石黒御住職ご指導集 令和7年9月

1  

日蓮大聖人御金言義類別入文集4

法華経43/66  

報恩抄 1000

 

   随って法華経の文を開き奉れば「此の法華経は諸経の中に於て最も其の上(かみ)に在り」等云云。此の経文のごとくば須弥山の頂(いただき)に帝釈の居()るがごとく、輪王(りんのう)の頂に如意宝珠(にょいほうじゅ)のあるがごとく、衆木(しゅもく)の頂に月のやどるがごとく、諸仏の頂に肉髻(にくけい)の住せるがごとく、此の法華経は華厳経・大日経・涅槃経等の一切経の頂上の如意宝珠(にょいほうじゅ)なり。

 

 これは**「法華経がすべてのお経の中で最高である」**ことを、日蓮大聖人が比喩を用いて説明されたところです。

 

原文の意味

      「此の法華経は諸経の中に於て最も其の上に在り」

→ 法華経は、数あるお経の中で最もすぐれたお経である。

 

その上で大聖人は、わかりやすくするために例えを出されます。

      「須弥山の頂に帝釈の居がごとく」

→ 須弥山(仏教の世界観で世界の中心にそびえる山)の頂上に、天界の王である帝釈天が住むように。

(つまり、頂点にふさわしいものがある、というたとえ)

      「輪王の頂に如意宝珠のあるがごとく」

→ 世界を治める大王(転輪聖王)の冠の先に、最も大切な宝である如意宝珠が輝いているように。

      「衆木の頂に月のやどるがごとく」

→ たくさんの木々の上に、月が照らして宿るように。

      「諸仏の頂に肉髻の住せるがごとく」

→ 仏さまの頭の頂に、他の人にはない「肉髻(にっけい:頭の上の隆起、仏の特別な相)」があるように。

 

結論

 

これらのたとえを通して、

👉 法華経は、華厳経・大日経・涅槃経など、あらゆる経典の中で「頂点」にある。

👉 つまり、**仏の教えの中で一番大切な「如意宝珠」**が法華経である。

 

まとめ

 

大聖人はこうおっしゃっているのです。

 

たくさんのお経があるけれども、法華経こそが仏法の中の最高の宝である。

それは、帝釈天が山の頂に住むように、王の冠に如意宝珠が輝くように、木々の頂に月が宿るように、仏の頭に肉髻があるように――

すべての中で一番大事で尊い位置にあるのが法華経である。

 

2

日蓮大聖人御金言義類別入文集44

法華経44/66  

 

報恩抄 1021

 嘉祥は落ちて、天台につか()ひて法華経をよまず、我(われ)経をよむならば悪道まぬかれがたしとて、七年まで身を橋とし給ひき。

 慈恩大師は玄賛(げんさん)と申して法華経をほむる文十巻あり。伝教大師せめて云はく「法華経を讃()むると雖(いえど)も還(かえっ)て法華の心を死(ころ)す」等云云。此等をもってをも()うに、法華経をよみ讃歎する人々の中に無間地獄は多く有るなり。

 

原文の意味

              1.           嘉祥(かじょう)大師(吉蔵)

三論宗の学者で、はじめ法華経を軽んじていた。

「もし自分が法華経を読めば、かえって悪道(地獄など)に堕ちてしまうだろう」と思い込み、なんと七年間、自分の体を橋にして人々に渡らせるという修行をした。

→ つまり「法華経を読まない」という態度だったのです。

              2.           慈恩大師(じおんだいし、基(き))

『法華玄賛』十巻を著して法華経を称賛した。

ところが、伝教大師(最澄)はそれを読んで「表面では法華経をほめているようでも、実は法華経の本当の心を殺してしまっている」と批判した。

              3.           日蓮大聖人の結論

このことを思うと、法華経を読んだり称賛したりしている人の中にも、かえって無間地獄に堕ちる人が多いのだ。

→ なぜかというと、正しく受け持たず、間違った解釈で法華経を用いると、かえって大謗法になるから。

 

わかりやすいポイント

      読まないことも罪(嘉祥)

→ 法華経を遠ざけるのは仏法を無視する罪。

      間違ってほめることも罪(慈恩)

→ 表面上ほめても、真意をゆがめれば正しい信仰を妨げる罪。

      正しく受け持たなければ危険

→ 「法華経を読む・ほめる」という行為そのものが大事なのではなく、正しい信心(南無妙法蓮華経)で受持することが根本。

 

まとめ

日蓮大聖人はここで、

「法華経を読むふりをしても、正しく信じなければ大罪になる。だから正しい信心が大事だ」

と教えてくださっているのです。

3

 日蓮大聖人 御金言義類別入文集45

法華経45/66  

 

松野殿御返事 1047

 

 此の経の四の巻には「若()しは在家にてもあれ、出家にてもあれ、法華経を持(たも)ち説く者を一言にても毀(そし)る事あらば其の罪多き事、釈迦仏を一劫の間直(ただ)ち毀り奉る罪には勝れたり」と見へたり。或は「若実若不実(にゃくじつにゃくふじつ)」とも説かれたり。

 之を以て之を思ふに、忘れても法華経を持つ者をば互ひに毀(そし)るべからざるか。その故は、法華経を持つ者は必ず皆仏なり。仏を毀りては罪を得るなり。

 

原文の要点

      法華経を信じ、唱え、説く人を少しでも悪く言うと、その罪はとても重い。

      たとえ冗談や間違いでも、法華経を持つ人をけなしてはいけない。

      なぜなら、法華経を持つ人は必ず仏になる人だから。

      その人を悪く言うことは、仏をけなすことと同じで、大きな罪になる。

 

解説

日蓮大聖人はここで、

「法華経を信じて題目を唱える人を、絶対に悪く言ってはいけない」

と強く戒めておられます。

 

たとえば、同じ信心をしている仲間でも、ちょっと気に入らないからといって悪口を言ったり、陰で批判したりすると、それは単なる人への中傷ではなく、仏の境涯に生きる人を否定することになってしまいます。

 

だからこそ、「忘れてでも言ってはいけない」と言われているのです。

 

 

現代の信心に当てはめると

 

私たちが気をつけるべきは、

      互いの短所や過ちを攻め立てるのではなく、長所を見て励まし合うこと。

      同じ南無妙法蓮華経を唱える仲間を尊敬すること。

 

これが、仏を敬うことそのものになるのです。

 

📖つまりこの御文は、

「法華経を信じる仲間を絶対に悪く言ってはいけない。仲間を尊敬することが、そのまま仏を敬うことになる」

という大切な教えです。

 

4

 日蓮大聖人御金言義類別入文集46

法華経46/66  

 

破良観等御書 1076

 法華経は一代の一切経の中の王たるのみならず、三世十方の一切の諸仏の所説の中の大王なり。

例せば大梵天王のごときんば諸の小王・転輪王・四天王・釈王・魔王等の一切の王に勝れたる大王なり。

金剛頂経と申すは真言教の頂王、最勝王経と申すは外道・天・仙等の経の中の大王、全く一切経の中の頂王にはあらず。

法華経は一切経の頂上の宝珠なり。

 

原文の要点

 • 法華経は、お釈迦さまが一代の間に説かれたすべてのお経の中で王様である。

 • さらに、三世十方(過去・現在・未来、そしてあらゆる世界)のすべての仏が説いた教えの中でも最高の王である。

 • たとえるなら、大梵天王(宇宙の最高神)のように、他のあらゆる王(転輪聖王、四天王、帝釈天、魔王など)に勝れた大王である。

 • 真言宗で大事にされる「金剛頂経」は「真言の中の王」ではあっても、お経全体の王ではない。

 • 「最勝王経」も外道(仏教以外)の経典の中の王にすぎず、仏教全体の最高ではない。

 • しかし「法華経」は、すべてのお経の中の頂点に輝く宝珠である。

わかりやすい解説

日蓮大聖人は、法華経こそが仏教の中の最高の教えだと説かれています。

たとえば、たくさんの国があって、それぞれに王様がいるとします。その中に、さらにすべてを治める「大王」がいれば、その人が一番えらいですよね。

 • 「金剛頂経」は「真言宗の中で王様」

 • 「最勝王経」は「外道の中で王様」

 • けれどもそれらは「一部の中での王」にすぎません。

 

それに対して、法華経はお釈迦さまが説かれた全てのお経の中の王であり、さらに全ての仏が説いた教えの中の大王であると、はっきり断言されています。

 

つまり、法華経は「宝の中の宝」「すべての経典の頂上に輝く宝珠」なのです。

まとめ

「世の中にたくさんの王様がいても、すべてをまとめる大王がいるように、法華経は仏さまの説かれたすべてのお経の中で、一番すぐれた王様です。他のお経がどんなに立派でも、それぞれの中での王にすぎません。法華経だけが、すべての仏の説いた教えの大王であり、宝の中の宝なのです。」

 

5

 日蓮大聖人御金言義類別入文集47

法華経47/66  

 

衆生身心御書 1212

 己(おの)が心は本よりつた()なき心なれば、はかばかしき事なし。

法華経と申すは随自意と申して仏の御心(みこころ)をとかせ給ふ。仏の御心はよき心なるゆへに、たといしらざる人も此の経をよみたてまつれば利益はか()りなし。

麻の中のよもぎ()、つつ()の中のくちなは()、よき人にむつ()ぶもの、なにとなけれども心もふれまひ(振舞)も言もなを()しくなるなり。

法華経もかくのごとし。なにとなけれどもこの経を信じぬる人をば、仏のよき物とをぼ()すなり。

 

原文の要点

 1. 人間の心はもともと弱く、間違いやすい。だから放っておけば大したことはできない。

 2. 法華経は「随自意」、つまり仏さまの本当の心を説いたお経である。

 3. 仏さまの心は清らかで正しいので、たとえ内容をよく理解していなくても、この経を読む人は大きな功徳を受けられる。

 4. 例えでいうと――

 • 「麻の中のよもぎ」(よもぎはひとりでは曲がりやすいけれど、まっすぐな麻の中に育つと自然とまっすぐ伸びる)。

 • 「筒の中のくちなわ(蛇)」(蛇も筒に入れば自然にまっすぐになる)。

 • 良い人と一緒にいると、いつのまにか自分も言葉や行いが正しくなるのと同じ。

 5. 法華経を信じる人も同じで、いつのまにか仏さまに「よい人だ」と見ていただける。

 

わかりやすい解説

私たちの心は弱く、つい迷ったり悪い方に流されたりします。でも、法華経は仏さまのまごころそのものを説いた経典です。だから、たとえ全部理解できなくても、一心に読み、信じていけば必ず功徳を受けることができるのです。

 

ちょうど、よもぎの草が麻の中で育つと自然とまっすぐになるように、また蛇も筒に入れば自然とまっすぐになるように、法華経を信じる人も知らず知らずのうちに、心や行いが正しくなり、仏さまから「よい弟子」と認められるのです。

まとめ

「私たちの心は弱いものですが、法華経(御本尊様)に結ばれることで自然とまっすぐになり、仏さまから『よき者』と見ていただけます。大事なのは、わからなくても御本尊様を一心に信じて題目を唱えることです。

6

 日蓮大聖人御金言義類別入文集48

法華経48/66  

 

太田左衛門尉御返事 1222

 

(しか)るに法華経と申す御経は身心の諸病の良薬(ろうやく)なり。されば経に云はく「この経は則ち為()れ閻浮提の人の病の良薬なり。若()し人病有らんに是()の経を聞くことを得ば病即消滅して不老不死ならん」等云云。また云はく「現世は安穏にして後生には善処ならん」等云云。又云はく「諸余の怨敵(おんてき)皆悉(ことごと)く摧滅せん」等云云。

 

大聖人はここで、法華経の功力を「良薬(よい薬)」にたとえて説いておられます。

 • 「法華経は身心の諸病の良薬なり」

 人の体や心には、いろいろな病気や苦しみがあります。法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱えることは、それらを癒す最高の薬のようなものだ、という意味です。

 • 経文の引用「この経は閻浮提(人間世界)の人々の病の良薬である」

 もし病にかかっても、法華経を聞き受け入れれば、病は消えて、心身が安らかになり、仏の境涯に近づいていける、ということです。

 • 「現世安穏、後生善処」

 今生では平和で安らかに暮らせ、死後もよい世界に生まれるという大きな功徳をいただける、ということです。

 • 「怨敵はみな摧滅す」

 信仰を持つと、私たちを妨げる敵や悪縁も打ち破ることができる、という意味です。

 

つまり大聖人は、

「法華経(南無妙法蓮華経)の信仰は、体や心の病を癒し、人生を安穏にし、死後も善い境界に生まれ変わらせ、さらにあらゆる困難や敵を乗り越えさせる力がある」

と教えてくださっているのです。

 

まとめ

 

「南無妙法蓮華経は、まるで薬のように私たちの身と心の病を癒してくださいます。そして現世には安心立命の暮らしを、未来世には必ず仏の境界を約束してくださいます。ゆえに、困難や病気の時こそ題目を唱えて、この良薬をいただいてまいりましょう。」

 

7日

 日蓮大聖人御金言義類別入文集49

法華経49/66  

 

本尊問答抄 1275

 此の方等経は是(これ)諸仏の眼なり諸仏は是に因()って五眼(ごげん)を具することを得たまへり。仏の三種の身は方等より生ず。是大法印(だいほういん)にして涅槃海(ねはんかい)を印す。此くの如き海中より能く三種の仏の清浄の身を生ず。此の三種の身は人天の福田、応供(おうぐ)の中の最なり」等云云。

此等の経文、仏は所生、法華経は能生。仏は身なり、法華経は神(たましい)なり。

 

これは**『本尊問答抄』**の大事な一節で、仏と法華経の関係をわかりやすく示した部分です。

 

① 引用の意味

 • 「方等経は諸仏の眼」「仏の三身は方等より生ず」などと経文にある。

 つまり、仏の悟りの眼や三身(法身・報身・応身)は、方等経をもとに生じる、と書いてある。

 • ここで日蓮大聖人は、「この経文から見れば、仏は結果(所生=生まれたもの)、法華経は原因(能生=生み出すもの)である」と断定している。

 

② 「仏は身、法華経は神」

 • 仏は身(からだ)

 仏さまの姿・現れは「身」。

 • 法華経は神(こころ・いのち)

 仏が仏である根本の力、仏を生み出す「いのち」が法華経。

 

つまり、仏の存在そのものは「法華経」という大法が根本にあって初めて成り立つ、ということです。

 

③ わかりやすい例え

 

人間でいえば:

 • **体(身)**=目に見える形ある自分

 • **心(神)**=生きている力、生命の根源

 

体だけあっても心がなければ「死人」。

仏の身も、法華経という「心」がなければ仏たりえない。

 

④ ポイント

 • 諸経(華厳・阿含・般若・方等など)は、仏の徳や特徴を説明しているにすぎない。

 • しかし法華経こそが仏を生み出す根源の法。

 • だから「法華経を持つ人こそ仏の生命をそのまま受け持つ人」となる。

 

要するに、この御文は

 

👉「仏そのものよりも、その仏を生み出す法華経の方が根本である」

👉「仏は体にすぎず、法華経こそ仏の心であり、生命である」

と教えられているのです。

 

8日

 日蓮大聖人御金言義類別入文集50

法華経50/66  

 

神国王御書 1302

 

 一代聖教(しょうぎょう)の中に法華経は明鏡(みょうきょう)の中の神鏡なり。銅鏡等は人の形をばう()かぶれども、いまだ心をばうかべず。法華経は人の形を浮かぶるのみならず心をもうかべ給へり。心を浮かぶるのみならず先業をも未来をも鑑(かんが)み給ふ事くもりなし。法華経の第七の巻を見候へば「如来の滅後に於て仏の所説の経の因縁及び次第を知り義に随って実の如く説かん。日月の光明の能()(もろもろ)の幽冥(ゆうみょう)を除くが如く、斯()の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」等云云。

 

原文の要点

 1. 法華経は明鏡の中の神鏡

 法華経は、一切経の中でも「明らかに真実を映す鏡」であり、しかもただの鏡ではなく「神鏡(不思議な力を持つ鏡)」である。

 2. 銅鏡との違い

 普通の銅鏡は人の形(外見)だけを映すが、心までは映せない。

 ところが法華経は、外見だけでなく人の心まで映し出す。

 3. さらに先業・未来まで示す

 法華経は、今の心だけでなく「過去の業(行いの因縁)」や「未来にどうなるか」まで曇りなく映し出す。

 4. 法華経の経文の証明

 第七巻に「仏滅後に法華経の因縁や順序を正しく理解して、真実を説く人が出る。その人は太陽や月が闇を照らすように、世間の人々の迷いを取り除く」と説かれている。

 

わかりやすい例え

 

たとえば、

 • 普通の鏡は「あなたの顔にシワがある」とか「服が乱れている」といった外見しか映さない。

 • 法華経という神鏡は「あなたの心の状態」「過去にどんな因縁を積んできたか」「未来にどんな結果があらわれるか」までも明らかにしてくれる。

 

だから、法華経を信じ修行する人は、自分の過去の因縁を理解し、未来を正しく歩むことができ、周囲の人々の迷いをも照らし導くことができる、ということです。

 

 

まとめ

 

大聖人は、「法華経はただの鏡ではなく、心や過去・未来までも映し出す神鏡である」と仰せです。私たちが南無妙法蓮華経と唱えるとき、自分の心を清め、過去の因縁を乗り越え、未来を明るく切り開く智慧が働いてきます。そして、その功力によって周りの人々の迷いをも取り除くことができるのです。

 

9日

 日蓮大聖人御金言義類別入文集51

法華経51/66  

 

法華初心成仏抄 1307

 法華の宗は釈迦世尊所立(しょりゅう)の宗と云へり。法華より 外(ほか)の経には全く已今当(いこんとう)の文なきなり。已説とは法華より已前(いぜん)の四十余年の諸経を云ひ、今説とは無量義経を云ひ、当説とは涅槃経を云うふ。此の三説の外に法華経計り成仏する宗なりと仏定め給へり。

 

原文の要点

 1. 「法華の宗」は釈迦如来が自ら定められた宗旨である

 ― 法華経の教えこそ、釈尊ご自身が立てられた唯一の正しい仏法である。

 2. 已・今・当の三説について

 • 已説(いせつ) 法華経より前に説かれた40余年の諸経(華厳・阿含・般若など)

 • 今説(こんせつ) 法華経の序分である「無量義経」

 • 当説(とうせつ) 法華経の後に説かれた「涅槃経」

 

 3. 結論

 この三つ(已・今・当)をすべて比べても、成仏できる唯一の経典は法華経ただ一つであると、釈尊ご自身がはっきりと定められている。

 

わかりやすい例え

 

仏さまの一代の説法を「学校の授業」にたとえると――

 • 「已説」は 授業の準備段階(基礎学習)。

 • 「今説」は 授業の導入部分(いよいよ本題に入る前置き)。

 • 「当説」は 授業のまとめ(総復習のようなもの)。

でも、本当の授業そのもの=核心の真理を説いたのは、ただ「法華経」だけ。

だから仏は「成仏できる宗旨は法華経だけである」と断言されたのです。

 

まとめ

 

お釈迦さまは一生の教えの中で、さまざまなお経を説かれました。けれども、仏になるためのまことの道を示したのは「法華経」ただ一つです。だから私たちは、南無妙法蓮華経と唱えることで、誰でも成仏できるのです。

 

10日

 日蓮大聖人御金言義類別入文集52

法華経52/66  

 

法華初心成仏抄 1308

 恵心僧都の一乗要決に云はく「日本一州円機純一にして朝野遠近同じく一乗に帰し、緇素(しそ)貴賤(きせん)悉(ことごと)く成仏を期せん」云々。

此の文の心は、日本国は京・鎌倉・筑紫・鎮西(ちんぜい)・みちおく(陸奥)、遠きも近きも法華一乗の機のみ有りて、上も下も貴きも賤(いや)しきも持戒も破戒も男も女も、皆おしなべて法華経にて成仏すべき国なりと云う文なり。譬へば崑崙(こんろん)山に石なく蓬萊山(ほうらいさん)に毒なきが如く、日本国は純(もっぱ)らに法華経の国なり。

 

 この部分は 「日本という国そのものが、法華経を受け入れるための特別な国である」 という意味を説かれています。

 

① 恵心僧都の言葉

恵心僧都(えしんそうず:源信という高僧)が「日本の人々は、みんな法華経によって成仏できる機根(素質)を持っている」と述べています。

 • 身分の高い人も低い人も

 • 出家して修行する人も在家の人も

 • 男も女も

 • 戒律を守る人も破っている人もすべて、法華経の教えで救われる、というのです。

② 日蓮大聖人の解釈

大聖人は、この言葉をさらにわかりやすく説明して、

「日本のどこに住んでいようと、どんな立場の人であろうと、みんな法華経によって成仏できるのだ」と示されています。

 

例として、

 • 崑崙山には石がない

 • 蓬莱山には毒がない

という伝説を持ち出して、

「ちょうどそうであるように、日本という国は、法華経でしか救われない“純粋な法華経の国” なのだ」

と断言されています。

③ ポイント

 • 日本国の人々は「法華経一乗(ただ一つの成仏の道)」に適している。

 • 他の教えではなく、法華経こそが唯一の救い。

 • だからこそ、末法の時代には南無妙法蓮華経の信仰が必然である。

要するにこの御文は、

「日本人はみんな、妙法蓮華経で必ず成仏できる。だから一切の人に南無妙法蓮華経を弘めなさい」

という強い確信を表しているところです。

 

12

 日蓮大聖人御金言義類別入文集54

法華経54/66   

 

松野殿後家尼御前御返事 1354

 我等衆生の三界六道に輪回(りんね)せし事は、或は天に生まれ、或は人に生まれ、或は地獄に生まれ、或は餓鬼に生まれ、畜生に生まれ、無量の国に生をうけて、無辺の苦しみをうけてたの()しみにあひしかども、一度も法華経の国には生ぜず。たまたま生れたりといへども南無妙法蓮華経と唱へず。となふる事はゆめ(夢)にもなし。人の申すをも聞かず。仏のたとへを説せ給ふに、一眼(いちげん)の亀の浮木の穴に値()ひがたきにたとへ給ふなり。

 

原文の意味

大聖人は、私たち衆生が三界六道(天・人・地獄・餓鬼・畜生・修羅などの迷いの世界)をぐるぐると生まれ変わってきたことを振り返っておられます。

 

その中では、時に天上界に生まれて楽しみを受けたり、人間に生まれて幸福を味わったり、また地獄や餓鬼や畜生に堕ちて苦しみを受けたりと、無数の国土に生まれ変わっては、無辺の苦楽を受けてきました。

 

けれども 「法華経の国」に生まれたことは一度もなかった、とおっしゃっています。

たとえ偶然、法華経を説く国に生まれたとしても、「南無妙法蓮華経」と唱えたことは夢にもなかったし、題目を称える人の声すら聞かなかった、と。

 

仏さまは、このめぐりあいの難しさを「一つ目の亀が大海に浮かんでいて、偶然、海に漂う小さな木の穴に頭を入れるようなものだ」と例えられている、と大聖人は説かれています。

 

ポイント

      六道輪廻の迷い

 私たちは過去世から何度も生まれ変わり、楽も苦も経験してきた。

      しかし法華経だけは出会えなかった

 どんなに幸せそうな世界に生まれても、肝心の「南無妙法蓮華経」には縁がなかった。

      めぐりあいの難しさ

 それほどに、今こうして法華経に巡りあえたことは「大海の中の一眼の亀が、たまたま浮木の穴にぴたりと入る」ほどの奇跡である。

 

まとめ

 

大聖人は、

「人は無限に生まれ変わってきたけれど、法華経に出会うことはほとんどなかった。今あなたが南無妙法蓮華経を唱えていることは、想像もできないほど尊く、奇跡のようなめぐり合わせである」

と教えてくださっているのです。

 

13日

 日蓮大聖人御金言義類別入文集55

法華経55/66   

 

新池殿御消息 1365

 如来の聖教(しょうぎょう)に随他意・随自意と申す事あり。譬へば子の心に親の随ふをば随他意と申す。親の心に子の随ふをば随自意と申す。諸経は随他意なり。仏一切衆生の心に随ひ給ふ故に、法華経は随自意なり、一切衆生を仏の心に随へたり。諸経は仏説なれども、是を信ずれば衆生の心にて永く仏にならず。法華経は仏説なり、仏智なり。一字一点も深く信ずれば我が身即ち仏となる。

 

原文の意味

大聖人は、仏さまの教え(聖教)には 「随他意(ずいたい)」と「随自意(ずいじ)」 という二つのあり方があると説かれています。

      随他意(ずいたい)

 これは「相手に合わせる」教えです。

 たとえば、親が子どもの心に合わせて行動するのが随他意。

 諸経(法華経以外のすべての経)はこの随他意です。

 つまり、仏が衆生の望みや心に合わせて説いた方便の教えなのです。

      随自意(ずいじ)

 これは「仏の本心に従わせる」教えです。

 たとえば、子どもが親の心に従うのが随自意。

 法華経はこの随自意です。

 つまり、衆生を仏の心に従わせ、仏の真実の智慧に導く教えなのです。

そして大聖人は、こう結ばれます。

      諸経はたとえ仏さまの説法であっても、衆生の心に合わせた仮の教えなので、それを信じても本当には仏になれない。

      しかし、法華経は仏の智慧そのものの教えだから、一字一句を深く信じるだけで、私たちの身がそのまま仏になるのだ、と。

 

ポイント

 1. 諸経=随他意

 衆生の願いに合わせた「仮の教え」。成仏には至らない。

 2. 法華経=随自意

 仏の本心そのもの。これを信じれば、我が身が即仏になる。

 3. 信じるだけで即身成仏

 法華経は方便ではなく、仏智そのものだからこそ、一字一句を深く信ずれば、そのまま仏となる。

まとめ

大聖人は、

「法華経以外のお経は、仏さまが人々に合わせた方便の教えだから、どんなに信じても成仏できない。けれども法華経は、仏の本当の心=仏智そのものだから、一字一句を深く信じるだけで、私たちはすぐに仏になれる」

と教えてくださっています。

 

14日

 日蓮大聖人御金言義類別入文集56

 

法華経56/66   

曽谷殿御返事 1381

 

 法華経は何(いか)なる故ぞ諸経に勝れて一切衆生の為に用ふる事なるぞと申すに、譬へば草木は大地を母とし、虚空を父とし、甘雨を食(じき)とし、風を魂とし、日月をめのと(乳母)として生長し、華さき菓(このみ)なるが如く、

一切衆生は実相を大地とし、無相を虚空とし、一乗を甘雨とし、已今当第一の言(ことば)を大風とし、定慧力(じょうえりき)荘厳(しょうごん)を日月として妙覚の功徳を生長し、大慈大悲の華さか()かせ、安楽仏果の菓なって一切衆生を養ひ給ふ。

 

 この御文も大変美しいたとえで、法華経の功徳を示されています。

原文の意味(かみくだき)

 

大聖人はまず、問いを立てます。

「なぜ法華経は、他のすべてのお経に勝れて、すべての衆生を救うことができるのか?」

 

それに答えて、自然界のたとえを使って説かれます。

     草木が育つには、         大地を母とし、         **虚空(空気)**を父とし、

         雨水を食べものとして、

         風を魂として、

         日月を乳母として、

こうして養われて花が咲き、実がなる。

 

同じように、衆生が仏果(さとり)に至るためにも条件がそろう必要があります。

      衆生にとっての 大地は「実相(真実の姿)」

      虚空は「無相(とらわれのない智慧)」

      雨は「一乗の法(法華経の平等の教え)」

      風は「已今当第一(すでに・今・未来、すべての教えの中で第一の法華経ということば)」

      日月は「定(心の安定)と慧(智慧)の力」

      これらによって衆生は、

         大慈大悲の花を咲かせ、

         安楽仏果の実を結び、

         すべての人を養うことができる。

と説かれています。

 

ポイント

 1. 草木が育つたとえで、衆生が成仏する過程を説明している。

 2. 法華経の教えがなければ、衆生は花も実も結ばない。

 3. 法華経こそが、仏果を育てる 根本の雨・風・光のような存在。

 

まとめ

大聖人は、

「草木が大地や雨・日月の力で育って花咲き実を結ぶように、私たち衆生も、法華経の力によって仏の智慧と慈悲を咲かせ、成仏の果実を結ぶことができる。だから法華経は、すべてのお経の中で最高であり、万人を救うことができる」

と説かれているんです。

 

15日

 日蓮大聖人御金言義類別入文集57

 

法華経57/66   

四条金吾殿御返事 1391

 

根ふかければ枝さかへ、源(みなもと)遠ければ流(なが)れ長しと申して、一切の経は根あさく流(ながれ)ちかく、法華経は根ふかく源(みなもと)とをし、末代悪世までもつきずさか()うべしと天台大師あそばし給へり。

 

御文の意味

      「木の根が深ければ、枝葉も大きく茂る。川の源が遠くしっかりしていれば、水の流れも長く続く」

 ――これは自然の道理ですね。

      他のすべてのお経は、根が浅くてすぐに枯れてしまう木のようなもの。あるいは、水源が小さくてすぐに尽きてしまう川のようなものです。

      それに対して法華経は、根が深くて大樹のように栄え、水源が大きくてどこまでも流れ続ける大河のようなもの。だから仏滅後の末法の悪世に至るまで、力を失わず、常に人々を救い続けることができるのです。

      これは天台大師(中国・智顗大師)も説かれたことだ、と大聖人は強調されています。

 

ポイント

 1. 比喩の意味

         「根深ければ枝栄える」=仏の教えの基盤がしっかりしていれば、永く人々を導ける。

         「源遠ければ流れ長し」=源が確かなら、未来に至るまで法は尽きない。

 2. 法華経の特色

         他の経は「一時の教え」=時代が変われば力を失う。

         法華経は「永遠の教え」=どんな時代でも通用し、人々を救える。

 3. 末法の意義

         今の私たちが生きる「末法」こそ、法華経が最も光を放つ時代。

         だから大聖人は「南無妙法蓮華経」を根本に弘められたのです。

 

🔑 まとめ

この御文は、「法華経は他のお経と違って、未来永劫に人々を救い続ける力をもつ。だから末法の今こそ、法華経を信じなさい」という励ましです。

 

16日

 日蓮大聖人御金言義類別入文集58

 

法華経58/66   

四条金吾殿御返事 14078

 

すぎし存命不思議とおもはせ給へ。なにの兵法(ひょうほう)よりも法華経の兵法をもちひ給うべし。「諸余怨敵(しょよおんてき)皆悉摧滅(かいしつざいめつ)」の金言むなしかるべからず。兵法(ひょうほう)剣形(けんぎょう)の大事も此の妙法より出()でたり。ふかく信心をとり給へ。あへて臆病にては叶ふべからず候。

 

      あなた(金吾殿)がこれまで数々の危機をのりこえて生き延びてこられたのは、不思議なことだと思いなさい。

      世間のあらゆる兵法よりも、法華経の兵法こそ用いるべきです。

      「諸余怨敵皆悉摧滅(しょよおんてき かいしつざいめつ)」――これは法華経の経文で、「そのほかの敵はみなことごとく打ち破られる」という約束の言葉です。この金言は決してむなしくなることはありません。

      剣の形を習うような武術の奥義も、もとをたどれば法華経の妙法から出ているのです。

      だからこそ、なによりも深く信心を持ちなさい。少しでも臆病になってしまえば、この功徳は叶いません。

 

ポイント

 1. 法華経の兵法とは?

         世間の戦術や剣術ではなく、根本の勝利の力は妙法にあるということ。

         法華経を持つ者は、目に見えぬ護りによって勝利できる。

 2. 経文の引用

         「諸余怨敵皆悉摧滅」=敵はことごとく滅びる、という約束。

         法華経を信じる人は必ず守られる、という大確信の根拠。

 3. 臆病ではダメ

         信心は強盛に持ってこそ力が出る。

         不安や疑いを抱いたままでは、妙法の力を引き出せない。

 

まとめ

この御文は、危険や困難の中にある弟子に対して、

「法華経こそ最高の兵法だ。経文には必ず敵を打ち破るとある。だから強い信心で進め。決して臆病になってはいけない」

と、大聖人が力強く励まされたお手紙です。

 

17

 日蓮大聖人御金言義類別入文集59

法華経59/66   

総勘文抄  1412

二に自行の法とは是れ法華経八箇年の説なり。是の経は寤(うつつ)の本心を説き給う。唯衆生の思い習わせる夢中の心地なるが故に・夢中の言語を借りて寤の本心を訓(おしう)る。

 

意味

 1. 「自行の法とは是れ法華経八箇年の説なり」

         「自行」とは、まず自分が正しく修行すること。

         その根本は、お釈迦さまが最後の8年間に説かれた法華経である。

         つまり「法華経こそ、自分自身を正しく修行するための根本の教え」という意味です。

 2. 「是の経は寤(うつつ)の本心を説き給う」

         「寤(うつつ)」は目が覚めている状態。

         「本心」とは、仏の本当の心、真実の悟り。

         法華経は、仏さまの本当の心を直接説き明かした経典だということです。

 3. 「唯衆生の思い習わせる夢中の心地なるが故に」

         ところが私たち凡夫は、夢の中にいるように迷いの心にとらわれている。

         本当のこと(寤の心)をそのままは理解できないのです。

 4. 「夢中の言語を借りて寤の本心を訓(おしう)る」

         そこで仏さまは、あえて私たち凡夫の理解できる「夢の中のことば」を使って、

本当の心(寤の本心)を教えてくださった。

         つまり、比喩や方便を使いながら、夢中の衆生を本当の真実に導いてくださったのです。

 

まとめ

日蓮大聖人はここで、

      自行の根本は法華経である

      法華経は、仏さまの本当の心(悟りの真実)を説いたお経である

      しかし衆生は迷いにとらわれているので、そのままでは理解できない

      だから仏さまは「夢の中の言葉(比喩や方便)」を借りて、真実の心を教えてくださったと仰せです。

 

🪷 つまり「仏さまの本当の悟り(寤の本心)」を知るには、夢(迷い)の中にいる私たちに合わせて説かれた法華経を信じ修行するしかない、ということを教えておられるのです。

 

18

 日蓮大聖人御金言義類別入文集60

法華経60/66   

 

総勘文抄 1423

 

自行の法華経の大海には化他の諸経の衆水を入るること、昼夜に絶えず入るるといえども増ぜず減ぜず、不可思議の徳用を顕す。諸経の衆水は片時のほども法華経の大海を納るることなし。自行と化他との勝劣かくのごとし。

 

言葉の意味

      自行(じぎょう) まず自分自身が正しく修行すること。ここでは「法華経の信仰・修行」を指します。

      化他(けた) 他人を導く行い。ここでは「他の経典による人への教化」を指します。

      大海 大きな海。法華経をたとえている。

      衆水 多くの川の水。諸経をたとえている。

 

内容

 1. 「自行の法華経の大海には化他の諸経の衆水を入るること、昼夜に絶えず入るるといえども増ぜず減ぜず」

         法華経は大海のように広大で深い教え。

         他の経(諸経)をすべて流し込んでも、法華経の大海はあふれもせず、減りもしない。

         それだけ法華経は絶対で、他の経を超えた存在である。

 2. 「不可思議の徳用を顕す」

         これは人知では測れない大きな働きをもっているということ。

         法華経を修行することで、自行にも化他にも計り知れない功徳があらわれる。

 3. 「諸経の衆水は片時のほども法華経の大海を納るることなし」

         逆に、他の経(衆水)は法華経(大海)を受け入れることができない。

         つまり、法華経は諸経に勝れ、諸経の中に収まることのない無上の教えである。

 4. 「自行と化他との勝劣かくのごとし」

         自行(法華経)は化他(諸経)よりも勝れている。

         つまり「まず法華経の自行を根本にし、そのうえで化他があるべきだ」という立場を示されている。

 

まとめ

日蓮大聖人はここで、

      法華経を実践する「自行」は、大海のように絶対的で無限の働きをもつ。

      他の経典による「化他」は、多くの川の水のように流れ込んでも、法華経の大海には影響を与えられない。

      逆に、諸経は法華経を受け入れることができない。

      だから「自行=法華経」のほうが「化他=諸経」よりもはるかに勝れている。と教えておられるのです。

この御文は、通常の信心修行における自行(勤行、唱題)・化他(下種・折伏)の意味では、ありません。

 

19

 日蓮大聖人御金言義類別入文集61

法華経61/66   

諸経と法華経と難易の事14678

 

仏の滅後にこの法華経のこの句を読みたる人、ただ三人なり。いわゆる、月氏には竜樹菩薩、大論に云わく「譬えば、大薬師の能く毒をもって薬となすがごとし」等云々。これは、竜樹菩薩の「難信難解」の四字を読み給いしなり。漢土には天台智者大師と申せし人、読んで云わく「已今当の説に最もこれ難信難解なり」云々。日本国には伝教大師、読んで云わく「已説の四時の経、今説の無量義経、当説の涅槃経は易信易解なり。随他意の故に。この法華経は最もこれ難信難解なり。随自意の故に」等

云云。

 

 この御文は、法華経がいかに理解しがたく、信じにくい教えであるかということを、歴史上の三人の大聖人を通して説かれている部分です。

 

① 仏滅後に「法華経は難信難解」と読んだ三人

仏が亡くなった後、この法華経の「難信難解(なにしんなんげ)という言葉を実際に深く理解したのは、世界でたった三人だけだと大聖人は言います。

その三人とは――

      インド(月氏)では竜樹菩薩

『大智度論(大論)』に「大医師が毒を薬に変えるようなものだ」と述べて、法華経が他の経とは全く違う、理解しにくい経だと明かした。

      中国(漢土)では天台智者大師(天台大師智顗)

「過去に説かれた経(已説)、今説かれている経(今説)、未来に説かれる経(当説)の中でも、この法華経こそが最も難信難解である」と述べた。

      日本では伝教大師(最澄)

「法華経以前の阿含経や華厳経、般若経など(已説)、法華経の前置きとしての無量義経(今説)、そして法華経の後に説かれる涅槃経(当説)は、どれも比較的わかりやすい(易信易解)。しかし、法華経こそが最も難信難解である。なぜなら、それらの経は仏が衆生に合わせて説いた“随他意”の教えだが、法華経だけは仏が自分自身の悟りそのもの“随自意”を語ったからだ」と述べた。

 

② ポイント

      他の経典は人々に合わせて説かれたから理解しやすい。

      法華経だけは仏が自分の悟りをそのまま説いたので、非常に理解しにくく信じにくい。

      だからこそ、法華経を正しく信じることは並大抵ではないし、それを実践する人は本当に尊い。

 

つまり、大聖人はこうおっしゃっています。

 

法華経の「難信難解」という言葉を本当に理解した人は、インド・中国・日本でただ一人ずつしかいない。竜樹菩薩、天台大師、伝教大師である。それほどに法華経は深く尊い経典である。

 

20日

 日蓮大聖人御金言義類別入文集62

法華経62/66

 

千日尼御返事 1475

 九界・六道の一切衆生各々心々かわれり。譬へば二人・三人・乃至百千人候へども一尺の面(かお)の内じち()にに()たる人一人もなし。心のに()ざるゆへ()に面もにず。まして二人・十人、六道・九界の衆生の心いかん(如何)がかわ()りて候らむ。されば花をあい()し、月をあいし、酸(すき)をこのみ、にがきをこのみ、ちいさきをあいし、大なるをあいし、いろいろなり。善をこのみ、悪をこのみ、しなじななり。かくのごとくいろいろに候へども、法華経に

入りぬれば唯一人の身、一人の心なり。

 

 この御文は、**「人それぞれ違っていても、法華経の信仰に入れば一つに結ばれる」**という深いことを教えています。

 

要点

 1. 「九界・六道の一切衆生各々心々かわれり」

         九界・六道にいる衆生(すべての人)は、それぞれ心が違っている。

 2. 「譬へば二人・三人・乃至百千人候へど一尺の面の内じちににたる人一人もなし」

         たとえば二人、三人、百人、千人集まっても、顔がまったく同じ人は一人もいない。

 3. 「心のにざるゆへに面もにず」

         それは、心が違うから顔も違ってくるのだ。

 4. 「花をあいし、月をあいし、すきをこのみ、にがきをこのみ

         ある人は花が好き、ある人は月が好き。

         甘いものが好き、苦いものが好き。

         小さいものが好き、大きいものが好き。

         善を好む人もいれば、悪を好む人もいる。

         このように好みも考えも実にバラバラである。

 5. 「かくのごとくいろいろに候へども、法華経に入りぬれば唯一人の身、一人の心なり」

         ところが、みんなバラバラに見える人々も、法華経の信仰に入ると、一つの身、一つの心になる。

         つまり、南無妙法蓮華経を信じることで、違いを超えて「同じ心」で結ばれるのだ。

 

わかりやすいまとめ

      人は顔も心もバラバラ。

      好き嫌いや考えも千差万別。

      でも、法華経の信仰に入れば「仏になる」という同じ目的に向かい、一つの心で結ばれる。

🪷 つまり大聖人は、**「人の違いにとらわれず、法華経を根本にすれば皆が心ひとつになれる」**ということを千日尼に教えておられるのです。

ここでいう「唯一人の身、一人の心」とは、実生活でいうと「同じ題目を唱える仲間は、一つの家族のように結ばれる」ということでもあります。

21

 日蓮大聖人御金言義類別入文集63

法華経63/66

 

上野殿母尼御前御返事 1510

 

 抑(そもそも)いかなれば三世十方の諸仏はあながちに此の法華経をば守らせ給ふと勘(かんが)へて候へば、道理にて候けるぞ。法華経と申すは三世十方の諸仏の父母なり、めのと(乳母)なり、主にてましましけるぞや。かえる()と申す虫は母の音(こえ)を食(じき)とす。母の声を聞かざれば生長する事なし。からぐら(迦羅求羅)と申す虫は風を食とす。風吹かざれば生長せず。魚は水をたのみ、鳥は木をすみか()とす。仏も亦かくの如く、法華経を命とし、食とし、すみか()とし給ふなり。

 

 これは日蓮大聖人が、なぜ諸仏は法華経を守護するのかを、身近なたとえを用いて説かれている御文です。

原文の意味

 1. **三世十方の諸仏(過去・現在・未来、あらゆる世界の仏)**が、なぜ法華経を強く守られるのか?

 それは道理にかなっている。

 2. **法華経は諸仏の父母であり、乳母であり、主(主人・根本)**である。

 つまり、仏そのものを生み、育て、養うものが法華経だからである。

 3. たとえを挙げられる。

 - 蛙は母の声を食として育つ。母の鳴き声がなければ生きていけない。

 - 迦羅求羅(胎内の虫)は風を食として育つ。風がなければ生きられない。

 - 魚は水を頼みとして生きる。

 - 鳥は木を住みかとして生きる。

 4. 仏も同じで、法華経を命・食・住みかとして存在している。

わかりやすいまとめ

      仏は勝手に生まれたのではなく、法華経によって生まれ、育てられ、支えられて仏となった。

      だからこそ、仏にとって法華経は「親」であり「養い手」であり「住みか」そのもの。

      そのため、仏は自分を生かす根本である法華経を必ず守護する。

ポイント

私たち凡夫が法華経を持つとき、ただ一人で信じているのではなく、三世十方の仏が共にその法華経を守ってくださるのです。

つまり、南無妙法蓮華経と唱える人は、仏そのものの命の根源と直結する生き方をしている、ということになります。

 

22日

 日蓮大聖人御金言義類別入文集64

法華経64/66

 

新池御書  1456

 

伝教大師は「法華経を讃すと雖(いえど)も還(かえ)って法華の心を死(ころ)す」等云云。文の心は法華経を持(たも)ち読み奉り、讃()むれども、法華の心に背きぬれば、還って釈尊十方の諸仏を殺すに成りぬと申す意(こころ)なり。

 

原文の意味

日蓮大聖人は、伝教大師(最澄)の言葉を引いて、

「たとえ法華経を読んで讃めていても、法華経の心に背くならば、それは逆に法華経を殺すことになる」

と仰せです。

解説

      法華経を読む・讃めることは大切ですが、それだけでは十分ではありません。

      「法華経の心」とは何かというと、法華経が説いている「すべての人が成仏できる」という根本の精神です。

      もし、口では法華経を称賛しながら、実際の行動や心がその精神に背いていれば、結局は法華経そのものを裏切ることになります。

      それは釈尊や十方の諸仏を否定するのと同じくらい重い罪になる、というのです。

たとえば、

      法華経を「素晴らしい」と口先では言っていても、実際には他の経を第一とし、法華経を軽んじる。

      あるいは法華経を読むけれども、信じきらず、正しい実践(南無妙法蓮華経の信心)をしない。

このような態度は、表面では法華経を敬っているように見えて、実は法華経の精神を「殺す」行為だと日蓮大聖人は厳しく戒められています。

まとめ

 

要するに、

      大切なのは「法華経の心を実践すること」。

      単に読む・讃めるだけではなく、法華経の精神を信じ、南無妙法蓮華経と唱え弘める実践こそが本当の信仰。

      そうしなければ、かえって仏を裏切ることになる。

という御教えです。

 

23日

 日蓮大聖人御金言義類別入文集65

法華経65/66

 

王日殿御返事 1546

    法華経の一字は大地の如し、万物を出生す。一字は大海の如し、衆流(しゅる)を納む。一字は日月の如し、四天下をてらす。此の一字返じて仏となる。稲は変じて苗となる。苗は変じて草となる。草変じて米となる、米変じて人となる、人変じて仏となるら女人変じて妙の一字となる、妙の一字変じて台上の釈迦仏となるべし。

 

解説 

1.「法華経の一字」の力

      大地にたとえれば、すべての草木・万物がそこから生まれるように、

      大海にたとえれば、すべての川がそこに流れ込むように、

      日月にたとえれば、すべてを明るく照らすように、

法華経の「一字」に、宇宙のあらゆる命を生かし、導き、輝かせる力がある、ということです。

2.「一字返じて仏となる」

ここで言う「一字」とは、南無妙法蓮華経の「妙」の一字を指しています。

その一字を信じ、唱えるならば、私たち凡夫の命が変わって仏の命になるということです。

3.稲のたとえ

と変化していくのは、命の連続変化を示しています。

つまり、私たちの凡夫の命も、南無妙法蓮華経によって変じて、ついには仏の命となるということです。

4.女人も成仏できる

特に大聖人は「女人変じて妙の一字となる」と仰せです。

女性は仏になれないと誤解されがちでしたが、法華経の妙法によって、女性もそのまま仏の命に変わることを強調されています。

 

まとめ

この御文は、

      法華経の一字にすべてを生み出す大力用がある

      信じて唱えれば、必ず凡夫が仏に変わる

      男女の差別なく、すべての人が成仏できる

という、日蓮大聖人の「南無妙法蓮華経の絶対の功力」を説き明かされたお言葉です。

 

24日

 日蓮大聖人御金言義類別入文集66

法華経66/66

 

御講聞書 1840

「一切智地四字の事(薬草喩品)

    此の一切智地をば九識法性(くしきほっしょう)と心得べきなり。九識法性には迷悟不二・凡聖一如(ぼんしょういちにょ)なれば空(くう)と云うなり。無分別智光(むふんべっちこう)を空と云ふなり。此の九識法性はいかなる処の法界を指すや。法界とは十界なり、十界即諸法なり。此の諸法の当体、本有(ほんぬ)の妙法蓮華経なり。此の重に迷ふ衆生の為に、一仏現じて分別説三するは、九識本法の都を立ち出でたるなり。さて終(つい)に本の九識に引入する、夫(それ)を法華経とは申すなり。一切智地とは是(これ)なり。一切智地は我等衆生の心法なり。

 

原文の要点

 1. 一切智地とは何か

→ 九識法性(くしきほっしょう)、つまり私たちの心の最も深いところの仏のいのちを指す。

 2. 九識法性の特徴

→ 迷っている時も悟っている時も本質は変わらない。凡夫も聖者も根本はいっしょ。

→ この清らかな智慧の光を「空(くう)」という。

 3. 法界とは

→ 十界(地獄から仏界までのすべての世界)。それらはみな「諸法(あらゆる存在)」である。

→ 諸法そのものが本来「妙法蓮華経」である。

 4. 仏の説法の意味

→ 迷う衆生を救うために、仏は方便としてさまざまな教え(三乗など)を説く。

→ しかし最終的には、本来の九識(仏のいのち)に導く。これこそが法華経。

 5. 結論

→ 一切智地とは、私たち衆生の心の奥底にある仏の智慧のこと。

説明

「一切智地(いっさいちじ)」という言葉は、仏さまの智慧がどこから出てくるか、その根本を示しています。

 

日蓮大聖人は、それを 「九識法性(くしきほっしょう)」=人間の心の最も深い次元 と教えています。

私たちは迷ったり苦しんだりしますが、その奥底には必ず仏のいのちが宿っている。だから迷っていても悟っていても、凡夫であっても仏であっても、根本は同じなのです。

 

この根本の智慧の光を「空」と言い、また「無分別智(むふんべっち)」と呼びます。つまり、差別や区別を超えた、本当に平等で清らかな智慧です。

 

さらに、この「九識法性」が現れている場を「法界」といいます。それは地獄から仏界までの十界すべてを含んでいて、結局は「諸法(あらゆる存在)」そのもの。

そして諸法の当体は、本来「妙法蓮華経」なのです。

 

だから仏さまは、迷える衆生のために方便としていろんな教え(三乗など)を説きましたが、最後には必ず「本来の九識=仏のいのち」に導き入れてくれる。それが法華経の働きです。

まとめ

      一切智地=私たちの心の奥底にある仏の智慧(九識法性)

      迷いと悟り、凡夫と仏は、本質的にひとつ。

      あらゆる存在(十界)は本来「妙法蓮華経」である。

      仏さまは方便を経て、最後にこの根本の智慧に導く。

      だから一切智地とは、私たち衆生の心の中に本来具わっている仏の心を指す。

ここでは「一切智地=衆生の心の奥にある仏性」というところを押さえるのが大事です。

25日

 日蓮大聖人御金言義類別入文集67

 

()本尊1/19

①権実判1/3

 

善無畏三蔵抄43940

 

 大覚世尊は我らが尊主なり。先()づ御本尊と定むべし。二には、釈迦如来は娑婆世界の一切衆生の父母なり。まず我が父母を孝し、後に他人の父母には及ぼすべし。

 

解説

 1. 「大覚世尊は我らが尊主なり」

「大覚世尊」とは、お釈迦さまのことです。

仏法を説き、私たちを成仏へ導いてくださる最高の師匠であり、尊い主である、ということです。

 2. 「先づ御本尊と定むべし」

だから、信仰の中心にすえるべきはまず御本尊(南無妙法蓮華経の御本尊)である、ということを示しています。

信仰の根本は仏であり、その仏を表した御本尊を第一に崇めなさい、という教えです。

 3. 「釈迦如来は娑婆世界の一切衆生の父母なり」

お釈迦さまは、この世界のすべての人々を教え導いてくださる存在であり、まるで全人類の「父母」であるかのように慈しみ、育ててくださっている、という意味です。

 4. 「まず我が父母を孝し、後に他人の父母には及ぼすべし」

ただし、まず自分の目の前にいる両親に孝養を尽くすことが第一です。

自分の親にさえ孝行できない人が、他人の親を敬ったり、世の中の人々を大切にしたりできるはずがありません。

したがって、信仰においても生活においても、「御本尊を根本とし、自分の両親を大切にし、それを広く他人にも及ぼしていく」という順序を守りなさい、ということです。

 

まとめ

この御文は、

      信仰の根本=御本尊を第一に崇めること

      生活の根本=まず両親に孝行すること

 

を教えておられます。

つまり「信心と孝行、この二つが仏道修行の基本である」と日蓮大聖人は諭されているのです。

 

26

 日蓮大聖人御金言義類別入文集68

()本尊2/19   ①権実判2/3

開目抄下 554

 天台宗より外(ほか)の諸宗は本尊にまどえり。倶舎(くしゃ)・成実(じょうじつ)・律宗は三十四心断結成道(だんけつじょうどう)の釈尊を本尊とせり。天尊の太子、迷惑して我が身は民の子とをもうがごとし。華厳宗・真言宗・三論宗・法相(ほっそう)宗等の四宗は大乗の宗なり。法相・三論は勝応身ににたる仏を本尊とす。大王の太子、我が父は侍(さむらい)とをもうがごとし。華厳宗・真言宗は、釈尊を下げて盧舎那(るしゃな)・大日等を本尊と定む。天子たる父を下(くだ)して種姓(すじょう)もなき者の法王のごとくなるにつけり。浄土宗は、釈迦の分身(ふんじん)の阿弥陀仏を有縁の仏とをもって、教主をすてたり。禅宗は、下賤の者一分の徳あって父母をさぐるがごとし。仏をさげ経を下す。此(これ)皆、本尊に迷へり。

 

 この御文は、**「正しい本尊を見誤った諸宗」**を厳しく指摘されているところです。

 

原文の流れと意味

 1. 「天台宗より外の諸宗は本尊にまどえり」

 天台宗以外の諸宗は、どの仏を本尊とすべきかを間違えている、と大聖人は断定されています。

 2. 「倶舎・成実・律宗は三十四心断結成道の釈尊を本尊とせり」

 倶舎宗・成実宗・律宗などの小乗宗は、仏がまだ「小乗の修行を完成した段階」の釈尊を本尊にしている。

 例えるなら、皇太子でありながら自分を庶民の子だと思い込んでいるようなものだ、と批判されています。

 3. 「華厳宗・真言宗・三論宗・法相宗等の四宗は大乗の宗なり。法相・三論は勝応身に似たる仏を本尊とす」

 華厳・真言・三論・法相宗は大乗仏教の宗派。

 そのうち三論宗・法相宗は、仏の応身(人間の姿で現れた仏)を本尊にしている。

 これは、大王の子なのに、自分の父を「家来」だと思っているようなもの、と例えています。

 4. 「華厳宗・真言宗は、釈尊を下げて盧舎那・大日等を本尊と定む」

 華厳宗・真言宗は、釈尊を軽んじて、代わりに盧舎那仏や大日如来を本尊としています。

 これは、本当の父である天子(皇帝)をさげすみ、身分のない者を父だと思い込むようなものだ、と批判されています。

 5. 「浄土宗は、釈迦の分身の阿弥陀仏を有縁の仏と思って、教主をすてたり」

 浄土宗は、釈尊が仮に示した阿弥陀仏を自分に縁ある仏だと思って、肝心の教主である釈尊を捨ててしまっている。

 6. 「禅宗は、下賤の者一分の徳あって父母をさぐるがごとし。仏をさげ経を下す」

 禅宗は、身分の低い者がわずかな徳を頼りに「自分の親は誰だろう」と探しているようなもの。

 つまり、仏を軽んじ、経典をも軽視していると厳しく批判されています。

 7. 「此皆、本尊に迷へり」

 以上の諸宗はいずれも、本尊(信仰の中心に据えるべき仏)を見誤っているのだ、と結論づけています。

 

まとめ

日蓮大聖人はここで、

      小乗宗 仏の「小さな段階」を本尊にしている(真の仏を知らない)。

      法相・三論 応身仏を本尊にしている(父を家来と誤解)。

      華厳・真言 大日如来・盧舎那仏を本尊とし、釈尊を下げた(父を捨てて他人を父と呼ぶ)。

      浄土宗 阿弥陀仏を本尊とし、釈尊を捨てた(教主を見失う)。

      禅宗 仏も経も軽んじ、自分勝手に探し回る(根拠を失う)。

 

と整理し、どの宗派も本尊を正しく定めていないと指摘されているのです。

 

つまり大聖人の意図は、

👉「本尊を誤ることは、信仰全体を誤ること。だからこそ、正しい本尊=南無妙法蓮華経の御本尊を立てることが肝心」

という点に尽きます。

 

28日

 日蓮大聖人御金言義類別入文集70

()本尊4/19    ①本迹判1/4

開目抄上 536

 

本門にいたりて、始成正覚(しじょうしょうがく)をやぶれば、四教の果をやぶる。四教の果をやぶれば、四教の因やぶれぬ。爾前迹門の十界の因果を打ちやぶって、本門の十界の因果をとき顕す。此即ち本因本果の法門なり。九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備はりて、真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし。

この御文を拝すると、大聖人が「法華経の本門にいたって初めて十界因果の真実が明かされる」という根本の義を説いておられる箇所です。

 

①「始成正覚をやぶる」とは?

仏教では一般に「釈迦は菩提樹下で悟りを開き、はじめて仏となった」と説かれてきました。これを「始成正覚」といいます。

しかし法華経本門では「釈迦は久遠の昔すでに仏であった」と明かすので、「始めて成仏した」という通念を打ち破ります。

 

②「四教の果をやぶる・因をやぶる」

天台の四教(蔵・通・別・円)における「果(成仏の姿)」が、久遠実成の仏によって破られます。

果が破れると、当然そこへ至る「因(修行や仏道の方法)」も破られます。

つまり爾前経や迹門の仏道観そのものが根底から覆されるのです。

 

③「爾前迹門の十界の因果を打ちやぶる」

爾前経や迹門で説かれる十界(地獄から仏までの十の世界)の因果は、仮のものでした。

本門に至って初めて「真実の十界因果」が明かされる。これが 本因本果の法門 です。

 

④「本因本果の法門」とは?

      本因 久遠元初よりの南無妙法蓮華経を唱える修行。

      本果 久遠元初より成仏している久遠実成の仏。

つまり、私たちの凡夫の生命にも「本因(妙法)」が本来そなわり、そこから無始の「本果(仏界)」が顕れるのです。

 

⑤「九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備わる」

これは 十界互具 の真髄です。

      凡夫の九界(地獄~菩薩)の生命の中にも、はじめから仏界が具わっている。

      また仏界の中にも、九界のはたらきが備わっている。

この 真実の十界互具・百界千如・一念三千 が、末法に弘まる南無妙法蓮華経の肝心となります。

まとめると、この御文は

「爾前迹門の仏道はすべて仮のものであり、法華本門の久遠実成の仏と本因本果の法門こそ、十界因果・一念三千の真実を明かす」

と示された重要な箇所です。

 

29日

 日蓮大聖人御金言義類別入文集71

()本尊5/19   ①本迹判2/4

 

開目抄下 5523

 

 此の過去常(かこじょう)顕はるる時、諸仏、皆釈尊の分身(ふんじん)なり。爾前・迹門の時は、諸仏・釈尊に肩を並べて各修各行の仏なり。かるがゆへに諸仏を本尊とする者、釈尊等を下す。今華厳の台上・方等・般若・大日経等の諸仏は、皆釈尊の眷属(けんぞく)なり。

 

原文の要点

 1. 「過去常顕はるる時」

― 釈尊が「久遠元初から常に仏であった(常住の仏)」ということが明らかになるとき。

 2. 「諸仏、皆釈尊の分身なり」

― その時に現れる諸仏は、みな久遠元初の釈尊から分かれ出た仏である。

 3. 「爾前・迹門の時は各修各行の仏なり」

― しかし、法華経以前の教え(爾前経)や、法華経の前半(迹門)の立場では、諸仏も釈尊と同格の仏として説かれていた。それぞれが修行して成仏した別々の仏と見られていた。

 4. 「かるがゆへに諸仏を本尊とする者、釈尊等を下す」

― だから、その段階では「阿弥陀仏」や「大日如来」などを本尊に立てれば、釈尊と同じか、それ以上の仏と考えてしまい、釈尊を下に見ることになる。

 5. 「今華厳の台上・方等・般若・大日経等の諸仏は、皆釈尊の眷属なり」

― しかし本門寿量品で「久遠元初の釈尊」が顕れたことで、華厳経・方等経・般若経・大日経に説かれる諸仏は、すべて久遠釈尊の眷属(従う者)であり、主ではなく従の立場になる。

 

まとめ

日蓮大聖人はここで、

      法華経以前(爾前)や迹門では、阿弥陀仏や薬師仏などが「釈尊と同格の仏」と見られていた。

      しかし、本門寿量品によって「久遠元初から仏である釈尊」が明かされると、他の仏たちはすべてその久遠釈尊から出た分身・眷属であり、釈尊に従う存在であることがわかった。

      だから、本当に拠るべき本尊は久遠元初の釈尊であり、他の仏を本尊に立てるのは誤りになる。

ということを示しています。

 

30日

 日蓮大聖人御金言義類別入文集72

()本尊6/19   ①本迹判3/4

開目抄下 553

 

 仏は久遠の仏なれば迹化(しゃっけ)他方の大菩薩も教主釈尊の御弟子なり。一切経の中に此の寿量品ましまさずば、天に日月の無く、国に大王の無く、山河に珠の無く、人に神(たましい)のなからんがごとくしてあるべき。

解説

 1. 「仏は久遠の仏なれば」

釈尊はインドのお釈迦様というだけでなく、久遠元初から成仏していた永遠の仏である、ということです。

 2. 「迹化・他方の大菩薩も御弟子なり」

迹門(釈尊の仮の教え)で現れた菩薩や、他方の世界から来た菩薩たちも、すべて久遠元初の釈尊の弟子である、ということ。

→ 仏が永遠である以上、そこに集う菩薩たちも**「師弟の関係」**が根本にあります。

 3. 「寿量品ましまさずば

法華経の寿量品(じゅりょうほん)=仏が久遠の昔から成仏していることを説いた中心の章がなければ、どうなるか?

         天に太陽と月がない

         国に王様がいない

         山や川に宝がない

         人に魂がない

つまり、寿量品がなければ仏法の根本が成り立たない、という強い喩えです。

🌟 ポイント

      寿量品こそが、仏の真実の姿(久遠実成の仏)を明かした最重要の教え。

      この章を失えば、仏法全体は空っぽで、光も秩序も魂も失ったものになる。

      だからこそ日蓮大聖人は、寿量品=南無妙法蓮華経を根本に立てられた。

 

👉まとめ

大聖人はここで

「寿量品がなければ仏法は死んでしまう。だから寿量品を根本とする信仰こそが大事だ」

 

と仰せなのです。