石黒御住職ご指導集 令和78

 

1

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集12

法華経12/66

四恩抄266

 

 去年(こぞ)の五月(さつき)十二日より今年正月(むつき)十六日に至るまで二百四十余日の程は昼夜十二時に法華経を修行し奉ると存じ候、其の故は法華経の故にかかる身となりて候へば行住坐臥(ぎょうじゅうざが)に法華経を読み行ずるにてこそ候へ、人間に生を受けて是れ程の悦びは何事か候べき。

 

この一節は、日蓮大聖人が「四恩抄」で語った、法華経への深い信仰と修行の喜びを表しています。

 

🧘‍♂️現代語風の解釈

 

• 「去年の五月十二日から今年の正月十六日までの約240日間、昼も夜も一日中、法華経の修行をしてきました」

 → 日蓮大聖人は、昼夜を問わず、毎日法華経を読んだり実践したりしていたということです。

• 「なぜなら、法華経のためにこのような境遇(流罪など)になったからこそ、どんな時でも法華経を実践するのが当然だと思っているのです」

 → 自分が苦しい状況にあるのは法華経を弘めた結果であり、それならばなおさら法華経を実践し続けるべきだと考えています。

• 「人間として生まれて、これほどの喜びは他にないでしょう」

 → 苦しみの中でも、法華経を実践できることが何よりの喜びだと感じているのです。

 

🌸ポイントまとめ

 

• 日蓮大聖人は、法華経を弘めたことで迫害を受けましたが、それを「修行の機会」として受け止めています。

• 苦しみの中でも、法華経を実践できることに深い喜びを感じています。

• 人間として生まれた意味は、法華経を信じ、行じることにあると考えています。

 

この一節には、「逆境の中でも信仰を貫くことの尊さ」が込められています。

 

2

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集13

 

法華経13/66

持妙法華問答抄 293

 

 法華独(ひと)りいみじと申すが心せばく候はゞ、釈尊程心せばき人は世に候はじ。

 

 この一節は、日蓮大聖人が「法華経こそ最もすぐれた教えだ」と言うことに対して、「それって心が狭い考えじゃない?」と疑問を持つ人に向けて答えた言葉です。

 

🧠現代語風の解釈

 

「法華経だけがすばらしいと言うのは、心が狭いと思われるかもしれません。でも、もしそれが心が狭いというなら、仏教の開祖である釈尊(お釈迦様)こそ、最も心が狭い人ということになってしまいますよ。」

 

🌟ポイント解説

 

• 日蓮大聖人は、法華経が仏教の中で最もすぐれていると説いています。

• それに対して「他の教えもあるのに、法華経だけがすばらしいというのは偏っているのでは?」という疑問が出てきます。

• しかし、法華経の優位性は日蓮大聖人の個人的な意見ではなく、釈尊自身が法華経を「最もすぐれた教え」と説いていることに基づいています。

• だからこそ、「法華経だけがすばらしい」と言うことは、釈尊の教えに忠実であるということなのです。

 

この言葉には、「真実に基づいた信仰は、狭量ではなく深い理解に根ざしている」というメッセージが込められています。

3日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集14

 

法華経14/66

 

持妙法華問答抄 294

 

 爾前(にぜん)の経の習ひとして、今説く経より後に又経を説くべき由(よし)を云はざるなり。唯(ただ)法華経ばかりこそ最後の極説なるが故に、已今当(いこんとう)の中に此()ほ経独(ひと)勝れたりと説かれて候へ。されば釈には「唯(ただ)法華に至って前教の意を説いて今教の意を顕はす」と申して、法華経にて如来の本意も、教化の儀式も定まりたりと見へたり。

 

🧘‍♂️原文の要点

 

爾前の経(法華経以前の教え)は、後にさらに経を説くとは言っていない。

ただ法華経だけが最後の究極の教えであり、

「已今当(過去・現在・未来)」の中で、法華経が最も優れていると説かれている。

だから釈尊の教えの真意も、教化の方法も、法華経で定まったとされている。

 

🌟わかりやすい解説

 

この部分は、法華経が仏教の中で最も重要で究極の教えであるということを強調しています。

 

🔍ポイントごとに解説

 

**「爾前の経」**とは、法華経以前に説かれた仏教の教えのこと。 それらの経典では、「これが最後の教えです」とは言っていない。

 

**「法華経」**だけが、「これが仏教の最終的な教えです」と明確に示している。 だからこそ、法華経は「已今当(過去・現在・未来)」の中で最も優れているとされる。

 

**「釈には**という部分は、仏教の注釈書においても、 法華経によって、釈尊(お釈迦様)の本当の意図や人々を導く方法が明らかになったとされている。

 

🧠まとめ

 

日蓮大聖人はこの御文で、「法華経こそが仏教の中で最も尊い教えであり、他の経典では到達できない真理がここにある」と教えています。

つまり、法華経を信じ、実践することが仏になるための最も確かな道だということです。

 

 

4日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集15

 

法華経15/66

 

持妙法華問答抄 297

 

一念信解(いちねんしんげ)の功徳は五波羅蜜(はらみつ)の行に越へ、五十展転(ごじゅうてんでん)の随喜は八十年の布施に勝れたり。頓証菩提(とんしょうぼだい)の教は遙(はる)かに群典に秀(ひい)で、顕本遠寿(けんぽんおんじゅ)の説は永く諸乗に絶えたり。

 

🧘‍♀️ 原文のやさしい意味

 

一念信解の功徳は五波羅蜜の行に越へ

→ 法華経を一念(ひととき)でも信じ理解することの功徳は、

 長い修行である五波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定)の実践をも超えるほど尊い。

 

五十展転の随喜は八十年の布施に勝れたり

→ 法華経を聞いて五十人が順々に喜びを伝え合う(五十展転の随喜)ことは、

 誰かが八十年間布施(施し)を続けることよりも大きな功徳がある。

 

頓証菩提の教は遙かに群典に秀で

→ 法華経は、すぐに悟り(菩提)を得ることができる教えであり、

 他の経典(群典)よりもはるかに優れている。

 

顕本遠寿の説は永く諸乗に絶えたり

→ 法華経は、本当の仏の姿(顕本)と永遠の寿命(遠寿)を説いており、

 他の教え(諸乗)では到底及ばないほど深遠な教えである。

 

🌟 この教えが伝えたいこと

 

• 法華経を信じる一念の力は、長年の修行を超えるほどの功徳がある。

• 喜びを広げること(随喜)も、布施以上の価値がある。

• 法華経は、すぐに悟りを得られる教えであり、他の経典とは次元が違うほど尊い。

• 仏の本質と永遠の命を明かす教えであり、他の教えでは到達できない。

 

まとめ

 

この一節は、日蓮大聖人が法華経の絶対的な力と価値を強調している部分です。

「たった一念の信心が、何十年もの修行よりも勝る」というのは、

私たちにとってどんな瞬間でも仏に近づける希望の教えなんです。

 

5

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集16

 

法華経16/66

 

日蓮大聖人の 月水御書 303

 

法華経は何(いず)れの品も先に申しつる様に愚(おろ)かならねども、殊(こと)に二十八品の中に勝れてめでたきは方便品と寿量品にて侍(はべ)り。余品は皆枝葉にて候なり。されば常の御所作には、方便品の長行(じょうごう)と寿量品の長行とを習ひ読ませ給ひ候へ。又別に書き出してもあそばし候べく候。余の二十六品は身に影の随ひ、玉に財(たから)の備はるが如し。

🌸 原文のやさしい意味

 

法華経は何(いず)れの品も先に申しつる様に愚(おろ)かならねども、殊(こと)に二十八品の中に勝れてめでたきは方便品と寿量品にて侍(はべ)り。

 

→ 法華経の28の章(品)はどれも尊いけれど、

 **特に優れて素晴らしいのは「方便品」と「寿量品」**です。

 

余品は皆枝葉にて候なり。

 

→ 他の品は、方便品・寿量品という「幹」に対する「枝葉」のようなものです。

 つまり、中心となる教えは方便品と寿量品だということ。

 

されば常の御所作には、方便品の長行(じょうごう)と寿量品の長行とを習ひ読ませ給ひ候へ。

 

→ だから、日常の修行としては、

 方便品と寿量品の本文(長行)を読むことを習慣にしなさい。

 

又別に書き出してもあそばし候べく候。

 

→ それらを書き写しても良いでしょう。

 書写することも修行の一つです。

 

余の二十六品は身に影の随ひ、玉に財(たから)の備はるが如し。

 

→ 他の26品は、影が身に自然とついてくるように、また宝石に自然と財が備わるように、

 方便品・寿量品を読めば自然とその功徳もついてくるということです。

 

🧘‍♂️ 教えのポイント

 

• 法華経全体は尊いが、特に重要なのは「方便品」と「寿量品」。

• 他の品はそれに付随するもので、中心はこの二つ。

• この二品を読誦すれば、他の品の功徳も自然と得られる。

• 書写することも修行になり、信仰の実践として勧められている。

 

まとめ

この御文は、日蓮大聖人が末法の時代における最も効果的な修行法として、

「方便品・寿量品の読誦」と「題目(南無妙法蓮華経)」を中心に据えるべきだと教えているものです 。

 

6日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集17

 

法華経17/66

 

題目弥陀名号勝劣事 332

 

 念仏と法華経と一つならば、仏の念仏説かせ給いし観経等こそ如来出世の本懐(ほんがい)にては侍(はべ)らめ。彼をば本懐ともをぼしめさずして、法華経を出世の本懐と説かせ給ふは、念仏と一体ならざる事(こと)明白なり。

🧘‍♂️ 原文のやさしい意味

 

念仏と法華経と一つならば、仏の念仏説かせ給いし観経等こそ如来出世の本懐にては侍らめ。

 

→ もし念仏(南無阿弥陀仏)と法華経が同じものならば、

 仏が念仏を説いた『観無量寿経』などが、仏がこの世に現れた**本当の目的(本懐)**になるはずです。

 

彼をば本懐ともをぼしめさずして、法華経を出世の本懐と説かせ給ふは、念仏と一体ならざる事明白なり。

 

→ しかし実際には、仏は法華経こそが出世の本懐だと説いている。

 つまり、念仏と法華経は同じではないことがはっきりしている。

 

🌟 教えのポイント

 

• 仏教には多くの経典があるが、仏が最も重要視したのは法華経。

• 念仏(阿弥陀仏を称える教え)と法華経は本質的に異なる。

• 仏がこの世に現れた目的(出世の本懐)は、法華経を説くことであり、念仏ではない。

• よって、法華経を中心に信仰することが、仏の本意にかなう修行である。

 

まとめ

 

この御文は、日蓮大聖人が「法華経こそが仏教の中心であり、他の教えと混同してはならない」と強く説いている部分です。

特に、当時広まっていた念仏信仰に対して、法華経の絶対的な優位性を明らかにしています 。

 

7日

 

日蓮大聖人御金言義類別入文集18

 

法華経18/66

上野殿後家尼御返事  336

 

(それ)浄土と云ふも地獄と云ふも外(ほか)には候はず、ただ我等がむね()の間にあり。これをさと()るを仏といふ。これにまよ()ふを凡夫と云ふ。これをさと()るは法華経なり。もししからば、法華経をたもちたてまつるものは、地獄即寂光とさとり候ぞ。たとひ無量億歳のあひだ()権教を修行すとも、法華経をはな()るるならば、ただいつも地獄なるべし。

 

🧘‍♂️原文の要点

 

「浄土(極楽)も地獄も、外にあるのではなく、自分の心の中にある。これを悟る人が仏であり、迷う人が凡夫である。悟りに導くのが法華経である。だから、法華経を信じる人は、地獄のような苦しみの中にも、仏の世界(寂光)を見いだすことができる。逆に、どんなに長い間他の教えを修行しても、法華経から離れてしまえば、常に地獄にいるようなものだ。」

 

🌱現代語訳と解説

 

• 「浄土も地獄も外にはない」

 → 極楽や地獄は、どこか遠くの世界にあるのではなく、私たち自身の心のあり方によって生まれるものです。

• 「胸の間にあり」

 → つまり、私たちの心の中にこそ、幸せも苦しみもあるということ。

• 「これを悟るを仏といふ。これに迷ふを凡夫と云ふ」

 → この真理に気づいて生きる人が仏であり、気づかずに迷っている人が凡夫(普通の人)です。

• 「これを悟るは法華経なり」

 → このことを教えてくれるのが法華経です。法華経を通じて、自分の心の中に仏の世界を見いだすことができます。

• 「地獄即寂光とさとり候ぞ」

 → たとえ地獄のような苦しみの中にあっても、法華経を信じることで、それが仏の世界(寂光)に変わるという深い悟りです。

• 「無量億歳のあひだ権教を修行すとも

 → どんなに長い間、他の教え(権教)を修行しても、法華経から離れてしまえば、結局は苦しみの世界にとどまることになる。

 

🔥まとめ:何を伝えたいのか?

 

日蓮大聖人は、「極楽も地獄も、自分の心次第である」と説いています。そして、どんな苦しみの中でも、法華経を信じて実践することで、その苦しみが悟りの世界に変わると教えています。これは「地獄即寂光」という、非常に深い仏教の教えです。

 

8日

 

日蓮大聖人御金言義類別入文集19

 

法華経19/66

 

薬王品得意抄 349

 

 華厳経の法界唯心(ゆいしん)・般若の十八空・大日経の五相成身・観経の往生より、法華経の即身成仏勝れたるなり。

 

やさしい現代語訳

 

「華厳経が説く“すべての世界は心が生み出す”という深い教えや、

般若経が説く“18種の空の真理

大日経が説く“五相成身(ごそうじょうじん)”という仏になる過程、

そして観無量寿経の“西方極楽浄土へ生まれ変わる教え”よりも、

法華経の“この身のままで仏になれる(即身成仏)”という教えの方が、

はるかにすぐれているのだ。」

 

ポイント解説

      華厳経の「法界唯心」

 → この世界はすべて自分の心がつくるという深遠な思想

      般若経の「十八空」

 → 物事には実体がないとする18種類の空の哲理

      大日経の「五相成身」

 → 菩薩が仏になる5段階の修行の道

      観無量寿経の「往生」

 → 阿弥陀仏の浄土に生まれ変わる救いの教え

 

これらのどれも仏道としては立派ですが、

法華経は「今この身のまま仏になれる」という最高の教えを説くので、

それらの教えより勝れている、というのが大聖人のお立場です。

 

「さまざまなお経の修行や救いの道を学んだとしても、

この身のまま仏になれるという法華経の即身成仏の教えこそ、

末法の私たちにとって最も尊く力強い道である」 

 

9日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集20

法華経20/66

 

聖愚問答抄上 388

「但楽(ねが)って大乗経典を受持し、乃至余経の一偈をも受けざれ」文。此の文の意(こころ)は年紀かれこれ煩(わずら)はし、所詮法華経より自余の経をば一偈をも受くべからずとなり。然るに八宗の異義蘭菊(らんぎく)に、道俗形(かたち)を異(こと)にすれども、一同に法華経をば崇(あが)むる由(よし)を云ふ。されば此等の文をばいかが弁へたる。正直に捨てよと云ひて余経の一偈をも禁(いまし)むるに、或は念仏、或は真言、或は禅、或は律、是余経にあらずや。

今此の妙法蓮華経とは諸仏出世の本意。衆生成仏の直道なり、されば釈尊は付属を宣べ、多宝は証明(しょうみょう)を遂げ、諸仏は舌相(ぜつそう)を梵天に付けて皆是真実と宣べ給へり。此の経は一字も諸仏の本懐、一点も多生の助けなり。

 

 この『聖愚問答抄 上』の大聖人のお言葉は、

法華経の絶対的な尊さと、他の経や宗派の修行を混ぜてはいけないという強い教えです。

 

やさしい現代語訳

 

「ただひたすら大乗の正しい教え(法華経)を受け持ち、他の経典の一句一句すら受け入れてはならない、という経文がある。」

 これはつまり、どんなに長い年月修行しても、

結局は法華経以外の教えを一偈(一つの短い詩の句)すら受け入れてはいけない、という意味である。

 ところが、(当時の)八つの宗派はそれぞれ違う教えを立て、

僧侶も在家も見かけは違うが、みな「自分たちも法華経を尊んでいます」と言っている。

 では、彼らはこのような「他の教えを捨てよ」という経文をどう理解しているのか?

「正直に方便を捨てよ」と法華経に明確に説かれているのに、念仏や真言や禅や戒律を今も説いている。

それらは全部、法華経以外の教えではないのか?

 今、私たちが受持すべき妙法蓮華経とは、すべての仏がこの世に出られた本当の目的。

そして、すべての衆生が仏になるためのまっすぐな道である。

 だからこそ、釈尊はこの法華経を未来に託し、

多宝如来はその教えが真実であることを証明し、

十方の諸仏は舌を梵天(天の一番高い所)につけて

「この経はまことの教えです」と示されたのだ。

 法華経は、一文字一文字が諸仏の本当の願いであり、

一点一画にいたるまで、私たちが仏になるためのかけがえのない助けである。

 

 

まとめ

      法華経以外の教え(念仏・真言・禅・律など)を混ぜてはならないと、大聖人は明確に教えています。

      釈尊は法華経を後世に託し、多宝如来も証明し、十方諸仏も「この経こそ真実」と宣言されています。

      法華経こそ諸仏出現の本懐であり、衆生が仏になるための唯一の直道なのです。

 

10日

日蓮大聖人御金言義類別入文集21

法華経21/66

 

聖愚問答抄上 394

 

 今法華経は十界互具・一念三千・三諦即是・四土不二と談ず。其の上に一代聖教の骨髄たる二乗作仏・久遠実成は今経に限れり。

乃至

夫れ以(おもん)みれば、此の妙法蓮華経は一代の観門を一念にす()べ、十界の依正を三千につづめたり。

 

この箇所は、

法華経がいかに深く、すべての仏教の教えの中心であるかを示した、非常に大事なところです。

 

現代語訳

 

いま、法華経は以下のような深い教えを説いています。

      十界互具(じっかいごぐ):

 地獄から仏界までの十の生命のすべてが、互いに含み合っている。たとえば、私たち凡夫の中にも仏性がある、ということ。

      一念三千(いちねんさんぜん):

 私たちの一瞬の心の中に、三千もの世界(存在のすがた)がすべて備わっているという、仏教の究極の教え。

 → 一念に十界 × 各界の十界(互具)× 十如是 × 三世間 = 三千の世界。

      三諦即是(さんだいそくぜ):

 あらゆる現象は、「空(くう)」「仮(け)」「中(ちゅう)」という三つの真理のすべてをそのまま備えているという教え。

      四土不二(しどふに):

 仏さまの世界(常寂光土)と私たちの世界(穢土)は、けっして別の世界ではなく、根本では一つにつながっている。

 

👉 これらはすべて、法華経にしか説かれていない教えです。

 さらに、釈尊一代のすべての教えの中でも最も深い核心(骨髄)である、

      二乗作仏(にじょうさぶつ):

 もともと成仏できないとされていた声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)も、実は成仏できると説いた。

      久遠実成(くおんじっじょう):

 釈尊は今から約2500年前に悟りを開いたのではなく、はるか過去の久遠(無限の昔)からすでに仏であったという教え。

 

これらの尊い真理も、法華経にしか説かれていないのです。

 このように深く考えれば、

この「妙法蓮華経」というお経は、

釈尊一代のすべての仏道修行(観門)を、一念の中におさめ、

十界(あらゆる生命のあり方)とその世界(依正)を「三千の法理」にまとめあげた、

まさに仏教の結晶である。

 

まとめ

 

 法華経には「一念三千」「十界互具」など、

仏教の最高の真理がすべて詰まっています。

 

中でも大事なのは「久遠実成」。

お釈迦さまは昔悟ったのではなく、もともと仏だったということ。

その仏とつながれる教えこそ、妙法蓮華経の南無妙法蓮華経です。

 

だから私たちは、どんな境遇でも、このお題目を信じて、

**「この身のままで仏になれる道」**を進めるのです。

 

 

 

11

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集22

 

法華経22/66

 

生死一大事血脈抄 514

 

過去の生死・現在の生死・未来の生死、三世の生死に法華経を離れ切れざるを法華の血脈相承とは云ふなり。謗法不信の者は「即断〔そくだん〕一切〔いっさい〕世間〔せけん〕仏種〔ぶっしゅ〕」とて、仏に成るべき種子を断絶するが故に、生死一大事の血脈之〔これ〕無きなり。

 

 これは『生死一大事血脈抄(しょうじいちだいじけつみゃくしょう)』の大切な一節で、

**「本当の仏道の継承(血脈)とは何か」**を明らかにされたお言葉です。

 

現代語訳

 

過去・現在・未来の三世(さんぜ)の生死の問題に対して、

どんなときでも法華経の信仰を離れず貫いていくこと、

それこそが「法華経の血脈を受け継いでいる(法華の血脈相承)」ということなのです。

 法華経を謗(そし)り、信じない者は、

「即ち一切の世間の仏の種を断つ」と仏が説かれているように、

仏になるための種を自ら断ち切ってしまう。

 

だからその人には、生死を超えるための“法華経の血脈”が無い、ということなのです。

 

◆ まとめ

      「血脈」とは、仏道の正しい信仰と生命のつながりを意味します。

      過去・現在・未来、どんな時代でも、法華経から決して離れない信心こそが、真の血脈伝承。

      たとえ僧侶や学者でも、法華経を信じない人には、仏になる種が断たれている=血脈がない。

 

 この御文は、日蓮大聖人が弟子・信徒に

「血脈とは、形式や血筋ではなく、信心そのものなのだ」

と教えてくださったものです。

 

たとえば、法華経から離れず、

いつも南無妙法蓮華経と唱え、

御本尊を信じぬく人には、**仏になる命の種(血脈)**があります。

 

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 日蓮大聖人

御金言義類別入文集23

 

法華経23/66

 

開目抄上 526

 

但し仏教に入って五十余年の経経、八万法蔵を勘(かんが)へたるに、小乗あり大乗あり、権経あり実経あり、顕教・密教・軟語(なんご)・麤語(そご)・実語・妄語・正見(しょうけん)・邪見等の種々の差別あり。但し法華経計(ばか)り教主釈尊の正言(しょうごん)なり。三世十方の諸仏の真言なり。

 

この御文は、日蓮大聖人が**「仏教の中で本当に正しい経典はどれか」**を徹底的に調べた結果を述べた部分です。

 

① 仏教の教えはたくさんある

釈尊(お釈迦様)が悟りを開いてから五十年以上にわたって説かれた経典は、全部で八万種類もの法門に広がります。

そこには――

      小乗(自分だけの悟りを求める教え)

      大乗(すべての人を救う教え)

      権経(仮の教え)

      実経(真実の教え)

      顕教(そのまま語る教え)

      密教(秘密の形で説く教え)

      柔らかい言い回し(輭語)

      きびしい言い回し(麤語)

      本当のこと(実語)

      うそ(妄語)

      正しい見方(正見)

      間違った見方(邪見)

など、いろいろな違いがあります。

 

② その中で唯一の正しい経典

たくさんある経典を比べてみても、

**「本当に教主釈尊が心の底から正しいと言い切った経典は、法華経ただ一つ」**だと大聖人は断定します。

 

さらに、

「三世(過去・現在・未来)のすべての仏様、十方(あらゆる世界)のすべての仏様が、まちがいなく真実の教えと認める経典も、この法華経だけである」

とおっしゃっています。

 

 

まとめ

 

お釈迦様は長い間いろんな教えを説かれました。でも、その中には仮の教えや部分的な真理も多くありました。

日蓮大聖人はすべてを調べて、**「命をかけて信じていいのは法華経だけ」**と見極められたのです。

だからこそ、私たちも迷わず南無妙法蓮華経と唱え、まっすぐ信じていくことが大事なのです。

 

 

 

 

 

 

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 日蓮大聖人御金言義類別入文集24

 

法華経24/66

 

開目抄上 528

 

 此(ここ)に予愚見をもつて前四十余年と後八年との相違をかんがへみるに、其の相違多しといえども、先()ず世間の学者もゆるし、我が身にもさもやとうちをぼうる事は、二乗作仏・久遠実成なるべし。

 

この御文は、日蓮大聖人が**「お釈迦様の前半と後半の教えの大きな違い」**を述べた部分です。

 

① 前半と後半の教えの比較

お釈迦様は一生の間にさまざまな経典を説かれました。

      前半の 40余年間 に説かれた経典(華厳経・阿含経・般若経など)

      後半の 8年間 に説かれた経典(特に法華経)

 

大聖人は、自分なりにこの二つを比べてみたのです。

 

② 大きな違いの中で一番のポイント

違いはたくさんあるけれど、特に重要で、学者も認め、自分でも「これは本当だ」と納得できたのは――

 1. 二乗作仏

 以前は絶対に成仏できないとされた二乗(声聞・縁覚)も、法華経では成仏できると説かれたこと。

 2. 久遠実成

 お釈迦様が成仏したのは、実はこの世で悟りを開いた時ではなく、はるか遠い久遠の昔から仏であったと説かれたこと。

 

まとめ

 

大聖人は「法華経は、それまでの教えでは救われないとされた人まで救い、しかも仏の命は永遠だと明かした、他にはない教えだ」と確信されたのです。

これが、前半と後半の教えの決定的な違いです。

 

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 日蓮大聖人御金言義類別入文集25

 

法華経25/66

 

開目抄上 540

 

 像法の中には天台一人、法華経一切経をよめり。南北これをあだみしかども、陳隋(ちんずい)二代の聖主(しょうしゅ)、眼前に是非を明らめしかば敵ついに尽きぬ。像の末に伝教一人、法華経一切経を仏説のごとく読み給へり。南都七大寺蜂起(ほうき)せしかども、桓武乃至嵯峨等の賢主、我と明らめ給ひしかば又事なし。

 

この御文は、日蓮大聖人が**「過去に法華経を正しく説いた二人の高僧と、その時代の出来事」**を挙げている部分です。

 

① 像法の時代の天台大師

      「像法(ぞうぼう)」とは、仏滅後1000年〜2000(別説、500年〜1000)くらいの時代。

      この時、中国の**天台大師(智顗ちぎ)**ただ一人が、法華経と一切経を深く読み解き、仏の本意どおりに説きました。

      しかし、当時の南北両朝の学者たちはこれに反発し、天台大師を非難しました。

      ところが、中国の陳(ちん)・隋(ずい)両王朝の聖徳ある皇帝が、目の前で是非を見極め、天台大師が正しいと判断したため、敵はすべて退きました。

 

 

② 像法の末の伝教大師

      「像法の末」とは、像法の終わりごろ、日本の時代です。

      **伝教大師(最澄)**ただ一人が、法華経と一切経を仏説のとおりに正しく読み解きました。

      しかし、奈良の南都七大寺(興福寺や東大寺など)の学僧たちが一斉に反発しました(蜂起=武力を伴う反対運動)。

      けれども、時の桓武天皇から嵯峨天皇までの賢明な皇帝たちが、伝教大師の正しさを認めたため、大きな争いにはならずに収まりました。

 

③ 大聖人が言いたいこと

過去にも、法華経を正しく説く人は必ず迫害を受けましたが、賢明な王や天皇が正しい人を守った時、その法は広まった――ということです。

 

まとめ

 

昔、中国の天台大師や日本の伝教大師が、たった一人で法華経の正しさを説き抜きました。必ず反対する人が現れますが、真実を見抜く王様や天皇が守ったため、その教えは残りました。

日蓮大聖人もまた、この先例にならって、一人でも法華経を広めようとされたのです。

 

15

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集26

 

法華経26/66

 

開目抄上 545

 

 而(しか)るに四十余年の経々をば、東春(とうじゅん)の大日輪、寒冰(かんぴょう)を消滅するがごとく、無量の草露を大風の零落するがごとく、一言一時に未顕真実と打ちけし、大風の黒雲をまき、大虚(おおぞら)に満月の処するがごとく、青天に日輪の懸かり給ふがごとく、世尊法久後(せそんほうくご)要当説真実(ようとうせつじつ)と照させ給ひて、華光(けこう)如来・光明如来等と舎利弗(しゃりほつ)・迦葉(かしょう)等を赫々(かくかく)たる日輪、明々たる月輪のごとく鳳文(ほうもん)にしるし、亀鏡(ききょう)に浮べられて候。

 

この御文は、日蓮大聖人が**「法華経が、それ以前の経典をどのように否定し、真実を明らかにしたか」**を、たとえを使って鮮やかに描いている部分です。

 

① それまでの経典を否定する場面

お釈迦様は、法華経に入るとき、それまでの40年以上に説かれた経典(華厳経・阿含経・般若経など)を、

      東の春の大日輪が冬の氷を一気に溶かすように

      強い風が無数の草の露を吹き落とすように

 

たった一言で「未だ真実を顕していない」と打ち消しました。

つまり、それまでの教えは本当の悟りではなかったと明言されたのです。

 

 

② 法華経の真実を示す場面

さらにお釈迦様は、

      大風が黒い雲を吹き払い、空いっぱいに満月が現れるように

      青空にまぶしい太陽がかかるように

 

はっきりと、「わたしは法久(長く法を説いて)後に必ず真実を説く」と明らかにし、法華経を説き始めました。

 

③ 華やかな証明

その法華経の中で、華光如来・光明如来など、そして舎利弗や迦葉といった弟子たちを、

      輝く太陽や明るい満月のように

      立派な鳳凰の文様に描かれたものや、美しい亀甲模様に浮かび上がったもののように

 

華やかに証明し、真実の仏法の中に位置づけられた――と大聖人は表現しています。

 

④ まとめ

 

 法華経は、それまでの教えを一気に否定し、雲が晴れて太陽や満月が輝くように、真実を明らかにしました。そして、その真実の中で仏や弟子たちの姿が輝き渡ったのです。

 

16

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集27

法華経27/66

 

開目抄上 577

 

 夫(それ)法華経の宝塔品を拝見するに、釈迦・多宝・十方分身(ふんじん)の諸仏の来集はなに心ぞ「令法久住(りょうぼうくじゅう)

故来至此(こらいしし)等云云。三仏の未来に法華経を弘めて、未来の一切の仏子にあたえんとおぼしめす御心の中をすいするに、父母の一子の大苦に値()ふを見るよりも、強盛にこそみへたるを、法然(ほうねん)いたわしともおもはで、末法には法華経の門を堅く閉ぢて、人を入れじとせき、狂児をたぼらかして宝をすてさするやうに、法華経を抛(なげす)てさせける心こそ無慚(むざん)に見へ候へ。

 

この部分は、日蓮大聖人が**宝塔品(ほうとうほん)**の場面を読み解きながら、法華経の尊さと、法然の誤りを鋭く指摘している箇所です。

 

1. 宝塔品の情景

 

宝塔品では、

      釈迦牟尼仏(この世界の仏)

      多宝仏(他方の仏)

      十方分身の諸仏(他の世界にいる数えきれない仏)

 

が、はるばる集まってこられます。

その理由は経文にある**「令法久住(法を長くこの世にとどめるため)」**というお心からです。

 

つまり、三仏(釈迦・多宝・分身諸仏)は、「未来の弟子たちが法華経を弘められるように、この尊い教えをしっかり託したい」

という、深い慈悲の思いで集まっているのです。

 

2. 仏の慈悲の強さ

 

その思いは、父母が一人息子が大きな苦しみにあっているのを見て、何とか助けようとする心よりもさらに強いと、大聖人は表現しています。

 

3. それなのに法然は

 

ところが法然は、この仏の深い慈悲の心をまったく顧みず、

      「末法の世では法華経を説く門を固く閉ざし」

      「人々を中に入れない」

という教えを広めました。

 

その様子は、狂っている子どもをだまして、手にしている宝を捨てさせるようなもの

と、大聖人はたとえています。

 

4. 「無慚」とは

 

「無慚(むざん)」とは、恥知らずで人間らしい心がないことです。

大聖人は、法然の行いをまさに「無慚」と断じています。

 

まとめ

 

仏さまは、未来の私たちに法華経を必ず伝えようと、深い慈悲で守ってこられた。

しかし法然は、その門を閉ざし、人々から法華経を奪い去った。

これは、親の宝を子どもに捨てさせるような、情け知らずの行為であると、大聖人は厳しく述べられています。

 

17

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集28

法華経28/66

 

真言見聞 615

 

 凡(およ)そ法華経は無量千万億の已説今説当説に最も第一なり。諸仏の所説・菩薩の所説・声聞の所説に此の経第一なり。

 

 この御文は、日蓮大聖人が 法華経の絶対的な第一の尊さ を端的に述べられている箇所です。

原文の意味

      「無量千万億の已説・今説・当説」

 仏様が過去に説いた経(已説)、今説いている経(今説)、未来に説く経(当説)の、数えきれないほど多くの経典の中で

      「最も第一なり」

 法華経が一番すぐれている。

      「諸仏の所説・菩薩の所説・声聞の所説に此の経第一なり」

 すべての仏が説いた経、すべての菩薩が説いた経、すべての声聞(しょうもん=仏弟子)が説いた経、そのどれよりも法華経が第一。

 

仏様が過去・現在・未来に説く、ありとあらゆるお経の中で、

そして、仏・菩薩・弟子たちが説いたすべての教えの中で――

法華経こそが、最高で一番大切なお経 なのです。

 

まとめ

 

たとえば世界中に何百万冊も本があるとして、その中で「絶対に捨ててはいけないたった一冊」を選ぶとしたら――

それが法華経です。

日蓮大聖人は、仏様自身が過去・現在・未来に説くすべての教えの中で、法華経こそ人々を仏にする最高の教えであると断言されています。

だからこそ、私たちは題目を唱えて、この第一のお経に直結する信心を貫くことが大事なのです。

 

18

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集29

法華経29/66

 

四条金吾殿御返事 621

 

法華経は釈迦如来の御志を書き顕(あらわ)して此の御音(みこえ)を文字(もんじ)と成し給う。仏の御心はこの文字に備(そなわ)れり。たとへば種子(たね)と苗(なえ)と草と稲とはかはれども心はたがはず。

 釈迦仏と法華経の文字とはかはれども心は一つなり。然(しか)れば法華経の文字を拝見せさせ給うは、生身の釈迦如来にあひ進(まい)らせたりとおぼしめすべし。

日蓮大聖人が「四条金吾殿御返事」で仰せられているところを、やさしく解きほぐしてみます。

 

原文の要点

      法華経は、釈迦仏の心そのものを文字であらわしたもの

      仏の心は、経文(文字)に宿っている

      文字を拝むことは、そのまま生身の釈迦仏にお会いすることになる。

 

仏さまの心(悟り)は、目に見えません。

しかし、それを私たちが理解できるように「文字」にして残されたのが法華経です。

 

たとえば、お米の「種」と「苗」と「稲穂」は形が違っても、中に流れる「いのち」は同じですね。

同じように、釈迦仏の心と法華経の文字とは姿は違っても、本質は一つなのです。

 

ですから、私たちが法華経の文字を拝むことは、ただ本を読んでいるのではなく、

まさに釈迦如来ご自身と直接向き合っていることになるのです。

 

まとめ

 

皆さん、お経の文字をただの文字だと思ってはいけません。

日蓮大聖人は「法華経の文字は仏さまの心そのものだ」と教えてくださいました。

私たちが南無妙法蓮華経とお題目を唱えるとき、

それは単なる声ではなく、釈迦如来の心と直結する行為なのです。

 

だからこそ、経文を拝し、お題目を唱える私たちの信心は、

「仏さまと直接お会いしている」ほど尊い行いになるのです。

 

文上では、釈迦如来としてますが、文底は、御本仏・日蓮大聖人です。

 

再度

 

大聖人は、

「法華経は仏さまの心を文字にあらわしたものです。文字を拝むことは、生きている仏さまにお会いするのと同じなのです」

と仰せになっています。

 

たとえば、お米の「種」と「苗」と「稲穂」は、見た目はちがいますが、中に流れるいのちは同じですね。

それと同じように、仏さまの心と法華経の文字は、形はちがっても本質はひとつなのです。

 

ですから、私たちが経文を拝したり、お題目を唱えたりすることは、

ただ文字を読んでいるのではなく、そのまま仏さまとお会いしていることになるのです。

 

どうぞ今日一日も、南無妙法蓮華経と唱えながら、

「仏さまと一緒に歩んでいるんだ」という気持ちで、元気に過ごしてまいりましょう。

🙏南無妙法蓮華経

 

19

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集30

法華経30/66

 

祈祷抄 624㌻  

 

 されば仏は法華経に誡いましめて云はく「復また舎利(しゃり)を安んずることを須(もち)ひざれ」と。涅槃(ねはん)経に云はく「諸仏の師とする所は所謂(いわゆる)法なり。是の故に如来恭敬(くぎょう)供養す」等云云。法華経には我が舎利を法華経に並ぶべからず。涅槃経には諸仏は法華経を恭敬供養すべしと説かせ給へり。

 

解説

 

 されば仏は法華経に誡(いまし)めて云はく「復(また)舎利(しゃり)を安んずることを須(もち)ひざれ」と。

 

👉 これは「法華経に、仏はこう戒められている」と言っているところです。

法華経には、**「仏のお骨(舎利)をまつるよりも、法華経を供養すべきだ」**と説かれています。

 

涅槃経に云はく「諸仏の師とする所は所謂(いわゆる)法なり。是の故に如来恭敬(くぎょう)供養す」等云云。

 

👉 涅槃経には、

「すべての仏が師として仰ぐのは“法”である。だから如来もその法を尊敬し供養する」と書かれています。

つまり、仏さまご自身ですら「法」を一番大切にしている、ということです。

 

法華経には我が舎利を法華経に並ぶべからず。

 

👉 法華経には、「仏のお骨(舎利)は、法華経に並ぶことはできない」とはっきり説かれています。

仏さまのお骨よりも、法華経の方が尊いのです。

 

涅槃経には諸仏は法華経を恭敬供養すべしと説かせ給へり。

 

👉 涅槃経では、「すべての仏は法華経を尊敬し、供養しなければならない」と説かれています。

 

まとめ

 

   この御文では、日蓮大聖人が次のことを教えています。

 1. 仏のお骨(舎利)よりも、法華経の方が尊い。

 2. 仏さまですら、法を師とし、法に供養している。

 3. その最高の法こそが、私たちの唱える南無妙法蓮華経である。

 

ですから、私たちがお題目を唱え、法華経を尊ぶことは 仏のお骨を拝むよりも、もっと深い意味で仏さまと一体になる行いだ、ということなのです。

 

再度

 

大聖人は、

「仏さまの骨(舎利)よりも、法華経こそ第一である」とお示しになっています。

 

普通、私たちは大切な人が亡くなったら、そのお骨をとても大事にしますね。

ましてや仏さまのお骨となれば、なおさらありがたいと思うでしょう。

 

けれども仏さまご自身が、

「私のお骨よりも、法華経を第一に尊敬しなさい」

と教えているのです。

 

また、涅槃経には、

「仏さまですら、法を尊び、法に供養している」と説かれています。

 

つまり、仏さまを仏さまにしたのは「法」であり、

その「最高の法」が、南無妙法蓮華経なのです。

 

だからこそ、私たちが毎日お題目を唱えることは、

仏さまを拝む以上に尊い行いであり、

仏さまと同じ境地に近づく道なのです。

 

どうぞ今日も、南無妙法蓮華経と唱えながら、「最高の仏法に守られている」という確信を持って、元気に一日を歩んでまいりましょう。

 

🙏南無妙法蓮華経

 

20

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集31

法華経31/66

 

木絵ニ像開眼の事 637

 

 意は心法、声は色法。心より色をあらわす。また声を聞いて心を知る。色法が心法を顕すなり。色心不二なるがゆえに而二とあらわれて、仏の御意あらわれて法華の文字となれり。文字変じてまた仏の御意となる。されば、法華経をよませ給わん人は、文字と思しめすことなかれ。すなわち仏の御意なり。

 

要点

      心法(しんぽう)…心、精神、仏の悟りや意(こころ)

      色法(しきほう)…形のあるもの、声や文字、像など

「心(心法)から形や声(色法)が生まれる。形や声を通じて心を知ることができる。色と心は二つのもののようで、実は一つ(色心不二)。」

だからこそ、仏の心は法華経の文字となって現れ、その文字を通じて再び仏の心にふれることができる。

 

わかりやすい現代的なたとえ

たとえば、

      手紙を考えてみてください。紙とインク(=色法)にすぎませんが、その文字を通して、送り主の心(=心法)を感じますよね。

      仏の御心も同じで、法華経の文字に仏の心がそのまま込められているのです。

 

大聖人が言いたいこと

      「法華経の文字はただの文字ではない。そこに仏の心そのものが宿っているのだ。」

      だから、文字を文字として眺めるだけでは足りない。読むときに、仏の御心を受け取る気持ちで拝読せよ、ということです。

 

まとめ

 

大聖人は、

「法華経の文字をただの紙の文字と思ってはいけません。それは仏の心そのものです。声に出して読めば、仏が今ここで説法していることになるのです。」

と教えてくださっています。

 

21

 

日蓮大聖人御金言義類別入文集32

法華経32/66

 

観心本尊抄 645

 

 天台の難信難解に二つ有り。一には教門の難信難解、二には観門の難信難解なり。その教門の難信難解とは、一仏の所説において、爾前の諸経には二乗と闡提とは未来に永く成仏せず、教主釈尊は始めて正覚を成ず。法華経迹本二門に来至したまい、彼の二説を壊る。一仏二言、水火なり。誰人かこれを信ぜん。これは教門の難信難解なり。

「観心本尊抄」のこの部分は、とても大切な 「法華経の信じがたいポイント」 を大聖人が整理してお示しくださっているところです。

 

原文の意味

 

大聖人は「難信難解(信じがたく理解しがたいこと)」を二つに分けています。

 1. 教門の難信難解(きょうもん)

 仏の教えそのものをめぐる「信じがたいこと」

 2. 観門の難信難解(かんもん)

 仏の心、衆生の成仏の実相に関わる「信じがたいこと」

 

ここで取り上げているのは 教門の難信難解 です。

 

教門の難信難解とは?

 

お釈迦さまが説かれた多くのお経(爾前の諸経)では、こう教えていました。

      **二乗(声聞・縁覚)**や 闡提(せんだい=仏を信じない人) は、未来永劫、絶対に仏にはなれない。

      釈尊は「初めてこの世で正覚を得た仏」なのだ。

 

ところが、法華経に来ると突然、全く逆のことを説き出されるのです。

      二乗も闡提も、必ず仏になれる。

      実は釈尊は「始めて成仏した仏」ではなく、遠い過去から成仏していた。

 

つまり、同じお釈迦さまが「以前の教え」と「法華経」で正反対のことを言ったのです。

これを「一仏二言(水と火のように矛盾する)」と表現されています。

 

「そんなバラバラのこと、どうして信じられるだろうか」

――これが「教門の難信難解」なのです。

 

わかりやすい例え

 

先生が「この問題は絶対に解けない!」と言ったのに、あとで「いや、実は解けるんだよ」と言ったら、生徒は混乱しますよね。

「先生はなぜ前と違うことを言うの?」と信じられなくなる。

 

これと同じで、仏の教えも「前と違うことを説かれた」。だからこそ信じがたいのです。

 

まとめ

 

大聖人は、

「仏が同じ口から正反対のことを説かれる。だから法華経は信じがたい。だが、実はそれこそが仏の最も深い悟りを表すものである」

と教えてくださっています。

 

 

22

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集33

法華経33/66

 

義浄房御書 668

 

法華経の功徳と申すは唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ)の境界・十方分身の智慧も及ぶか及ばざるかの内証なり、されば天台大師も妙の一字をば妙とは妙は不可思議(ふかしぎ)と名(なづ)くと釈し給いて候なるぞ。

 

「義浄房御書」のこの御文は、法華経の功徳がいかに深く、私たちの知恵でははかり知れないものかを説かれています。

 

原文の意味

      法華経の功徳とは、ただの学問や知識では測れない。

      「唯仏与仏の境界(ゆいぶつよぶつのきょうがい)」といって、仏と仏だけが知り合える境地だ、と法華経に説かれている。

      十方に分身している無数の仏の智慧をもってしても、理解できるかどうかわからないほど深い。

      だから天台大師は、法華経の題目「妙法蓮華経」の「妙」という字を「不可思議」と解釈された。

 

 

わかりやすい説明

 

つまり、

法華経の功徳は、どんなに偉い仏や菩薩の智慧でも、簡単には測れないくらい深い。

それは「妙」という字に象徴されていて、これは「不思議で言葉では説明できないほど尊い」という意味なのです。

 

例え話

 

たとえば――

      幼い子どもに「宇宙の果てはどうなっているの?」と聞かれても、説明しきれませんよね。

      それと同じように、法華経の功徳は人間の知恵では完全に理解できない。

 

ただし、理解はできなくても、唱えること・受持することによって、必ず功徳が現れる。

これが大聖人の強調されるところです。

 

まとめ

 

大聖人は、

「法華経の功徳は仏と仏にしか分からないほど深いものだ。人の智慧では推し量れない。しかし、その功徳は南無妙法蓮華経と唱える人に必ず現れるのだ。」

と教えてくださっています。

 

23

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集34

 

法華経34/66

 

小乗大乗分別抄 708

 

又華厳・阿含・方等・般若等の経経の間に六道を出づる人あり是は彼彼の経経の力には非ず過去に法華経の種を殖えたりし人・現在に法華経を待たずして機すすむ故に爾前の経経を縁として過去の法華経の種を発得(ほつとく)して成仏往生をとぐるなり。

 

「小乗大乗分別抄」のこの部分は、なぜ爾前の経(法華経より前のお経)を信じても成仏できる人がいるのか という疑問に答えておられます。

 

原文の意味

      華厳・阿含・方等・般若など、法華経の前に説かれた数々のお経を学んで、六道を超えて解脱したように見える人がいる。

      しかしそれは、そのお経の力で成仏したのではない。

      じつはその人は、過去世に法華経の種をまいていた人なのである。

      だから、いまはまだ法華経を聞かなくても、爾前経をきっかけにして、その過去の法華経の種が芽を出し、成仏するのだ。

 

わかりやすい例え

 

たとえば――

      畑に 米の種 をまいておいたとします。

      しばらく雨も降らず芽が出なかったけれど、ある日ちょっとした 水 がかかって芽が出た。

      芽が出たのは水のおかげのように見えるけれど、本当の原因は 前にまいてあった種 です。

 

同じように、爾前のお経を縁にして成仏する人がいるけれど、それはそのお経の力ではなく、過去に植えられていた法華経の功徳の種 が芽を出したからなのです。

 

まとめ

 

大聖人は、

「法華経こそが成仏の根本のお経である。他のお経で成仏したように見える人も、じつは過去に法華経の種をまいていたからこそ、いま成仏できたのである。」

と教えておられます。

 

24

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集35

 

法華経35/66  

 

法華取要抄 7312

 

 夫れ、諸宗の人師等、あるいは旧訳の経論を見て新訳の聖典を見ず、あるいは新訳の経論を見て旧訳を捨て置き、あるいは自宗に執著し、曲げて己義に随い、愚見を注し止めて後代にこれを加添す、

株杭(くいぜ)に驚き騒ぎて兎獣(うさぎ)を尋ね求め、智・円扇(ち・えんせん)に発して仰いで天月を見る。非を捨て理を取るは智人なり。今・末の論師・本の人師の邪義を捨て置いて専ら本経本論を引き見るに、五十余年の諸経の中に法華経・第四法師品の中の已今当(い・こん・とう)の三字最も第一なり。

 

【原文の要点】

 1. 他宗の学者たちは

         古い訳の経や論(旧訳)だけを見て、新しい訳の聖典(新訳)を無視したり、

         新訳だけを見て、旧訳を軽んじたり、

         自分の宗に執着して、勝手な解釈を加えたりしている。

 2. それは、まるで「杭(くい)に驚いて兎を探し回るようなもの」「扇で月を指して、天の月そのものだと思い込むようなもの」である。

→ つまり、本当の道理を見失って、手がかりや間違った方向ばかりにとらわれている姿。

 3. しかし賢い人は、誤った説(邪義)を捨てて、正しい理(法)を取るものである。

 4. だからこそ今の時代(末法)には、後世の誤った学者の解釈は捨て去り、仏そのものが説かれた「本当の経・本当の論」を直に拝すべきである。

 5. 仏が一代で説かれた五十余年の諸経の中でも、法華経の第四・法師品の「已・今・当」の三字こそ第一に大事である。

 

【わかりやすい解説】

 

日蓮大聖人はここで、こう仰せです。

      学者や宗派の人たちは、仏さまの正しい教えを素直に受けとめず、古いものと新しいものを勝手に比べたり、自分流に解釈して後の世に誤りを広めてしまった。

      それは「杭にぶつかった音に驚いて兎がいると思い込む」「扇で月を指して、扇そのものを月と思い違える」ような愚かさである。

      本当に智慧ある人は、そういう誤りを捨て、正しい法をつかむ人である。

      だから私たちは、学者の解釈や宗派の先入観ではなく、仏が直接に説かれた法華経そのものを拝すべきだ。

      その中でも特に大切なのは、法師品に説かれる「已(過去)・今(現在)・当(未来)」という三つの字であり、これは「過去・現在・未来のどの時代にも法華経が第一である」ということを示している。

 

まとめ

      他宗の学者は自分勝手な解釈に迷っている。

      本当に大切なのは仏さまの「直説(じきせつ)」、すなわち法華経そのもの。

      特に「已今当」の三字は、法華経が過去・現在・未来の三世を通じて、常に最高の教えであることを示す。

      だから末法の私たちも、迷わず法華経を受持すべきである。

 

25日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集36

法華経36/66  

 

法華取要抄 734

 

 安楽行より勧持・提婆・宝塔・法師と逆次(ぎゃくじ)に之を読めば滅後の衆生を以て本と為()す。在世の衆生は傍(ぼう)なり。滅後を以て之を論ずれば正法一千年・像法一千年は傍なり。末法を以て正と為す。末法の中には日蓮を以て正と為すなり。問うて曰く。其の証拠如何(いかん)。答えて曰く「況滅度後」の文是なり。疑って云はく、日蓮を正と為す正文如何。答えて云はく「諸の無智の人の悪口罵詈等し、及び刀杖(とうじょう)を加ふる者有らん」等云云。

 

原文の大意

      「安楽行から勧持・提婆・宝塔・法師へと逆に読むと…」

 法華経の後半の章を、普通とは逆に並べてみると、実は「お釈迦さまが亡くなったあとの人々(滅後の衆生)」のために説かれているとわかる。

      「在世は傍、滅後を本とする」

 お釈迦さまが生きておられた時代の人たちは中心ではなく脇役。本当の中心は「滅後」、つまり末法に生きる私たちのため。

      「正法・像法は傍、末法を正とする」

 仏教の三時(正法一千年、像法一千年、末法万年)のうち、正法・像法は脇役であり、正しく中心なのは末法。

      「末法の中では日蓮を正とする」

 末法の時代にあっては、日蓮大聖人こそが中心であり、正しい指導者である。

      「その証拠は?」と聞かれれば

 法華経の「況滅度後(きょうめつどご)」の文(=仏が滅後の衆生を特に念じていることを示す箇所)が証拠だと答える。

      「なぜ日蓮を正とするのか?」と疑われれば

 法華経の中に「無智の人が悪口や罵り、刀や杖で迫害してくる」と説かれている。実際にその通りの大難を受けているのが日蓮であるから、これはまさしく日蓮が正しい証拠である。

わかりやすいまとめ

 

お釈迦さまの法華経は、実は在世の人のためでなく、「未来の人のため」に説かれた経典です。とくに末法に生きる私たちのためです。

 

そしてその末法の中心人物こそが、日蓮大聖人です。なぜなら、法華経に説かれる通りの大難――人々からの悪口や迫害、命を狙われるような受難を、すべて身をもって体現されたからです。

 

つまり、法華経の予言と日蓮大聖人の生涯がぴたりと重なっている。だからこそ、私たちが日蓮大聖人を「末法の御本仏」と仰ぐことができるのです。

 

26

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集37

法華経37/66  

 

太田殿許御書 754

 

疑って云わく、経々の勝劣、これを論じて何かせん。

 答えて曰わく、法華経の第七に云わく「能くこの経典を受持することあらん者もまたかくのごとく、一切衆生の中において、またこれ第一なり」等云々。この経の薬王品に、十喩を挙げて、已今当の一切経に超過す云々。

 

原文の意味

 1. 「疑って云わく、経々の勝劣、これを論じて何かせん」

 ―「そもそも、いろんなお経の優劣を論じることに、どんな意味があるのか?」と疑問を持つ人がいる。

 2. 「答えて曰わく」

 ―これに対して日蓮大聖人は答えられる。

 3. 「法華経の第七に云わく

 ―法華経の方便品(第二章)第七に、「この法華経を受け持つ人は、一切衆生の中で第一である」と説かれている。つまり法華経を信じる人こそ最高である。

 4. 「薬王品に十喩を挙げて

 ―また薬王菩薩本事品(第二十三章)には、十のたとえを挙げて「法華経は、過去・現在・未来の一切のお経を超えて第一である」と説かれている。

 

わかりやすいまとめ

 

「どのお経が一番優れているのかなんて、わざわざ議論しても仕方ないじゃないか」と思う人がいるかもしれません。

 

でも、お釈迦さまご自身が「法華経が一切経の中で第一である」と、法華経の中で何度も証明されています。たとえば、

      方便品では「法華経を受け持つ人は一切衆生の中で第一」と説き、

      薬王品では十のたとえを用いて「法華経は過去・現在・未来、すべてのお経に勝れている」と説かれています。

 

つまり、これは人間の議論ではなく、仏さまの御証明なのです。

 

 

27

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集38

法華経38/66  

 

乙御前御消息 896

 

法華経は女人の御ためには、暗きにともしび(灯火)、海に船、おそろしき所にはまぼ()りとなるべきよしちか()はせ給へり。羅什(らじゅう)三蔵は法華経を渡し給ひしかば、毘沙門天王(びしゃもんてんのう)は無量の兵士(つわもの)をして葱嶺(そうれい)を送りしなり。

 

 この御文は「乙御前御消息」の中でも、とてもあたたかく女性を励まされている箇所です。

 

原文の意味

 1. 「法華経は女人の御ためには、暗きにともしび、海に船、おそろしき所には守りとなる」

 ―法華経は、女性にとって「暗闇では灯火」「大海では船」「恐ろしい場所では守り」となる、とお釈迦さまが誓われている。つまり女性を必ず守って導く力がある。

 2. 「羅什三蔵は法華経を渡し給ひしかば

 ―中国に法華経を伝えた鳩摩羅什三蔵(くまらじゅうさんぞう)が、命がけでインドから中国へ経典を運んだ。

 3. 「毘沙門天王は無量の兵士をして葱嶺を送りしなり」

 ―そのとき毘沙門天王は、数えきれない兵士を遣わして、葱嶺(インドから中国へ渡る険しい山岳地帯)を無事に越えられるように守護した。

 

わかりやすいまとめ

 

この御文で大聖人は、女性にとって法華経がどれほど大切で頼もしいものかを、たとえを使って教えられています。

      暗闇で灯火があると安心できるように

      荒海で船があれば向こう岸へ渡れるように

      危険な場所で守りがあれば心強いように

 

法華経は、女性を守り、導き、安心を与える存在なのです。

 

さらに、この尊い法華経をインドから中国へ伝えた羅什三蔵は、毘沙門天の大軍に守られて無事に経典を届けられました。

つまり、法華経を弘める人は必ず諸天善神に守護される、ということです。

 

👉 この御文は「女人成仏」を裏づけ、また「信心を貫けば必ず諸天が守る」ということを女性弟子に力強く励まされている部分です。

 

28

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集39

法華経39/66  

 

其中衆生御書 927

 

 迹門には三千塵点已来、娑婆世界の衆生は阿弥陀等の諸仏に棄()てられ畢(おわ)んぬ。化城喩品に云はく「爾()の時に聞法(もんぽう)の者、各(おのおの)の諸仏の所に在()り乃至是の本因縁を以て今法華経を説く」云云。此()くの如き経文は文に云はく「娑婆世界の衆生は過去三千塵点(じんてん)已来、一人として阿弥陀等の十方の十五仏の浄土へは生まるゝ者之(これ)無し」と。天台云はく「旧に西方を以て、以て長者を合す。今は之を用ひず。西方は仏別にして縁異なり、仏別なるが故に隠顕(おんけん)の義成ぜず。縁異なるが故に子父の義成ぜず。又此の経の首末に全く此の旨無し。眼を閉ぢて穿鑿(せんさく)す」と。

 

原文の要点

 1. 迹門の立場では

 三千塵点劫(果てしないほど長い過去)以来、娑婆世界の衆生は 阿弥陀仏などの仏から見捨てられてきた。

 2. 化城喩品(法華経第7) に

 「当時、教えを聞いた者たちは、各々いろんな仏のもとにいた。しかしそれは本当の因縁ではなく、今になって法華経を説くための下地であった」とある。

 3. つまり経文は

 「娑婆世界の人は、過去三千塵点以来、阿弥陀など十方の仏の浄土に生まれた人は一人もいない」

 と示している。

 4. 天台大師の注釈では、

 - 以前は「西方浄土(阿弥陀仏の国)」を娑婆世界に結びつけて考えたが、

 - 今はそれを採用しない。なぜなら、

  - 阿弥陀仏と釈尊は 別の仏 で、縁も異なるので、「隠れて顕れる」といった法華経の深い意味が成り立たない。

  - 父子の関係(仏と衆生の親子の縁)も成り立たない。

  - そもそも法華経の最初から最後まで、その趣旨は全く出てこない。

  - だから「阿弥陀の浄土に往生できる」と考えるのは、目を閉じて勝手に掘り当てようとするようなもので正しくない。

 

わかりやすい説明

 

日蓮大聖人はここで、

「阿弥陀仏の浄土に生まれる」という浄土信仰を きっぱり否定 しています。

      過去の遠い昔から、娑婆世界の人々は阿弥陀仏などに 救われたことは一度もない。

      法華経では、「本当の救いは釈迦仏が法華経を説くことで成就する」と説かれている。

      天台大師も、「阿弥陀仏の浄土に往生する」という考え方は、法華経の教えには全く合わない、と明言している。

 

まとめ

 

「阿弥陀仏にすがれば救われる」と思う人が多いけれど、法華経の立場から見れば、それは幻想にすぎない。

阿弥陀仏の浄土に往生できた人は一人もいない。

ほんとうに私たち娑婆世界の人を救うのは、釈尊の法華経だけ だ、と仰せなのです。

 

(一応、文上の意味。

再往、日蓮大聖人様の南無妙法蓮華経)

 

29

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集40

法華経40/66  

 

兄弟抄 979

 

この法華経は一切の諸仏の眼目、教主釈尊の本師なり。一字一点もす()つる人あれば千万の父母を殺せる罪にもす()ぎ、十方の仏の身より血を出だす罪にもこ()へて候ひけるゆへ()に、三五の塵点をば経()候けるなり。」

 

 

意味

      法華経は一切の仏の眼目(め)

 つまり「仏が仏である根本の力」であり、すべての仏がよりどころとしている大事な教えです。

      釈尊の本師(ほんし)

 お釈迦さま自身も、この法華経を根本として悟りを開かれたので、法華経は釈尊にとっても「師匠」である、ということです。

      一字一句を捨てる罪の重さ

 法華経のたった一文字・一点(句読点にあたる小さな印)を軽んじたり捨てたりすることは、

 父母を千万回も殺す罪よりも重く、

 十方世界の仏の身体を傷つけて血を流させる罪よりも重い、

 とまで仰せです。

      三五の塵点をば経候ける

 そのような法華経だからこそ、三千塵点劫(数え切れないほど遠い過去)から、すべての仏が尊んできたのだ、という意味です。

 

まとめ

 

「法華経は仏にとっても、人にとっても最高の根本の教えです。だから、この経を少しでも軽んじることは、どんな大罪よりも重い罪となる。それほど尊いからこそ、仏は遠い過去からこの法華経を守り、今に伝えてきたのです。」

 

「私たちは日々、南無妙法蓮華経と唱えています。この御題目は、すべての仏さまの命の根本であり、釈尊でさえその力で悟られたのです。ですから、お題目を軽んじることは仏を傷つけるのと同じ大罪になります。反対に、どんなに小さな一題目でも大きな功徳を積むことになるのです。」

 

唱題の大切さを教えています。

 

30日

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集40

法華経40/66  

 

兄弟抄 979

 

この法華経は一切の諸仏の眼目、教主釈尊の本師なり。一字一点もす()つる人あれば千万の父母を殺せる罪にもす()ぎ、十方の仏の身より血を出だす罪にもこ()へて候ひけるゆへ()に、三五の塵点をば経()候けるなり。」

 

意味

      法華経は一切の仏の眼目(め)

 つまり「仏が仏である根本の力」であり、すべての仏がよりどころとしている大事な教えです。

      釈尊の本師(ほんし)

 お釈迦さま自身も、この法華経を根本として悟りを開かれたので、法華経は釈尊にとっても「師匠」である、ということです。

      一字一句を捨てる罪の重さ

 法華経のたった一文字・一点(句読点にあたる小さな印)を軽んじたり捨てたりすることは、父母を千万回も殺す罪よりも重く、

 十方世界の仏の身体を傷つけて血を流させる罪よりも重い、とまで仰せです。

      三五の塵点をば経候ける

 そのような法華経だからこそ、三千塵点劫(数え切れないほど遠い過去)から、すべての仏が尊んできたのだ、という意味です。

 

まとめ

 

「法華経は仏にとっても、人にとっても最高の根本の教えです。だから、この経を少しでも軽んじることは、どんな大罪よりも重い罪となる。それほど尊いからこそ、仏は遠い過去からこの法華経を守り、今に伝えてきたのです。」

 

「私たちは日々、南無妙法蓮華経と唱えています。この御題目は、すべての仏さまの命の根本であり、釈尊でさえその力で悟られたのです。ですから、お題目を軽んじることは仏を傷つけるのと同じ大罪になります。反対に、どんなに小さな一題目でも大きな功徳を積むことになるのです。」

 

唱題の大切さを教えています。

 

 

31

 

 日蓮大聖人御金言義類別入文集42

法華経42/66  

 

報恩抄 1000

 一切経を開きみるに、涅槃経と申す経に云はく「法に依って人に依らざれ」等云云。依法(えほう)と申すは一切経、不依人と申すは仏を除き奉りて外(ほか)の普賢(ふげん)菩薩・文殊師利(もんじゅしり)菩薩乃至上(かみ)にあぐるところの諸(もろもろ)の人師なり。此の経に又云はく「了義経に依って不了義経に依らざれ」等云云、此の経に指すところ了義経と申すは法華経、不了義経と申すは華厳経・大日経・涅槃経等の已今当(いこんとう)の一切経なり。されば仏の遺言を信ずるならば専(もっぱ)ら法華経を明鏡(みょうきょう)として一切経の心をばしるべきか。

 

要点

 1. 「法に依つて人に依らざれ」(涅槃経の言葉)

 真実を求めるには「人(先生や有名な僧)」ではなく、「法(経典・真理)」に依りなさい、という仏の教え。

 2. 依法(法に依る)とは、一切の経典に依ること

 つまり「どんな人が偉い」とかではなく、経典そのものを基準にすべきだと説く。

 3. 不依人(人に依らざれ)とは、仏を除いて、普賢菩薩や文殊菩薩、あるいは天台大師などの人師に執着してはいけないということ。

 4. 「了義経に依つて、不了義経に依らざれ」

 了義とは「仏が真実をそのまま説いた経」。不了義は「仮に説いた経」。

 了義経=法華経

 不了義経=華厳経・大日経・涅槃経など、法華経以前や以後に説かれた一切の経典。

 5. 結論

 お釈迦さまの遺言どおりにするならば、法華経を鏡としてすべての経典を読み解くべきだ、ということ。

 

解説

 

お釈迦さまは「人に依らず、法に依れ」と説かれました。どんな立派な僧侶や学者でも、その人の意見に頼るのではなく、必ず仏の法(経典)を基準にしなければならないということです。

 

さらに、その数多くの経典の中でも「真実を直接説いたのは法華経」であり、それ以外は方便の教えです。だから仏の遺言に従うなら、法華経を正しい物差しとして、すべてを判断せよ、ということなのです。

 

たとえ

 

学校の勉強にたとえると――

      「先生の好き嫌い」や「噂」ではなく、教科書そのものを基準にしなさい。

      しかも、その教科書の中でも「本当に答えが書いてある決定版の教科書(法華経)」を頼りにしなさい。

 

ということです。

 

まとめ

 

 私たちは信仰をするうえで、つい「このお坊さんがすごい」「あの学者の言うことが正しい」と、人を基準にしてしまいがちです。けれども仏さまは、最後に「法に依って、人に依らざれ」と遺言されました。

 

 

つまり、人ではなく「経典」に依れ、ということです。そして数ある経典の中でも、真実を説き尽くしたのはただ法華経です。ですから私たちは、何を基準にすればよいか迷ったら、必ず法華経、そして南無妙法蓮華経を根本として進んでいくことが大切なのです。