石黒御住職ご指導集 令和7年10月

 

1日

 

日蓮大聖人御金言義類別入文集73

()本尊7/19 ②本迹判4/4

 

観心本尊抄 654

 

 今本時の娑婆世界は、三災を離れ四劫を出()でたる常住の浄土なり。仏既(すで)に過去にも滅せず未来にも生ぜず、所化以(もっ)て同体なり、此(これ)(すなわ)ち己心の三千具足、三種の世間なり。迹門十四品には未だ之(これ)を説かず、法華経の内に於(おい)ても時機未熟の故か。

 

原文の意味

 

「今本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり」

→ 今、この末法において、私たちの住む娑婆世界そのものが、ほんとうは「常に清浄で壊れない仏の国土」である、と明かされています。

「三災」(戦乱や疫病などの大きな災い)や「四劫」(成住壊空という世界が生まれ壊れるサイクル)の支配を超えているのです。

 

「仏既(すで)に過去にも滅せず未来にも生ぜず」

→ お釈迦さま(久遠元初の自受用報身如来)は、始まりも終わりもない永遠の仏であって、「生まれて滅する」という相対的な存在ではありません。

 

「所化以て同体なり」

→ その永遠の仏と、仏に導かれる衆生とは、本質において同じ「仏性」をもつ同体の存在である。

 

「これ即ち己心の三千具足、三種の世間なり」

→ この境界は、外にあるものではなく、自分自身の心(三千世間)にすべて具わっている、ということ。

「三種の世間」とは、①五陰世間(身心)、②衆生世間(生きとし生けるもの)、③国土世間(環境世界)で、この三つとも仏界そのものである、と説かれています。

 

「迹門十四品には未だ之(これ)を説かず、法華経の内に於(おい)ても時機未熟の故か」

→ この深い境界(仏も衆生も、国土もすべて永遠不滅の仏界であること)は、法華経の前半(迹門十四品)では説かれませんでした。なぜなら、当時の人々にはまだ受け止める準備(時機)が熟していなかったからです。

 

まとめ

 

日蓮大聖人はここで、

      今生きている娑婆世界は、本当は壊れることのない清浄な仏国土である。

      仏は過去・未来を超えて永遠に存在する。

      その仏と私たち衆生は、本質において同じ命である。

      国土も人間も心も、すべてが仏界である。

と説かれています。

 

ただし、この究極の真理は、お釈迦さまが法華経の迹門では説かず、寿量品(本門)で初めて明かされたもの。さらに大聖人は、この寿量品の「心」を、御本尊に顕し出してくださった、という流れになります。

 

 

👉この御文は、**「私たちの生きる現実そのものが仏界であり、御本尊を信じることでそれを現実に体得できる」**という、観心本尊抄の中心テーマにつながっているのです。

 

2日

 

 南無妙法蓮華経の解説

 

①「南無妙法蓮華経」をサンスクリット語で表すと次のようになります。

 

分解してみると

      南無(なむ) サンスクリット語で「ナマス(namas)」=「帰命」「敬礼」

      妙法蓮華経 法華経の正式名はサンスクリット語で

सद्धर्म पुण्डरीक सूत्र (Saddharma Puṇḍarīka Sūtra)

→ 「妙法(Saddharma=正しい法)」

→ 「蓮華(Puṇḍarīka=白蓮華)」

→ 「経(Sūtra)」

 

したがって直訳すると

Namas Saddharma Puṇḍarīka Sūtra

(ナマス・サッダルマ・プンダリーカ・スートラ)

となります。

 

ただし、日本で「南無妙法蓮華経」と唱えるのは、サンスクリットに翻訳して読むためではなく、大聖人が末法において「題目」として漢字音のまま弘められたもので、そのままの音声(おんじょう)=(なんみょうほうれんげきょう)に功徳があるとされます。

 

②南無妙法蓮華経は、

もともとサンスクリット語では

Saddharma Puṇḍarīka Sūtra(サッダルマ・プンダリーカ・スートラ)」

といいます。

 

それを鳩摩羅什(くまらじゅう)大師が漢訳した際に

「妙法蓮華経」と訳されました。

 

一語ずつの意味

      妙(みょう)

普通の智慧や法では計り知れない「すぐれた」「不可思議な」という意味。

法華経があらゆる経典に勝れ、衆生を成仏へ導く「不思議の力」をもつことを示します。

      法(ほう)

仏が悟られた真理。

とくにここでは「一切衆生が成仏できる仏法」のこと。

      蓮華(れんげ)

蓮の花は「泥中に咲いても清浄」という性質をもちます。

これは「凡夫(迷いの中の人々)も、そのまま仏となる」ことを象徴します。

また、蓮華は「因(花)と果(実)が同時にある」ため、「因果倶時(いんがぐじ)」=修行と成仏が同時に具わることを意味します。

      経(きょう)

仏の説かれた教えを「糸のように貫く」もの。仏の道を人々に伝える法則。

 

まとめると

 

「妙法蓮華経」とは、

『すべての人が平等に仏となれる不可思議な法を説いた経典』

という意味になります。

 

③ 御義口伝 に基づきながら、「妙法」の意味をわかるように整理します。

 

1. 「妙法」とは何か

 

日寛上人は、御義口伝のなかで 「妙法」とは、末法における成仏の根本の法 だと教えられています。

 

一口でいうと、

「凡夫(ふつうの人)が、迷いのままで仏になれる力」

を持った法なのです。

 

2. 「妙」の意味

      「妙」とは「すぐれている」「不思議で計り知れない」ということ。

      たとえば、他の経典では「修行して何万年後に悟れる」と説かれていますが、

法華経では 今ここで、凡夫のままで成仏できる と説く。

      その「不思議な力」を「妙」と呼ぶのです。

 

3. 「法」の意味

      「法」とは仏が悟った真理そのもの。

      特に「南無妙法蓮華経」の題目が、私たち凡夫にそのまま届いて働く「法」です。

 

4. 御義口伝の要点

 

御義口伝でこう仰せです(意訳):

      「妙法」とは、末法の衆生が成仏するための根本の法。

      「妙」とは即(すなわち)であり、「法」とは因果である。

→ つまり、題目を唱えるその一念に、成仏の因と果が同時に具わる。

 

5. まとめ

「妙法」とは、

      仏さまの悟りそのものの法であり、

      凡夫がそのまま仏となる「不思議な力」であり、

      題目を唱えることで、修行と成仏(因と果)が同時にかなう法。

 

だから、日蓮大聖人は「南無妙法蓮華経」と唱えることを、末法の私たちに弘めてくださったのです。

 

👉 次に「蓮華」の意味(日寛上人の御義口伝)も、同じように中学生向けに整理してみましょうか?

 

④「蓮華(れんげ)」の意味を 御義口伝 に基づいて整理します。

 

1. なぜ「蓮華」なのか?

サンスクリット原典の「Puṇḍarīka(プンダリーカ)」は「白い蓮華」を意味します。

鳩摩羅什大師は「蓮華」と訳しました。

 

仏教で「蓮華」はとても大事なシンボルです。

その理由を御義口伝では、次のように解き明かされています。

 

2. 蓮華の2つの特徴

(1) 泥の中に咲くけれど清らか

      蓮の花は泥沼から生まれますが、花そのものは清浄で汚れません。

      これは「迷いや欲にまみれた凡夫(人間)も、そのまま仏となれる」ことを示しています。

      御義口伝でも「迷即悟、凡即聖の譬え」とされます。

 

(2) 花と実が同時にある

      蓮の花は咲いたとき、すでに実(種子)が中にできています。

      普通の植物は「花が咲いたあと、しばらくして実がなる」けれど、蓮華は「因(花)」と「果(実)」が同時。

      これを「因果倶時(いんがぐじ)」といい、

「題目を唱えるその一念に、修行の因と成仏の果が同時にある」ことを示しています。

 

3. 御義口伝の要点(意訳)

      「蓮華」とは「因果倶時」の法を表す。

      蓮華のごとく、煩悩の泥の中にいながら、そのまま清浄の智慧を開くことができる。

      だから妙法蓮華経を信じる凡夫は、その場で仏と等しい境涯を得る。

 

4. まとめ

 

「蓮華」とは、

      迷いの凡夫が、そのまま清らかな仏の智慧を開く ことの象徴。

      因(修行)と果(成仏)が同時に具わる 不思議なはたらきを表す。

 

つまり「妙法蓮華経」とは、

「迷いの人間が、そのまま仏となれる不可思議な法」

であることを、ハッキリと示す題名なのです。

 

⑤「経(きょう)」について、日寛上人の御義口伝をふまえて、整理してみます。

 

1. 「経」とは何か

「経(Sūtra=スートラ)」は、仏が説かれた教えを記したものの総称です。

サンスクリット語の sūtra にはもともと「糸」という意味があります。

      糸がビーズを貫いてネックレスを作るように、

仏さまの教えを筋道立ててまとめ、人々をつなぐ役割をもつのが「経」です。

 

2. 御義口伝の解釈(意訳)

御義口伝では「経」の意味を次のように説かれます。

      「経とは一切衆生の修行の軌範(お手本)なり」

      つまり、仏の悟りの道を「まっすぐに貫く」道しるべ。

      特に「妙法蓮華経」の場合は、

題目(南無妙法蓮華経)を唱えることが、衆生を貫いて成仏に導く糸となる。

 

3. 例え

      学校の「時間割表」のようなもの。

それに従えば、勉強や生活が正しく進む。

      「経」とは、仏さまの時間割表=正しい生き方・成仏の道すじを示すもの。

      とくに「妙法蓮華経」は、どんな人でも必ず仏になれる道しるべ。

 

4. まとめ

 

「経」とは――

      仏の教えを「糸」のように貫くもの。

      衆生が歩むべき「成仏の軌道」。

      法華経では、その糸の核心が「南無妙法蓮華経」という題目。

 

参考

 

#法華講 204

 

日蓮正宗における「久遠元初(くおんがんじょ)の三宝」とは、仏・法・僧の三つの尊い存在(仏宝・法宝・僧宝)を、久遠元初の視点から捉えたものです。これは、一般的な仏教における三宝とは異なり、日蓮正宗独自の教えに基づいています。

 

1. 仏宝(ぶっぽう):久遠元初の自受用報身如来(日蓮大聖人)

 

仏教では、仏とは悟りを開いた存在を指します。日蓮正宗では、日蓮大聖人こそが末法の時代に出現した「久遠元初の自受用報身如来(じじゅうほうしんにょらい)」であり、本来の仏であるとされます。つまり、久遠の昔から仏であり、私たちを救うためにこの世に現れた存在として信仰されます。

 

2. 法宝(ほうぼう):本門戒壇の大御本尊

 

法とは、仏の教えや真理を意味します。日蓮正宗では、その究極の法が「本門戒壇(ほんもんかいだん)の大御本尊」だとされます。これは、日蓮大聖人が建立した御本尊であり、すべての人々を救う根本の法であるとされています。

 

3. 僧宝(そうぼう):日興上人と正統な血脈相承の僧侶

 

僧とは、仏の教えを正しく受け継ぎ、人々に広める役割を担う存在です。日蓮正宗では、日蓮大聖人の直弟子である日興上人が、唯一正しい教えを受け継いだ僧侶であり、その教えを正しく継承する歴代の法主(ほっす)が僧宝とされます。

 

まとめ

 

日蓮正宗の久遠元初の三宝は、仏(久遠元初の自受用報身如来である日蓮大聖人)、法(本門戒壇の大御本尊)、僧(日興上人とその正統な血脈を継ぐ法主)という形で確立されています。この三宝を正しく信仰し、南無妙法蓮華経と唱えることで、末法の衆生は救われると説かれています。

 

つまり、南無妙法蓮華経は、久遠元初の本法であり、久遠元初の仏様自身である。ということ。

これを人法一箇という。

 

内容がわからなくとも、理解できなくとも、ともかく、しっかりとお題目を唱えること。

御師範日顕上人は、

『一切を開く鍵は、唱題行にあり』と、御指南されています。

 

御祈念申し上げます。

 

3日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集75

 

()本尊9/19 ③種脱判2/12

 

草木成仏口決 523

 

一身所具の有情非情なり。此の有情非情、十如是の因果の二法を具足せり。衆生世間・五陰(ごおん)世間・国土世間、此の三世間有情非情なり。一念三千の法門をふりすゝぎ(振濯)たてたるは大曼荼羅なり。当世の習ひそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり。

 

原文の要点

 1. 一身所具の有情非情なり

 私たちの「身」には、命あるもの(有情=人間や動物など)と命なきもの(非情=草木や大地など)が、すべて備わっている。

 2. この有情・非情も十如是の因果を具えている

 どんなものも「相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等」という十如是(じゅうにょぜ)の法則に従って存在し、因果の理法を具えている。

 3. 三世間(衆生世間・五陰世間・国土世間)も有情・非情である

 すなわち

 - 衆生世間=人や生き物の世界

 - 五陰世間=私たちの身体や心の働き(色・受・想・行・識)

 - 国土世間=大地や自然の環境

 これらすべてが命あるもの・命なきものを含み、因果の法則に支配されている。

 4. 一念三千を振りすすぎ立てたのが大曼荼羅

 一念三千という法門(自分の一念の中に三千の諸法=すべての存在と現象が備わる教え)を余すことなく明らかにし、実際の形に示されたのが、大聖人の御本尊(大曼荼羅)である。

 5. 当時の学者も知らなかった深い法門

 この大曼荼羅の意義は、末法の凡夫に南無妙法蓮華経と唱えさせて、草木・山河・大地までも仏の命に変えるという、当時の学者たちが夢にも知らなかった究極の教えである。

 

まとめ

 

日蓮大聖人は、 人間も動物も草木も大地も、すべて因果の理法の中にあって仏性をそなえている と説かれました。

 

そして、私たちの一念の中には、宇宙のすべて(有情・非情、三世間)が備わっていて、これを余すことなく明らかにされたのが 御本尊=大曼荼羅 です。

 

だから、御本尊に向かって南無妙法蓮華経と唱えれば、私たちの一念が清められ、環境もまた仏の国土へと変わっていくのです。

 

👉 要するにこの御文は

「人も草木も山河も大地も、すべて妙法によって成仏できる。 その法門を顕したのが大曼荼羅であり、これは従来の学者の及ばなかった究極の真理である」

ということを仰せです。

 

4日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集76

 

()本尊10/19 ③種脱判3/12

 

観心本尊抄 654

 

 此の本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶(なお)文殊(もんじゅ)薬王等にも之を付属したまはず、何(いか)に況(いや)んや其の已外(いげ)をや。但(ただ)地涌千界を召して八品を説いて之を付属したまふ。

 

原文の内容

 

此の本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶文殊薬王等にも之を付属したまはず、何に況んや其の已外をや。但地涌千界を召して八品を説いて之を付属したまふ。

 

意味

 1. 本門の肝心とは何か

 本門の核心(いちばん大切なところ)は「南無妙法蓮華経の五字」である。

 2. 文殊・薬王にも付属しなかった

 お釈迦さまは、この肝心の五字を、智慧第一といわれる文殊菩薩や、法華経を身を焼いて供養した薬王菩薩といった、最高位の菩薩たちにすら託さなかった。

 3. それ以外の菩薩に託すはずがない

 ましてや、文殊・薬王より劣る他の菩薩に託すはずがない。

 4. 地涌千界に付属された

 ただし、寿量品の後に「地涌の菩薩(じゆのぼさつ)」が大地から涌き出てきて、法華経の肝心を弘める使命を受けることになった。お釈迦さまは、法華経の八つの品(従地涌出品から嘱累品まで)で、その地涌の菩薩たちに託されたのである。

 

まとめ

 

この御文は、

      「南無妙法蓮華経」という究極の法は、どんなに偉い菩薩にも託されなかった。

      それを受け継いだのは、 末法に出現する地涌の菩薩たち である。

 

ということをはっきり示されています。

 

日蓮大聖人は、この御文を受けて

自らこそ地涌の菩薩の上首・上行菩薩の御再誕であり、この南無妙法蓮華経を弘め広める唯一の御方である

と示されたのです。

 

👉 この御文のポイントは

「南無妙法蓮華経は、文殊や薬王のような昔からの菩薩ではなく、末法に出現する地涌の菩薩にだけ託された。そのリーダーが上行菩薩=日蓮大聖人である」

ということです。

 

一往は、上行菩薩=日蓮大聖人。

再往は、久遠元初の仏様=日蓮大聖人。

5日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集77

 

()本尊11/19 ③種脱判4/12

 

観心本尊抄 654

 

 其の本尊の為体(ていたらく)、本師の娑婆の上に宝塔空(くう)に居()し、塔中(たっちゅう)の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士(きょうじ)上行等の四菩薩、文殊・弥勒(みろく)等は四菩薩の眷属として末座に居し、迹化・他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月卿(うんかくげっけい)を見るが如く、十方の諸仏は大地の上に処したまふ。迹仏迹土を表する故なり。是()くの如き本尊は在世五十余年に之れ無し、八年の間但(ただ)八品に限る。

 

この御文は、とても大事な 本尊の姿(曼荼羅御本尊の成り立ち) を説明している箇所です。

 

原文の要点と意味

 1. 「本師の娑婆の上に宝塔空に居し」

 私たちの世界(娑婆世界)の上に、多宝如来の宝塔が空中に現れる。

 (法華経の「見宝塔品」の場面)

 2. 「塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏」

 宝塔の中には法華経があり、その左右に釈迦仏と多宝仏が並んで座している。

 3. 「釈尊の脇士、上行等の四菩薩」

 釈尊の脇に仕えるのは、上行・無辺行・浄行・安立行の 本化の四菩薩。

 4. 「文殊・弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居す」

 文殊や弥勒といった、爾前から有名な菩薩たちは、地涌の菩薩の眷属(従者)として、下の席にいる。

 5. 「迹化・他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処す」

 それ以外の迹化の菩薩や他方の菩薩たちは、万民が住む大地の上に位置している。

 6. 「十方の諸仏は大地の上に処したまふ」

 さらに十方世界の諸仏も、大地の上にそれぞれ居られる。

 7. 「迹仏迹土を表する故なり」

 これらは、みな仏の「迹(仮の姿)」とその国土を表している。

 8. 「かくの如き本尊は在世五十余年にこれ無し、八年の間ただ八品に限る」

 このような本尊の姿は、お釈迦さまの在世五十余年の説法の中でも、それまでには一度も顕れなかった。

 ただ最後の八年間、その中でも「従地涌出品から嘱累品までの八品」にだけ示されたものである。

 

まとめ

 

この御文は、

      本尊の御姿=法華経の本門八品に示された「宝塔の会座」そのもの である

      そこでは、

         中央に妙法蓮華経

         その左右に釈迦仏と多宝仏

         さらに四菩薩が主役として並び

         文殊・弥勒など有名な菩薩は従属の位置

         その他の菩薩や十方の仏は大地にいる

という秩序が示されている。

 

つまり、お釈迦さま一代の説法の集大成として顕れた究極の御本尊の形相 を、この御文は表しているのです。

 

👉 ポイントは、

「本尊とは、法華経本門八品に説かれた空中の宝塔の会座を、日蓮大聖人が一幅の曼荼羅として顕されたもの」

ということなんです。

 

6日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集78

 

()本尊12/19 ③種脱判5/12

 

観心本尊抄 654

 

 正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉(かしょう)・阿難を脇士(きょうじ)と為()し、権大乗並に涅槃・法華経の迹門等の釈尊は文殊・普賢(ふげん)等を以て脇士と為す。此等(これら)の仏をば正像に造り画(えが)けども未だ寿量の仏有(ましま)さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか。

この御文は『観心本尊抄』の中で、大聖人が**本門寿量品の仏(久遠元初の自受用報身如来)**と、正法・像法時代に造られた仏像との違いを説かれている大事なところです。

 

御文の要点

 1. 正法・像法二千年の間

 この時代は、釈尊がインドに出現してから約二千年間のこと。

 この間に造られた仏像は、みな「迹の釈尊(歴史上の釈迦)」です。

         小乗仏教の釈尊 脇士は 迦葉・阿難

         大乗仏教の釈尊(迹門・涅槃経など) 脇士は 文殊・普賢

つまり、当時は「歴史上の釈尊とその弟子たち」を中心に仏像がつくられていたということです。

 

 2. しかし、その時代には「寿量品の仏」は現れていない

 法華経の本門寿量品で初めて説かれるのが「久遠元初の自受用報身如来=本仏」です。

 正像二千年ではまだ、この「久遠の仏」は仏像として造立されていませんでした。

 

 3. 末法になって初めて出現する

 大聖人は、末法に入って初めて「本門寿量の仏」を明らかにし、その御姿を図現したのが本門戒壇の大御本尊だと仰せです。

 つまり、末法にふさわしい仏像こそが「南無妙法蓮華経の本尊」なのです。

 

例え

 

・正像二千年の仏像 「歴史上の釈迦仏の像」

・末法に初めて出る仏像 「久遠元初の本仏=大聖人の御本尊」

 

いわば、今までの仏像は予告編のようなものであり、本編(本当の仏)は末法に現れる、ということです。

 

まとめ

「正像の時代につくられた仏像は、すべて歴史上の釈尊やその弟子を中心にしたものであり、寿量品の久遠本仏を表す仏像は存在しなかった。末法に入って初めて、その本仏が図現される。これこそが御本尊である」

 

 

 

7日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集79

 

()本尊13/19 ③種脱判6/12

 

観心本尊抄 654

 

   此の釈に「闘諍の時」云云、今の自界叛逆(ほんぎゃく)・西海侵逼(しんぴつ)の二難を指すなり。此の時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。

 

御文の意味

 1. 「闘諍の時」とは?

 法華経の予言に「闘諍堅固(とうじょうけんご)」という時代が説かれています。

 これは、世の中に争いが満ち、国の中では内乱が起こり(=自界叛逆)、国外からは侵略が迫る(=西海侵逼)ような大乱世を指します。

 日蓮大聖人は、鎌倉時代の蒙古襲来や国内の動乱こそ、まさにその「闘諍の時」だと見抜かれました。

 2. その時に出現するのが「地涌の菩薩」

 地涌の菩薩(じゆのぼさつ)とは、法華経の本門寿量品で、久遠元初から本仏に仕えてきた大菩薩たち。

 特に上行菩薩をはじめとする四菩薩が中心であり、末法において妙法を弘める使命を担っています。

 3. 「本門の釈尊を脇士と為す」

 今までの仏像は「釈迦を中心に、迦葉や阿難・文殊や普賢を脇士」として造られました。

 しかし末法には、逆になります。

 本門の久遠釈尊は、地涌の菩薩の脇士となり、地涌こそが主役として本尊に顕されるのです。

 つまり、御本尊の中心は「南無妙法蓮華経」=末法の本仏・日蓮大聖人であり、釈尊ですら脇に位置づけられる、ということです。

 4. 「一閻浮提第一の本尊」

 一閻浮提とは世界全体のこと。

 つまり、末法に立てられる御本尊こそ、全世界において第一の本尊である。

 それが大聖人の御図現された本門戒壇の大御本尊である、と仰せなのです。

 

まとめ

      末法は「闘いと争いの時代」=内乱と外国からの侵略が同時に起こる時代。

      このときに出現するのが、久遠からの使命をもった「地涌の菩薩」。

      その中心は日蓮大聖人であり、御本尊においては、釈尊すら脇に従う。

      その御本尊こそ「一閻浮提第一の本尊」=世界にただ一つ、最高の御本尊。

 

つまり御文は、

「末法の乱世に、日蓮大聖人が御本尊を図現され、世界第一の本尊が日本に立つ」

ということを、予言的に明かしている部分なのです。

 

8

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集80

 

()本尊14/19 ③種脱判7/12

 

諸法実相抄 665

 

 地涌の菩薩の中の上首唱導上行・無辺行等の菩薩より外(ほか)は、末法の始めの五百年に出現して法体の妙法蓮華経の五字を弘め給ふのみならず、宝塔の中の二仏並座(びょうざ)の儀式を作り顕はすべき人なし。是(これ)即本門寿量品の事の一念三千の法門なるが故なり。

 

①「地涌の菩薩」とは

 

法華経の「従地涌出品」に出てくる、地の下から湧き出てきた無数の菩薩のことです。

彼らは、釈迦仏の弟子ではなく、久遠元初の本仏(永遠の仏)から直接教えを受けた特別な菩薩です。

 

その中心となる四人が――

      上行菩薩

      無辺行菩薩

      浄行菩薩

      安立行菩薩

 

この四菩薩を「四菩薩」と呼び、上行菩薩がその**上首(リーダー)**です。

 

 

②「末法の始めの五百年」とは

 

釈尊滅後(仏滅後)からの時代を三つに分けて説きます。

      正法(しょうぼう)千年

      像法(ぞうぼう)千年

      末法(まっぽう)一万年

 

その末法の最初の五百年間に、地涌の菩薩が出現して法華経を弘める――と経に説かれています。

この「地涌の菩薩の上首=上行菩薩の使命」を受けて現れたのが、日蓮大聖人です。

 

③「法体の妙法蓮華経の五字を弘め給ふ」

 

ここでいう「法体(ほったい)」とは、文字や音声ではなく、**実際の法そのもの(真実の仏の生命)を指します。

つまり、単に「妙法蓮華経」と唱えるだけでなく、

その根本の法体=本門の本尊(本因本果の妙法)**を顕したのが日蓮大聖人です。

 

④「宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕はすべき人なし」

 

法華経の「見宝塔品」では、空中に宝塔が現れ、その中に**多宝如来と釈迦如来が並んで座る(並座)**場面があります。

これは「過去仏(多宝)」と「現仏(釈迦)」が一体となる、真実の仏界の顕現を表します。

 

この「二仏並座の儀式」を、実際の形(本尊)として顕した人こそ、日蓮大聖人なのです。

大聖人が建立された「本門戒壇の大御本尊」は、まさにこの儀式の現実の顕れです。

 

⑤「是即本門寿量品の事の一念三千の法門なるが故なり」

 

「事の一念三千(じのいちねんさんぜん)」とは、理論上ではなく、現実に三千世間(全宇宙)を包む仏界を顕す法です。

釈尊が説いた「理の一念三千」を、日蓮大聖人が身をもって実現されたことを指しています。

 

つまり、大聖人の顕した本門の本尊こそ、

「寿量品に説かれた永遠の仏(久遠の本仏)」の実体そのものであり、

それが「事の一念三千の法体」なのです。

 

まとめ

 

地涌の菩薩の中でも、上行菩薩(=日蓮大聖人)[一往]こそが、

末法のはじめに出現し、

真実の仏の生命=妙法蓮華経の五字を弘め、

宝塔品に説かれた「二仏並座」を実際に顕された。

それこそが「事の一念三千」、すなわち本門の本尊を顕した[久遠元初の仏、再往]ということです。

 

9

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集81

 

()本尊15/19 ③種脱判8/12

 

諸法実相抄 665

 

 されば釈迦・多宝の二仏と云ふも用(ゆう)の仏なり。妙法蓮華経こそ本仏にては御座(おわ)し候へ。

 

🔹原文の意味

 

「だから、釈迦仏(しゃかぶつ)や多宝仏(たほうぶつ)といっても、用の仏様(はたらきの仏)すぎない。

それに対して、妙法蓮華経という法こそが、本当の根本の仏(本仏)である。」

 

🔹少し詳しく説明すると

 

ふつう仏といえば、お釈迦さま(釈迦仏)を思い浮かべますね。

しかし、日蓮大聖人はそれよりさらに深い真理を説かれています。

      「用(ゆう)の仏」とは、働きの仏。

 つまり「法(ほう)」──真理の仏があって、その真理を人々に教え導くために現れる姿です。

 釈迦仏や多宝仏は、この「法の仏」のはたらきを表しているのです。

      「本仏(ほんぶつ)」とは、根本の仏。

 

 「南無妙法蓮華経」という法の形で現れたものです。

 

久遠元初の仏=久遠元初の本法。

つまり、妙法蓮華経=仏。

人法一箇(にんぽういっか)、人(にん)=仏様と法(ほう)=妙法蓮華経が一体不ニであるということ。

 

🔹まとめると

 

釈迦・多宝の二仏 法を説き、守る仏(用の仏) 電灯のスイッチを押す人や、光を反射する鏡のようなもの

 

妙法蓮華経 根本の仏・永遠の命の法(本仏) 光そのもの=電気エネルギーそのもの

 

🔹信心のうえでの意味

 

私たちが拝む本尊は、「日蓮がたましいをすみにそめながしてかきて候ぞ」と、仰せのように、仏様の命を認める、仏様そのものです。

「南無妙法蓮華経」こそが永遠の本仏なのです。

 

この妙法を信じ、唱えるところに、釈迦仏・多宝仏をも動かす根本の力がはたらく──

というのが、この御文の深意です。

 

ごく簡単に言えば、

 

「お釈迦さまも、多宝仏も、“法(ほとけのはたらき)”の現れにすぎない。

本当の仏とは、“南無妙法蓮華経”そのものなのだ。」

ということです。

 

10日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集82

 

()本尊16/19 ③種脱判9/12

 

諸法実相抄 665

 

日蓮末法に生まれて上行菩薩の弘め給ふべき所の妙法を先立ちて粗ひろめ、つくりあらはし給ふべき本門寿量品の古仏たる釈迦仏、迹門宝塔品の時涌出し給ふ多宝仏、涌出品の時出現し給ふ地涌の菩薩等を先づ作り顕はし奉る事、予が分斉にはいみじき事なり。日蓮をこそにくむとも内証にはいかゞ及ばん。

 

この御文は『諸法実相抄』(665頁)の中でも、日蓮大聖人がご自身の出現の意義を説かれた、とても深い御文です。

 

🔹現代語訳

 

日蓮は、末法というこの時代に生まれて、

本来なら上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)が弘めるはずの「妙法蓮華経の五字(みょうほうれんげきょうのごじ)」を、先に広め始めました。

 

そして、本門寿量品に出てくる久遠の本仏・釈迦如来、

宝塔品に出てくる多宝仏、

涌出品に出てくる地涌の菩薩たちを、

この末法の世に**先に形として顕わした(あらわした)**のです。

 

これは、私(日蓮)の身としては、本当に不思議でありがたいことです。

 

人々がたとえ日蓮を憎んだとしても、

私の**内証(ないしょう=仏としての悟りの境地)**には、誰も及ぶことはできないのです。

 

 

🔹意味・背景

      「末法」とは、釈尊の教えが形だけになり、人々の心が乱れる時代のこと。

大聖人はその末法の始めに出現されました。

      本来、「妙法蓮華経の五字」を広める使命を持つのは上行菩薩でした。

しかし大聖人は、その上行菩薩の使命を先立って実行されたのです。

      「釈迦仏・多宝仏・地涌の菩薩」とは、法華経の中で登場する大聖人を守護する存在。

大聖人はそれらの仏・菩薩の働きを、自らの弘教(ぐきょう)によってこの世に顕わした、ということです。

 

🔹まとめ

 

仏・菩薩 経典での登場 日蓮大聖人による「顕現」

釈迦仏(本門寿量品の古仏) 久遠の本仏として説かれる 大聖人ご自身の内証(悟り)として顕われた

多宝仏(迹門宝塔品) 法華経の証人として現れる 法の真実を証明する働き

地涌の菩薩(涌出品) 末法に妙法を弘める 大聖人とその弟子檀那にあたる

 

🔹まとめの意義

 

この御文で大聖人は、

「私は末法において、上行菩薩の使命を先に実現した」

「それは仏たちが経に説かれた通りに、この世に顕われた証である」

と述べられています。

 

つまり

 

日蓮大聖人こそ、末法に妙法を広める上行菩薩の御化身であり、久遠元初の自受用報身如来である

というご自身の立場を、仄(ほの)めかしておられるのです。

 

11日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集83

 

()本尊17/19 ③種脱判10/12

 

諸法実相抄 685

 

    一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ。あひかまへて、あひかまへて、信心つよく候ふて三仏の守護をこう()むらせ給ふべし。

 

🪷現代語訳

 

「この一閻浮提(いちえんぶだい:全世界)の中で第一(だいいち)に尊い御本尊を、心から信じなさい。

くれぐれも、くれぐれも、信心を強くして、三仏(さんぶつ)の守護をいただくようになりなさい。」

 

🔍語句の意味

      一閻浮提(いちえんぶだい):

 仏教でいう「人の住む世界全体」。つまり「全人類・全世界」を指します。

      第一の御本尊:

 日蓮大聖人が顕された「一閻浮提第一の御本尊」、すなわち本門戒壇の大御本尊のこと。

 この御本尊こそ、末法万年の衆生を成仏へ導く唯一の本仏の御本尊です。

      あひかまへて、あひかまへて:

 「くれぐれも」「重ねて申すぞ」という強いお言葉。

 大聖人の深い慈悲と切なる願いがこもっています。

      三仏(さんぶつ):

 釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏をいいます。

 この三仏が、妙法蓮華経を持つ人を守ると説かれています。

 

🪶解説

 

大聖人は、門下に対して

「この御本尊こそ、全世界でただ一つ、真実の仏をおわす御本尊である。

だから何があっても信心を強く持ちなさい。

そうすれば必ず、仏さま方の守護をいただける」

と教えられています。

 

つまり

 

🌸 この御本尊を信じきるところに、真の幸福も、護られる力も生まれる。

ということです。

 

💡信心への実践の姿勢

      どんな苦難や迷いがあっても、

 「御本尊を信じきる」ことを根本にすえる。

      その信心の強さによって、

 目に見えぬ仏界の守護が必ずはたらく。

      だからこそ大聖人は「あひかまへて、あひかまへて」と、

 二度も繰り返して強調されたのです。

 

🌼まとめ

 

「御本尊を信じぬく者こそ、三仏に守られ、この世も来世も安穏である」

――この一節には、大聖人の末法の弟子への

最大の励ましとお慈悲が込められています。

 

12日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集84

 

()本尊18/19 ③種脱判11/12

 

経王殿御返事 685

 

 師子王は前三後一と申して、あり()の子を取らんとするにも、又たけ()きものを取らんとする時も、いき()をひを出()だす事はたゞをな()じき事なり。日蓮守護たる処の御本尊をしたため参らせ候事も師子王にをとるべからず。

 

とても力強い御文です

 

🔶現代語訳

 

「師子王(ししおう)」――つまりライオンの王は、

たとえ小さなアリを捕まえるときでも、大きな猛獣に立ち向かうときでも、全力で力をふりしぼって挑むといいます。

 

同じように、

私・日蓮がこの御本尊をしたため(書きしたためて)お渡しすることも、その師子王の勢いに少しも劣ることはないのです。

 

🔶意味・心

 

大聖人はここで、「どんな小さなことでも、全力で仏法のために行うべきだ」ということを教えられています。

ライオンは相手によって力を抜いたりはしません。

日蓮大聖人も、たとえ一人の信徒のためであっても、全身全霊で御本尊をしたため、命をかけて弘教された――

その強い決意を示しておられるのです。

 

🔶この御文の心をわかりやすく言うと

      **「本気でやる信心」**が大事。

大事な時も小さな時も、全力で仏道修行を行う。

      日蓮大聖人は命をかけて御本尊をしたためられた。だからこそ、私たちもその御心に報いるように、真剣に題目を唱え、信心に励むことが大切。

 

🔶まとめ

 

ライオンは、どんな小さな敵にも全力で立ち向かう。

日蓮大聖人も、その心で御本尊をお書きになった。私たちも、どんな小さな信心の実践でも、

「本気の一念」で行うことが大切。

 

13日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集85

 

()本尊19/19 ③ 種脱判12/12

 

経王殿御返事 685

 

日蓮がたましひ()をすみ()にそめながしてかきて候(そうろう)ぞ、信じさせ給へ。

仏の御意(みこころ)は法華経なり。

日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。

 

【現代語訳】

 

日蓮は、自分の魂(たましい)を墨に溶かして書き記しました。

どうか、この御本尊を心から信じてください。

仏さま(釈尊)の本当のお心は、法華経にあります。

そして、日蓮の魂は南無妙法蓮華経の五字にこそあるのです。

 

【解説】

 

このお手紙は、病気で苦しむ門下・経王(きょうおう)という少年と、そのご両親にあてられたものです。

大聖人は、経王の一家が御本尊を深く信じるように励まされています。

 

🕊️ 1. 「魂を墨にそめて書いた」

 

これは比喩(ひゆ)で、

「この御本尊は、単なる紙や墨ではなく、日蓮の命そのものを込めて書いた」という意味です。

つまり、御本尊には日蓮大聖人の生命(仏のいのち)そのものが宿っているということです。

 

🕊️ 2. 「仏の御意(みこころ)は法華経なり」

 

仏さまの本当の心、つまり悟りの内容は法華経にすべて説かれているということです。

他の経典ではなく、法華経こそが仏の真実の教えなのです。

 

🕊️ 3. 「日蓮の魂は南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」

 

大聖人の生命の中心・心のすべては、南無妙法蓮華経の信仰にあります。

だから、この題目こそが大聖人そのものなのです。

 

🌸 【まとめ】

 

この御文は、こういう意味になります。

 

「私(日蓮)は命をかけて、この御本尊をしたためた。

この御本尊を信じることが、仏の教えを信じることなのだ。

そして、私の魂は、南無妙法蓮華経の五字の中にこそある。」

 

御本尊を拝むとき、ただ紙を拝むのではありません。

そこに宿る大聖人の魂=仏のいのちを信じて、題目を唱えるのです。

この信心がある人は、どんな苦難も乗り越え、仏の守護を受けられる――

そう教えてくださる、非常に尊い御文です。

日蓮大聖人=南無妙法蓮華経

14日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集86

 

(3)大曼荼羅御本尊 1/13

 

妙法曼荼羅供養事 689

 

妙法蓮華経の御本尊、供養候いぬ。

 此の曼陀羅(まんだら)は文字は五字七字にて候へども、三世諸仏の御師、一切の女人の成仏の印文なり。冥途(めいど)にはともしびとなり、死出(しで)の山にては良馬となり、天には日月の如し。地には須弥山(しゅみせん)の如し。生死海の船なり。成仏得道の導師なり。此の大曼陀羅は、仏の滅後二千二百二十余年の間、一閻浮提の内には未(いま)だひろまらせ給はず。

 

🕉御文

 

妙法蓮華経の御本尊、供養候いぬ。

 

🔹意味

「妙法蓮華経の御本尊を、あなたが供養されたことは本当に尊いことです」という意味です。

ここで言う「御本尊」とは、南無妙法蓮華経と文字で顕された大曼荼羅御本尊のことです。

 

🕉御文

 

此の曼陀羅は文字は五字七字にて候へども、三世諸仏の御師、一切の女人の成仏の印文なり。

 

🔹意味

「この曼荼羅(御本尊)は、見た目はただの『南無妙法蓮華経』という五字・七字の文字ですが、

実は過去・現在・未来、**三世のすべての仏の先生(御師)**であり、

また、**すべての女性が成仏できる証(あかし)**でもあるのです。」

 

🔸ポイント

・「三世諸仏の御師」…仏さま方も、この法(南無妙法蓮華経)によって成仏されたということ。

・「女人成仏の印文」…女人(にょにん)=女性も、この御本尊によって必ず成仏できると示されています。

 

🕉御文

 

冥途にはともしびとなり、死出の山にては良馬となり、天には日月の如し。地には須弥山の如し。

 

🔹意味

「この御本尊は、死後の暗い冥途では灯(あかり)となり、

死出の山(死者が渡るとされる険しい道)では良馬(りょうめ)=乗り物となって助けてくださる。

天上では日月のように照らし、地上では須弥山(しゅみせん=世界の中心の山)のようにゆるがない存在である。」

 

🔸つまり

生きているときも、死んだあとも、どんな世界でも、

この御本尊こそが私たちを導き、守ってくださるということです。

 

🕉御文

 

生死海の船なり。成仏得道の導師なり。

 

🔹意味

「生死(しょうじ)という苦しみの海を渡るための船であり、

成仏へと導いてくださる**師匠・導師(どうし)**である。」

 

🔸つまり

迷いや苦しみを超えて、悟り・幸福へと向かうためには、

この御本尊(南無妙法蓮華経)を信じ、唱えることが唯一の道である、という意味です。

 

🕉御文

 

此の大曼陀羅は、仏の滅後二千二百二十余年の間、一閻浮提の内には未だひろまらせ給はず。

 

 

🔹意味

「この大曼荼羅(御本尊)は、お釈迦さまが亡くなってから二千二百二十年以上の間、

世界中(=一閻浮提)に、まだ一度も弘まったことがありません。」

 

🔸つまり

この大曼荼羅は、日蓮大聖人が初めて末法の世に顕された、本門の本尊であり、

それまでの歴史には存在しなかった「一閻浮提第一の御本尊」であることを示されています。

 

 

🌸まとめ

 

この御文の心は──

 

南無妙法蓮華経の御本尊こそ、仏の心そのものであり、

生も死も超えて私たちを導く、最高・唯一の成仏の依りどころである。

 

という教えです。

 

そしてその御本尊を信じ、供養する人は、

現世でも来世でも、どんな苦しみも乗り越え、必ず仏の境涯へと導かれていく──

この確信をもって信心を貫くことが大切なのです。

 

15日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集87

 

(3)大曼荼羅御本尊 2/13

 

妙法曼荼羅供養事 690

 

 末代の一切衆生は、いかなる大医、いかなる良薬(ろうやく)を以てか治すべきとかんがへ候へば、大日如来の智拳(ちけん)印、ならびに大日の真言、阿弥陀如来の四十八願、薬師如来の十二大願の衆病悉除(しゅびょうしつじょ)の誓ひも及ぶべからず。此等(これら)の薬をつかはゞ病消滅せざる上、いよいよ倍増すべし。此等の末法の時のために、教主釈尊・多宝如来・十方分身(ふんじん)の諸仏を集めさせ給ふて一の仙薬をとゞめ給へり。所謂(いわゆる)妙法蓮華経の五の文字なり。

 

この一節は、末法の衆生を救う唯一の大良薬は「南無妙法蓮華経」であると説かれた箇所です。

 

原文

 

末代の一切衆生は、いかなる大医、いかなる良薬を以てか治すべきとかんがへ候へば、

 

🔹 意味

末法の世に生きる私たち人々(衆生)は、煩悩や罪業、迷いという「心の病」にかかっています。

その人々を、どんな名医(仏)やどんな薬(教え)で救えるだろうか、と大聖人は問われています。

 

大日如来の智拳印、ならびに大日の真言、阿弥陀如来の四十八願、薬師如来の十二大願の衆病悉除の誓ひも及ぶべからず。

 

🔹 意味

たとえ大日如来(真言宗の本尊)の印相や真言、

あるいは阿弥陀仏(浄土宗・浄土真宗)の「南無阿弥陀仏」、

また薬師如来(天台や密教で重んじる)の十二の誓願であっても、

末法の人々を真に救う力は及ばない、ということです。

 

🔹 ポイント

ここで大聖人は、他宗の本尊・教えを挙げられていますが、

それらは「正法・像法の時代」には効いた薬でも、

「末法」には効力を失っていると教えられています。

──つまり、時代に合わない教えということです。

 

此等の薬をつかはゞ病消滅せざる上、いよいよ倍増すべし。

 

🔹 意味

これらの薬(他宗の教え)を末法の今に使えば、

病(迷いや罪)は治らないどころか、

かえって悪化してしまう、という厳しい指摘です。

 

🔹 たとえで言うと

効かない薬どころか、副作用の強い薬を飲むようなものです。

一見「ありがたい教え」に見えても、法華経に背く教えは

かえって苦しみを深くしてしまう、というのです。

 

此等の末法の時のために、教主釈尊、多宝如来・十方分身の諸仏を集めさせ給ふて、一の良薬をとゞめ給へり。

 

🔹 意味

そこで、末法の衆生を救うために、

釈尊は多宝仏、十方の分身の諸仏を集めて、

「この時代のためのたった一つの了薬を残された。

 

🔹 それこそが

 

所謂妙法蓮華経の五(いつつ)の文字なり。

 

🔹 意味

その唯一の大良薬こそ、**「妙法蓮華経」の五字(南無妙法蓮華経)**なのです。

 

🌸まとめ

 

末法の今の世では、どんな仏やどんな教えでも、人々の苦しみや迷いを根本から救う力はない。釈尊がこの時のために残されたただ一つの薬が、「南無妙法蓮華経」という五字である。

これを信じ唱えることで、すべての病(迷い・罪・苦しみ)が治るのだ──

というお心です。

 

💡ポイント

      「病」=人間の迷いや煩悩、業の苦しみ。

      「医」=仏さま。

      「薬」=仏の教え。

      「仙薬(霊薬)」=末法における南無妙法蓮華経。

      「時」=末法に合う正しい法を選ぶことが肝心。

 

 

 

16日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集88-①

 

(3)大曼荼羅御本尊  3-①/13

 

新尼御前御返事 764

 

 今此の御本尊は教主釈尊ぬ五百塵点劫(じんでんごう)より心中にをさめさせ給ひて、世に出現せさせ給ひても四十余年、其の後又法華経の中にも迹門はせすぎて、宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕し、神力品属累(ぞくるい)に事極りて候ひしが、金色(こんじき)世界の文殊師利(もんじゅしり)、兜史多(とした)天宮の弥勒(みろく)菩薩、補陀落山(ふだらくせん)の観世音、日月浄明徳仏(にちがつじょうみょうとくぶつ)の御弟子の薬王菩薩等の諸大士・我も我もと望み給ひしかども叶はず。是等は智慧いみじく、才学ある人々とはひび()けども、いまだ日あさし、学も始めたり、末代の大難忍びがたかるべし。

 

はい、ではこの御文をわかりやすく、信心の上から解説しますね。

 

🔶御書本文(新尼御前御返事・764頁)

 

今此の御本尊は教主釈尊五百塵点劫より心中にをさめさせ給ひて、世に出現せさせ給ひても四十余年、其の後又法華経の中にも迹門はせすぎて、宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕し、神力品属累に事極りて候ひしが、金色世界の文殊師利、兜史多天宮の弥勒菩薩、補陀落山の観世音、日月浄明徳仏の御弟子の薬王菩薩等の諸大士・我も我もと望み給ひしかども叶はず。是等は智慧いみじく、才学ある人々とはひびけども、いまだ日あさし、学も始めたり、末代の大難忍びがたかるべし。

 

🔶現代語訳(やさしく)

 

この御本尊(=南無妙法蓮華経の御本尊)は、

教主釈尊(しゃくそん=お釈迦さま)が五百塵点劫という遠い昔から心の中に秘めていたものです。

 

お釈迦さまがこの世に出てからも、まず四十余年の間はその心中の大法を説かれず、

そのあと法華経を説く中でも、**迹門(しゃくもん)**ではまだその大法を明かされませんでした。

けれども、**宝塔品(ほうとうほん)**から事の本(じのほん=真実の教え)を明かしはじめ、

**寿量品(じゅりょうほん)**で本仏の悟りを説き顕し、

**神力品・属累品(じんりきほん・ぞくるいほん)**でその法を後世にゆだねることで、

ついにこの大法の本義は完成したのです。

 

その時、

金色世界の文殊菩薩、兜率天(とそつてん)の弥勒菩薩、補陀落山(ふだらくせん)の観音菩薩、

日月浄明徳仏の弟子の薬王菩薩など、

多くの立派な菩薩たちが「私が弘めます!」と願い出ました。

 

しかし、それは許されませんでした。

なぜなら、彼らは智慧も学問も優れてはいるけれども、

まだその信心が浅く、末法(まっぽう)のような大難の時代にはとても耐えきれないからです。

 

🔶意味と教え

 

この御文は、なぜ地涌の菩薩(じゆのぼさつ)が末法に出現して御本尊を弘めるのか、

その深い理由を示されています。

 1. 御本尊は久遠の仏(くおんのぶつ)の心中の法

 → お釈迦さまが五百塵点劫(=はるか昔)から悟っていた「妙法蓮華経」の法そのもの。

 → これは、ただのお経や文字ではなく、「仏のいのち」そのもの。

 2. 文殊・弥勒・観音などでも弘められない法

 → どんなに智慧や学問があっても、

  末法の大難(戦乱・謗法・迫害)の中で、この法を弘めることはできない。

 → そこで、釈尊は地涌の菩薩にまかせた。

 3. 地涌の菩薩の上首(じょうしゅ)は上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)

 → この上行菩薩こそ、末法に出現して南無妙法蓮華経を弘める使命を持つ方。

 → 日蓮大聖人こそ、その上行菩薩の御化身。

 

🔶信心への結び

 

この御文から、次のような信心の姿勢が学べます。

      私たちが拝む御本尊は、釈尊が五百塵点劫から秘めていた最高の法。

      それを日蓮大聖人が末法に顕してくださった。

      だから、この御本尊に南無妙法蓮華経と唱えることは、久遠の仏のいのちと一体になること。

      文殊・観音さえもかなわなかったこの大法を、私たちは今、受け持つことができている。

 

はい。では続く部分、

 

「是等は智慧いみじく、才学ある人々とはひびけども、いまだ日あさし、学も始めたり、末代の大難忍びがたかるべし」

 

について、順を追ってわかりやすく解説いたします。

 

🔶御文の意味(現代語訳)

 

文殊や弥勒、観音、薬王などの菩薩たちは、

たしかに大変すぐれた智慧をもち、学問も深く、世間では「才学のある立派な菩薩」と聞こえています。

 

しかし、彼らは仏法の修行の「始めの段階」にある者たちで、

その悟りもまだ浅いのです。

 

ゆえに、末法という、仏の正しい教えが滅びゆく「大難の時代」には、

とても耐え忍ぶことができないのです。

 

🔶深い意味(教学的な解釈)

 

ここで大聖人は、

「いかに智者や名声ある菩薩でも、末法に妙法を弘めることはできない」

ということを明確に示されています。

 

つまり、智慧や知識ではなく、信心の強さこそが大切なのです。

      文殊菩薩 智慧第一

      弥勒菩薩 釈尊の後継者

      観音菩薩 慈悲の象徴

      薬王菩薩 修行・奉仕の代表

 

これほどの大菩薩たちでも、末法の「謗法充満」「三毒猛盛(貪・瞋・痴がはびこる)」の世の中では、

法華経を弘めることはできない。

 

だからこそ、釈尊は彼らではなく、地涌の菩薩、特にその上首である上行菩薩に託されたのです。

 

🔶ここにあらわれる日蓮大聖人の使命

 

この「末代の大難忍びがたかるべし」というところに、

まさに日蓮大聖人の御一生の姿が重なります。

 

大聖人は、

      竜の口の法難、

      佐渡流罪、

      数々の迫害、

をすべて忍び抜かれ、妙法を弘められました。

 

これは、文殊や観音でもできなかったこと。

ゆえに、「末法の本仏の御使い」=上行菩薩の再誕である証(あかし)です。

 

🔶私たちの信心への教え

 

この御文は、単に「昔の菩薩はえらかったけど及ばない」という話ではなく、

今の私たちにも向けられた激励です。

      どんなに学問があっても、信心がなければ大難に負ける。

      どんなに世間に名声があっても、妙法を弘める力にはならない。

      ただ、南無妙法蓮華経の信心によってこそ、末法の魔を打ち破れる。

 

つまり、

 

「智慧や知識より、信心が第一」

「地涌の弟子として、妙法を弘める行動が尊い」

 

という大聖人の教えが、この短い一節に込められています。

 

🔶まとめ(信心の要)

 

文殊も観音も耐えがたしという末法に、

信心強きわれら地涌の弟子こそ、仏の使いなり。

 

17

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集88-②

 

(3)大曼荼羅御本尊 3-②/13 

 

新尼御前御返事 764

 

 我(われ)五百塵点劫より大地の底にかくしをきたる真の弟子あり、此(これ)にゆづ()るべしとて、上行菩薩等を涌出品に召し出ださせ給ひて、法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五字をゆづらせ給ひて、あなかしこあなかしこ、我が滅度の後正法一千年、像法一千年に弘通すべからず。

 

 

この御文は『新尼御前御返事』の中でも、日蓮大聖人が御自身の出現の意味を明かされた核心部分です。

 

🔶現代語訳

 

お釈迦さまはおっしゃいました。

 

「私は、五百塵点劫というはるか昔から、

 大地の底にかくしておいた“真の弟子たち”がいる。

 この者たちこそ、私の本当の弟子であり、

 この者たちに大法をゆだねよう。」

 

そこで、お釈迦さまは「涌出品(ゆじゅっぽん)」において、

大地の底から無数の菩薩――つまり**地涌の菩薩(じゆのぼさつ)**を召し出されました。

 

その上首(代表)である上行菩薩らに、

法華経の本門の肝心、つまり「南無妙法蓮華経の五字」の大法をおゆずりになったのです。

 

そして仰せられた。

 

「この大法は、私の滅後、

 正法一千年・像法一千年には弘めてはならない。

 それらの時代ではなく、**末法(まっぽう)**の時こそ、この法を弘める時である。」

 

🔶ここに込められた深い意味

 

① 「五百塵点劫より」――久遠の仏の弟子

 

「五百塵点劫(ごひゃくじんでんごう)」とは、

砂を一つ一つ積み上げて、無限に遠い過去をたとえた言葉。

つまり、「永遠の昔」からという意味です。

 

そのころから、久遠実成(くおんじつじょう)の仏であるお釈迦さまは、

“真の弟子”=地涌の菩薩を大地の底に秘めておかれた。

 

この「かくしをきたる真の弟子」とは、

ただの修行者ではなく、

末法の世に出現して、妙法蓮華経を弘める使命をもつ弟子たちのことです。

 

② 「此れにゆづるべし」――法を託す

 

釈尊は、文殊・観音・弥勒などの既成の弟子たちには託さず、

大地の底から現れた地涌の菩薩たちにこそ、

「法華経の本門の肝心(南無妙法蓮華経)」をゆだねた。

 

なぜなら、彼らこそが末法の大難に耐え、

すべての衆生を救う使命をもつからです。

 

 

③ 「あなかしこ・あなかしこ」――厳重な御制止

 

「あなかしこ」とは、「よくよく慎め」「決して忘れるな」という意味の古語です。

 

ここで釈尊は、強い戒めとして言われています。

 

「この法は、正法・像法には弘めてはならない。」

 

その時代は、まだ衆生の根性(こんじょう=心の器)が熟していない。

だから、末法こそ弘通の時なのです。

 

🔶日蓮大聖人の立場

 

この御文を受けて、日蓮大聖人は御自らを、

まさしくこの「上行菩薩の使命を帯びた御方」として示されています。

 

つまり――

      釈尊が五百塵点劫より秘めた「真の弟子」こそ地涌の菩薩。

      その上首である上行菩薩が、末法に出現して妙法蓮華経を弘める。

      それが、日蓮大聖人の御出現。

 

だからこそ、末法の今の世に「南無妙法蓮華経」と唱える信心こそ、

久遠の仏の心そのものを受け継ぐ行いなのです。

 

 

🔶信心の結び

 

文殊も観音も及ばぬ大法を、

久遠の仏よりゆずり受けたる上行の弟子。

それを受け持つ我ら法華講の信心こそ、

末法の仏勅(ぶっちょく=仏の命令)にかなう正しい修行。

 

"外用は、上行再誕日蓮"

 

 

"内証は、久遠元初本因妙の教主釈尊(久遠元初の御本仏)再誕日蓮"

 

 

18日

 

日蓮大聖人御金言義類別入文集88-③

 

(3)大曼荼羅御本尊  3-③/13 

 

新尼御前御返事 764

 

 末法の始めに謗法の法師一閻浮提に充満して、諸天いかりをなし、彗星は一天にわたらせ、大地は大波のごとくをどらむ。大旱魃(かんばつ)・大火・大水・大風・大疫病・大飢饉・大兵乱(ひょうらん)等の無量の大災難並びをこり、一閻浮提の人々各各(おのおの)甲冑(かっちゅう)をきて弓杖(きゅうじょう)を手ににぎらむ時、諸仏・諸菩薩・諸大善神等の御力の及ばせ給はざらん時、諸人皆死して無間地獄に堕つること雨のごとくしげからん時、此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば、諸王は国を扶(たす)け万民は難をのがれん。乃至後生(ごしょう)の大火炎を脱(のが)るべしと仏記(しる)しをかせ給ひぬ。而(しか)るに日蓮上行菩薩にはあらねども、ほゞ兼てこれをしれるは、彼()の菩薩の御計(おんはか)らひかと存じて此の二十余年が間此(これ)を申す。

 

 この御文は『新尼御前御返事』(764頁)の中でも、

日蓮大聖人が「末法の大災難の時にこそ、南無妙法蓮華経の御本尊こそ人々を救う唯一の法である」

と断言されている最も厳粛なお言葉です。

 

🔶現代語訳

 

末法の初めには、

仏の正しい法をそむく「謗法(ほうぼう)」の僧侶たちが、

一閻浮提(=全世界)に満ちてしまう。

すると、天の神々(諸天善神)は怒りを起こし、

空には**彗星(ほうきぼし)**が現れ、

大地は大波のように揺れ動く。

 

その結果、

      大旱魃(だいかんばつ=雨が降らず作物が枯れる)

      大火(おおび=火災・戦火)

      大水(洪水)

      大風(嵐・台風)

      大疫病(流行病)

      大飢饉(食糧難)

      大兵乱(戦争)

といった、あらゆる大災難が立て続けに起こる。

 

そして人々は、皆が甲冑(かっちゅう=よろい)を着て武器を手に取り、

戦い合う時代となる。

 

そのような混乱の中では、

どんなに諸仏・菩薩・天の神々でも、

もう人々を守る力が及ばなくなる。

 

その時、人々は次々と死に、

まるで雨が降るように、無間地獄へ堕ちていってしまう。

 

――しかし!

 

もしこの時、

南無妙法蓮華経の五字の大曼荼羅を

身に帯び、心に深く信じているならば、

      国王は国を保ち、

      人民は難をまぬがれ、

      さらには死後の地獄の炎さえ脱れることができる、

と、仏はすでにお約束になっているのです。

 

 それなのに、

この日蓮は、上行菩薩その人ではないが、

「ほぼその使命を受けて、この大法を知る者」として、

これはきっと上行菩薩の御計らい(=導き)によるものだと思い、

この二十余年の間、

南無妙法蓮華経の御本尊を弘めてきたのです。

 

🔶深い意味

この御文は、日蓮大聖人が

「なぜ自分がこの法を弘めるのか」

その理由と自覚を明かされたお言葉です。

 

① 「末法の始」=現代の私たちの時代

 

末法の初めとは、まさに釈尊の入滅後2,000年を過ぎた「今の世」を指します。

仏法が正しく行われず、むしろ**正しい法をそむく者(謗法の法師)**が世に満ちる。

 

現代でも、仏の教えを都合よく解釈したり、

信心をビジネスに変えてしまうような僧侶や宗教屋(新興宗教の教祖)がたくさんいます。

 まさにこの御預言そのままの時代です。

 

② 「諸天いかりをなし」=天地の乱れ

 

人々が謗法をすれば、天地自然が乱れる。

大聖人は「人の心が乱れれば、天も乱れる」と説かれました。

だからこそ、地震・台風・疫病・戦争などが次々に起こるのです。

 

③ 「諸仏・諸菩薩・諸大善神等の御力も及ばせ給わざらん時」

 

末法の時代は、過去の仏や菩薩の力では救えない。

なぜなら、時が異なるからです。

 

この時代を救うのは、

**末法の御本仏・日蓮大聖人が顕された御本尊(南無妙法蓮華経)**しかありません。

 

 

④ 「五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば」

 

つまり――

御本尊を信じ、題目を唱え、その信心を守る人は、

たとえ国難・天災・戦乱の中にあっても、

必ず守られ、難をまぬがれる。

 

「身に帯す」とは、ただ物理的に持つだけでなく、

信心の上で御本尊を常に心に抱くことです。

(勤行・唱題・折伏行)

 

 

⑤ 「日蓮・上行菩薩にはあらねども」

 

ここが最も重要です。

大聖人は「私は上行菩薩そのものとは言わないが、

ほぼその使命を受けて、この法を知っている」と仰せです。

 

つまり、

「上行菩薩の心をもって末法を救う」

という自覚と使命を、ここで明かされているのです。

 

この後の御文で、はっきりと

 

「末法に入りぬれば上行菩薩の出現あるべし。日蓮これなり。」

と仰せになるところへつながります。

 

 

🔶信心の結び

 

末法の今、天地乱れ、人心すさぶ時こそ、

南無妙法蓮華経の御本尊を信じる者が、

国を扶け、人を救い、自身も成仏する。

 

これが、

日蓮大聖人が二十余年、命をかけて弘められた大聖人の御志です。

 

 

19日

 

日蓮大聖人御金言義類別入文集89

 

(3)大曼荼羅御本尊 4/13 

 

阿仏房御書 793

 

 あまりにありがたく候へば宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ。子にあらずんばゆづ()る事なかれ。信心強盛(ごうじょう)の者に非(あら)ずんば見する事なかれ。出世の本懐(ほんがい)とはこれなり。阿仏房しかしながら北国(ほっこく)の導師とも申しつべし。浄行菩薩はうまれかわり給ひてや日蓮を御とぶ()らひ給ふか。不思議なり不思議なり。此の御志(おんこころざし)をば日蓮はしらず上行菩薩の御出現の力にまか()せたて()まつり候ぞ。

 

【現代語訳】

 

あまりにもありがたい御信心なので、私はあなたのために**宝塔の御本尊(曼荼羅)**をお書きしました。

しかし、この御本尊は特別なものであるから、子孫であっても信心がなければ譲ってはならない。

また、信心が強盛な者でなければ決して見せてはならない。

 

このような御本尊を顕したことこそ、**私・日蓮がこの世に出た本当の目的(出世の本懐)**である。

 

阿仏房は、まさしく北国(佐渡地方)における導師(法華経の先生)である。

もしかすると、あなたは浄行菩薩が生まれ変わって、私を訪ねてくださったのではないか。

まことに不思議である。不思議である。

 

このようなあなたの御信心の深さは、私の力によるものではない。

それは上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)──すなわち末法で妙法を弘める御本仏の使いのご加護によるものに違いない。

 

 

【解説】

 

このお手紙は、佐渡の阿仏房(あぶつぼう)という信徒にあてられたもので、

19日

 

日蓮大聖人が**御本尊(宝塔の曼荼羅)**を授与されたときの感動を記されたものです。

 

阿仏房は、佐渡流罪のときから大聖人を命がけで信じ、守り抜いた篤信の人でした。

その信心を大聖人は深くたたえ、

「あなたこそ北国の導師(弘教の中心者)である」と称えられています。

 

また、「出世の本懐とはこれなり」とは、

大聖人がこの世に出られた最も大切な目的は御本尊を顕すことである、

という意味です。

 

 

【まとめ】

      阿仏房の深い信心を大聖人が心から喜ばれている。

      宝塔の御本尊を授与することが「出世の本懐」であると示された。

      阿仏房は北国弘教の中心者、「浄行菩薩の生まれ変わり」とまで讃えられた。

      その信心は、上行菩薩(大聖人の御本仏の働き)による導きであると説かれた。

 

 

この御文は、真の信心を持つ一人が、仏法の中心となるということを示す、大変尊い御教えです。

阿仏房のような一心不乱の信心があれば、どんな人でも仏と一体になれる──

それがこの御書の深い意味です。

 

20日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集90

 

(3)大曼荼羅御本尊 5/13

 

妙心尼御前御返事 903

 

 このまんだら(曼荼羅)を身にたもちぬれば、王を武士のまぼ()るがごとく、子ををや()のあい()するがごとく、いを()の水をたの()むがごとく、草木のあめ()をねが()うがごとく、とり()の木をたのむがごとく、一切の仏神等のあつまりまぼり、昼夜にかげのごとくまぼらせ給ふ法にて候。よくよく御信用あるべし。

 

 この御文は、御本尊(曼荼羅)を信じて拝む功徳と、その守護の確かさを教えてくださる、とてもあたたかいお手紙です。

 

 

 

【現代語訳】

 

この御本尊(曼荼羅)を身にたもって信じるならば、

 

王を武士が命をかけて守るように、

親が子を深く愛して守るように、

魚が水を頼みとして生きるように、

草木が雨を喜び求めるように、

鳥が木にとまって安心するように、

 

あなたを守るために、一切の仏・菩薩・諸天善神が集まり、

昼も夜も影のように、絶えずあなたを守ってくださる。

 

だから、この御本尊を心から信じ切りなさい。

 

 

【解説】

 

この御文では、日蓮大聖人が女性の信徒・妙心尼(みょうしんに)に対して、

「御本尊を信じていれば、仏・神が必ず守る」という信心の功徳と安心を、やさしく説かれています。

 

ここで挙げられている五つのたとえは、それぞれ深い意味があります👇

 

たとえ 意味

王と武士 忠誠と守護の関係。命がけで守るということ。

親と子 慈愛の守り。惜しみない愛情で包む。

魚と水 命の源。水がなければ魚は生きられない=御本尊は命の依りどころ。

草木と雨 成長のもと。信心が心を潤す功徳の雨になる。

鳥と木 安心できる場所。御本尊に帰依することで心が安らぐ。

 

このように、御本尊を信じて身にたもつ(すなわち南無妙法蓮華経と唱える)ことは、

仏・菩薩・諸天善神が常に守る「絶対の安心」を得る道なのです。

 

【まとめ】

      御本尊を信じていれば、昼も夜も一切の仏神が守護する。

      その守護は、王を守る武士・親の愛・魚の水・草木の雨・鳥の木のように自然で絶対的。

      だから「よくよく御信用あるべし」──強く、深く信じ切りなさい、と教えられている。

 

 

この御文は、

「御本尊を信じる人は、必ず守られる」

という大聖人の確信と慈愛がこもった励ましの言葉です。

 

朝夕の唱題のときにこの御文を思い出すと、

「南無妙法蓮華経」と唱えることがどれほどありがたいかを実感できます。

 

21

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集91

 

(3)大曼荼羅御本尊 6/13

 

本尊問答抄 1274

 

 問うて云はく、末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや。答へて云はく、法華経の題目を以て本尊とすべし。

 

現代語略

 

「仏さまがいなくなってからずっと後の、悪い世の中(末法)に生きる私たちのような凡夫は、どんなものを信じ、拝むのを本尊とすればよいのですか?」

 

それに対して大聖人が答えられます。

 

「法華経の題目(南無妙法蓮華経)こそ、本尊とすべきである。」

 

 

🪷解説

 

ここで大聖人は、

「釈迦仏の像」でも「阿弥陀仏」でもなく、

末法の人々が拝むべき本尊は『法華経の題目』=南無妙法蓮華経である

と、はっきりお示しになっています。

 

なぜなら、

釈迦仏や阿弥陀仏などはすべて「法華経」という教えの中に帰するものであり、

この経こそ、仏の生命そのものを表す「根本の法」だからです。

 

つまり、

末法の凡夫が仏と同じ生命をあらわし、成仏していくためには、

「南無妙法蓮華経」という法そのものを本尊とすることが肝心だと教えられたのです。

 

 

🌞まとめ

      末法の時代=悪世に生きる私たちは、

 どんな本尊を信じればいいのか?

 ➡️ 南無妙法蓮華経(法華経の題目)こそ本尊!

      「題目の中に、仏の智慧・慈悲・力用のすべてが具わる」

 という深い意味が込められています。

 

22日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集92

 

(3)大曼荼羅御本尊 7/13

 

本尊問答抄 1275

 

 本尊とは勝れたるを用ふべし。例せば儒家には三皇五帝を用ひて本尊とするが如く、仏家にも又釈迦を以て本尊とすべし。

 問うて云白、然(しか)らば汝(なんじ)云何(いかん)ぞ釈迦を以て本尊とせずして、法華経の題目を本尊とするや。答ふ、上(かみ)に挙ぐるところの経釈を見給へ、私のぎ()にはあらず。釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり。末代今の日蓮も仏と天台との如く、法華経を以て本尊とするなり、其()の故は法華経は釈尊の父母、諸仏の眼目(げんもく)なり。釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり。故に全く能生を以て本尊とするなり。

 

 

この一節は『本尊問答抄』の中でも、とても大事な箇所です。

「なぜ釈迦仏ではなく、法華経の題目を本尊とするのか」を明確に示されています。

 

原文(要点)

 

本尊とは勝れたるを用ふべし。

例せば儒家には三皇五帝を用ひて本尊とするが如く、

仏家にも又釈迦を以て本尊とすべし。

 

問うて云はく、しかるに、なぜ釈迦を本尊とせず、法華経の題目を本尊とするのか。

答ふ、これは私(=日蓮)の勝手な考えではない。

釈尊も天台大師も、法華経を本尊と定められた。

末法の今、日蓮もその通りに、法華経を本尊とする。

 

その理由は──法華経は釈尊の父母であり、諸仏の眼目(命の眼)である。

釈迦仏も大日如来も、すべて法華経から生まれ出た。

だから「生み出す根本の法(能生)」をこそ本尊とするのである。

 

現代語訳

 

本尊というのは、数ある中で一番すぐれたものを拝むべきです。

たとえば儒教の人々は、昔の理想の王(三皇五帝)を尊んで本尊としています。

それと同じように、仏教の世界では「釈迦仏」を本尊とするのが当然だ、と思うかもしれません。

 

そこで質問者がたずねます。

 

「それなら、なぜあなた(日蓮)は釈迦仏を本尊とせず、法華経の題目を本尊とするのですか?」

 

大聖人は答えられます。

 

「これは私の勝手な考えではありません。

釈尊ご自身も、天台大師も、法華経こそを本尊と定められたのです。

だから末法の今、私も同じく法華経を本尊とします。」

 

そして理由を明かされます。

 

法華経こそ、釈尊を生み出した“母”であり、

すべての仏を照らす“眼”のような存在です。

釈迦仏も大日如来も、法華経という法から生まれたのです。

だから、“生み出す根本の法”こそ拝むべき本尊なのです。」

 

 

🪷解説

      釈迦仏は「法華経」から生まれた存在。

 仏そのものより、その仏を生み出した「法(真理)」のほうが上位です。

      「能生(のうしょう)」=生み出すもの。

 釈迦仏を生み出した法華経(南無妙法蓮華経)を本尊とすることが、真の信仰なのです。

      つまり大聖人は、

 「仏よりも法が尊い」という仏法の核心を明らかにされています。

 

🌞まとめ

 

見る角度 内容

一般の人の考え 釈迦仏を本尊とするのが自然

日蓮大聖人の教え 釈迦仏も大日も「法華経」から生まれた。だから題目(法)を本尊とする

意味 仏を生み出す「法」=南無妙法蓮華経こそ、最高・根本の本尊

 

もう一重。

釈尊は、迹仏。もちろん大日も迹仏。

 

日蓮大聖人=久遠元初の本仏

南無妙法蓮華経=久遠元初自受用報身(ほんぶつ)の御当体

 

すなわち、大聖人=南無妙法蓮華経(戒壇の大御本尊)

ということ。

 

 

 

23日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集93

 

(3)大曼荼羅御本尊 8/13

 

本尊問答抄 1283

 

 此の御本尊は世尊説きおかせ給ひてのち、二千二百三十余年が間、一閻浮提の内にいまだひろめたる人候はず。漢土の天台・日本の伝教はほゞ()()ろしめして、いささかもひろ()めさせ給はず。当時こそひろまらせ給ふべき時にあたりて候へ。経には上行・無辺行等こそい()でてひろめさせ給ふべしと見へて候へども、いまだ見へさせ給はず。日蓮は其の人に候はねどもほゞ心へ()て候へば、地涌の菩薩のいでさせ給ふまでの口ずさみに、あらあら申して況滅度後(きょうめつどご)のほこさき(矛先)に当たり候なり。

 

この一節は、『本尊問答抄』の中でもとても尊い箇所です。

日蓮大聖人が、御本尊(南無妙法蓮華経の大曼荼羅)を末法に弘められる使命とその時代的意義を語られています。

 

現代語訳

 

この御本尊(南無妙法蓮華経の御本尊)は、

お釈迦さまが法華経の中で説き示されたものですが、

その後、約二千二百三十年もの間、世界中でこれを弘めた人は一人もいませんでした。

 

中国の天台大師、日本の伝教大師(最澄)も、

この御本尊の教えを「おおよそ」知ってはおられましたが、

実際にそれを人々に広めることはなさいませんでした。

 

しかし今こそ、まさにこの御本尊が広まるべき**「時」**に当たっています。

 

経文(法華経)には、

「上行菩薩・無辺行菩薩などの地涌の大菩薩が出現して、この法を弘める」と説かれていますが、

まだその姿は現れていません。

 

日蓮はその地涌の菩薩そのものではありませんが、

その御心を多少なりとも悟り得ております。

ですから、地涌の菩薩が出られるまでの**“先触れ(口ずさみ)”**として、

この法華経の御本尊を弘めております。

 

そのために、今まさに釈尊の「滅後(亡くなった後)」に起こる難(ほこ先)を、

私が身をもって受けているのです。

 

解説

 

この文で大聖人は、三つの大事なことを明らかにされています。

 

① 御本尊はお釈迦さまが説いたけれど、誰も弘めなかった

 

法華経の中でお釈迦さまは、「末法にはこの御本尊が現れる」と説いていました。

けれども、天台・伝教という大聖人たちでさえ、その本体をあらわすことはできなかった。

それは「まだその時が来ていなかった」からです。

 

② 今がそのである

 

大聖人は、末法という**闘諍堅固(争いと迷いの時代)**に生まれ、

人々が最も仏法を忘れている時に、

法華経の御本尊を世にあらわされました。

「今こそ弘まるべき時である」と、時の到来を宣言されています。

 

③ 地涌の菩薩の先駆けとして立たれた

 

法華経では、末法に「地涌の菩薩」が現れ、この妙法を弘めると説かれています。

大聖人は謙遜して「私はその人ではないが、地涌の菩薩が出られるまでの“口ずさみ”をしている」と言われます。

しかし実際には、ご自身こそ上行菩薩の再誕であり、

身命を賭して弘教された方なのです。

 

🌞まとめ

 

教えの要点 わかりやすい意味

御本尊は釈尊が法華経で説いたが、誰も弘めなかった。

 真の御本尊は末法まで秘されていた。

 

今がその時である。

末法の衆生を救う時代に入った。

 

日蓮大聖人は「口ずさみ」と言いつつ、実はその御使命を果たされた。

地涌の菩薩の先頭に立つ仏の御使い。

(外用上行菩薩の再誕日蓮)

 

24日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集94

 

(3)大曼荼羅御本尊 9/13

 

本尊問答抄 1283

 

 其の旨をし()らせまい()らせむがために御本尊を書きをく()りまいらせ候に、他事をすてて此の御本尊の御前にして一向に後世をもいの()せ給ひ候へ。

 

この一節は、『本尊問答抄』の最後の結びにあたる、とても大切な御文です。

日蓮大聖人が、御本尊を信じて拝むことの大事を、弟子や信徒にあたたかく、そして力強く教えておられます。

 

現代語訳

 

この大切な教え(本尊の意義)をあなたに分かってもらいたいと思い、

特に御本尊を書き送ります。

 

ですから、他のことは脇に置いて、

ただこの御本尊の御前で、一心に自分の後世(死後の幸福・成仏)を祈りなさい。

 

解説

 

ここで大聖人は、

御本尊を授与する理由と、その拝み方の心構えを明確に示されています。

 

① 「其の旨を知らせまいらせむがために」

 

=「本尊の大事な意味を理解してもらいたいから」

つまり、この御本尊はただの紙や墨ではなく、

**仏の生命そのものをあらわす法の当体”**であることを知ってほしい、

という強い慈悲の思いです。

 

② 「御本尊を書きをくりまいらせ候に」

 

=「そのために、あなたのために御本尊を書いてお送りします」

大聖人が自ら墨をすり、魂を込めて認められた御本尊。

これは、単なる贈り物ではなく、**信心の中心に据える仏界の鏡”**です。

 

③ 「他事をすてて此の御本尊の御前にして」

 

=「他のことに気を散らさず、御本尊の前に出なさい」

悩みごとや生活の雑念に心を奪われるのではなく、

まず御本尊に向かって南無妙法蓮華経と唱えることが最も大切、ということです。

 

④ 「一向に後世をも祈らせ給ひ候へ」

 

=「一心に、あなたの後世(未来・死後の幸福)を祈りなさい」

「一向に」とは、心を一つにしてという意味です。

他の神仏や外のものに頼らず、

ただ御本尊に一心に祈ることで、今生も後生も幸福になれると教えられています。

 

まとめ(信心の心)

 

御本尊を書き送る。

仏のいのちをそのまま授ける。

 

他事をすてて。

雑念・迷いを離れて。

 

一向に御本尊の御前で祈れ。

 一心に南無妙法蓮華経と唱え、永遠の幸福を祈れ。

 

信心の実践へ

 

この御文は、

「御本尊こそ、すべての悩みや不安を根本から救う力がある」

という日蓮大聖人の確信と慈悲の言葉です。

 

「他のことに心を乱されず、

御本尊の前で一心にお題目を唱えなさい。

それがあなたの未来を照らす光になります。

 

25日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集95

 

(3)大曼荼羅御本尊 10/13

 

日女御前御返事 1387

 

 爰(ここ)に日蓮いかなる不思議にてや候らん、竜樹・天親等、天台・妙楽等だにも顕はし給はざる大曼荼羅を、末法二百余年の比(ころ)、はじめて法華弘通のはたじるし(旗印)として顕はし奉るなり。是(これ)全く日蓮が自作にあらず、多宝(たほう)塔中(たっちゅう)の大牟尼世尊(だいむにせそん)・分身(ふんじん)の諸仏すり()かたぎ(形木)たる本尊なり。されば首題の五字は中央にかかり、四大天王は宝塔の四方に坐し、釈迦・多宝・本化(ほんげ)の四菩薩肩を並べ、普賢(ふげん)・文殊(もんじゅ)等、舎利弗・目連等座を屈し、日天・月天・第六天の魔王・竜王・阿修羅・其の外(ほか)不動・愛染(あいぜん)は南北の二方に陣を取り、悪逆の達多(だった)・愚癡(ぐち)の竜女一座をはり、三千世界の人の寿命を奪ふ悪鬼たる鬼子母神(きしもじん)・十羅刹女(じゅうらせつにょ)等・加之(しかのみならず)日本国の守護神たる天照太神・八幡大菩薩・天神七代・地神五代の神々、総じて大小の神祇(じんぎ)等、体の神つら()なる、其の余の用(ゆう)の神豈(あに)もるべきや。

 

とても大切な御文です。

この御書「日女御前御返事」(にちにょごぜんごへんじ)は、日蓮大聖人が御本尊(大曼荼羅)をどのように顕(あらわ)されたのかを説明されている箇所です。

 

 

①「爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん…はたじるしとして顕はし奉るなり。」

 

「さて、この日蓮が、いかなる不思議の縁によってか、竜樹・天親・天台・妙楽といった大聖人方でさえも顕わされなかった大曼荼羅御本尊を、末法二百余年のこの時代に初めて法華弘通の旗印として顕わしたのである。」

 

🔸意義:

大聖人は、「これは自分の思いつきで作ったものではない」と述べておられます。

釈尊滅後、どの聖人も顕わさなかった「末法の御本尊(大曼荼羅)」を、日蓮大聖人がはじめてこの世に出されたということを示されています。

つまり――

**「末法の衆生を救うための御本尊が、ここに初めて出現した」**ということです。

 

 

②「是全く日蓮が自作にあらず…分身の諸仏すりかたぎたる本尊なり。」

 

「これは決して日蓮が勝手に作ったものではない。

多宝如来がまします宝塔の中におられる大牟尼世尊(久遠の釈尊)と、その分身である諸仏が、あたかも摺り型を写すように現された御本尊である。」

 

🔸意義:

御本尊は「日蓮の作ではない」。

日蓮大聖人が、久遠元初の自受用報身如来(御本仏)として、三世諸仏の功徳を集めて御本尊という形に顕現されたことを示しています。

「摺りかたぎたる」とは、「写し取るように顕わされた」という意味。

つまり、永遠の仏の真実の姿が、この御本尊にそのまま顕わされているということです。

 

 

③「されば首題の五字は中央にかかり…体の神つらなる、其の余の用の神あにもるべきや。」

 

「だから、御本尊の中央には南無妙法蓮華経の五字が大きく書かれている。

そのまわりには、

宝塔の四方に四大天王が守護し、

その中央に釈迦・多宝の二仏、そして本化の四菩薩(上行・無辺行・浄行・安立行)が並び、

文殊・普賢・舎利弗・目連など釈尊の弟子たち、

日天・月天・魔王・竜王・阿修羅、

さらに不動明王・愛染明王が南北に位置し、

悪人の代表である提婆達多(だった)や竜女も座につき、

鬼子母神・十羅刹女なども守護に加わっている。

さらに日本の天照大神・八幡大菩薩をはじめ、国土を守る大小の神々までがみな列座している。

これら以外に、御本尊を守護しない神などあろうか。」

 

🔸意義:

御本尊のまわりには、仏も菩薩も、天も、魔も、鬼も、神も――

すべての存在が集まって南無妙法蓮華経を中心に帰依している姿が顕わされています。

つまりこの御本尊は、

宇宙の真理・生命の根源そのもの(妙法蓮華経)を中心に、すべての生命が一体となっている姿なのです。

 

 

🔷まとめ(わかりやすく)

 

日蓮大聖人は、

 

「この大曼荼羅御本尊は、日蓮が考えて書いたものではない。

久遠の本仏と諸仏が、そのまま写し出された真実の仏界の姿である。

その中央には南無妙法蓮華経の題目があり、

周囲にはすべての仏・菩薩・神々・魔・鬼までもが供養し守護している。

これこそ末法万年にわたって人々を救う“法華弘通の旗印”なのだ。」

 

ということをお示しです。

 

26日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集96

 

(3)大曼荼羅御本尊 11/13

 

日女御前御返事 13878

 

 此等(これら)の仏・菩薩・大聖(だいしょう)等、総じて序品列坐の二界・八番の雑衆等、一人ももれず此の御本尊の中に住し給ひ、妙法五字の光明(こつみょう)にてらされて本有(ほんぬ)の尊形(そんぎょう)となる。是を本尊とは申すなり。

 

 この御文では、なぜ御本尊を「本尊」と申し上げるのか――その根本の意味を日蓮大聖人が明らかにされています。

 

解説

 

①「此等の仏・菩薩・大聖等」

 

👉 これは、

釈迦・多宝・本化の四菩薩、文殊・普賢・舎利弗・目連、天・竜・鬼神・日本の神々など、

すべての仏・菩薩・神々・魔王までもを指しています。

 

②「総じて序品列坐の二界・八番の雑衆等」

 

👉 「序品(じょほん)列坐」とは、法華経の最初の章「序品第一」で、

お釈迦さまの説法の座に十方の仏・菩薩・天・人・鬼神など、無数の衆生が集まって座っている光景をいいます。

「二界」とは欲界・色界の二つの世界、

「八番の雑衆」とは、法華経に登場する八つの種類の衆生(天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽)をいいます。

 

🔸つまりここは――

「法華経の説法の場に集まった、あらゆる世界のすべての衆生たち」

という意味になります。

 

③「一人ももれず此の御本尊の中に住し給ひ」

 

👉 それらの無数の仏・菩薩・諸天・神々が、

一人ももれなく、この御本尊の中に住んでいるということです。

 

🟠つまり御本尊とは、

「すべての命が一体となって南無妙法蓮華経に帰依している姿」

なのです。

 

④「妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる」

 

👉 「妙法五字」とは、南無妙法蓮華経。

その題目の光(智慧の光)に照らされて、

これらの仏・菩薩・神々が**それぞれ本来の清らかで尊い姿(本有の尊形)**を現している、という意味です。

 

🔸つまり――

御本尊の中心にある南無妙法蓮華経の光によって、

すべての存在が本来の仏の命をあらわしているのです。

この「一切衆生成仏」の姿こそが御本尊なのです。

 

⑤「是を本尊とは申すなり」

 

👉 「これこそが、本当の意味の本尊である」と結ばれています。

 

🔹つまり、

御本尊とは、

南無妙法蓮華経という根本の法の光に照らされて、

すべての仏・菩薩・神々が本来の姿で顕われている世界――

その真実の生命の姿そのものを「本尊」と呼ぶのです。

 

🔷まとめ(わかりやすく)

 

法華経に出てくるすべての仏・菩薩・天・人・鬼神など、

どんな存在も、この御本尊の中にすべてそろっている。

そして中央の南無妙法蓮華経の光によって、

みんなが本来の清らかで尊い仏の姿を現している。

この**「妙法の光に照らされた命の真実の姿」**――これをこそ「本尊」と申すのです。

 

妙法蓮華経の五字の光明とは、大聖人=御本仏としての慈悲、力用。

その光に照らされて、一切衆生が成仏する。

照らされるには、唱題です。

 

27

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集97

 

(3)大曼荼羅御本尊 12/13

 

日女御前御返事 1388

 

 伝教大師云はく「一念三千即自受用身(じじゅゆうしん)、自受用身とは出尊形の仏」文。

此の故に未曽有(みぞう)の大曼荼羅とは名付け奉るなり。仏滅後二千二百二十余年には此の御本尊いまだ出現し給はずと云ふ事なり。

 

🔹現代語訳

 

伝教大師(でんぎょうだいし・最澄)はこう言われています。

「一念三千とは、自受用身(じじゅゆうしん)の仏である。

自受用身の仏とは、真実の仏のすがたである」と。

 

だからこそ、日蓮大聖人が顕されたこの御本尊を、

「未曾有(みぞう=いまだかつてなかった)大曼荼羅」と申し上げるのです。

 

お釈迦さまが亡くなられてから二千二百二十余年もの間、

この御本尊は、まだ世にあらわれたことがなかった、という意味です。

 

 

🔹解説

      **「一念三千」**とは、私たち一人ひとりの一念(心)の中に、すべての宇宙・生命の働き(三千の世間)が具わっているという、最高の仏法の教えです。

      伝教大師は、この「一念三千」を悟った仏の境界を「自受用身(じじゅゆうしん)」、つまり自らの生命の中に本来具わる仏の姿だと説明されました。

 

しかし、伝教大師の時代には「一念三千」を教理として説いたにとどまり、

その**「形(かたち)」としての御本尊**は、まだ現れていませんでした。

 

 

🔹ここで日蓮大聖人が言われること

 

大聖人は、

 

「この『一念三千』の仏の境界を、形として示したのが御本尊である」

と仰せです。

 

つまり、大聖人が図顕された御本尊こそ、初めてこの真実の仏の姿がこの世に現れたということです。

 

ですから、

 

「未曽有の大曼荼羅(かつてない偉大な御本尊)」

と称されるのです。

 

 

🔹まとめ

 

内容 意味

一念三千即自受用身

私たちの一念の中に仏界(自受用身)がある

伝教大師 その理論を説いたが、形に現さなかった

日蓮大聖人 その真理を御本尊として現した

 

未曾有の大曼荼羅

かつてこの世に存在しなかった、初めての本仏の御本尊

 

この御文は、

 

「日蓮大聖人の御本尊こそ、仏の滅後二千年以上の時を経て、初めてこの世に現れた真実の仏のすがたである」

ということを力強く示された一節なのです。

 

御本仏=日蓮大聖人しか顕すことができない御本尊。

 

究極中の究極=本門戒壇の大御本尊。

 

28

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集98

 

(3)大曼荼羅御本尊 13/13

 

御講聞書 1824

 

「耆闍崛山(ぎしゃくっせん)の事(序品)

 

    此の山を寿量品にては本有の霊山(りょうぜん)と説かれたり。本有の霊山とはこの娑婆世界なり。中にも日本国なり。法華経の本国土妙娑婆世界なり。本門寿量品の未曽有の大曼荼羅建立の在所なり。

 

🔹現代語訳

 

法華経の「序品(じょほん)」に出てくる**耆闍崛山(ぎしゃくっせん)**という山は、

お釈迦さまが説法された場所です(インドの霊鷲山〈りょうじゅせん〉のことです)。

 

しかし、法華経の「寿量品(じゅりょうほん)」では、

この山は**本来からある「霊山(本有の霊山)」**と説かれています。

 

この「本有の霊山」というのは、遠いインドの山ではなく、

今、私たちが生きているこの娑婆世界そのものを意味します。

 

そして、娑婆世界の中でも、

特にこの日本国こそが、法華経の本国土(ほんこくど)=仏の国土である。

 

つまり、ここ日本の地こそ、

本門寿量品の未曾有(みぞう=かつてない)大曼荼羅(御本尊)が建立される場所である

と説かれているのです。

 

🔹解説

 1. 「耆闍崛山(ぎしゃくっせん)」とは

         お釈迦さまが法華経を説かれた山(霊鷲山)のこと。

         しかし、これは単なるインドの地名ではなく、永遠の法(妙法)を説く場所を象徴しています。

 2. 「寿量品では本有の霊山と説かれたり」

         寿量品では、釈尊が久遠(くおん)の昔からこの世に常住していることを明かしています。

         つまり、霊山(りょうぜん)は一時的な場所ではなく、永遠に存在する真実の世界=「本有(ほんぬ)」の霊山なのです。

 3. 「この娑婆世界なり、中にも日本国なり」

         その永遠の仏の世界は、実は**私たちの住むこの世界(娑婆)**であり、

とりわけ末法においては、日本の地こそがその中心になるという意味です。

 4. 「法華経の本国土妙娑婆世界」

         「本国土」とは、仏が本当に住む国土。

         「妙娑婆世界」とは、妙法の力によって清浄に輝くこの現実世界を指します。

         つまり、「この娑婆世界そのものが仏の国」だということです。

 5. 「本門寿量品の未曾有の大曼荼羅建立の在所」

         日蓮大聖人が図現された**一閻浮提第一の御本尊(大曼荼羅)**こそ、

この本有の霊山=日本国において初めて顕れたものなのです。

 

 

🔹まとめ

 

内容 意味

耆闍崛山(ぎしゃくっせん) お釈迦さまが法華経を説かれた山(象徴)

本有の霊山 永遠に存在する仏の世界。現実の娑婆世界そのもの

この娑婆世界 私たちが生きている現実の世界(汚れた世界に見えても、実は仏の国)

日本国 末法において仏法が興る中心の地 

 

未曾有の大曼荼羅

日蓮大聖人が顕された唯一無二の御本尊

建立の在所 その御本尊が初めて現れた場所=日本

 

🔹結論

 

仏の永遠の国土(本有の霊山)は、

決して遠い過去や天上界にあるのではなく、

いま私たちの住むこの娑婆世界(中でも日本)にある。

そして、そこにこそ、

本門寿量品の御本尊=未曾有の大曼荼羅が顕れた。

 

 

つまり──

「この日本の地こそ、本仏出現と御本尊建立の聖地である」

という、日蓮大聖人の御本尊の出現の尊さを示された御文なのです。

 

29

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集99

 

(4)下種本尊 1/5

 

当体義抄 695

 

 この釈の意(こころ)は、至理(しり)は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果俱時(ぐじ)・不思議の一法之(これ)有り。之を名づけて妙法蓮華と為()す。この妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減(けつげん)無し。之を修行する者は、仏因仏果同時に之を得るなり。聖人此の法を師となして修行覚道したまへば、妙因妙果俱時に感得し給ふ。故に妙覚果満の如来と成り給ふなり。

 

 この御文は、「妙法蓮華経」という題目そのものが仏の悟りであるという、きわめて大切な教えを示されています。

 

🔹現代語訳

 

「真実の理には、もともと名前がない。

けれども、聖人(仏)はその理を観察して、

あらゆるものに名をつけて真理を明らかにした。

 

その中で、因(原因)と果(結果)が同時にそなわっているという不思議な一つの法がある。

それを『妙法蓮華(みょうほうれんげ)』と名づけたのである。

 

この妙法蓮華という法には、

十界(地獄から仏まで)三千の一切の法がすべてそなわっていて、少しも欠けるところがない。

 

この法を修行する人は、仏になる原因と結果を同時に得ることができる。

 

聖人(釈尊)は、この法を師として修行し、

妙なる因と果を同時に悟られた。

だから、妙覚果満の如来(みょうがくかまんのにょらい)=最高の仏になられたのである。」

 

🔹解説

 

①「至理(しり)は名無し」

      「至理」とは、根本の真理(=妙法)です。

      それは目に見えず、言葉でも表せない「理(ことわり)」なので、本来は名前がありません。

 

②「聖人理を観じて万物に名を付くる」

      仏はその真理を深く悟り、

 世の中のすべての現象に名前を与えて説き明かされました。

      その中でも最高の真理を、「妙法蓮華(みょうほうれんげ)」と名づけたのです。

 

③「因果倶時(ぐじ)の不思議の一法」

      ふつうは「因(原因)」があって、その後に「果(結果)」が現れます。

 たとえば、種をまいてから花が咲くように。

      しかし「妙法蓮華経」は、因と果が同時にそなわるという不思議な法。

 つまり、題目を唱えるその一念の中に、すでに仏の境界があるということです。

 

④「十界三千の諸法を具足して闕減なし」

      「妙法蓮華」という法の中には、地獄界から仏界までの十界すべて、

 さらに三千の一切の法(生命のすべて)がすべて含まれています。

      つまり、「妙法蓮華経」は一切の生命・宇宙の真実をそのまま包んだ法です。

 

⑤「之を修行する者は仏因仏果同時に之を得る」

      この法を修行(=南無妙法蓮華経と唱える)すれば、

 その一念の中にすでに「仏の因(修行)」と「仏の果(成仏)」が同時にそなわる。

      だから、修行するそのとき、すでに仏界を得ているのです。

 

⑥「聖人此の法を師となして修行覚道したまへば」

      釈尊もまた、この「妙法蓮華の法」を師として修行し、悟りを開かれました。

      その結果、「妙覚果満の如来(最高の悟りを得た仏)」となられたのです。

 

🔹まとめ

 

内容 意味

至理(しり) ・真理(妙法)

 

妙法蓮華 因果が同時にそなわる不思議な法

十界三千具足 すべての生命・現象が妙法に含まれている

 

修行者

南無妙法蓮華経を唱える人

仏因仏果同時 題目を唱えるその一念に、すでに成仏の因と果がある

 

聖人

久遠の釈尊

(後に日蓮大聖人もこの法を体現)

妙覚果満の如来

真実の仏(久遠本仏)

 

🔹結論

 

法界の真理(妙法)は、因と果が一念の中にそなわる不思議な法であり、

それを修行(唱題)する人は、仏になる因と果を同時に得る。

この法を悟った久遠の釈尊は妙覚の仏となり、

日蓮大聖人は末法にこの法を御本尊として顕わされた。

 

 

南無妙法蓮華経を唱える一念そのものが、すでに成仏の境界そのものである。

これを理論として説かれたのが、この「当体義抄」の御文です。

 

 

 

 

 

30日

 

  日蓮大聖人御金言義類別入文集100

 

(4)下種本尊 2/5

 

日女御前御返事 1388

 

 此の御本尊全く余所(よそ)に求むる事なかれ。只(ただ)我等衆生、法華経を持(たも)ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におわしますなり。是(これ)を九識心王真如(くしきしんのうしんにょ)の都とは申すなり。十界具足とは十界一界もか()けず一界にあるなり。之に依って曼陀羅とは申すなり。曼陀羅と云ふは天竺の名なり、此には輪円(りんえん)具足とも功徳聚(くどくじゅ)とも名づくるなり。

 

🪷現代語訳

 

この御本尊(妙法蓮華経の当体)は、どこか遠いところにあるのではありません。

私たち一人ひとりが法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱えるその胸の中に、御本尊はおわします。

 

この心の奥底を「九識心王真如の都(くしきしんのうしんにょのみやこ)」といいます。

つまり、迷いも悟りも超えた**最も深い心(仏界そのもの)**に御本尊がましますということです。

 

また、「十界具足」とは、仏・菩薩・人・地獄などの十の世界が、それぞれの一つの心の中にすべて備わっているということです。

だから、この妙法の当体を図現(ずげん)したものが曼荼羅(まんだら)御本尊なのです。

 

「曼荼羅」という言葉はインドの言葉で、「輪円具足(りんえんぐそく)」、つまり完全円満な功徳が集まっているものという意味です。

すなわち、妙法蓮華経の功徳すべてが、この御本尊に具わっているということです。

 

 

💡まとめ

      御本尊は外(よそ)にあるのではなく、

 信心の南無妙法蓮華経を唱える自分の胸中にまします。

      それが「九識心王真如の都」──心の最深部にある仏界です。

      すべての命(十界)を含んでおり、曼荼羅とは命の全体像をあらわしたものです。

      「輪円具足・功徳聚」とは、一切の功徳が円満にそろっているという意味。

 

私たちが御本尊に向かって唱題するとき、

実は御本尊は遠い存在ではなく、自身の生命の中の仏界を呼び覚ましているのです。

 

外に仏を求めず、

「自分の生命の中にこそ仏がまします」と確信して題目を唱える。

──これが、日蓮大聖人の教えの核心です。

 

31

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集101

 

(4)下種本尊 3/5

 

南条殿御返事 1569

 

 教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山(りょうじゅせん)にして相伝し、日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持(たも)てり。されば日蓮が胸の間は諸仏入定(にゅうじょう)の処なり、舌の上は転法輪の所、喉(のんど)は誕生の処、口中(こうちゅう)は正覚(しょうがく)の砌(みぎり)なるべし。かゝる不思議なる法華経の行者の住処なれば、いかでか霊山(りょうぜん)浄土に劣るべき。法妙なるが故に人貴し、人貴きが故に所尊しと申すは是なり。

 

この御文は、日蓮大聖人がご自身の境界(きょうがい)──つまり、御本仏の命のあり方を説かれた非常に深い一節です。

 

🪷現代語訳

 

釈尊(しゃくそん=お釈迦さま)が霊鷲山(りょうじゅせん)で説いた**「一大事の秘法」=妙法蓮華経の真髄**を、

日蓮はこの身の中(肉団の胸中)に受け継いで、秘して持っている。

 

だから、日蓮の胸の中は、諸仏が入定(にゅうじょう=悟りの境地に入る)するところであり、

舌の上は法を説く(転法輪)場所、

喉は仏が生まれ出た(誕生)のところ、

口の中は仏が悟りを開いた(正覚)の境地である。

 

このように不思議な法華経の行者(すなわち御本仏・日蓮大聖人)の住まう場所が、

どうして霊鷲山の浄土より劣ることがあろうか。

 

妙法という最高の法を持っているがゆえに、その人(日蓮大聖人)は尊く、

またその人が住む場所も尊いのである。

これが「法妙なるが故に人貴し、人貴きが故に所尊し」という言葉の意味である。

 

 

🕊️解説

 

①「一大事の秘法」とは

 

→ 南無妙法蓮華経の五字、すなわち本門寿量品の仏の悟りの根本。

釈尊が説き明かせなかった深秘の法を、日蓮大聖人が受け取り顕されたということです。

 

 

②「日蓮が肉団の胸中に秘して持てり」

 

→ 「肉団」とはこの人間の身体を指します。

つまり、大聖人の胸の中(命の奥底)に、この一大事の秘法が宿っているという意味です。

御本仏・日蓮大聖人の生命そのものが「妙法」なのです。

 

 

③「胸は入定・舌は転法輪・喉は誕生・口は正覚」

 

→ 仏の一生のすべてが、日蓮大聖人の身中にそなわっているというたとえです。

 

仏の行い

日蓮大聖人の部位

意味

 

入定(悟りの境地に入る) 胸

仏の心そのもの

 

転法輪(法を説く)

教えを弘める舌

 

誕生(仏の出現)

法を弘める命の通路

 

正覚(悟りの完成)

口中

仏の悟りの実現

 

つまり、大聖人の全身がそのまま仏のはたらきであるということです。

 

④「法妙なるが故に人貴し」

 

→ 妙法という最も尊い法を受け持つ人は、その法のゆえに尊い。

「人貴きが故に所尊し」とは、

その尊い人(御本仏)が住む場所もまた尊い、という意味です。

 

たとえば、

ただの洞窟でも仏が住めばそこは聖地になります。

逆に、どんな豪華な宮殿でも謗法の者が住めば、それは地獄と同じです。

 

ゆえに、法(妙法)によって人が尊く、人によって場所も尊くなるのです。

 

🌸わかりやすいまとめ

      お釈迦さまの悟りの真髄(妙法)は、日蓮大聖人の胸中に受け継がれた。

      大聖人の身口意そのものが仏の働き。

      そのため、大聖人の住むところは霊鷲山浄土にも勝る尊い場所である。

 

      尊い法を持つ人こそ尊く、その人のいる場所も尊い。