れを超えた“永遠の過去”

      普通の歴史や時間では計れない、仏教独特の“永遠性”を意味します。

 

 

2. 元初(がんじょ)

      「最も初め」ではなく、“はじまりすらない”根源的なところ

      「根本・源・本源」などの意味を含みます。

 

→ 久遠元初=はじまりのない永遠の本源からの仏

 

 

3. 自受用報身仏(じじゅゆう ほうじんぶつ)

 

これは、仏の「三身(さんじん)」のうちの一つです。

 

仏の三身とは?

 

ポイント 意味

本門の本尊とは? 久遠元初の仏(永遠の命)を形で顕した曼荼羅

中央の題目 南無妙法蓮華経=宇宙の根本法則=仏そのもの

拝む目的 自分の生命の中の仏界(久遠の命)を目覚めさせる

実践 正しい本尊に向かい、題目を唱えることで、自分が仏として生きられる

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久遠元初の自受用報身仏

 

今回は、いよいよ核心中の核心――**「久遠元初の自受用報身仏(くおんがんじょ の じじゅゆうほうしんぶつ)」**について、わかりやすく丁寧にお話します。

 

 

【この言葉が意味すること】

 

一言で言うと――

 

はじまりのない久遠の昔から、永遠に存在している“本当の仏”とは誰か?

→ それは、**「久遠元初の自受用報身仏」**であり、

→ さらに日蓮大聖人はその仏が「南無妙法蓮華経そのもの」であると明かされました。

 

 

【用語を分解して解説】

 

それぞれの言葉の意味から見てみましょう。

 

 

1. 久遠(くおん)

      時間の流れを超えた“永遠の過去”

      普通の歴史や時間では計れない、仏教独特の“永遠性”を意味します。

 

 

2. 元初(がんじょ)

      「最も初め」ではなく、“はじまりすらない”根源的なところ

      「根本・源・本源」などの意味を含みます。

 

→ 久遠元初=はじまりのない永遠の本源からの仏

 

 

3. 自受用報身仏(じじゅゆう ほうじんぶつ)

 

これは、仏の「三身(さんじん)」のうちの一つです。

 

仏の三身とは?

 

ポイント 意味

本門の本尊とは? 久遠元初の仏(永遠の命)を形で顕した曼荼羅

中央の題目 南無妙法蓮華経=宇宙の根本法則=仏そのもの

拝む目的 自分の生命の中の仏界(久遠の命)を目覚めさせる

実践 正しい本尊に向かい、題目を唱えることで、自分が仏として生きられる

 

28日

本門の本尊

 

今回は日蓮大聖人の教えの中心中の中心――

**「本門の本尊(ほんもんのほんぞん)」**について、やさしく、でもしっかりとお話ししますね。

 

 

【そもそも「本尊」とは?】

 

まず「本尊」とは――

 

信仰や修行の中心となる対象(仏像や曼荼羅など)のこと。

 

でも、単なる「拝むもの」ではなく、

 

“自分の生命の中の仏界を呼び起こす根本”となるもの

 

これが「本尊」です。

 

 

【では「本門の本尊」とは?】

 

日蓮大聖人が顕された「本門の本尊」は――

 

末法に生きる私たちの成仏(仏になる)を可能にする唯一の正しい本尊のこと。

 

そしてこの本尊こそが:

 

**大聖人御自身が顕された曼荼羅(まんだら)”**であり、

「南無妙法蓮華経」と中央に記された文字の本尊です。

 

 

【なぜ「本門」なの?】

 

「法華経」は大きく2つに分かれます:

ポイント 意味

本門の本尊とは? 久遠元初の仏(永遠の命)を形で顕した曼荼羅

中央の題目 南無妙法蓮華経=宇宙の根本法則=仏そのもの

拝む目的 自分の生命の中の仏界(久遠の命)を目覚めさせる

実践 正しい本尊に向かい、題目を唱えることで、自分が仏として生きられる

 

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独一の本門

 

もちろん、「独一本門(どくいちほんもん)」について、わかりやすく説明しますね。

 

 

■「独一本門」とは?

 

簡単に言うと――

 

**「日蓮大聖人が説かれた教えの中でも、特に本門寿量品の文底だけが、末法の人々を救う唯一の教えである」**ということを表す言葉です。

 

 

■どうして「独一」なの?

 

「独一」とは、「ただ一つ」「他にはない」という意味です。

仏教には多くの経典がありますが、日蓮大聖人はその中でも特に、

 

法華経の本門八品(特に寿量品)、

その「文底(もんてい)=表に現れていない深い意味」

 

にこそ、釈尊の本当の目的・仏の本質・末法の救いがあるとされました。

だから、「それ以外には本当の救いはない=独一」なんです。

 

 

■「本門」とは?

 

法華経には「迹門(しゃくもん)」と「本門」があります。

      迹門(しゃくもん)…お釈迦様の過去の修行などを語る部分(仮の姿)

      本門(ほんもん)…お釈迦様が“永遠の仏”であることを明かした部分(本当の姿)

 

特に「本門八品(15章〜22章)」、その中でも寿量品第16が大事です。

 

 

■日蓮大聖人の立場

 

日蓮大聖人は、釈尊の教えを「すべて読んで、比べて、捨てて、選び出した(捨閉閣抛)」うえで、

 

末法の衆生を救うのは、本門寿量品の文底の教え(=南無妙法蓮華経)ただ一つだ

と断言されました。

 

 

■まとめ(たとえ話)

 

たとえば――

 

いろんな薬があるけれど、

ある病気にはたった一つの薬しか効かない。

 

この「たった一つの薬」こそが、本門寿量品の文底に秘された南無妙法蓮華経の教えであり、

それを日蓮大聖人は「独一の本門」として顕されたのです。

 

久遠元初本因名字所証の妙法蓮華経のこと。

 

日蓮大聖人お建ての題目は、ただ単に、法華経の文における題目ではない。

 

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「寿量品」の「寿」と「量」――これを掘り下げていくと、仏のいのちと私たちの本質がどうつながっているかという、仏法の核心に迫ります。

 

 

■「寿」と「量」の意味を個別に見る

 

●「寿(じゅ)」

 

→ 命・生命・寿命を意味します。

仏教では、単に「生きている時間」というよりも、命そのものの根源的な力・いのちの本質を指します。

 

寿量品では、釈尊がこう語ります:

 

「我成仏已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」

 

つまり――

「私が仏になってからの寿命(いのち)は、数え切れないほど長いんだよ」

ということ。

 

これは、**仏の命が永遠であり、普遍的であり、変わらない”**ことを表しています。

 

 

●「量(りょう)」

 

→ これは「はかる」という意味。

つまり、「寿をどれくらいか=仏の命を計ろうとする行為」を意味します。

 

でも――

 

仏の命(寿)は、あまりにも深く長いため、

「人間の知恵では計り知れない」=無量(量れない)

 

ということがここに込められています。

 

 

■では、なぜ「寿量」なのか?

 

ここが大事です。

 

仏教の多くの経典では、「仏も人と同じく生まれて死ぬ存在」として描かれてきました。

でも、法華経の寿量品ではこう示されます:

 

仏の寿命(寿)は、計り知れない(量)ほど永遠である

= 仏は「始まりも終わりもない、永遠の存在」なんだ

 

つまり「寿量」とは、“仏とはどういう命を持った存在か”を明かす教えなのです。

 

 

■日蓮大聖人の読み方:「文底の寿量」

 

日蓮大聖人は、表面の文字だけでなく、その「深い意味=文底」を読み取られました。

 

ポイントは、

      この永遠の仏の命(寿量)とは、“自分自身の命の本質”でもある

      この法を信じ、題目を唱える者もまた、同じ永遠の命を生きることができる

 

ということです。

 

日蓮大聖人はこの寿量の仏の命を、「妙法そのもの=南無妙法蓮華経」として顕されました。

 

 

■まとめ:寿と量を現代語でたとえると…

      「寿」= いのちの力そのもの。仏の本当の命

      「量」= その命の深さや長さをはかろうとすること。でも、はかれない

 

たとえるなら:

 

「宇宙の果て」や「永遠の時間」――

私たちは“はかろう”とするけれど、結局それは“量り知れない”。

 

仏の命=宇宙そのものの命だとするなら、それが「寿量」。

そして私たちもその命とつながっている。

これを信じて題目を唱えることで、自分のいのちにも仏の寿量が現れてくるのです。

 

 

5月より、寿量品の文文句句に入ります。